……なんか違うな。
やはり、そうか。日付だ。日付が違う。境目になったのは、その前の年。九月十一日、セプテンバー・イレブンだ。世界貿易センタービル、グローバリゼーションのシンボル・タワーを破壊した同時多発テロ。世界の光景は塗り替えられてしまった。後にはもどれない。好むと好まざるにかかわらず、新しい時代は不気味な扉をこじ開けられてしまった。
ようこそ、二一世紀の今日へ。バンバン。劣化ウラン弾でも食らえ。この時代がどんな歴史をつくるにせよ、きみたちはここに生きる。
人びとが今、ブッシュの言動に一種の既視感をいだくのは、むかし観た西部劇によく似たガンマンが出てきたからではないだろうか。ガンにものを言わせて撃ちまくる。ガンが法律だ。あるいは、敵は撃ち殺してから、その理由をつくれ。明快である。西部劇ドラマの精神衛生効果は、この明快さにあった。悪役も善役も、いわば同じ原理にしたがって動く。善役が勝つのは、抜き撃ちの技が優れているから。正義の味方は早撃ちの王者だ。
この種のドラマでは、悪役はこじつけの言い分で相手を撃ち殺す。安心してそれを観ていられるのは、彼が最後にはやっつけられる決まりがあるからだ。
湾岸戦争でイラクを叩いたさいの果断な指揮によってブッシュ父は驚異的な支持率を得た。親の威光を借りた二世政治家である現大統領も、何かと失点が尽きないとはいえ、九・一一以降、果断な戦闘性をアピールすることにおいては面目を保ってきた。
正義か悪かの判断は神がくだす。神は常に勝者と共にある。アメリカの歴史が証明してきたように、である。
大量破壊兵器は、独裁者の国を叩きつぶすための、一つの大義名分だった。
巣穴に隠れたサダムは捕らえられ、その敗残の姿を全世界に映像配信された。彼はまだ生きていたが、その息子たちは死体になった姿を晒した。「デッド・オア・アライヴ」の懸賞ポスターそのままの戦果だ。
だが大量破壊兵器は出てこない。ないことを承知で決闘を仕掛けた、というトリックが剥げかけている。
ことあるごとにブッシュは「北朝鮮」の国家元首への個人的嫌悪を公言している。これは危険な兆候だ。類は友を呼ぶ――じゃない。その反対で、人は己れにそっくりな者に度外れた憎悪をいだく。金正日は世襲でポストを受け継いだ人物だ。二代目。彼は、常に「偉大なる首領様」に次ぐ、敬愛すべき王子様だった。ブッシュもまた石油ファミリーの貴公子という特別待遇をバックに権力への階段を昇りつめていった。いやでも類似点が目につくのは仕方がない。
ブッシュの顔が『OK牧場の決闘』の悪役一家の悪たれ息子に重なる。自分よりスケールの小さい同じタイプの男を撃ち殺したくてうずうずしているガンマン。理由はどうとでもなる。俺はおまえが嫌いだ、だから抜け。抜け。勝ち目のない相手に、彼は挑発をかけつづける……。
さて明確に、これが「ポスト9.11」小説だという傾向を取り出してくるのは、まだ尚早だ。英国スパイ小説の老兵ジョン・ル・カレは『ナイロビの蜂』2001(集英社文庫)で、グローバリゼーションをせっせと進める製薬メジャーのアフリカ対策を槍玉にあげた。「9.11」は不可避だったという告発的観点がここにある。
数年前から現時点につながってくるこの章の記述は、年度ごとに並べておこう。