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2024-04-10

1-3 番外 彼は五編しか書かなかった

 

 ハメットの長編は、他に三作。
『デイン家の呪い』『ガラスの鍵』『影なき男』。五編しか書かなかった。
 書けなかった。

The Dain Curse 1929
デイン家の呪 村上啓夫訳 日本出版協同 1953、 早川書房HPB 1956.2
デイン家の呪い 小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 2009.11

The Glass Key 1931
ガラスの鍵 砧一郎訳 早川書房HPB 1955.5
ガラスの鍵 大久保康雄訳 創元推理文庫 1960
ガラスの鍵 小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 1993.10
ガラスの鍵 池田真紀子訳 光文社古典新訳文庫2010.8


The Thin Man
 1934
影のない男 大門一男訳、『スタア』通巻15-16号、1934年
影なき男 砧一郎訳 雄鶏社おんどりみすてり 1950、早川書房HPB 1955
 (この版は完訳ではなく、一部省略がある。)
影なき男 小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 1991.9





1-3 ダシール・ハメット『赤い収穫』

 ダシール・ハメット『赤い収穫』Red Harvest 1929
ダシール・ハメット Samuel Dashiell Hammett(1894-1961)
赤い収穫 砧一郎訳 早川書房HPB 1953
血の収穫 田中西二郎訳 東京創元社 1956
血の収穫 能島武文訳 新潮文庫 1960
血の収穫 河野一郎訳 中公文庫 1977
血の収穫 田中小実昌訳 講談社文庫 1978
赤い収穫 小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 1989.9
血の収穫 田口俊樹訳 創元推理文庫 2019.5

 ハメットが短編を書き出したのは、ヴァン・ダインより早い。

 ハメットは先行して、探偵というヒーローのドラマをアメリカ社会において純化した。彼はニーチェの超人ファンだったからではなく、己れの内奥の苦悶から無名の男を創りだした。

 彼の描く初期の探偵像は、彼自身は気づかなかったろうが、ポー「群衆の人」の尾行者に最もよく似ている。ポーの病的な感覚と気味の悪い観察眼は、ハメットにはない。ハメットの短編では、ストーリーの必要から、尾行は長くつづかず、すぐに「犯罪のエッセンス」が現われる。探偵はいつもその只中に飛びこんでいく。トラブルの中心に身を置く以外に彼の在りようは許されない。

 こちらは、便宜的にハードボイルド派と呼ばれたアメリカ独自の型を代表することになる。文章のストイシズム、内面を描くことの拒絶、悪に囲まれた世界に立ち向かうヒロイズム。それらの顕著な性格は、やがてかっちりとした定型となっていく。ルールのために小説を型にはめようとしたヴァン・ダインとは逆に、リアルに努めようとした結果として新しい型を模索した。

 対照的な差異は、一つは、戦争の通過の仕方からきている。

 ヴアン・ダインはすでに知的成長を終わっていたが、九四年生まれのハメットはいわば戦中派として、無垢に戦争と向き合った。後にロスト・ジェネレーションと呼ばれる、戦争によって深く傷ついた世代、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、フォークナー、ドス・パソスらと同年代だ。

 ハメットの場合は、ヨーロッパの従軍体験よりも、自国でピンカートン探偵社の調査員〈オプ〉として体験したことが決定的だ。彼はそこで悪と向き合った。アメリカ社会がかかえるオリジナルな罪ともいうべき悪。そこに生まれた者は免れることのできない現実。そのリアルをとりわけ明敏に彼は受感せざるをえなかった。理由はごく簡単だ。彼もその悪の一人だったからだ。ホームズ物語がロマン的に題材化した流血の労働争議を、ハメットは、じっさいにスト破りの一員として体験していたのだろう。

 彼が組合潰しを悪だと理解したのは、マルクス主義を受け入れることによってではない。身体で知ったのだ。

 アメリカの「正義」がおびる混沌とした闇こそ、作家ハメットを育んだ真の試練だった。『赤い収穫』は、暴力のみによって動かされる社会のメカニズムを暴こうとした挑戦だ。ポイズンヴィルと呼ばれた、鉱山会社が所有する街に、作者は、アメリカ社会の縮図を幻視しようとした。あまりに暗く深い闇。

 ハメットのほとんどの作品は、パルプマガジンと称される粗悪な雑誌に載った。『赤い収穫』も連載小説だったが、単行本化を実現させるために作家自らが出版社に売り込みをせねばならなかった。

 主人公は暴力が支配する街の勢力均衡を崩そうと画策する。共存していたギャングと警察を互いに噛み合わすために様々の罠を張る。彼の行動は物語のなかでしか真実ではない。作家が加担したリアルな悪は物語の外に在った。現実は彼の手からこぼれ落ちた。ただ暴力を互いに衝突させてそれらを壊滅させるという物語の構造が、一つの強固な原型をつくった。物語のなかで暴力が浄化されるという図式は、以後、数え切れない暴力小説によって反復されていった。

