パトリシア・ハイスミス『死者と踊るリプリー』1991 Ripley Under Water
Patricia Highsmith(1921-95)
佐宗鈴夫訳 河出文庫 2003
ハイスミスはほとんど晩年にあたる、リプリー・シリーズの最終第五作を、「インティファーダやクルド人たちの死者と死にいく者たち」に捧げている。いささか唐突に映る献辞の意味は、しばらくおこう。彼女は政治的な作家ではないし、彼女の描いた人物も政治思想の表明とは無縁だ。この作品が、湾岸戦争の時期にあたっていたことを思い出せば充分だろう。
ハイスミスは終生デラシネとして生きた。アメリカ作家では、ヘンリー・ジェイムズやヘンリー・ミラーという先例がある。彼女と同世代では、ポール・ボウルズやウィリアム・バロウズがいた。ハイスミスは独特の粘着性を備えた書き手だった。メインストリームの批評家の支持者も多い。
代表作を選ぶなら、活動の初期から中期にかけての、『太陽がいっぱい』1955、『水の墓碑銘』1957、『愛しすぎた男』1960、『ふくろうの叫び』1962、『殺人者の烙印』1965、『ヴェネツィアで消えた男』1967などがあげられる。
作家の唯一のシリーズ主人公トム・リプリーは、まさに彼女の分身といえる存在だった。二度映画化された『太陽がいっぱい』(原題は「才人リプリー君」)から始まり、『贋作』(原題は「リプリー・アンダー・グラウンド」)1970、『アメリカの友人』1974、『リプリーをまねた少年』1980、『死者と踊るリプリー』(原題は「リプリー・アンダー・ウォーター」)に到った。みたとおり断続的に書き継がれている。
『太陽がいっぱい』は、映画化タイトルとは似ても似つかない、陽の光からさえぎられたヨーロッパが舞台だ。避暑地に流れてきた青年の屈折した上昇願望を息苦しいまでに追いつめていく。憧れた金持ちの青年に成り代わり、彼の所有するものを何もかも奪い取りたいという欲望。変身願望は替え玉願望と一致する。彼の服を着た自分を鏡に映し、彼の筆跡をまねるだけでは願望は成らない。相手の青年を抹殺しなければ、彼に成り代わることはできない。犯罪はその結実にすぎない。彼を殺し、彼の恋人を自分のものにする。リプリーに罪の意識はない。
以降のシリーズはこの犯罪を基軸に展開される。しかし主人公にたいする作者の特別な思い入れは見つけにくい。避けられない殺人を重ねながらも、リプリーは巧妙に捜査の網をかいくぐっていく。
第五作は、ストーリー的にいって、二十年前の第二作に直接つながる続編と読める。「地底のリプリー」にたいする「水底のリプリー」。前作で犯した殺人の秘密を握っているらしい謎の夫婦に主人公がつきまとわれる。彼らはハイスミスに描かせては独壇場のストーカーだ。作中の時間は現実の時間の落差をまったく感じさせずにつながっている。九十年代に書かれているが、六十年代の物語だ。リプリーが海の向こうの妻とかわす電話が混線する模様は、明らかに前作の反復なのだ。作中の時間を喪ったリアリティは、人物の不気味さとも相まって、作者の絶頂期のパラノイア世界を蘇らせている。
映像的でありながら、心理に分けいる凝視の力は類をみない。たんに心理描写だけならおぞましく感じさせるが、そのレンズが映しだす情景には目を見張らされる。彼女の暴く心理はグロテスクでいたたまれない。だが、孤独の異様さも、それが映像を通してであれば常人にも受け入れうるのだ。
ハイスミスの代表作は他にあるし、また故郷喪失の苦い渇望が彼女の固有のテーマでもない。あえて晩年の一作、作家のうちに生きつづけた分身のような主人公との「最後のダンス」の物語を、ここにおく。二十世紀への遺言とまでいっては大げさだが、一人のアメリカ作家の遺言なら読み取れる。パレステイナ人やクルド人への想いも、そこに立たせることによって了解がつく。
回りつづける世界に立ち尽くす