スコット・トゥロー『推定無罪』Presumed Innocent 1987
Scott Turow(1949-)
上田公子訳 文藝春秋1988.10 文春文庫1991.2
トゥローは一人のヒーローを際立たせるよりも、法廷そのものを主人公として押し出す方法をとった。法曹界は一つの家だ。家に属する者は、だれであれファミリーの一員だ。とてつもなく大きく肥大した「家」には、善人もいれば悪人もいる。事件はその中で起こり、その内部で解決される。家は閉ざされたサークルではない。法廷は社会の全体をのみこむ多頭の怪物〈ヒドラ〉だ。人間の生きる普遍的な条件を示唆するすべてを備えている。
法曹界にたいする揺るぎない誇りに支えられたこの観念は、もう一つの、ファミリーと呼ばれる集団を思い起こさせる。ファミリーを描いた小説には、マリオ・プーヅォ『ゴッドファーザー』1969などがあるが、その成員によって書かれたものではない。警察組織にせよ、法曹界にせよ、いわば体制の根幹をなす機構がミステリの主要な意匠に用いられ、その微細な再現が人気を博するのも、たしかな時代の流れだろう。
作者は、インサイダーゆえの強みを生かして、汚職や権力の私物化といった内部の腐敗から、複雑煩瑣な裁判進行の案内まで、多くの生データを小説に注ぎこむことができた。 語り手は首席検事補、事件の被害者は彼がかつて愛した同僚。容疑を受けた彼は告発され、法廷に立たねばならない。家に所属する人間にも、個人的な家族があり、個人的な感情がある。明かされてくるのは、法廷は正義も真実も問わないという事実だ。法廷で争われるのは無罪か有罪かであり、それは真相を解明するはたらきとは別レベルに属している。法廷は社会全体の縮図でありながら、またそうであるからこそ、下しうる判断はごく事務的な手続きにすぎない。無罪か、有罪か。法廷はそこに所属する人間のすべてを決定する。だが人間は法廷の奴隷ではない。人間性の幅は最後に法廷の限界をのりこえる――。それを深く受け止めることによってトゥローの法廷物語は最終的に救いをもたらす。
『推定無罪』が以降のリーガル・サスペンス流行の口火を切ることができた要因はいくつかある。もちろん作家の側の豊かな地力とミステリとしての緊密な構成も群を抜いていた。加えて、法廷という主人公を印象づけておきつつ、結末に人間を勝利させる鮮やかな手口がある。信じうるのは人間だという認識も、考え抜かれた「意外な結末」とともにさしだされることによって、より大きな効果を持ちえた。法廷ミステリという仕掛けのみが可能にしたミステリの醍醐味だった。