ラベル

2024-04-11

ジョン・シングルトンのために

John Singleton(1968-2019) 

 しばらく名前を眼にしていないと想ったら、鬼籍に入っていたとは……。


ミッシング ID 2011   監督

フォー・ブラザーズ/狼たちの誓い 2005 監督

ワイルド・スピードX2 2003 監督

サウスセントラルLA 2001 監督製作脚本

シャフト 2000 監督製作原案脚本出演

ローズウッド 1996 監督

ハイヤー・ラーニング 1995 監督製作脚本

ポエティック・ジャスティス/愛するということ 1993 監督製作脚本 

ボーイズ’ン・ザ・フッド 1991 監督脚本

 
 主要作品をならべてみると、90年代の4作に輝きが集中するような。

 このうち、『サウスセントラルLA』は、ネトフリで配信されている。



 ところで、このサイトは『アメリカを読むミステリ100冊』(2004)をまるごと再録していくためのもの。アカウントはずいぶんと昔に登録していたが、多忙をきわめるうちに、ゴースト・サイトになってしまった。

 コンセプトを変えて、再発動する。


 『アメリカを読むミステリ100冊』は213頁の軽い本で、『北米探偵小説

論』の軽装版のような体裁だが、あつかった対象は少し「増補」したかたちになっている。その意味で、『北米探偵小説論』と最近の『北米探偵小説論21』を橋渡しする位置を占めているようだ。とにかく20年前の論考であり、より『北米探偵小説論』の二〇世紀的「古さ」のほうに近い。

 そのWEB版の「序」に、シングルトンへの追悼が掲げられるのは何故? 

 という疑問には、以降の内容が答えることになるだろう。

 シングルトンは、1980年代後半から10年ほどつづいたブラックシネマの光芒の有力な表現者の一人だった。ブラックアメリカンの激烈なドラマが、アメリカン・ミステリの根源的なテーマとして視野に入れられることは、ほとんどなかった。『北米探偵小説論21』の「ブラック・ノワール」の章が、やっとその入口に立った、というところか。



イントロダクション

 イントロダクション


 いずれにしても、二十世紀はアメリカの世紀だった。これからもそうであるかは別として。

 本書は歴史の書物ではない。アメリカのミステリの変遷と、その書き手たちの転変を考察する。ほぼ発表年代を追って作品を並べた。目次を見るとガイドブックのようだが、まるごとミステリガイドではない。

 十年ほど前の世紀末と呼ばれた時期に比べると、未来への展望を語る論調はかなり確固たるものになってきていると感じる。明であれ暗であれ、漠然とした期待や不安はなりをひそめてきた。希望が水増しされたのか、それともさらに目減りしたのか。

 グローバリゼーションに向けての楽天的な見通しは花盛りだ。世界はもっとアメリカ化する?

 本書の体裁は「百年で百冊をふりかえる」式に従っている。重要な作家については複数項目にわたったケースもあるが、原則は、一人一回の登場だ。年代順の名作・問題作リストが語るのは、明日への希望だろうか。それとも昨日への幻滅だろうか。もし公正な判断があるとすれば、それは寛容な読者の判断にゆだねたい。


 エドガー・アラン・ポーは、この分野の草分けとみなされている。

 ポーに「群集の人」という短い小説がある。ミステリの出立点とされる「モルグ街の殺人」に少し先立つ時期に書かれた。「群集の人」によって二十世紀ミステリの扉は示された。

 「群集の人」は一人の語り手によって語られる。彼を探偵の元型と認めることは、かなり強引な読み取りになる。この短い小説にはストーリーが欠けている。語り手の行動は、おおかたは観察者のものであり、受動的だから、彼を登場人物の一人と考えるのも無理がある。彼は作者自身のイメージから少しも出ていない。

 彼はある秋の夕暮れ、ロンドンのカフェに腰をおろして群集を観察している。彼は書く。というより、作者の独白めいているのだが、「世の中には語りえない不思議がある」と、荘重をよそおって書き出している。彼は病みあがりの回復期にあって、行き過ぎる雑踏を眺めている。

 小説の前半は、夜ふけにいたるまで彼の目に映りすぎていく「群集の人」の報告にあてられる。そのうち彼は痩せこけたみすぼらしい老人に目をとめ、魅せられる。男の秘密を探りたいという欲求にとらわれる。彼は老人を尾行する。小説の後半は、未知の男の尾行と監視が占める。静から動への移行だ。

 ふつうの読み物であれば、これは事件の入口にすぎない。何かが次に起こる。

 しかし「群集の人」では何も起こらない。彼は明け方まで尾行をつづけ、次の日も、驚くべきことに、休みなく都会を移動する。二日にわたる無為の尾行の果てに、彼はようやく結論をくだす。この老人は「群集の人」なのだと。そうした存在の心の中を覗くことはできないのだと感慨して、小説の書き出しにもどる。語りえない不思議な事の例がここにあったと。

 この老人の犯した犯罪などを期待する者にとっては、小説は竜頭蛇尾を思わせて終わる。

 作者は、「犯罪のエッセンスは、ついに顕われることがない」とか、素知らぬふりをして最初に書きつけている。

 いわば、これは、ポーが開示した未完の謎かけでもある。

 後代のミステリ作家は、群集のヴェールの向こうにある犯罪の発見に到った。群集と犯罪の相関について、ポーが示唆した通路をとだった。しかしこれだけでは充分でない。

 ポーの最初の理解者だったボードレールは、『巴里の憂鬱』に書いている。「群集〈マルチチュード〉と孤独〈ソリチュード〉とは、置き換え可能な言葉だ」と。「群集の人」を解析する議論の初めのものだが、最も基本的な解釈だろう。「群集のなかの孤独」という命題は、さまざまな曲折を伴って二十世紀のミステリに流れこんでいく。

 ソリチュードの奥底にあるマルチチュードの発見。単独者の魂をかき乱す群集という不可思議な万華鏡の探究。ポーを継いだアメリカのミステリの一世紀はそのことに費やされた。長い探索の旅は、ポーの謎かけによって始まった、といっても過言ではない。


目次
イントロダクション
1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで
2 黄金時代  ――30年代から戦中へ
3 大戦後社会小説の諸相  ――大戦以後から50年代
4 もう一つの黄金時代  ――60年代と70年代
5 世界のための警察国家  ――80年代
6 グローバリゼーション〈革命〉に向けて  ――90年代
7 バッドランズのならず者  ――9.11から現在へ


1 アメリカ小説の世紀
 1 偉大なアメリカ探偵の先駆け
  ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』05
  メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』18
  シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』25
  アーサー・コナン・ドイル『恐怖の谷』14
 2 百パーセントのアメリカ製名探偵 一
  S・S・ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』26
  S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』29
  アール・D・ビガーズ『チャーリー・チャンの活躍』30
  T・S・ストリブリング『カリブ諸島の手がかり』29
 3 百パーセントのアメリカ製名探偵 二
  ダシール・ハメット『赤い収穫』29
  ダシール・ハメット『マルタの鷹』30
 4 アメリカの奥の果て
  H・P・ラヴクラフト『インスマウスの影』30


