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2024-02-18

3-2 ミッキー・スピレーン『裁くのは俺だ』

 ミッキー・スピレーン『裁くのは俺だ』 I, the Jury 1947
Mickey Spillane(1918-2006)
中田耕治訳 早川書房HPB1953.11 ハヤカワミステリ文庫1976.5

 スピレーンの諸作をミステリ社会化の例示とするのは若干の限界がある。彼は一部の社会階層しか代表していない。だが彼の一面性もまた、戦後アメリカ社会の質的転換の忠実な反映だ。戦後初期から五十年代前半にいたる時代の申し子と彼をみなしても不当とはいえないだろう。

 彼の作品の表象は暴力とエロチシズムの鮮烈さだ。とはいえ、暴力とエロス描写の露出度は、各時代の制限を受ける。今日の目で、スピレーンのサディズムとエロチシズムを測定すれば、刺激はごくささやかなものだ。時代性を割り引いても、彼の固有性は残る。それは何かといえば、単純な情念だ。


 彼のヒーロー(作者と一体化している)がやたらに四五口径のガンを撃ちまくるだけの男だったなら、彼の受けた支持はもう少し小規模だったろう。彼の美徳はその単純さにある。もちろんそれは最大の弱点であったが。

 アメリカの第二次大戦後の戦争証言文学は、第一次大戦後に比べて、スケールが小さいといわれる。平和時の祖国にもどった青年の疎外感と素朴な怒りは、スピレーンなどの通俗小説に転位していったとも考えられる。

 また彼以降のハードボイルド派は、正統派と通俗派との分類に神経質となった。スピレーンは一方の代名詞だ。正統にたいする反対語は異端だが、通俗派はもっぱら暴力とエロを売り物にして、異端視される価値もない。スピレーンの流行は社会現象であり、ハードボイルド派は彼によって堕落させられたわけではない、という解釈は一般的なものだ。それが一面的でしかないことはいうまでもあるまい。


 『裁くのは俺だ』は、戦友の死から始まる。彼を無残に射殺した犯人を捜し当て、復讐しなければならない。そして俺が裁く。俺が俺が俺が裁くのだ。法廷というシステムはまったく想定されていない。いちおう容疑者は何人かいるので、作者が犯人当て興味も作品に盛りこもうと努めたことは了解できる。しかし法廷は彼の頭にはいっさいない。ヒーローは私的に正義を体現し、彼こそが法律なのだ。――これがアメリカの民主主義の伝統だった。伝統は必要とされたとき発見される。

 俺が裁かずして誰が裁く?

 単純粗暴さを正当化するものは、戦後の平和な社会に戦争体験者(元従軍兵士)がいだく違和感の大きさだ。私闘はつづく。敵がいなければ見つけるまでだ。


 彼は言う。《俺は物のけじめをつける男だ。その野郎が罪を犯した男だと認めたら、その男は死ぬんだぜ。たとえ証明できなくたって、とにかくそいつの息の根は止まってしまうんだ》

 この言葉は、現アメリカ大統領ブッシュの口から発されたとしても不思議のない発言だ。ブッシュは、サダムにけじめをつけさせたが、大量破壊兵器は見つからなかった。

 鎮まらない暴力志向が、時の冷戦の潮流と結びついていくのに特別の理由はいらなかった。単純な美徳をそこなうことなしに、彼は反共の闘士に変身していく。たしかにそれもまた社会化ミステリの一側面だった。戦友を無惨に殺した卑劣漢もモスクワの手先の共産主義者〈コミー〉も同じだ。難しく考えることはない。公共の敵〈パブリック・エネミー〉であり、民主主義の敵だ。バンバン。俺が、俺の四五口径が裁いてやる。

 第一作『裁くのは俺だ』から第四作の反共小説『寂しい夜の出来事』1951(早川書房 ハヤカワ・ミステリ)へと、作者はなんら変わったわけではない。かといって彼の反共主義が時代の風潮に迎合した結果だとも断言しにくい。彼の怒りにみちた個人主義は、アメリカ社会を覆った画一的全体主義とまったく矛盾しない。リンチも私闘もアメリカ民主主義の根幹にある情動だ。人びとが狂気をもって反共主義に走ったとするのは、誤った歴史認識だ。

