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2023-09-20

7 バッドランズのならず者

  二〇〇二年一月十三日。大統領がホワイトハウスでジャンクフードを食べながらテレビを観ている最中に喉を詰まらせて失神して以来、世界はこの男の挙動に一喜一憂することになった。ママ、スナック菓子を頬ばりすぎて息ができなくなっちゃったよ。

 ……なんか違うな。

 やはり、そうか。日付だ。日付が違う。境目になったのは、その前の年。九月十一日、セプテンバー・イレブンだ。世界貿易センタービル、グローバリゼーションのシンボル・タワーを破壊した同時多発テロ。世界の光景は塗り替えられてしまった。後にはもどれない。好むと好まざるにかかわらず、新しい時代は不気味な扉をこじ開けられてしまった。

 ようこそ、二一世紀の今日へ。バンバン。劣化ウラン弾でも食らえ。この時代がどんな歴史をつくるにせよ、きみたちはここに生きる。

 人びとが今、ブッシュの言動に一種の既視感をいだくのは、むかし観た西部劇によく似たガンマンが出てきたからではないだろうか。ガンにものを言わせて撃ちまくる。ガンが法律だ。あるいは、敵は撃ち殺してから、その理由をつくれ。明快である。西部劇ドラマの精神衛生効果は、この明快さにあった。悪役も善役も、いわば同じ原理にしたがって動く。善役が勝つのは、抜き撃ちの技が優れているから。正義の味方は早撃ちの王者だ。

 この種のドラマでは、悪役はこじつけの言い分で相手を撃ち殺す。安心してそれを観ていられるのは、彼が最後にはやっつけられる決まりがあるからだ。

 湾岸戦争でイラクを叩いたさいの果断な指揮によってブッシュ父は驚異的な支持率を得た。親の威光を借りた二世政治家である現大統領も、何かと失点が尽きないとはいえ、九・一一以降、果断な戦闘性をアピールすることにおいては面目を保ってきた。

 正義か悪かの判断は神がくだす。神は常に勝者と共にある。アメリカの歴史が証明してきたように、である。

 大量破壊兵器は、独裁者の国を叩きつぶすための、一つの大義名分だった。

 巣穴に隠れたサダムは捕らえられ、その敗残の姿を全世界に映像配信された。彼はまだ生きていたが、その息子たちは死体になった姿を晒した。「デッド・オア・アライヴ」の懸賞ポスターそのままの戦果だ。

 だが大量破壊兵器は出てこない。ないことを承知で決闘を仕掛けた、というトリックが剥げかけている。

 ことあるごとにブッシュは「北朝鮮」の国家元首への個人的嫌悪を公言している。これは危険な兆候だ。類は友を呼ぶ――じゃない。その反対で、人は己れにそっくりな者に度外れた憎悪をいだく。金正日は世襲でポストを受け継いだ人物だ。二代目。彼は、常に「偉大なる首領様」に次ぐ、敬愛すべき王子様だった。ブッシュもまた石油ファミリーの貴公子という特別待遇をバックに権力への階段を昇りつめていった。いやでも類似点が目につくのは仕方がない。

 ブッシュの顔が『OK牧場の決闘』の悪役一家の悪たれ息子に重なる。自分よりスケールの小さい同じタイプの男を撃ち殺したくてうずうずしているガンマン。理由はどうとでもなる。俺はおまえが嫌いだ、だから抜け。抜け。勝ち目のない相手に、彼は挑発をかけつづける……。


 さて明確に、これが「ポスト9.11」小説だという傾向を取り出してくるのは、まだ尚早だ。英国スパイ小説の老兵ジョン・ル・カレは『ナイロビの蜂』2001(集英社文庫)で、グローバリゼーションをせっせと進める製薬メジャーのアフリカ対策を槍玉にあげた。「9.11」は不可避だったという告発的観点がここにある。

