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2023-11-10

5-04 トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』

 トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』Red Dragon 1981
Thomas Harris(1940-)
小倉多加志訳 ハヤカワミステリ文庫 1989.11
加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2015.11


 アメリカが殺人大国と呼ばれるにいたった理由は、必ずしも、絶え間ない戦争行為によるものではない。平和時の市民生活においても悪質な殺人者をかかえてしまった。

 なかでもシリアル・サイコ・キラー――連続異常性愛殺人者の存在は、アメリカ独自の発明とみなされるにいたる。シリアル(シリーズもの)ドラマのように同一パターンの、性的なシグナルを持った殺人。

 殺人事件ファイルの収集家で研究者のコリン・ウィルソンによれば、サイコ・キラーの現象は、一九六〇年代以降に目立ってくる。統計が素朴な事実を告げる。事例はほとんどアメリカで起こっている。犯人の大部分は白人男性だ。性的連続殺人は、ほとんどアメリカの白人男の病理の表われなのだ。アメリカ人は、「白人・男性・異性愛」という三位一体に誇りを持てなくなったのみではない。かえってその病理が無視できない勢いで事件化してきた。


 殺人鬼は、ウィルソンの研究のようにカルト化して受け止められる一方、司法当局に現実的な対応策を迫った。FBI行動科学課が開発したプロファイリング技術はその代表的なものだ。サイコ・キラーの或る者は、性行為の代償として被害者を切り刻む。その殺し方、死体損壊の方法にはいつも一定のパターンがある。それはキラーの「芸術作品」であると同時に、病跡のシグナルでもある。犯行現場には必ず犯人の明確な「サイン」が残されるという確信は、S・S・ヴァン・ダインによって初めてミステリのなかで語られた。プロファイリングはその確信を現実レベルで系統化した。

 特殊・異常な殺人であるほど、それは、常人の想像を超えて、小説のなかの殺人に近似する。現実味に欠けるとみなされていた様式的な殺人が現実の側に還流してくることは、い


かにも皮肉だった。性的殺人の専門家となったFBIのプロファイラーたちは、自分が犯人と同質の人間かもしれないという意識に苦しめられる。こうした犯人との共鳴感は、遊戯的な謎解きミステリに特有の思考だったはずだが、現実のほうに滲み出してくることになった。

 少なからぬ作家がこの先進的な施設を取材のために訪れた。トマス・ハリスもその一人だった。ハリスは、狂ったヴェトナム復員兵がスポーツ競技場の大観衆皆殺しを画策する『ブラック サンデー』75(新潮文庫)で成功していた。次の作品が転機となる。望んだかどうかは別として、サイコの世界に足を踏み入れて抜けられなくなった。

 サイコ・キラーを登場させるミステリは『魔性の殺人』によって定型をつくられた。捜査側を主役とした警察小説だ。殺人鬼は脇役で、最後に捕まって裁かれるまでは慎ましい位置にとどまっていなければならない。

 『レッド・ドラゴン』も基本的にはこの型を踏襲している。しかし出来上がった作品にあって、捜査官はいかにも精彩ない受難者のように描かれていた。比べて、殺人者ダラハイドの像は強烈だった。作者の共感は明らかに犯人の側にあった。ヒーローはこの男であり、多様で豊かな行動と思索を作者によって与えられていた。一人の人間の個性に納まりきらないほど過剰なキャラクターだ。

 犯人像の過剰さは、作家の情念の噴出でもある。作品の統一的な構造を破ってしまいかねない。作品に分裂的な印象すらもたらす。ただそれは、ハリスがこのテーマにいかに深く捕らわれたかを示す指数でもある。

 作家の溢れ出る情念は、『レッド・ドラゴン』にもう一つの中心点を設定させる。ハンニバル・レクター博士の創造だ。彼は、役割としては強力な脇役にすぎないが、結果的に中心点に立つことになって、物語のバランスをさらに不安定に揺さぶっている。捜査官はレクターに助言を求め、レクターは決定的な意見をさしはさむ。犯人もまた「著名な殺人鬼」にたいして尊敬の念にうたれている。九人殺しの人肉嗜好者という勲章ばかりでなく、レクターは超越者のような位置に立たされていく。

 現実のシリアル・サイコ・キラーたちのリストを詳細に記せば、数ページを要するだろう。現にハリスの小説以降もそれは増加しつづけている。レクター博士の盛名がそれらをまとめて凌駕するかのように印象されるのは皮肉なことだ。作家の想像力は多くの殺人鬼を取材することによって決定的に「損傷」を受けたのではないか。後の作品歴をみると、そんな想いにすら打たれる。


2023-11-09

5-04 ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』

 ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』KIller on the road 1986
James Ellroy(1948-)
小林宏明訳 扶桑社ミステリー文庫 1998.8