2 黄金時代
 1 予告された悲劇
   エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』32
   エラリー・クイーン『Yの悲劇』33
 2 あらかじめ回避された悲劇
   ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』35
   ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』37
 3 アメリカ的小説工房の名探偵二人
   アール・スタンリー・ガードナー『ビロードの爪』33
   レックス・スタウト『料理長が多すぎる』38
   アーヴィング・ストーン『クラレンス・ダロウは弁護する』41
 4 マルチチュードの女たち
   ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』42
   レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』40
 5 三十年代実存小説の諸相その他
   ジェイムズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』34
   ホレス・マッコイ『彼らは廃馬を撃つ』35
   ナサニエル・ウェスト『クール・ミリオン』34
   ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』35
 6 死体置場行きロケット打ち上げ
   H・H・ホームズ『死体置場〈モルグ〉行きロケット』42
   クレイトン・ロースン『棺のない死体』42
   ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『赤い右手』45
   オーガスト・ダーレス『ソーラー・ポンズの事件簿』45
 7 この素晴らしき〈ワット・ア・ワンダフル〉ミステリたち
   クレイグ・ライス『スイート・ホーム殺人事件』44
   パット・マガー『七人のおば』47
   アラン・グリーン『くたばれ健康法!』49
 8 アメリカの災厄と光明と
   エラリー・クイーン『災厄の町』42
   ウィリアム・フォークナー『八月の光』32
   リチャード・ライト『アメリカの息子』40
 9 早く来すぎたポストモダン
   キャメロン・マケイブ『編集室の床に落ちた顔』37


3 大戦後社会小説の多様化
 1 クイーン家の出来事
   エラリー・クイーン『十日間の不思議』48
   エラリー・クイーン『九尾の猫』49
   パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』54
 2 社会化される個
   ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』52
   ミッキー・スピレーン『裁くのは俺だ』47
   エド・マクベイン『警官嫌い』56
 3 社会化されざる人びと
   アイラ・レヴィン『死の接吻』53
   フレドリック・ブラウン『彼の名は死』54
 4 アメリカの庭の外で
   チェスター・ハイムズ『イマベルへの愛』57
   デイヴィッド・グーディス『深夜特捜隊』61
   ジム・トンプスン『内なる殺人者』52
  ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』60
 5 冷戦と洗脳
   ジャック・フィニイ『盗まれた街』55
   ロバート・ハインライン『人形つかい』51
   リチャード・コンドン『影なき狙撃者』59
 6 クイーンの定員と非定員
   ハリー・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」47
   ジェイムズ・ヤッフェ「ママは何でも知っている」52
   スタンリー・エリン「特別料理」48
   ロアルド・ダール『あなたに似た人』53
 7 暗い鏡の中のマクロイ
   ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』49
   ビル・S・バリンジャー『歯と爪』55
   ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』48


4 もう一つの黄金時代
 1 この不条理な夜に
   カート・ヴォネガット『母なる夜』61
   ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』61
   ケン・キージー『カッコーの巣の上で』62
 2 ミラー=マクドナルドの試練
   ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』61
   マーガレット・ミラー『見知らぬ者の墓』60
 3 アンドロイドペット・シンドローム
   フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』68
   リチャード・ニーリィ『殺人症候群』70
 4 さまざまな定型の継承者たち
   アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会』74
   エドワード・D・ホック「有蓋橋の謎」74(サム・ホーソーンの事件簿)
   ドナルド・E・ウェストレイク『ホット・ロック』70
   ジョー・ゴアズ『ハメット』75
   ジェイムズ・クラムリー『さらば甘き口づけ』78
   ロバート・B・パーカー『レイチェル・ウォレスを捜せ』80
   ローレンス・サンダーズ『魔性の殺人』73
   ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ『裁くのは誰か?』77
 5 ポスト・レイシズムの視点
   トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』73
   エド・レイシー『褐色の肌』67
 6 遅れてきた不条理小説
   ジョゼフ・ウォンボー『クワイヤボーイズ』75
   ジェローム・チャーリン『ショットガンを持つ男』75
 7 境界線上に立つ
   トマス・ブロック『超音速漂流』79
   トレヴェニアン『シブミ』79
   ロバート・ラドラム『暗殺者』80 
 8 カウンター・カルチャーの申し子たち
   スティーヴン・キング『シャイニング』77
   ディーン・クーンツ『ウィスパーズ』80


5 世界のための警察国家
 1 アメリカ人よアメリカから出ていけ
  トム・ウルフ『虚栄の篝火』87
  カール・ハイアセン『殺意のシーズン』86
 2 犯罪小説の二人
  ロス・トーマス『神が忘れた町』89
  エルモア・レナード『ラブラバ』83
 3 鷲の翼に乗って
  マーティン・クルーズ・スミス『ゴーリキー・パーク』81
  ケン・フォレット『鷲の翼に乗って』83
 4 すべての哀しきサイコ・キラーたち
  トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』81
  ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』86
  トマス・ハリス『羊たちの沈黙』88
 5 わたしのなかのわたしでないわたし
  ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』82
  ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』89
 6 ヴェトナムから遠く離れて
  ネルソン・デミル『誓約』85
  ピーター・ストラウブ『ココ』88
 7 私立探偵小説の変容 一 女探偵登場
  サラ・パレツキー『サマータイム・ブルース』82
  スー・グラフトン『探偵のG』90
  パトリシア・コーンウェル『検屍官』90
 8 私立探偵小説の変容 二 ポストモダンのタフガイ
  ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』85
  ピート・ハミル『マンハッタン・ブルース』78
 9 私立探偵小説の変容 三 本流はどこに
  ジェイムズ・エルロイ『ブラック・ダリア』87
  ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』82
  アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』87
 10 新たなアメリカン・ヒーローの登場
  スコット・トゥロー『推定無罪』87
  ジョン・グリシャム『評決のとき』89


6 グローバリゼーション革命に向けて
 1 生まれながらの殺人者たち
  デイヴィッド・リンジー『悪魔が目をとじるまで』90
  ウィリアム・ディール『真実の行方』93
  ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』97
  グレッグ・アイルズ『神の狩人』97
  トマス・ハリス『ハンニバル』99
 2 過去を振り返る
  マックス・アラン・コリンズ『リンドバーグ・デッドライン』91
  ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』92
 3 歴史をさかのぼる
  デイヴィッド・ハンドラー『女優志願』92
  フェイ・ケラーマン『慈悲のこころ』89
  ウィリアム・ヒョーツバーグ『ポーをめぐる殺人』94
  ルイス・シャイナー『グリンプス』93
  シオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』91
  ダン・シモンズ『諜報指揮官ヘミングウェイ』99
 4 夜明けの光の中に
  オットー・ペンズラー『愛の殺人』96
  ローレンス・ブロック『殺し屋』98
  D・W・バッファ『審判』01
  スティーヴン・ハンター『極大射程』93
  トマス・H・クック『夏草の記憶』95
 5 神の見捨てた地
  ジェス・モウリー『ウェイ・パスト・クール』92
  ポーラ・L・ウッズ『エンジェル・シティ・ブルース』99
  マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』96
  エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』96
  リチャード・プライス『フリーダムランド』98
  ボストン・テラン『神は銃弾』99
  ビル・ボナーノ『ゴッドファーザー伝説』99
 6 アメリカ的デラシネの遺書
  パトリシア・ハイスミス『死者と踊るリプリー』91