 正義こそ理性である。冷戦時代にその原理は後戻りできない勢いで確定した。アメリカは国際社会をリードする大国に押し上げられた。さらには、共産主義国家圏を現状以上に拡大させないための聖なる義務もアメリカに押しつけられてきた。正義の行使は、そうした環境の飛躍的な拡大に応じて、いっそう単純な原理を必要としていった。

 スピレーンの流行は、時代に求められた潮流のなかでも中心をなすものだった。それはまたミステリが社会化した結果の雄弁な症例でもある。


2024-02-12

3-2 エド・マクベイン『警官嫌い』

 エド・マクベイン『警官嫌い』Cop Hater 1956
Ed McBain(1926-2005)
井上一夫訳 早川書房HPB1959.12 ハヤカワミステリ文庫1976.4

 マクベインが警察小説に参画したのは、むしろ遅かったが、やがて最も安定したこのジャンルの供給者となる。87分署シリーズは、警察小説の代名詞となるほどに普及し、半世紀近くになる歴史と五十一作の作品を持っている。

 舞台は架空の都市アイソラ。これはニューヨークとみなして誤差はない。都市小説、グループ主人公、組織的捜査のドキュメントという要素を組み合わせた。それにプラスして、マクベインはもう一つ重要な要素をつけ加える。

 人種だ。シリーズの常連刑事たちには、それぞれ独自の出自が与えられている。イタリア系、ユダヤ系、アフリカ系などが、うまく配されている。警察社会がとりわけ、人種のるつぼを呈していることは、充分に警察小説を成り立たせる背景だったはずだ。その取り入れは、マクベインが早かったし、よりスマートな出来映えを誇ってもいる。

 マクベインは人種を主な素材としたミステリの先駆者とはいえない。マイノリティは社会化されたミステリにとって無視しえない題材となっていた。ビル・S・バリンジャー『赤毛の男の妻』1956(創元推理文庫)、エド・レイシー『ゆがめられた昨日』1957(早川書房HPB)、マッギヴァーン『明日に賭ける』1957(早川書房HPB)などに、黒人刑事、黒人私立探偵が登場してきた。マクベインのうまさは、深刻におちいりがちな題材を、シリーズの群像のエピソードとして短くコンパクトに呈示するところにあった。刑事たちのさりげない日常がさしはさまれる。人種はそこにつけられたスパイスのようなものだった。

 『警官嫌い』は、警官ばかり狙った連続殺人事件をあつかう。『九尾の猫』の連続無差別殺人には隠れたリンクが秘められているわけだが、87分署シリーズ第一作の連続警官殺しにも一種の連続キーがある。作者は、ある古典謎解きミステリを(かなり明瞭に)置き換えることによって、キーを作製した。マクベインは、まったく新しい様式を問うたのではなく、古い価値を巧みにブレンドしてみせた。

 作者はこの人気シリーズに先立って、エヴァン・ハンター名義の非行少年もの『暴力教室』1954(早川書房HPB)を書いている。またアル中の私立探偵の短編シリーズ『酔いどれ探偵街を行く』1958(早川書房HPB)もある。ストーリー・テラーとして多種の傾向に対応していた。不良少年に投影された戦後世代の内面は、たとえばシリーズ第三作『麻薬密売人』1956(早川書房HPB)にも、印象的に描かれている。長いシリーズの全体が社会学的考察のユニークな対象となりつづけるだろう。

2024-02-07

3-3 アイラ・レヴィン『死の接吻』

 アイラ・レヴィン『死の接吻』A Kiss Before Dying 1953
Ira Levin(1929-2007)
中田耕治訳 早川書房HPB1955.6 ハヤカワミステリ文庫1976.4

 戦後青年の像は、クイーンやスピレーン、マクベインといった書き手によって、きわめて断片的にミステリのなかに取り上げられてきた。もう少し正面きって挑んだ作品に、初期のロス・マクドナルドによる『青いジャングル』1947(創元推理文庫)、『三つの道』1948(創元推理文庫)がある。