 エルロイはハリスほどに熱心には現実のキラーを取材していないだろう。まったく何も取材らしき労は取っていないかもしれない。
 彼の場合は、キラーは彼自身の内に激情をもって棲息していた。エルロイは『内なる殺人者』を書いたトンプスンと同じく、現実のキラーになってもおかしくない資質の持ち主だ。暴力性と嗜虐性とは、一定のレベルを超えて作品に露出している。それは、「もし作品において燃焼されなかったとしたら……」と想像させるほど威嚇的だ。

 作者はむしろ、投げやりともいえる無造作なタッチで書いている。物語の体裁は連続殺人鬼の告白記だ。「彼」は大まか五十人を殺したが、自分には何の罪もないと思っている。罪がないことを証明するために手記を書いている。

 数あるサイコ・キラー小説のなかでも、犯人の一人称で一貫した作品は他にない。理由は明らかだろう。キラーの内面を微細に再現していくモノローグ。その記述に耐ええる書き手はそうそう現われ出ない。

 多くのサイコ・ミステリが産出され消費された。そのほとんどはジョークのような流行便乗型のものであり、消えてなくなった。エルロイの殴り書きの一編は、流されないケースの一つだろう。

2023-11-08

5-04 トマス・ハリス『羊たちの沈黙』

 トマス・ハリス『羊たちの沈黙』The silence of the Lambs 1988
Thomas Harris(1940-)
菊池光訳 新潮文庫 1989.9
高見浩訳 新潮文庫 2012.2

 シリーズ第二作になる『羊たちの沈黙』は、ハリスがいかに深くシリアル・キラーの世界にはまったを明らかにする。作者の選択が後戻りのきかないものだったかどうかは議論の余地があろう。レクター博士の再登場に商売っ気がまるでなかったと断言するのはむずかしい。だが作家が他のテーマを選ぶことができたのかどうかについては、否定論に傾く。

 『羊たちの沈黙』は控え目にいっても、『レッド・ドラゴン』の続編、もしくは第二部といった連続性を持っている。あるいは前作の不充分さを正すように構成が整備されたと読むこともできる。ただレクター博士の再登場に加えて、彼に対抗するFBI女性捜査官クラリスの設定など、大衆受けを狙ったところは明らかだ。構成上のバランスを保ったので、小説には付加価値もついた。その大きな要素


は、レクターとクラリスとの「男と女のドラマ」だ。彼らの会話は、たんにストーリーの進行の便宜のみでなく、心理のひだを縫って深い陰影をみせている。レクターは前作の超越的な脇役という位置から、安定した助言者役、そしてロマンスの主役という場所に昇格した。

 現場捜査官に適切な助言を与える「専門家」の存在は、ホームズ以来、定型ミステリに欠かせない要素だ。レクターが『羊たちの沈黙』の前半で果たす役割は、そこにきっちりと納まる。

 この小説に登場する殺人鬼は後景に退いてしまっている。彼は殺した女性の皮を剥ぐ。皮を剥いでなめして造った胴衣をまとい、究極の女装願望を満たそうとする。彼の行動は物語のかたわらでジョークのように消費される。

 死体を切り刻むだけでなく、胴衣の材料にするという事例には、もちろんモデルがある。この分野では最も有名なエド・ゲインが逮捕されたのは、五〇年代の終わりだった。彼はサイコ・キラーの時代の先駆者とみなされる。ゲインの犯行はロバート・ブロック『サイコ』1959の素材となり、またその小説はヒッチコックによって映画化され、さらに名を残した。サイコのジャンルでは古典的ヒーローともいえるが、その殺人の性的な、真に酸鼻な側面は長く秘匿されてきた。『羊たちの沈黙』は、ゲインの「偉業」にたいする全面的な考察でもあった。しかしそれは物語においては周辺的なエピソードにとどまった。

 ゲイン・モデルが受けるべきだった抽象化の高みをさらったのはレクターだ。『レッド・ドラゴン』の殺人者は、ウィリアム・ブレイクの詩とエッチングによって、殺人を哲学に翻訳する道を与えられた。『羊たちの沈黙』の皮剥ぎ男は、比べると、たんなる肉体労働者のレベルしか許されていない。レクターは人肉喰いの伝説が反復されるにあたって、グレン・グールド演奏のバッハ『ゴルドベルグ変奏曲〈ヴァリエーション〉』という背景を新たに与えられた。殺人のための清楚なBGM。むしろレクターはオールマイティのヒーローへの道を歩みだしたように思える。


 彼はある場面では、作者の祈りにも似た言葉を代理に述べることさえしている。クラリス、きみは今でも子羊たちの悲鳴を聞くのか。酸鼻な殺人はこの世界で終わることはない。作家にできるのは、祈りを捧げることか、か細い悲鳴をあげることか。終わりのないカノンについて、作者になりかわって告げるのはレクターだった。

 ハリスの二作はサイコ・キラーの時代の作品水位を決定した。それはまた、作家から他の傾向の作品を書く余力を根こそぎ奪う結果にもなった。アメリカにおいて作家でありつづけることの困難を証するケースがここにもある。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...