 
7 バッドランズのならず
 P・J・パリッシュ『死のように静かな冬』01(長島水際訳 ハヤカワ文庫)
 ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』01(土屋晃訳 文春文庫)
 マイクル・クライトン『プレイ 獲物』02(酒井昭伸訳 早川書房)
 バリー・アイスラー『雨の牙』02(池田真紀子訳 ヴィレッジブックス)
 デニス・ルヘイン『シャッター・アイランド』03(加賀山卓朗訳 早川書房)
 エドガー・アラン・ポー「群集の人」1840
 ダシール・ハメット「ターク通りの家」24

1 アメリカ小説の世紀

 1 アメリカ小説の世紀

 二十世紀は第一次世界大戦によって始まったわけではない。だが大戦はいやおうなく二十世紀をスタートさせた。


 アメリカの参戦は大戦の後半からだった。しかし参戦期間の短さと戦闘力を投入した地域の限定にもかかわらず、アメリカが負った戦争の傷は小さくない。全体戦争〈トータル・ウォー〉と大量死〈メガデス〉と。二重の災厄から逃れることはできなかった。

 大戦後の二十年代社会は、歴史のページのなかで、ひどく不安定で頼りない時期のようにみえる。このはざまに、アメリカ式大衆文化のいくつかの分野は開花した。ミステリも項目の一つだ。室内の殺人ゲームと都市が排出する犯罪。アメリカ独自のミステリが始まってきた。

 ジャンルの参加者たちの活動が影法師のように見えるとすれば、彼らの描く影絵には明瞭な図柄があった。


 一は、最初にふれたように「群集の発見」。
 ミステリは孤立者の物語だ。ゲーム的に語られようと、リアルに描かれようと相違はない。群集は物語の奥に潜りこんでいる。都市が代用物となる。

 ポーがヒントを与えた群集のなかの犯罪。犯罪が内実となることによって、群集の威嚇的な姿はふたたび作品の秘められた内部にもどっていく。

 二は、「ミステリの形式性の発見」。
 独自の発展史は、当初から書き手たちに強く意識されていた。ミステリを構成する要素は、長い時を経て整備され成熟を遂げる。パターンが使い尽くされたという意見が有力になってからも数十年が経過している。多くの文化領域に張り巡らされているモダンとポストモダンとの絡まりは、ミステリにおいても複雑な紋様を描いている。システムを完成させようとする力は反作用を呼ぶ。書き手が閉じられたシステムを明敏になればなるほど、テキストは以前書かれた作品の鏡となる。


 三は、「アメリカの発見」。
 アメリカの小説家であることは、他の社会で同じ仕事につくよりもはるかに困難だ。彼は文化的伝統の希薄な土地にあって書き、正体の定かでない大衆に向き合うことを強いられた。アメリカは、その手中にありながら、常に発見されねばならない一つ未知だった。この法則はミステリ専任の書き手にも部分的にあてはまった。

 ミステリの形式性に向き合うことと、独自のアメリカ文化の発見に立ち合うことは、区別されていなかった。


1-1 ジャック・フットレル「十三号独房の問題」

 ジャック・フットレル「十三号独房の問題」The Problem of Cell 13  1905
Jacques Futrelle(1875-1912)



 まず二十世紀初めのアメリカを思い浮かべることから始めよう。

 この国はまだ世界の一等国ではない。グローバリゼーションの先頭で号令をかけているわけではないし、国際社会の「悪者」に向かって「正義の銃弾」を好き勝手にぶちこむ力を備えているわけでもない。文化的にいっても、後進的な辺境という位置にとどまっていた。

 世界を束ねる文化的シンボルを発信することはおろか、自国の文化を誇りをもって輸出する


までも到らなかった。アメリカのなすべきこと〈ビジネス〉はビジネス。文化は期待されていない。

 名探偵が難事件を解決するという、ポーの発明になるミステリ形式も、イギリス産のホームズ経由で逆輸入された。あるいは、事態を強引に解釈すれば――。ホームズ物語が人気を博したのはアメリカ式の雑誌連載短編の形だった(先に刊行された長編二編はあまり評判にならなかった)から、「短編の原理」というアメリカの手柄は有効にはたらいた。


 ホームズの後継者の多くの探偵たちのうち、フットレルの主人公は、比較的早く登場し、しかも長く名前を残した。

 探偵は「思考機械」と仇名される。その本名と科学者としての肩書きを列挙するだけでも、アルファベットの全文字を使いきって足らない。異様に高く張った広い額の大頭。子供のような肉体はその大頭を乗せるには虚弱すぎる。コミック風に誇張された容貌は、論理的推理にのみ生きる存在にふさわしい。

 彼が初めて登場する「十三号独房の問題」はシリーズ中で最も有名な短編。天才探偵が脱出不可能な刑務所の独房から一週間の期限を切って脱出してみせる話だ。


 この一編を含む第一短編集『思考機械』が刊行された1907年には、イギリスでフリーマン、フランスでルブランルルーが登場した。記念すべきメモリアルに、アメリカ作家も遅れをとっていなかった。

 探偵役のキャラクターは奇人探偵というルールに沿っている。推理機械に徹していて、プラス・アルファがない点はかえって時代を超越する。感情のない機械を思わせる探偵の性格にしろ、不可能犯罪へのこだわりにしろ、奇妙に一回りして現代に通じてくる。シリーズ全作品は四十五編あるというが、うち三十編は日本語訳されている


 作者はタイタニック号に乗り合わせていて遭難した。短編六編が作者とともに没したといわれる。生身のフットレルは、思考機械とは違って、脱出不可能な状況から生還できなかったわけだ。

押川曠訳『思考機械』 ハヤカワ文庫 1977.6
宇野利泰訳『思考機械の事件簿』 創元推理文庫 1977.7(後の版では表題に「Ⅰ」の文字が追加される)
池央耿訳『思考機械の事件簿Ⅱ』 創元推理文庫 1979.12
吉田利子訳『思考機械の事件簿Ⅲ』 創元推理文庫 1998.5
(ただし、この3巻選集には「十三号独房の問題」が収録されていない。同文庫のロングセラー古典である江戸川乱歩編『世界短編傑作集1』 1960.7 新版2018.7 で読むべし、ということであろう)