 数年前から現時点につながってくるこの章の記述は、年度ごとに並べておこう。

2023-09-19

P・J・パリッシュ『死のように静かな冬』

 P・J・パリッシュ『死のように静かな冬』2001  Dead of Winter
P.J. Parrish

長島水際訳 ハヤカワミステリ文庫  2003.11

 近年の警察小説には、地方主義の傾向が出てきたのかと思わせる一冊。舞台はアメリカ北東部のリゾートタウン。主人公は旅先の一時的な落ち着き先として田舎警察の職を得る。事件は連続する警官殺し。地方警察署長は独特の手法で小人数の警官を支配していたが、その体制が崩れはじめる。

 『死のように静かな冬』のポイントは二つある。主人公を白黒の混血にしたこと、背景を八十年代においたことの二点。放浪者の個性を持つ主人公は、どちらかといえば輪郭のはっきりしない青年だ。事件の推移は彼を成長させるが、暴かれる人間模様にたいして彼は淡白なままだ。彼の日常を映す質感は、ひとむかし前の女性私立探偵ものを思わせる。さりげなく慎ましいノスタルジアと浮遊感。ゆったりとした自然主義などのものが、この警察小説に不思議な安らぎを与えている。

 癒し系の暖かさはS・J・ローザンなどと通じる。




2023-09-18

ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』

 ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』The Blue Nowhere 2001
ジェフリー・ディーヴァー Jeffery Deaver(1950-)

(土屋晃訳 文春文庫 2002)

 舞台はシリコン・ヴァレー。殺人事件の捜査のために、警察が服役中の天才ハッカーの助力をあおぐ、という出だしは快調だ。

 話の主眼を占める、コンピュータ・ハッカー同士の息詰まる闘いもなかなか読ませる。しかし。読み終わると、どこか物足らない思いがする。この不満はどこに因するのだろう。定番サスペンスにサイバースペースの現在を盛りこむ試みも急増している。けれどまだ現実に追いつかないと思わせるところが少なくない。

 引き合いに出した作品から少し離れてみよう――。

 インターネット革命と著作権の旧来的な防衛をめぐって、まったく未知のエピソードを提供した事件があった。

 ある日、インターネットにどっぷりとはまる日常を送っていた十八歳の青年が新規のソフトを開発した。ショーン・ファニング。彼の名は(ビル・ゲイツのように)歴史に残るだろうか。かつてSFが好んで題材化した、サイバースペースにおける新しいコミュニケーション・システムは次つぎと現実になっていく。

 ナップスターは音楽を自由にダウンロードできるツールとして社会現象化する。事柄は単純化して受け取られた。個人が、無料で無作為に、音楽データをやり取りするのは、合法なのか。違法なのか。ナップスターが会社組織となるのは、九九年六月。わずか二年ほどのあいだにナップスター現象は決着がつき、二千二百万人のユーザーと四十万ドル分のハードウェアが無効化された。音楽・映像のコピーはある種のフリーハンド領域だったが、「先例を残すな」と勢力の反撃は素早かったということになる。

 全米レコード協会は、その敵意を、「ナップスターの問題は、ビジネスではなく社会運動をつくりだしてしまったことだ」と控え目に表明した。しかし社会運動と捉えるのは正確ではない。パブリック・エナミーのリード・ラッパー、チャック・Dがいち早く支持を打ち出したように、ナップスターの問題は、文化運動をつくりだしてしまったことにある。

 著作権にガードされた作品のコピー流失を防げないということは、文化ビジネスにとっては致命的な損失となる。とはいえ有効なガイドラインはどうやってつくれるのだろう。

 ことはもちろん、音楽や映像部門にとどまらず、活字本の存続にも議論は拡がっている。グーテンベルクによる複製本が実現して以来の転換期にさしかかっていると主張する者もいる。とくに文字データはサイバースペースにおいてデータ量が驚くほど軽い。本一冊分のデータ・ダウンロードなど、ほんのまばたきするほどの間で済む。データ量に換算するだけなら、文字形態は「終わって」いる。あとは、活字書物というハードウェアの形に価値があるかどうかに限定されてしまう。

