ラベル

ラベル 6 グローバリゼーション〈革命〉に向けて の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 6 グローバリゼーション〈革命〉に向けて の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023-10-22

6 グローバリゼーション〈革命〉に向けて


  二十世紀の最後の十年の始まりは、湾岸戦争によって区切られる。社会主義圏の内部崩壊は急速に進んだ。アメリカは軍拡競争の苛酷なレースに勝ち残った。冷戦システムは終わりを遂げたが、NATOは存続した。湾岸の「勝利」のあと、アメリカは、ソマリアおよび旧ユーゴスラヴィアの内戦に介入した。

 二十世紀の戦争による大量死者数の試算がある。日本一国の総人口を上回る、まさに天文学的な数字だ。それでも全地球の人口は飛躍的に増加している。第二次大戦以降、恒常化してしまった局地戦争の大量虐殺について、人びとの感覚はもはや麻痺して久しい。そのはん頻度にも、数量にも。

 とはいえ、最後の十年はグローバリゼーションの時代として強調される。世界はついに一つになった? グローバリゼーションを善だという者も悪だという者も、グローバリゼーションの勢いには逆行できないとする点では、一致している。世界市場、世界商品、世界情報。文化の均質化は怖るべきスピードで進行している。八十年代に始まった自由主義市場の波が新たな「適者生存説」を産出していることは、だれにも否定できない。排除こそが市場の原理だ。

 勝ち残るか、負けて廃棄されるか。進化の果ての「人間の条件」が、単純なゲームにしか帰着しない。ことの残酷な皮肉には言葉を喪う。

 情報テクノロジー改革の進行も急激だ。インターネットによって、ますます「世界は狭く、国境は意味をなくして」いく。一方で、インターネットにも電話にも無縁な層が大量に取り残される。

 ある社会学者は現状を語るのに「ラナウェイ・ワールド」という言葉を使った。コントロールのきかない暴走をつづけるのみでなく、絶え間なく足元から遁走していく世界。

 グローバリゼーションはある領域ではアメリカナイゼーションだ。グローバル・カルチャーはあらゆるものを商品として再編成する。ミステリという大衆読み物もそのカタログの一角を占める。

2023-09-21

6-6 アメリカ的デラシネの遺書

パトリシア・ハイスミス『死者と踊るリプリー』1991 Ripley Under Water 
Patricia Highsmith(1921-95)

佐宗鈴夫訳 河出文庫 2003


 ハイスミスはほとんど晩年にあたる、リプリー・シリーズの最終第五作を、「インティファーダやクルド人たちの死者と死にいく者たち」に捧げている。いささか唐突に映る献辞の意味は、しばらくおこう。彼女は政治的な作家ではないし、彼女の描いた人物も政治思想の表明とは無縁だ。この作品が、湾岸戦争の時期にあたっていたことを思い出せば充分だろう。

 ハイスミスは終生デラシネとして生きた。アメリカ作家では、ヘンリー・ジェイムズやヘンリー・ミラーという先例がある。彼女と同世代では、ポール・ボウルズやウィリアム・バロウズがいた。ハイスミスは独特の粘着性を備えた書き手だった。メインストリームの批評家の支持者も多い。
 代表作を選ぶなら、活動の初期から中期にかけての、『太陽がいっぱい』1955、『水の墓碑銘』1957、『愛しすぎた男』1960、『ふくろうの叫び』1962、『殺人者の烙印』1965、『ヴェネツィアで消えた男』1967などがあげられる。


 作家の唯一のシリーズ主人公トム・リプリーは、まさに彼女の分身といえる存在だった。二度映画化された『太陽がいっぱい』(原題は「才人リプリー君」)から始まり、『贋作』(原題は「リプリー・アンダー・グラウンド」)1970、『アメリカの友人』1974、『リプリーをまねた少年』1980、『死者と踊るリプリー』(原題は「リプリー・アンダー・ウォーター」)に到った。みたとおり断続的に書き継がれている。

 『太陽がいっぱい』は、映画化タイトルとは似ても似つかない、陽の光からさえぎられたヨーロッパが舞台だ。避暑地に流れてきた青年の屈折した上昇願望を息苦しいまでに追いつめていく。憧れた金持ちの青年に成り代わり、彼の所有するものを何もかも奪い取りたいという欲望。変身願望は替え玉願望と一致する。彼の服を着た自分を鏡に映し、彼の筆跡をまねるだけでは願望は成らない。相手の青年を抹殺しなければ、彼に成り代わることはできない。犯罪はその結実にすぎない。彼を殺し、彼の恋人を自分のものにする。リプリーに罪の意識はない。

 以降のシリーズはこの犯罪を基軸に展開される。しかし主人公にたいする作者の特別な思い入れは見つけにくい。避けられない殺人を重ねながらも、リプリーは巧妙に捜査の網をかいくぐっていく。

 第五作は、ストーリー的にいって、二十年前の第二作に直接つながる続編と読める。「地底のリプリー」にたいする「水底のリプリー」。前作で犯した殺人の秘密を握っているらしい謎の夫婦に主人公がつきまとわれる。彼らはハイスミスに描かせては独壇場のストーカーだ。作中の時間は現実の時間の落差をまったく感じさせずにつながっている。九十年代に書かれているが、六十年代の物語だ。リプリーが海の向こうの妻とかわす電話が混線する模様は、明らかに前作の反復なのだ。作中の時間を喪ったリアリティは、人物の不気味さとも相まって、作者の絶頂期のパラノイア世界を蘇らせている。

 映像的でありながら、心理に分けいる凝視の力は類をみない。たんに心理描写だけならおぞましく感じさせるが、そのレンズが映しだす情景には目を見張らされる。彼女の暴く心理はグロテスクでいたたまれない。だが、孤独の異様さも、それが映像を通してであれば常人にも受け入れうるのだ。

 ハイスミスの代表作は他にあるし、また故郷喪失の苦い渇望が彼女の固有のテーマでもない。あえて晩年の一作、作家のうちに生きつづけた分身のような主人公との「最後のダンス」の物語を、ここにおく。二十世紀への遺言とまでいっては大げさだが、一人のアメリカ作家の遺言なら読み取れる。パレステイナ人やクルド人への想いも、そこに立たせることによって了解がつく。


回りつづける世界に立ち尽くす

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...