1-1 メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』

 メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』Uncle Abner
Melville Davisson Post(1869-1930)
『アンクル・アブナーの叡智』吉田誠一ほか訳 ハヤカワ文庫 1976.8
『アブナー伯父の事件簿』菊池光訳 創元推理文庫 1978.1、2022.10


 思考機械につづくアメリカ産名探偵はアブナー伯父だ。最初の短編「神の使者」が雑誌掲載された1911年は、チェスタトンのブラウン神父シリーズの第一巻が出た年でもある。これも先駆者として讃えられる名前だ。

 アブナー伯父ものは、十九世紀アメリカ中西部を舞台にした歴史小説としても読める。作品が背景とする時期は、ジェファースン時代の十九世紀初めと、南北戦争前の十九世紀なかばと、二説がある。いずれにせよ作者が「現代」を描くことを避けた点を注目すべきか。

 密室殺人の機械トリックで有名な「ドゥームドルフ事件」のように、トリッキィなものもあるが、探偵が体現しているのは、法と信仰という二つの柱だ。古風なモラルは古びるのではなく、一貫してアメリカの娯楽小説に流れているといえる。作者は弁護士でもあったから、リーガル・サスペンスの先駆けを見い出せる。

 これも有名な「ナボテの葡萄園」に、その定式は表われている。アブナー探偵は法廷の場で犯人を追いつめる。進退きわまった犯人は法廷侮辱罪に問うと脅しつけてくるが、探偵は全能の神の名において反撃する。法と正義と。その二本柱がいささかストレートに表明されるところが、このシリーズの持ち味となる。

 これはアブナーの個性であるのみでなく、作家の姿勢をも語っていた。思考機械にしろ、アブナー伯父にしろ、探偵という人物がいかに社会的な認知を得ていったかを強く反映する。認知を得ることができたかを、である。前者は人間的属性をできるかぎり削り落とす方向を取り、後者はあつかう事件の質はどうあれ作品外にあるイデオロギーで自らを武装していた。そして、どちらも異なった位相において、現代とはずれたところに身を置いていた。

 この点は、第一走者たちの作品を読む上で見落とせないところだ。

 同じ時期、フレドリック・アーヴィング・アンダースン『怪盗ゴダールの冒険』1913(国書刊行会)、エドガー・ライス・バローズ『ターザン』1914(創元推理文庫)などの読み物があった。


1-1 シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』

 シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』An American Tragedy 1925
Theodore Dreiser(1871-1945)


田中純訳 現代アメリカ小説全集 三笠書房 1940、 早川書房 1950、1954
大久保康雄訳 世界文学全集 第3期 第19 河出書房新社1958、 新潮文庫 1960、1978.9
橋本福夫訳 角川文庫 1963-68
宮本陽吉訳 現代アメリカ小説全集 集英社 1970、1975、1978


 アメリカ独自の探偵の本格的な誕生に立ち合う前に、一つの作品に注意しておこう。『アメリカの悲劇』をドライサーは「あるアメリカの悲劇」といった意味合いで問うている。話は非常に単純で、立身出世を願った青年が過去を清算するために恋人を殺す、というありふれたものだ。この作品は戦後、『陽の当たる場所』として映画化されているので、そちらのほうで知られているだろう。作者は、現実の事件に取材していたが、合計十五の同種の事件資料を集めていたという。エゴイズムが起こす悲劇はいたるところに繰り返されていたわけだ。


 これはドライサーの自然主義小説の頂点といわれる。同時に集大成であり、作家は、『シスター・キャリー』1900『ジェニー・ゲルハート』1911と書き継いできたアメリカ社会との抗争の記録を完成した。同時代の他の作品と並べてみると、発表されたのがいささか遅きに失したような印象も与える。

 一人の移民の青年とアメリカの夢との衝突。そこから起こった犯罪は、ドライサーが固有にいだいていた単独者の悲劇という物語を発酵させた。

 主人公は時代の負け組だ。適者が生き残るなら、彼の生き延びる目はない。ドライサーが書き得たのは、負け組社会小説の原型といってもいい。この小説を書き換え、なぞっていくように、後続する「もう一つのアメリカの悲劇」は書き継がれていった。悲劇のみが映し取ることのできるアメリカ社会の本質だ。

1-1 アーサー・コナン・ドイル『恐怖の谷』

 アーサー・コナン・ドイル『恐怖の谷』
 Arthur Conan Doyle(1859-1930)
『恐怖の谷』 The Valley of Fear  『ストランド・マガジン』1914.9-1915.5 初出

   マーティン・リット『男の闘い』 THE MOLLY MAGUIRES 1969

 もともと発明者ポーは、探偵デュパンの肖像を、当時の国際都市パリに住む遊民として描いた。国籍も職業も持たない自由人。こうしたタイプにヒーロー役があてられたことの意味は大きい。アメリカに生きるアメリカ人はミステリという新形式の主人公にはなれなかった。ポーの時代においていっそう鮮明だった文化の後進性は、思考機械やアブナー伯父の登場によって払拭されたわけではない。

 ドイルのホームズ物語の成功は、さまざまな観点から述べられてきた。ウィリアム・ゴドウィン、エミール・ガボリオと、探偵像の源流をポー以外に求める考察もある。

 だが、なぜ彼がかくも長きにわたって広い人気を博しているかは、必ずしも解明されていないように思える。ドイルのストーリー・テラーとしての卓抜さを讃えることでは、この点は深まらない。素人探偵がヒーローになるためには、捜査能力において警察組織よりも優秀という人物が客観的に受け入れられる素地が必要だ。ホームズはデュパンのような遊民ではない。最初から体制側に寄り添った人物であることは間違いない。彼の足は十九世紀末のヴィクトリア朝社会にしっかりとついている。なかば職業的に犯罪を捜査する異能の人物は当の社会に確固たる位置を占めることができた。彼は、犯罪にたいする好奇心と刺激を求める知的スノビズムの具現化ともいえる。

 ヒーローが当該社会に根ざすことのできる安定した位置。これこそ、アメリカの「後進的」ミステリ作家が望んでも得られない渇望の的だった。矛盾はそれを鋭く意識した者によってしか解決されない。二十年代なかばまでそうした存在は現われなかった。

 『恐怖の谷』は、ホームズ譚四長編の最後の作品となる。事件がいったん解決をみた後、第二部の独立した因縁話がつけ加わるといった構成は『バスカヴィル家の犬』を除く他の二長編と同じだ。第二部の舞台が、未開の土地、植民地に取られる点も共通する。ただし『恐怖の谷』の場合は、一八七五年のアメリカ中西部となる。架空の土地名がつけられているが、ピンカートン探偵社は実名で、しかも善玉として出てくる。第二部の話にはモデルがあるが、鉱山町での労働争議にピンカートン社の労働スパイが潜入して組合潰しをはかったことは、公平に描かれているわけではない。労働側に立つか資本家側に味方するかは別としても、作者の視点において、アメリカは(この地方だけにしても)完全な未開の土地だ。

