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2023-12-14

4-1 カート・ヴォネガット『母なる夜』

 カート・ヴォネガット『母なる夜』Mother Night 1961
Kurt Vonnegut(1922-2007)
池澤夏樹訳 白水社1973,飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫SF 1987.1


 第二次大戦後の戦争文学はリアリズム一辺倒に後退したという意見がある。その傾向が変容してくるのは、戦後もワンサイクル経過した後だった。

 『母なる夜』は、同じ作者の『スローターハウス5』1969(ハヤカワ文庫SF)に先行した、ブラックユーモアの戦争寓話だ。小説は、主人公の回想記の体裁を取る。彼は大戦中、ドイツに在ったアメリカのダブル・スパイだ。エルサレム旧市街の刑務所に捕らわれ、手記を執筆している。


 「生国からいえばアメリカ人、評判によればナチ、気質は無国籍」という人物。戦争犯罪人の格好のサンプルとして、自己分析のペンを取った。

 この小説がアイヒマン裁判から想を得ているのは明らかだ。ゲシュタポの高官アイヒマンは逃亡先のブラジルでイスラエル秘密警察によって狩り出された。全世界の注目する裁判の場で「自分は命令に従っただけで罪はない」と自己弁護したことでも名を残した。


 小説にも、アイヒマンは出てきて、主人公と滑稽な会話をかわす。アイヒマンは執筆について気にかけ、いくつかの助言を求める。「著作権のエージェントを使ったほうが有利なのかね?」

 短い断章のスタイルで手記は進む。テーマが帯びる深刻さとは、アイヒマンとの会話に如実なように、いっさい無縁だ。ヴォネガットのストーリー・テリングの達者さは、この作品で頂点をみせた。不景気な黒い笑い。底に沈むのは、にもかかわらず歴史への厳粛な想いだ。

2023-12-13

4-1 ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』

 ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』Catch-22 1961
Joseph Heller(1923-99)
飛田茂男訳 早川書房1969 ハヤカワミステリ文庫1977、2016

 『キャッチ=22』は、戦争に付随する腐敗と狂気と官僚主義とそれらいっさいの反復を描いた予言的な作品だ。少なくともこの小説が支持を得たとき、現実を映したものとは解されなかったろう。しかし、ほどなく現実の戦争が『キャッチ=22』に似てくる、という事態が起こった。

 ヘラーが描いた、戦争基地における正気と狂気の逆転、かぎりなく無意味に繰り返される爆撃作戦。などの事柄は、やがてヴェトナムで現実のものとなる。その意味で『キャッチ=22』は、未来社会の圧制を描いたジョージ・オーウェル『一九八四年』に並ぶ、強烈なシンボル性を備えた作品だ。

 小説の舞台は、第二次大戦末期、中部イタリアにあるアメリカ空軍基地。といちおうは指定されているが、ここを真に支配するものはキャッチ22と呼ばれる幻の軍規だ。公文書がすべての事実に優先し、秘密機関が暗躍し、権力者は私欲のために戦争をとことん利用する。

 兵士たちは、一定の出撃回数をクリアすれば除隊して帰国できるだろうと夢を持つ。ところが任務回数はいつの間にか増えていく。除隊の日など永遠に訪れそうもない。「気が狂っている」というキーワードは、物語のなかに無数に出没する。使われすぎて意味を喪っているともいえる。それは、正気だという意味でもあれば、たんに無感動だという意味でもある。あるいは言葉そのままの狂っているという意味でもある。


 『キャッチ=22』に現われる、異常なエピソードや常軌を逸した人物たちに目を奪われても、おそらくそれ自体は何も語っていない。それらの集積がつくる度をこしたドタバタ喜劇。あるいは、マイロ・マインダーバインダーとかメイジャー・メイジャー・メイジャー少佐〈メイジャー〉とかシャイスコプフ(この人物は三年で下士官から将軍にまで出世する)の命名。読む者は、この世界が永遠につづく悪夢的現実の模型であるかのような錯覚におちいるだろう。

 物語に終わりが訪れるのは不思議だが、今度は現実の戦争のほうが『キャッチ=22』を模倣してきたのだ。


2023-12-12

4-1 ケン・キージー『カッコーの巣の上で』

 ケン・キージー『カッコーの巣の上で』One Flew Over the Cuckoo's Nest 1962
Kenneth Elton Kesey(1935-2001)
岩元厳訳 冨山房1974、1996.6 白水社2014.7


 『カッコーの巣の上で』は、六〇年代に集中してくるアメリカ実存小説のなかで、とりわけ優れたものとはいえない。ただ寓話性の率直さでは上位にくるものだ。個と全体との対立は、ここでは精神病院内で自由を求める患者たちと病院体制との闘いに置き換えられている。病院は画一社会(コンバイン)とほぼ重なる。患者たちが善玉、病院の医師、看護士、看取は悪玉だ。反抗のリーダーになるのは、マクマーフィという赤毛の男だ。

 物語は患者の一人、ブロムデン酋長によって語られる。アメリカ先住民の彼は、善玉のなかでもアウトサイダーに位置する。出来事の正確な証言者になろうと努めているらしいが、時どきそう


できないことを自ら露呈してしまう。彼は自分の語ることが真実に相違ないという。だが、すぐそばから「起こっていないとしても」とつけ加えずにはおれない。

 彼は、他の患者と同様に間違って病院に監禁されている人物かもしれないが、じっさいに狂っていて、彼の語るすべての物語は狂人のゆがんだ主観に投影された出鱈目だという可能性もある。彼は、霧の中にある感覚を訴え、記憶に障害があるような記述も残す。彼の狂気が演技なの


か、真実なのか物語の受け取り手には判断のつかないところがある。

 狂気は精神病院が舞台であるこの物語においては日常化しているから、『キャッチ=22』のようにキーワードとして繁出してこない。正気と狂気の反転は、『キャッチ=22』のようには起こらない。この点は、『カッコーの巣の上で』の明快さだが、小説の深みに欠けるところにもなった。語り手は仲間の患者たちを三つに分ける。自由に歩きまわれるウォーカーズ、車椅子の必要なウィーラーズと、病状の深刻なヴェジタブルだ。


 キージーの寓意はむろん、この社会全体が精神病院化しているという訴えにある。しかしそうした率直さは、時代を離れてみると色褪せるのも早かった。ともあれ六〇年代そのものを感じさせる証言だ。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...