 『赤い収穫』は、ハメットの白鳥の歌だった。人はこうした作品を何度も歌えるものではない。二十年代を通じて、彼は、コンティネンタル・オプという男が一人称で語る短編を書き継いでいった。語り手であり、ヒーローでもある男。この名前を持たない男は、犯罪の媒体であり、報告者だった。彼自身が加担した犯罪を暴こうとしたとき、彼はクラッシュした。燃え尽きた。物語は残ったが、それは、真実がそこに僅かしかこめられなかったという理由による。

 彼はその後、オプの語る一人称の物語を『デイン家の呪い』1929(早川書房HPB)しか書いていない。

1-3 ダシール・ハメット『マルタの鷹』

 ダシール・ハメット『マルタの鷹』The Maltese Falcon 1930

砧一郎訳 早川書房HPB 1954
田中西二郎訳 新潮文庫 1956
村上啓夫訳 創元推理文庫 1961.8 
石一郎訳 角川文庫 1963 
鳴海四郎 訳 筑摩書房 1970
小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 2012.9

 ハメットの長編は、『マルタの鷹』『ガラスの鍵』1931とつづく。いずれもまず雑誌連載の形を取った。連載の執筆はほとんど連続している。後の二編では、叙述は三人称一視点になっている。技法的には変わらないが、作家の手から「私」(=オプ)という主語がこぼれ落ちたことの意味は大きい。『マルタの鷹』の主人公は私立探偵、『ガラスの鍵』の主人公は流れ者のギャンブラー。

 私立探偵は、単独者であり、定在者だ。『マルタの鷹』は、ハメットの最も影響力の大きな作品となった。ヒーローにすえられた探偵サム・スペイドは、同僚を裏切り、愛した女を警察に売り渡す。己れを律する掟のみが彼を動かす行動原理だ。こうした明快な個人主義こそが大衆的に求められていたものだろう。ハメットはここで、私立探偵の物語の強固な原型をも創りだした。

 それは彼がオプの物語を書き止めてから起こったことだ。

 『マルタの鷹』の外形は、宝物捜しの冒険譚であり、個性の際立つ悪役たちが絡む裏切りと欺瞞の物語だ。探偵が勝利するのは、彼が一番の悪党だったという理由による。スペイドが一かけらの正義も体現していない点には救われる。だが『マルタの鷹』の原型の追随者たちは、逆に、悪党の探偵に正義の性格を分け与えることによって、型を継承したのだった。チャンドラーしかり、ガードナーしかり、である。

 『ガラスの鍵』では、ふたたび正義と悪についての、作者の実りのない模索が扱われている。部分的には優れたところはあっても、全体としては了解のつけにくい作品だ。最後の長編『影なき男』1934は、ハメットが背負っていた混沌をすべてそぎ落としたような平明な作品だ。『マルタの鷹』にはまだ残されていた悪への傾斜も、どこかに消し飛んでいた。以降、ハメットの沈黙が始まった。事実上、作家として終わったのだ。

 『影なき男』は大成功をおさめ、映画化のシリーズとなった。沈黙の要因が多大な商業的成功によるものかどうかは断言しがたい。作家をバニッシング・ポイントに追いつめたものがあるとすれば、それはすでにオプ物語の方法に内在していた。

 『赤い収穫』の、ギャングたちが死に絶えたならず者の街に恒久的な平和は訪れたか。『マルタの鷹』の探偵は宝物を見つけられないし、愛する女を殺人犯として警察に引き渡すことでやっと自分の保身をはかる。『ガラスの鍵』のギャンブラーは傭い主にたいして意地を通してみせるが、己れがけちなやくざであることは変えられない。

 彼は勧善懲悪の物語をつくれなかったが、それは大衆読み物作家としてのハメットの限界ではない。正義と悪とが常に相対的でしかないアメリカ社会の本質に根ざす。どこまでもハメットは誠実であった。

 彼の才能ある弟子が、彼の沈黙と入れ替わるように登場した。チャンドラーが彼の完成できなかった文学形式を整備した。男の美学、都市と向き合う単独者の視点、社会悪との対決図式が、それにあたる。

 一九二〇年代は、現代の大衆社会状況が出揃った時期だとされている。革命ロシアのアヴァンギャルド芸術、ワイマール共和国の表現主義、フランスのシュールレアリズム。モダニズムの饗宴はいっせいに花咲いた感がある。それらと同時代に、アメリカにも自前のアメリカン・ミステリがもたらされた。発明された原型の価値については、後につづいた膨大な作品によって自ずと証明される。それらに払った先行者たちの犠牲にも注意は向けられるべきだろう。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...