 ホームズ譚においては興味深い統計がある。短編五十六編、長編四編からなるその背景には、非ヨーロッパ世界が強く関わっている。数でいえば半数以上の三十二編。インド、アフリカなど、当時の大英帝国の版図がそれにあたる。犯罪の素因は、植民地もしくは未開の土地でつくられ、イギリス本国に還流してくるという構造だ。野蛮は野蛮の地にある。西欧小説が「自然」とみなした世界観はミステリにもそのまま採用されている。探偵の身分的安定とは、植民地経営が良好にいっていることの尺度でもあった。ホームズ物語が、大英帝国による支配文化を「最も包括的に記録したテキストだ」(正木恒夫『植民地幻想』みすず書房)とする見解はまったく正しい。

 ドイルの物語世界がイギリスによる支配システムを正確に反映していたことは了解がつく。しかし『恐怖の谷』はどうであろうか。十九世紀後半、アメリカがイギリス植民地でなくなってから百年は経過していたはずだ。あるいはドイルの意識内においては、そうした事実はなかったのかもしれない。この点、アメリカ人にとっては(とくに)この小説は憤激の的だったと思える。

 犯罪の源流を国外に求めるという発想は、少なくともアメリカのミステリ作家には訪れなかった。

1-2 S・S・ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』

 S・S・ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』The Benson Murder Case 1926
S. S. Van Dine(1888-1934)
松本正雄訳 世界探偵小説全集 第20巻 平凡社 1930
延原謙訳 新樹社 1950
井上勇訳  創元推理文庫 1959
日暮雅通訳 創元推理文庫 2013.2

 ようやく二十年代を迎えて、アメリカという一国に特殊な状況をふまえた、アメリカにしか生まれない人間タイプがミステリの主人公に選ばれる条件が熟した。ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスとダシール・ハメットのコンティネンタル・オプ。彼らは、ポーの探偵風に自分の国のことを恥じ、蔑んでいるが、そこに居住せざるをえない人物だ。

 二人の作家は、作品世界も主張も気質もすべて異なるが、共通するところは一点、第一次世界大戦の影だ。ヴァン・ダインにとって、大戦はアメリカがイギリスの文化的植民地から脱するための好機でありながら、戦時体制による抑圧は悪夢にも似たものだった。もう少し年少のハメットは従軍世代に属していた。

 《アメリカの百万長者の死体が発見されたという書き出しで始まる探偵小説は、寒心に耐えぬことであるが、すでに百をくだらない》というのは、チェスタトンのブラウン神父シリーズの一作の書き出しだ。この一編を含む第三短編集『ブラウン神父の不信』1926 (福田恒存、中村保男訳 創元推理文庫)は、ヴァン・ダインのデビュー作と同じ年に刊行された。いかにも底意地の悪い皮肉だ。これを枕に作者は、三人のアメリカ人の大富豪が殺される話を始めるのだから。

 おそらくこうしたイギリス人の身勝手なユーモア(要するに、帝国主義者特有の優越意識)を前にすると、ヴアン・ダインは身震いするくらいに怒りをおぼえるタイプの人物だったのだろう。『ベンスン殺人事件』もまた、殺された百万長者によつて幕開けする物語だ。金ピカ時代のアメリカ資本主義の勇猛さは、一部の読み物に「百をくだらない」パターンを生み出していたらしい。ミステリのなかで殺されるのが通例の人間類型とは、現実世界では「殺しても死なない」タフな存在だったのだと思える。十九世紀のアメリカ労働運動史を少し調べれば、この種の資本家紳士録にも詳しくなる。ついでにいえば、『恐怖の谷』が描いた「未開の地」の冒険ロマンのでたらめさも見えてくるだろう。

 ヴァン・ダインには、美術評論家・雑誌編集者としてのキャリアがすでにある。二十代なかばで「スマート・セット」誌の編集長になったことが、彼の早めの一頂点だった。ペンネームにつけたS・Sは雑誌名からとった。彼はあれこれと気の多い人物で、第一次大戦前の文学的革新思想の洗礼を受けていた。モダニズム思想には何でも影響されるという後進国知識人の典型で、イギリス嫌いのドイツ贔屓だ。大戦下の抑圧・弾圧を受けて精神的災害をこうむった。ニーチェかぶれの半端なインテリにはずいぶんと生き難かったのだろう。

 彼が高名になってから記した自伝はわりと面白い読み物だ。大戦期の後、心労によって神経を病んで病床についていたと書いてある。知的刺激のある読書を禁じられたので、代用にミステリを読み始めた。すっかり病みつきになり、二千冊を読破した。この形式に実作をもって奉仕したいと思った、と。魅せられた魂の記録を綴る文体はなかなか感涙ものだった。

 死後半世紀して出た待望の伝記『エイリアス・S・S・ヴァン・ダイン』(未訳)後注は、このあたりの件が大嘘だったと暴いている。友人のあいだでは、ホラ吹きで通っていたらしい。二千冊読破、というのがご愛敬だ。病床にあったのは事実でも、病名は阿片中毒だ。ユーモアのかけらもない作風や「探偵小説二十のルール」から推して、自伝の自己申告を疑ってかかる理由はなかった。

 ヴァン・ダインはミステリの近代的確立をめざした。厳格なルール設定によって無駄なものを排する。ミステリはフェアプレイによって闘われる頭脳ゲームだ。作者は、手がかりをすべてさしだし、推理の過程も見せねばならない。探偵の下僕である警察は組織的かつ科学的捜査によって奉仕する。捜査チームの活動を重視したのも彼に始まる。一方、犯罪は芸術であるから、その解読・推理は選ばれた者たる探偵のみに可能な崇高な作業となる。小説はロマンではなく、推理ゲームの素材だという信念から、各章の頭に、日時、時間、場所を明記した。近代化確立こそ(彼の欲求にしたがえば)、後進国文化からの脱却の正道なのだった。

 もう一つ彼が定理とした要素は、ヒーローとしての探偵という観念だ。この点では、作者はニーチェ主義に忠誠を捧げた。探偵は超人である。「神は死んだ」のだからミステリ世界にあっても、神はいない。いるのは超人だ。このような極端な主張は、ヴァン・ダイン以前にはだれも公にしていない。探偵は、限定された作品世界にあって、オールマイティなのだ。ヒーローと作者は幸福な一致をみている。

 また、探偵の装飾物として度外れたペダンティズムも導入した。知識は力なりだった。超人探偵とペダンティズム。二つながらに、彼の理想としたミステリ近代化路線を大幅にはみ出す要素だった。

2024-04-10

1-2 S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』

 S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』The Bishop Murder Case 1929


 残念なことに、さまざまの理由が重なってか、ヴァン・ダインのテキストのおおかたは時代遅れのものとして敬して遠ざけられる傾向にある。よほどマニアックなミステリ原理主義者でも、ヴァン・ダインの再評価にたいしては慎重なようだ。彼は、ミステリ作家が命を削って書ける傑作は六作が限度だと表明し、じっさいはその倍の数を刊行したが、後期のものの出来映えは彼の言を証明してしまった(最後の作品は完成稿までいたっていない状態で残された)。