 ここではさらに典型的な社会不適応者=犯罪者の物語を考えてみよう。

 『死の接吻』は、マガーの『七人のおば』が結婚案内ミステリーだったのとは逆の意味で、ゆがめられた「結婚願望」の話だ。この主人公の目標は、「百万長者の娘と結婚する方法」だ。手段を選ばず実践する。彼のエゴイズムはあまりにその野望に求心しすぎているため、共感をひきにくい。しかも、これは三回戦だ。一度の失敗に懲りずに、二度、三度と挑戦する。

 最初の娘は誤って妊娠させてしまったので、やむを得ず殺さねばならなかった。これは『アメリカの悲劇』の変奏でもあり、新しさといえば、殺人者のドライさだけだ。そして作者が叙述に工夫をこらし、彼の名を伏せている点。犯人の側から描かれるが、展開は、名前のわからない「犯人を捜せ」だ。その意味では、マガー・スタイルの男性版といえる。

 彼の正体が誰であるかは、しかし、物語の主要な牽引力にはならない。第二部は、彼が殺した娘の姉に近づいて、また犠牲者にするという話だから。三部仕立てのこの物語は、いってしまえば、彼が妹から順に三人姉妹を野望の道具にする話だ。構成に多少の斬新さはあっても、最後までそれを生かしきれていない。一度目の失敗にもめげずに二度目も同じ手を使うところが図式的だ。三人姉妹が順に籠絡されてしまうという展開も、どこかお手軽だ。犯人の行動が積み重ねによって重みを増すのではなく、かえって薄っぺらに感じられる。

 道具にならないなら殺せ。という犯人の信条は、ある種の典型とみなさないかぎり救えない。単純で幼児的。ミステリの主人公にしか使えない。スピレーンの四五口径を撃ちまくる男根主義的ヒーローと兄弟のように似ている。

 レヴィンはその後、小説は数えるほどしか発表しなかった。『ローズマリーの赤ちゃん』1967が、ホラー分野の指標的名作として名高い。

2024-02-06

3-3 フレドリック・ブラウン『彼の名は死』

 フレドリック・ブラウン『彼の名は死』His Name Was Death 1954
Fredric Brown(1906-72)
高見沢潤子訳 東京創元社クライム・クラブ1959 創元推理文庫1970.7

 ブラウンの名は、レヴィンのように戦後世代のある一面の代弁者とはならないだろう。代表作を一編選んで位置づけをはっきりさせるような書き手ではない。『彼の名は死』は叙述トリックに関する参考作品になる。『死の接吻』は三部構成で古典悲劇を狙ったが、見事に失敗した例だと思える。金持ちの令嬢を道具にしそこねて殺す話では悲劇にはなりがたいし、第一部の犯人の正体を伏せた叙述も部分的な効果に終わっている。

 『彼の名は死』は、各章の視点人物を交替させ、章題にその人物名をつけた。技法の冴えのみで記憶されるようなテキストだ。話はかんたん、贋金つくりの業者がはまった底なしの罠を追いかけていく。流失した札を回収するために彼がとった行動はことごとく裏目に出る。さして登場人物の多くない話に、多数の語り手が現われてくる。最後の章に出てくるのは「死」〈デス〉だ。死という名の男が顔を出すにおよんで物語は終局をむかえる。表向きの話の裏にひそんでいたものが暴かれ、鮮やかなひねり技によってページが閉じられる。ブラウンのミステリの持ち味は均一だ。

 取り出せるような「思想」は何もない。ミステリ作家というより短編作家。ショートショートの書き手、SF作家としてのほうが影響が強い。ラストの効果は短い作品ほど際立っている。「奇妙な味」の短編の代表とみなすほど刺激は強くない。日常性の表層を滑空して、イメージを逆転する技を得意とする。

 ミステリの設定だと、その逆転がややこじんまりとしすぎるところがある。視点の転換と名前を一致させるテクニックは、今日ではさして珍しくない。見るべきは、小説とはモザイク状の章を組み合わせてつくるパズルだとする、ブラウンの方法だ。叙述トリックの見事な例は、ほぼ同じ時期に出現してくる。比べれば多少インパクトに欠けるとはいえ、『彼の名は死』は忘れがたい作品だ。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...