ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』 Through a Glass, Darkly 1950
Helen McCloy(1904-94)
高橋豊訳 早川書房1955.11、ハヤカワミステリ文庫1977.6
駒月雅子訳 創元推理文庫2011.6
分身〈ダブル〉による殺人事件。容疑者も解決編の犯人も、どちらも分身〈ダブル〉。それは初めてマクロイによって描かれる。
ダブルがダブルを殺す事件。
これは、ポーの「ウィリアム・ウィルスン」の再生という一面もあるが、そこをさらに突き抜けた試みだといえる。
同タイトルの短編版は二年先んじているが、基本形は同じだ。余韻たっぷりの思わせぶりで引き延ばされた長編版のラストは、読み手にさまざまの想像を膨らまさせる。だがトーンの変更はない。
ドッペルゲンガー現象については、『暗い鏡の中に』にも、いくつかの可能性が考察されている。一は、容疑者がなんらかのトリックを弄して分身を出現させた。二は、無意識に夢遊状態の行動をした。三は、容疑者が分身の姿を空中に投影してみせた。この考察はミステリを進行させる手続きとしてなされる。
容疑者は、計七回、分身を目撃される女教師。彼女は以前の職場でも同様の分身騒ぎを起こしていた。
彼女は前半では容疑者として疑われ、後半では密室殺人の被害者となる。作者は、事件を現実らしくするために、実在のドッペルゲンガーの症例を引用する方法を手堅く取っている。そして物語内の事件はすっきり合理的に解決する。探偵役の精神科医が犯人を追いつめて真相を看破するというミステリに不可欠な場面は省略されていない。だが探偵は、引用の症例については解釈がつかないと強調する。二面作戦だが、神秘は神秘として、アンタッチャブルにするという配慮だろうか。
《きみは勝手のわからない薄暗い部屋に入ったとき、見知らぬ人がきみに近づいてくるのを見たことがあるかね。……その見知らぬ人が鏡に写ったきみ自身であることに気づいた経験があるかね》
だが合理的解決は、無数にある非合理な(小説のなかにおいてのみ可能な)解決のすべてを抜き去るほど特別のものではないことに、読者は気づく。これは解決編の説得力の問題ではない。合理を優先させるというミステリのルールそのものに内在する問題だろう。
ともあれ、この小説には、暗い鏡の中に入っていったマクロイがまだそこから出てきていないのではないかという不審をいだかせるところがある。これはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』1871(角川文庫)とミステリが交差するところに生ずる不協和音だ。マクロイはこの不協和音を鳴り響かせて、放置したようにすら思える。鏡は『三つの棺』では密室トリックの構成要素でもあった。その観点からいえば、『暗い鏡の中に』も密室トリックの変奏として受け取られている。分身〈ダブル〉イメージそのものは解決されていない。手つかずなのだ。
鏡と分身イメージについては、マーガレット・ミラー『狙った獣』1955の冒頭に印象的なシーンが出てくる。ドッペルゲンガーを多重人格の方向から考察しようとする傾向がぼちぼちと生まれてきていた。サイコ・ミステリの兆しだ。マクロイの作品は、こうした予兆を強くまとったものだったが、充分な追求はなされないまま終わった。