 三作目の『グリーン家殺人事件』1928と四作目の『僧正殺人事件』が名作リストに残される。



 もっともこの二作品が評価されるさいには、探偵が大間抜けに見える実例というマイナス点が付属する。これは超人探偵の創始者としてはあまり名誉なことではあるまい。名作という評価のみで読まれなくなる理由は、小説としての無味乾燥さにもある。これは、作者が自分のつくったルールに忠実に小説を読む悦びを排除してしまったからなのか、あるいはじっさいに眼高手低の書き手だったからなのか。自伝のような人を食った代物を後代につかませた作家が小説の腕がなまくらだったとも思えないのだが……。

 『グリーン家殺人事件』の、ゴシック調の古い館で連続殺人が起こるというパターンは古典的な原型だ。それ以上の積極評価が出ないのは、この型の後続する作品に優れたものが多いからであり、ヴァン・ダインの責任ではない。


 『僧正殺人事件』のアイデアは、その点、いまだに独創性を維持している。マザーグース見立て殺人、そして閉ざされた精神的共同体における異常な妄想の肥大。二十年代末という時点で、人間的モラルの欠如した物理学者をタイプとして呈示することは、充分に予言的だった。量子力学が何を人類にもたらせるかまだ定かでなかった時点で、こうした狂気を描き得たことは、作家の名誉に属するだろう。




主な翻訳

武田晃訳 改造社 1930、新樹社ぶらっく選書 1950
中村能三訳 新潮文庫 1959
井上勇訳 創元推理文庫 1959


鈴木幸夫訳 角川文庫 1961、 旺文社文庫 1976
平井呈一訳 講談社文庫 1976.12
宇野利泰訳 中央公論社 1977.9 
日暮雅通訳 集英社文庫 1999.5、創元推理文庫 2010.4


1-2 アール・D・ビガーズ『チャーリー・チャンの活躍』


 アール・D・ビガーズ『チャーリー・チャンの活躍』Charlie Chan Carries On 1930
Earl Derr Biggers(1884-1933)
佐倉潤吾訳 創元推理文庫 1963.8


 ヴァン・ダインと同時代で、彼の作品ほど重要ではないが、やはり忘れられつつある存在に、チャーリー・チャンのシリーズがある。ビガーズの登場は、ヴァン・ダインより一年早い。

 探偵役はホノルル警察に所属する中国人警部だ。作者が奇をてらったのは、東洋人をミステリに登場させた点のみだろう。チャン探偵は人好きのする常識人であり、中国系ハワイ系アメリカ人という個性を与えられていなければ、それほど魅力を放たなかった。

 世界周遊旅行の観光船で連続殺人が起こる。先陣を切って殺されるのは、やはりアメリカ人の大富豪である。ニューヨークから発してロンドン、パリ、ニース、サン・レ


モ、インド、シンガポール、香港、横浜、ホノルル、サンフランシスコという旅程だ。船による世界一周という時代色が何とも懐かしい。豪華観光船クルーズという形式なら現代でもつづいているが、ミステリ・ツアーの趣向にはもはや物珍しさを感じないだろう。これは、二十年代ならでは旅情ミステリなのだ。

 チャン探偵のシリーズは映画化も人気を博した。オリジナルは六編しかないが、それから離れて四十本近くがつくられた。



主要翻訳リスト

『鍵のない家』1925 小山内徹訳 芸術社 1957、 林たみお訳 論創社 2014.8
『シナの鸚鵡』1926 三沢直訳 早川書房HPB 1954.9
『カーテンの彼方』1928 西田政治訳 早川書房HPB 1955.4
『チャーリー・チャンの追跡』 乾信一郎訳 創元推理文庫 1972.2


『黒い駱駝』
1929 林たみお訳 論創社 2013.6
『チャーリー・チャンの活躍』 1930 佐倉潤吾訳 創元推理文庫 1963.8
 『観光船殺人事件』 大江専一訳 春秋社 1935
 『観光団殺人事件』 長谷川修二訳 雄鶏社 1950
 『チャーリー・張の活躍』 長谷川修二訳 早川書房HPB 1955.9
『チャーリー・チャン最後の事件』  文月なな訳 2008.11

『別冊宝石45』 1955.2ーー『鍵のない家』The House without a Key
五十本の蝋燭』 Fifty Candles 『黒い駱駝』 The Black Camel(後の二本は抄訳)


1-2 T・S・ストリブリング『カリブ諸島の手がかり』

 T・S・ストリブリング『カリブ諸島の手がかり』Clues of the Caribbees 1929
Thomas Sigismund Stribling(1881-1965)
倉坂鬼一郎訳  ‎ 国書刊行会  1997.5、河出文庫 2008.8

 イタリア系アメリカ人ポジオリ教授を名探偵役とするシリーズ。ヴァンス探偵の先行者もしくは同時代人として、やはりアメリカの地に足がついていない探偵類型に分類できるだろう。思考機械、アブナー伯父、チャーリー・チャンと同列に属する。ただストリブリングの作品には、独特の過剰な要素があって単純には割り切れない。比較のしようがないところがある。それは『カリブ諸島の手がかり』という短編集にかぎっての傾向ともいえる。

 過剰な要素とは何か。一つは、カリブ海域という舞台。もう一つは探偵がかいくぐる運命の質。舞台に関しては、植民地を扱った珍しい試みになっている。アメリカの歴史は植民地経営に関わってはいないが、事実上、植民地化した地域を有している。犯罪が植民地から流れこんでくるというホームズ的・イギリス風のパターンは採用されない。


ポジオリ探偵は現地に身を投じていく。「未開の土地」に身を投じることによって、もう一つの要素の、探偵の運命も決定される。最後の一編「ベナレスへの道」は不気味なテーマに直進していく。探偵の敗北、もしくは破滅だ。

 これはポジオリがさして名探偵ともいいがたい点とはあまり関係はない。彼は犯人の狡智に引き寄せられることを繰り返してきた。最後にはそして、犯人の手のひらで踊らされて終わる。

 一方で、ミステリの近代化が懸命に押し進められている時期に、名探偵の根底的な敗北の物語が書かれてしまったことには驚く。探偵の敗退とは、ミステリにおいて、ポストモダンのテーマだ。ただ作者は、この後もポジオリのシリーズを書き継いでいるいるから、「ベナレスへの道」のほうを、気まぐれな逸脱、番外編として例外視することもできる。じっさいそのほうが儀礼にかなったことかもしれない。


他の作品に

『ポジオリ教授の事件簿』1975 倉坂鬼一郎訳 翔泳社 1999.8

『ポジオリ教授の冒険』 霜島義明 河出書房新社 2008.11


1-3 番外 彼は五編しか書かなかった

 