 音楽や映像データはそっくりコピーできるけれど、文字データは書物という形態を取る点ではコピーできない。だが文字情報を取得するだけなら、ずっと早くはるかに軽く操作できる。それはともかく――。

 じっさい『青い虚空』よりも、ジョセフ・メンのドキュメント『ナップスター狂騒曲』2003(合田弘子他訳 ソフトバンク・パブリッシング)を面白がるミステリ読者は多いかもしれない。ディーヴァーほどの手練れのストーリー・テラーをもってしてもファクトに追いつきかねるという事実。これは深刻だ。

 来たるべくパニック。やがてグローバルに遍在するウインドウズ・ユーザーを襲うかもしれない未曾有のサイバー・テロへの恐怖も含めて……。これは深刻なことではないか。

2023-09-17

マイクル・クライトン『プレイ 獲物』


 マイクル・クライトン『プレイ 獲物』Prey 2002

マイケル・クライトン Michael Crichton(1942-2008)

 『ジュラシック・パーク』1991、『ディスクロージャー』1993、『タイムライン』1999など映画化されるベストセラーを次つぎと放つ作者の話題作。今回のテーマはナノテクノロジーだ。まずは、作者の警告に耳をかたむけてみよう。

 「科学技術の飛躍的発展と人間の無謀さは、二十一世紀に必ず衝突を起こすだろう。衝突は、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、コンピュータ・テクノロジーの三分野で起こる。共通点は、自己コピーする存在を環境中に解


き放ちうることだ。

 すでにコンピュータ・ウイルスという形で人類は洗礼を受けている。

 ナノテクノロジーは最新で最も取扱い注意の技術だ。極微小〈ナノ〉サイズの機械を造る。単位は、一〇〇ナノメートル=一〇〇〇万分の一メートル。ナノマシンは癌治療から新型兵器まで、広範な利用を見こまれている」

 要するに、自らの力で生み出してしまった環境変成物を人間がどうやってコントロールできるのか、という問題だ。サイバースペースについて少しふれたように、これは難問である。


 警鐘をきっちり読み物として送り出してくるのが、クライトンの偉いところだ。さて、パニック・ホラーとして『プレイ 獲物』は手堅い出来とはいえ、怖さの点で、作者の出世作『アンドロメダ病原体』69に数歩およばないようだ。作者も苦労して、ナノテク・マシーンが虫〈スウォーム〉のように群生するモンスターと化して人間を襲ってくるシーンをつくっている。そこがまあ、ホラーとしては平均点の迫力にとどまっている。警告を真摯に受け取れないのは遺憾なことだ。

 これも映画化が決定しているが、ナノテクの「見えない恐怖」をいかに描くか。そこが難しい懸案だろう。


酒井昭伸訳 早川書房2002 ハヤカワミステリ文庫 2006.3

2023-09-16

バリー・アイスラー『雨の牙』

 バリー・アイスラー『雨の牙』Rain Fall 2002
バリー アイスラー Barry Eisler

池田真紀子訳 ヴィレッジブックス 2002.1
                 ハヤカワミステリ文庫  2009.3

 『雨の牙』は、東京で活動する殺し屋を主人公としたシリーズの一作目。彼は日本人とアメリカ人の混血と設定されている。ジャーナリストとして日本での長い滞在歴を持つ作者は、東京の都市風俗を見事に捉えている。西洋人の描いた日本の例では『シブミ』と並ぶだろう。

 殺し屋は政治家〈フィクサー〉の意を受けて、反対者を自然死させるエキスパート。彼は自分を傭う勢力にたいして深い洞察を備えている。もちろんこの作品を風俗を活写したハード・アクションとしてのみ楽しむことはできる。だが読み物としての価値は別にして、この物語が示している日本社会の現状レポートを素通りするわけにもいかないのだ。彼が殺しを請け負う構造は、フィクションというより、そのまま作者の日本社会論だと思える。

