カート・ヴォネガット『母なる夜』Mother Night 1961
Kurt Vonnegut(1922-2007)
池澤夏樹訳 白水社1973,飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫SF 1987.1
第二次大戦後の戦争文学はリアリズム一辺倒に後退したという意見がある。その傾向が変容してくるのは、戦後もワンサイクル経過した後だった。
『母なる夜』は、同じ作者の『スローターハウス5』1969(ハヤカワ文庫SF)に先行した、ブラックユーモアの戦争寓話だ。小説は、主人公の回想記の体裁を取る。彼は大戦中、ドイツに在ったアメリカのダブル・スパイだ。エルサレム旧市街の刑務所に捕らわれ、手記を執筆している。
「生国からいえばアメリカ人、評判によればナチ、気質は無国籍」という人物。戦争犯罪人の格好のサンプルとして、自己分析のペンを取った。
この小説がアイヒマン裁判から想を得ているのは明らかだ。ゲシュタポの高官アイヒマンは逃亡先のブラジルでイスラエル秘密警察によって狩り出された。全世界の注目する裁判の場で「自分は命令に従っただけで罪はない」と自己弁護したことでも名を残した。
小説にも、アイヒマンは出てきて、主人公と滑稽な会話をかわす。アイヒマンは執筆について気にかけ、いくつかの助言を求める。「著作権のエージェントを使ったほうが有利なのかね?」
短い断章のスタイルで手記は進む。テーマが帯びる深刻さとは、アイヒマンとの会話に如実なように、いっさい無縁だ。ヴォネガットのストーリー・テリングの達者さは、この作品で頂点をみせた。不景気な黒い笑い。底に沈むのは、にもかかわらず歴史への厳粛な想いだ。