 ハメットの長編は、他に三作。
『デイン家の呪い』『ガラスの鍵』『影なき男』。五編しか書かなかった。
 書けなかった。

The Dain Curse 1929
デイン家の呪 村上啓夫訳 日本出版協同 1953、 早川書房HPB 1956.2
デイン家の呪い 小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 2009.11

The Glass Key 1931
ガラスの鍵 砧一郎訳 早川書房HPB 1955.5
ガラスの鍵 大久保康雄訳 創元推理文庫 1960
ガラスの鍵 小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 1993.10
ガラスの鍵 池田真紀子訳 光文社古典新訳文庫2010.8


The Thin Man
 1934
影のない男 大門一男訳、『スタア』通巻15-16号、1934年
影なき男 砧一郎訳 雄鶏社おんどりみすてり 1950、早川書房HPB 1955
 (この版は完訳ではなく、一部省略がある。)
影なき男 小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 1991.9





1-3 ダシール・ハメット『赤い収穫』

 ダシール・ハメット『赤い収穫』Red Harvest 1929
ダシール・ハメット Samuel Dashiell Hammett(1894-1961)
赤い収穫 砧一郎訳 早川書房HPB 1953
血の収穫 田中西二郎訳 東京創元社 1956
血の収穫 能島武文訳 新潮文庫 1960
血の収穫 河野一郎訳 中公文庫 1977
血の収穫 田中小実昌訳 講談社文庫 1978
赤い収穫 小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 1989.9
血の収穫 田口俊樹訳 創元推理文庫 2019.5

 ハメットが短編を書き出したのは、ヴァン・ダインより早い。

 ハメットは先行して、探偵というヒーローのドラマをアメリカ社会において純化した。彼はニーチェの超人ファンだったからではなく、己れの内奥の苦悶から無名の男を創りだした。

 彼の描く初期の探偵像は、彼自身は気づかなかったろうが、ポー「群衆の人」の尾行者に最もよく似ている。ポーの病的な感覚と気味の悪い観察眼は、ハメットにはない。ハメットの短編では、ストーリーの必要から、尾行は長くつづかず、すぐに「犯罪のエッセンス」が現われる。探偵はいつもその只中に飛びこんでいく。トラブルの中心に身を置く以外に彼の在りようは許されない。

 こちらは、便宜的にハードボイルド派と呼ばれたアメリカ独自の型を代表することになる。文章のストイシズム、内面を描くことの拒絶、悪に囲まれた世界に立ち向かうヒロイズム。それらの顕著な性格は、やがてかっちりとした定型となっていく。ルールのために小説を型にはめようとしたヴァン・ダインとは逆に、リアルに努めようとした結果として新しい型を模索した。

 対照的な差異は、一つは、戦争の通過の仕方からきている。

 ヴアン・ダインはすでに知的成長を終わっていたが、九四年生まれのハメットはいわば戦中派として、無垢に戦争と向き合った。後にロスト・ジェネレーションと呼ばれる、戦争によって深く傷ついた世代、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、フォークナー、ドス・パソスらと同年代だ。

 ハメットの場合は、ヨーロッパの従軍体験よりも、自国でピンカートン探偵社の調査員〈オプ〉として体験したことが決定的だ。彼はそこで悪と向き合った。アメリカ社会がかかえるオリジナルな罪ともいうべき悪。そこに生まれた者は免れることのできない現実。そのリアルをとりわけ明敏に彼は受感せざるをえなかった。理由はごく簡単だ。彼もその悪の一人だったからだ。ホームズ物語がロマン的に題材化した流血の労働争議を、ハメットは、じっさいにスト破りの一員として体験していたのだろう。

 彼が組合潰しを悪だと理解したのは、マルクス主義を受け入れることによってではない。身体で知ったのだ。

 アメリカの「正義」がおびる混沌とした闇こそ、作家ハメットを育んだ真の試練だった。『赤い収穫』は、暴力のみによって動かされる社会のメカニズムを暴こうとした挑戦だ。ポイズンヴィルと呼ばれた、鉱山会社が所有する街に、作者は、アメリカ社会の縮図を幻視しようとした。あまりに暗く深い闇。

 ハメットのほとんどの作品は、パルプマガジンと称される粗悪な雑誌に載った。『赤い収穫』も連載小説だったが、単行本化を実現させるために作家自らが出版社に売り込みをせねばならなかった。

 主人公は暴力が支配する街の勢力均衡を崩そうと画策する。共存していたギャングと警察を互いに噛み合わすために様々の罠を張る。彼の行動は物語のなかでしか真実ではない。作家が加担したリアルな悪は物語の外に在った。現実は彼の手からこぼれ落ちた。ただ暴力を互いに衝突させてそれらを壊滅させるという物語の構造が、一つの強固な原型をつくった。物語のなかで暴力が浄化されるという図式は、以後、数え切れない暴力小説によって反復されていった。

 『赤い収穫』は、ハメットの白鳥の歌だった。人はこうした作品を何度も歌えるものではない。二十年代を通じて、彼は、コンティネンタル・オプという男が一人称で語る短編を書き継いでいった。語り手であり、ヒーローでもある男。この名前を持たない男は、犯罪の媒体であり、報告者だった。彼自身が加担した犯罪を暴こうとしたとき、彼はクラッシュした。燃え尽きた。物語は残ったが、それは、真実がそこに僅かしかこめられなかったという理由による。

 彼はその後、オプの語る一人称の物語を『デイン家の呪い』1929(早川書房HPB)しか書いていない。

1-3 ダシール・ハメット『マルタの鷹』

 ダシール・ハメット『マルタの鷹』The Maltese Falcon 1930

砧一郎訳 早川書房HPB 1954
田中西二郎訳 新潮文庫 1956
村上啓夫訳 創元推理文庫 1961.8 
石一郎訳 角川文庫 1963 
鳴海四郎 訳 筑摩書房 1970
小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 2012.9

 ハメットの長編は、『マルタの鷹』『ガラスの鍵』1931とつづく。いずれもまず雑誌連載の形を取った。連載の執筆はほとんど連続している。後の二編では、叙述は三人称一視点になっている。技法的には変わらないが、作家の手から「私」(=オプ)という主語がこぼれ落ちたことの意味は大きい。『マルタの鷹』の主人公は私立探偵、『ガラスの鍵』の主人公は流れ者のギャンブラー。

 私立探偵は、単独者であり、定在者だ。『マルタの鷹』は、ハメットの最も影響力の大きな作品となった。ヒーローにすえられた探偵サム・スペイドは、同僚を裏切り、愛した女を警察に売り渡す。己れを律する掟のみが彼を動かす行動原理だ。こうした明快な個人主義こそが大衆的に求められていたものだろう。ハメットはここで、私立探偵の物語の強固な原型をも創りだした。

 それは彼がオプの物語を書き止めてから起こったことだ。

 『マルタの鷹』の外形は、宝物捜しの冒険譚であり、個性の際立つ悪役たちが絡む裏切りと欺瞞の物語だ。探偵が勝利するのは、彼が一番の悪党だったという理由による。スペイドが一かけらの正義も体現していない点には救われる。だが『マルタの鷹』の原型の追随者たちは、逆に、悪党の探偵に正義の性格を分け与えることによって、型を継承したのだった。チャンドラーしかり、ガードナーしかり、である。