 ベンジャミン・フルフォード『ヤクザ・リセッション さらに失われる10年』2003(光文社)が一部で話題を呼んだ。在日二十年になるカナダ人ジャーナリストによるニッポン絶望レポートだ。その主張をまとめれば、以下になる。――バブル以降の十年を日本は誤った政策によって空費してしまった。政・官・財・ヤクザの不健全な結託によって、不良債権がなし崩しに放置された結果だ。一方アメリカは、日本の輸出力を抑える必要から内需拡大路線を迫って、公共事業の大規模な展開を要求した。これは日本の「政・官・財・ヤクザ」の私利にもつながる政策だった。日本が約束した内需拡大の総額は「十年で六百七十兆円」だったが、この額は日本の累積国家債務とほぼ一致する。


 フルフォードのレポートが提起していることは、グローバリゼーションが日本社会に何をもたらせ、またもたらせつづけるのか、という観点だ。グローバリゼーションが避けられないとすれば、日本の失速と没落もまた避けられない。活力を喪った日本システムについては様々な議論が飛びかっている。その中でもこれは最も痛烈な一撃だろう。ポスト・バブルの息苦しい腐食感を、これほど率直に暴いた論考はなかったと思える。

 『雨の牙』は、日本社会の現状認識として、フルフォードの論点をほぼ取り入れている。東京は金融犯罪とスキャンダルと謀略が渦巻く、世界でもトップをいく危険な街だ。殺し屋はヤクザ・リセッションの隠れエージェントに他ならない。のみならず、小説の後半には、フルフォードをモデルにしたジャーナリストが赤坂で謀殺される場面も置かれている。


『レインフォール/雨の牙』2009 
 監督・脚本マックス・マニックス
 製作国日本
  椎名桔平、ゲイリー・オールドマン主演

2023-09-15

デニス・ルヘイン『シャッター・アイランド』

 デニス・ルヘイン『シャッター・アイランド』Shutter Island 2003
デニス・ルヘインDennis Lehane (1965-)


 映画化されて二〇〇四年度のアカデミー賞の話題をさらった『ミスティック・リバー』2001は、ルヘインの特質をよく語っている。物語は三人の幼なじみをめぐって進む。一人は殺人容疑者、一人は殺された娘の父親、一人は事件を担当する刑事。話の基底を現在の事件に置きながら、彼らの源流を十歳のときに体験したある事件に求める。そのとき彼らの身に起こったこと、起こらなかったことが、彼らの人生を決めたのだ。いかにもアメリカ的な成長小説の味わいを、サスペンスの技法に無理なく融合した。

 『シャッター・アイランド』の主人公は捜査官。犯罪者を収容する精神病院のある孤島に、相棒とともに送りこまれる。時は五十年代のなかば。物語のうちには過去の情景が適宜フラッシュバックされる。戦時の記憶はいまだ生々しかった。人間とは過去の体験の総和なのだという造型は、ここでも当然のごとく採用されている。


 医療刑務所としての島の実態は予想を超えたものだった。彼は相棒に自分が島に来た真の目的を明かす。島の監視最高度の隔離病棟に入れられた放火犯に復讐を遂げるためだった。彼の妻を殺した男だ。

 ハリケーン、囚人患者の暴動。捜査官の身の安全も確保できなくなっていく。彼は相棒さえも信頼できないことを知るに到る。

 物語のラスト五十ページは袋綴じにされていて、驚嘆の結末が待っているという仕掛けだ。見せかけの真実の底に沈んでいた真の現実とは何か。人間の本質が、もし過去の総和などではないとすれば……。その疑問は、堅く綴じられた結末のなかにある。


 なお、この作品は、先行作品の悪質なパクリだという意見が出ている。ものは、ウィリアム・ピーター・ブラッティの『トゥインクル・トゥインクル・キラー・ケーン』1966(未訳)。とくに、ブラッティ自身の脚本・監督による映画版1980(未公開)とは、ラストが同じだという(『ジャーロ』2004春号)。


加賀山卓朗訳 早川書房 2003
 ハヤカワミステリ文庫 2006.9





2010 監督マーティン・スコセッシ・主演レオナルド・ディカプリオ

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...