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ラベル 2-5 三〇年代実存小説の諸相 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2024-04-07

2-5 ジェイムズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』

ジェイムズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』The Postman Always Rings Twice  1934
ジェームズ・M・ケイン James M Cain(1892-1977)


 ポーの最初の受容先がフランスだったように、不況期のある種のアメリカ小説作法は、本国以上にフランスで受け入れられることになった。ケインはその一人だ。ハードボイルド派に分類されるが、チャンドラー型の都市小説の産出者ではない。
  『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、非常に影響力をおびたタイトルでありながら、謎めいている。物語の中にポストマンは登場しない。物語の外からベルを鳴らすのだ。二度。必要に応じては、三度、四度か。フランス実存小説の元祖と崇められる理由は納得できる。  放浪するプアホワイトの青年が、ギリシャ系の男の営む安食堂に身を寄せ、そこの女房と結託して亭主を謀殺する話。一度は失敗して、二度目で目的を果たす。語り手でもある殺人者が裁

きを待ち受けるところで物語は終わるが、最後のページは、どことなく付け足しのようにも読める。 
 乾いた、短く途切れる文体は、この男の動物的ともいえる行動を報告していくだけだ。じっさいに人間なのだろうかと疑わせる。彼は思考すらしない。トタン屋根を打ちつける驟雨のような音。――それは彼が愛人の死に立ち会うとき使われる比喩だ。破局を表わすのにふさわしい粗野な響きは、小説のなかに不快なエコーをおよぼしている。





2-5 ホレス・マッコイ『彼らは廃馬を撃つ』

 ホレス・マッコイ『彼らは廃馬を撃つ』They Shoot Horses, Don't They? 1935
ホレス・マッコイ Horace McCoy(1897-1955)
常盤新平訳 角川文庫 1970.5、王国社 1988.9、白水社 2015.5



 『彼らは廃馬を撃つ』は、比べてずっと感傷的なストーリーだ。

 マラソン・ダンスという不況時代のハリウッドを映すコンテスト。賞金と観客のなかにいるプロデューサーにスカウトされることを目当てに、ひたすらパートナーとダンスをつづける競技だ。海岸に仮設された即製のダンス・ホール。そこで出会った男と女の苦い交感のドラマだ。

 生きる希望を喪った女は、男に銃を渡し、最後の引き金を引いてくれと懇願する。男はそのとおりにしてやる。それが愛の証しなのだと自らを納得させながら。彼が引かれるのは、愛というより自己憐憫に近い感情だ。


 この小説も、主人公を待ち受ける死刑の裁きによって閉じられる。教訓話の体裁はきちんとつけられているわけだが、これは作者の本意とは別のところにあるのだろう。

 ケインやマッコイの影響がアルベール・カミユ『異邦人』につながったとする説は有力だ。どちらも、いかにも三〇年代小説の暗鬱な閉塞性にみちているが、別の観点においても救えるというわけだ。文学史におけるささやかなエピソードに、とくに反対する理由はない。もう一点、不条理小説のリストをつけ加えておこう。



『ひとりぼっちの青春』1969 シドニー・ポラック監督
ジェーン・フォンダ、マイケル・サラザン、ギグ・ヤング主演



2-5 ナサニエル・ウエスト『クール・ミリオン』

 ナサニエル・ウエスト『クール・ミリオン』Cool Milion 1934
Nathanael West(1903-40)
佐藤健一訳 角川文庫 1973
柴田元幸訳 『いなごの日/クール・ミリオン: ナサニエル・ウエスト傑作選』新潮文庫 2017.4

 ウエストはこの時期に短い活動を残したユダヤ系作家。ユダヤ系アメリカ文学が主流小説の舞台に大量に登場してくるのはもっと後のことだから、ウエストは孤立した先駆者といった項目に分類されている。

 『クール・ミリオン』はグロテスクで滑稽な巡礼物語だ。田舎町に住むレムエル・ピトキンという名の善意のユダヤ青年の受難を描く。彼はアメリカ・ファシスト運動に出会い、利用され尽くすことになる。初めは片目をなくし、歯をなくし、次には片脚を切断され、ついには頭皮を剥がれる。つぎはぎのフランケンシュタインみたいになった姿で、彼は政治運動のシンボルに使われる。

 果てには、不自由になった身体をさらして演説する最中に射殺されてしまう。死後、彼は、「民衆」の政治的大義に殉じた殉教者に祭り上げられるわけだ。

 小説中のファシストは叫ぶ。暗殺、万歳。アメリカの若者たち、万歳、と。

 アメリカという風土にもファシスト運動は力を持った。ウエストの諷刺はとりわけ深遠とはいえないにしても、貴重な証言として残されるだろう。

 ウエストの名前はハメットの伝記の交友録にも見つけられる。『影なき男』が執筆されたホテルの持ち主がウエストだった。後に彼は、フィッツジェラルド『ラスト・タイクーン』1940と並ぶハリウッド小説の傑作『いなごの日』1939を書く。そしてウエストは、ほかならぬフィッツジェラルドの葬儀に向かう道で自動車事故を起こし、その短い生涯を終えたのだった。



Nathanael West 

2-5 ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』

 ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』Headed for a Hearse 1935
ジョナサン・ラティマー Jonathan Latimer(1906-83)
井上 一夫訳 創元推理文庫 1981.1

 ラティマーの名前をつづけて並べるのはいくらか不適切だろうが、ハードボイルド派の諸相をながめる観点から注記しておく。

 『処刑六日前』は、タイトル通り、一週間というリミットを定めて死刑囚が無実を証明する話だ。タイム・リミットを設定してサスペンスを高めるという方式は、有名な『幻の女』に先んじている。

 技法的な面だけでなく、この小説には、注目すべき屈折が見られる。屈折というか、過剰、未整理の要素だ。それはたんに、作者のほうに定型におさめる力量が不足していたことを示すだけかもしれない。だとしても気になる。一つは、死刑囚監房において幕開けするという構造。刑務所が名探偵の住処となる構想は、「思考機械」シリーズの原点だったが、より極端な例には、ボルヘス&ビオイ=カサーレス『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』1942(岩波書店)がある。収監された安楽椅子探偵という魅力ある設定は、あるいはラティマー経由かとも思わせる。

 それ以上に見逃せない要素は、傭われたタフガイ私立探偵が中半で密室殺人の謎に取り組むという進行だ。常識的にみると何ともバッドチューニングだが、これは、奇手と感じるほうに問題があるのかもしれない。たしかにチャンドラーは謎解きミステリの人工庭園を罵ったが、それはたんに彼の個人的見解にすぎない。機械トリックとアクション活劇の混合を禁じるルールなど、べつにだれがつくったわけでもない。自然と分類意識が高じてしまっただけだ。……とはいえ、こうした作例が物珍しさを伴うこともたしかだ。作者は大真面目に描いているところが、何ともおかしい。

 ラティマーのタフガイはまた「二日酔い探偵」という新タイプの試験台にもなっている。泥酔して酔いつぶれた次の朝、最悪の体調にうめき声をあげながら、閃きに打たれる。このアイデアはほんの思いつき程度で、持続せずに終わった。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...