 『ガラスの鍵』では、ふたたび正義と悪についての、作者の実りのない模索が扱われている。部分的には優れたところはあっても、全体としては了解のつけにくい作品だ。最後の長編『影なき男』1934は、ハメットが背負っていた混沌をすべてそぎ落としたような平明な作品だ。『マルタの鷹』にはまだ残されていた悪への傾斜も、どこかに消し飛んでいた。以降、ハメットの沈黙が始まった。事実上、作家として終わったのだ。

 『影なき男』は大成功をおさめ、映画化のシリーズとなった。沈黙の要因が多大な商業的成功によるものかどうかは断言しがたい。作家をバニッシング・ポイントに追いつめたものがあるとすれば、それはすでにオプ物語の方法に内在していた。

 『赤い収穫』の、ギャングたちが死に絶えたならず者の街に恒久的な平和は訪れたか。『マルタの鷹』の探偵は宝物を見つけられないし、愛する女を殺人犯として警察に引き渡すことでやっと自分の保身をはかる。『ガラスの鍵』のギャンブラーは傭い主にたいして意地を通してみせるが、己れがけちなやくざであることは変えられない。

 彼は勧善懲悪の物語をつくれなかったが、それは大衆読み物作家としてのハメットの限界ではない。正義と悪とが常に相対的でしかないアメリカ社会の本質に根ざす。どこまでもハメットは誠実であった。

 彼の才能ある弟子が、彼の沈黙と入れ替わるように登場した。チャンドラーが彼の完成できなかった文学形式を整備した。男の美学、都市と向き合う単独者の視点、社会悪との対決図式が、それにあたる。

 一九二〇年代は、現代の大衆社会状況が出揃った時期だとされている。革命ロシアのアヴァンギャルド芸術、ワイマール共和国の表現主義、フランスのシュールレアリズム。モダニズムの饗宴はいっせいに花咲いた感がある。それらと同時代に、アメリカにも自前のアメリカン・ミステリがもたらされた。発明された原型の価値については、後につづいた膨大な作品によって自ずと証明される。それらに払った先行者たちの犠牲にも注意は向けられるべきだろう。


2024-04-09

1-4 H・P・ラヴクラフト「インスマウスの影」

 H・P・ラヴクラフト「インスマウスの影」1931(『ラヴクラフト全集1』大西尹明訳 S)


 ラヴクラフトはアメリカの奥地にひっそりと生息していた。ハメットとは別領域の低級雑誌に書き、生前の刊行本は一冊しかない。死後にわたってカルト的な盛名をなした。アメリカン・ゴシックの原理主義が彼の名のもとに輝いている。

 アメリカの西部開拓、領土拡張とゴシック的恐怖は、メダルの表裏だ。フロンティア・ラインが拡張されるほど、未知の恐怖の領域は増大していく。ラヴクラフトはアメリカの古くからの領土である東北部に生まれ住み、ほとんど隠遁者の生活をおくった。具体的には開拓地など知らなかったわけだが、未開の恐怖は彼の内部のイマジネーションに醸成されていた。


 彼の名は、たんなるホラー作家にとどまらず、彼の創造したクトゥルー神話体系と呼ばれる世界観のマスターとして崇められている。その影響力はポーよりずっと狭くローカルだが、その狭い部分にたいしては深く、侵犯的だ。彼の描く恐怖は、その大仰できめの粗い散文にもかかわらず、コズミックな感覚を掘り起こす。恐怖は折にふれて感じる意識ではない。本性に根ざす宇宙的な感覚なのだ。恐怖によって、ただそれだけによって人は外界とつながっている。喜怒哀楽がふつうの人間が日常的に持つ外界への反応だとすれば、ラヴクラフトにとっては、恐怖がその上位にある本質的で全身的な感覚だった。こうした感受性は、一般には、成人の現実感とはみなされない。

 太古の宇宙には、善神と悪神とに対立した異様な生命体が存在した。今日の人類を脅かす怪物は悪神たちの配下だ。彼らは、大地、深海、星間、森林、極地、睡眠などの領域を支配して、人間に厄禍をもたらす。クトゥルー神話体系とは、悪神たちの名簿であり、その恐怖の目録だ。今風に配列しなおせば、アドベンチャー・ゲームのルールにもなるだろう。彼の死後は弟子たちが体系の保全と整備に努めた。

 他に、「クトゥルーの呼び声」1926、「ダンウィッチの怪」1929、「闇に囁くもの」1930、「狂気の山脈にて」1936、「時間からの影」1936などの作品がある。

 彼は活動期を通じてアウトサイダーでありつづけたが、作品は宇宙的ともいえる生命を保っている。

2 黄金時代

 

 大恐慌によってそのスタートを区切られる時代。戦争の終わりまでの十五年間が、ミステリの最も豊かな果実を産する日々となる。

 世界は現在にも増して不均等だったが、経済恐慌は全世界に伝播した。第一次大戦の戦後処理の失敗が次の大戦を不可避にしたという歴史解釈は有力だ。一部の国では、急進右翼が政治的勝利をおさめ、ファシズム体制を強化していった。左翼勢力が全般に弱体化していく流れにあって、アメリカは例外だった。

 革命的左翼はアメリカ社会を変えるほどの力を一度も持たなかったが、社会全体は左翼的行動に同伴していた。アメリカ民主主義の良質的な部分は伝統を形成していった。国際共産主義運動の致命的な誤謬の影響は免れなかったにしろ、赤い十年と呼ばれる歳月は、何の矛盾もなく対ファシズム戦争につながっていった。

 ニューディール主義による経済復興は一つの神話だ。相対的な孤立主義を守り、アメリカは国内問題を最優先させた。広い国土、豊かな資源は、「海の向こうの戦争」を戦うためのスーパー・パワーを充分すぎるほどに保証していた。

 文化の爛熟はそのささやかなエピソードの一つだ。

2-1 エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』

 エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』The Egyptian Cross Mystery 1932

エラリー・クイーン Ellery Queen ーー
 フレデリック・ダネイ Frederic Dannay(1905-82)
 マンフレッド・リー Manfred Lee(1905-71)

『エヂプト十字架の秘密』 伴大矩訳 日本公論社 1934
『エジプト十字架の秘密』 田中西二郎訳 新潮文庫 1958
『エジプト十字架の秘密』 青田勝訳 早川書房HPB 1956      
       ハヤカワミステリ文庫 1978.4
『エジプト十字架の謎』 井上勇訳 創元推理文庫 1959
           新版 創元推理文庫 2009.1
          中村有希訳 創元推理文庫 2016.7
『エジプト十字架の秘密』  越前敏弥・佐藤桂訳 角川文庫 2013.9


 クイーンはヴァン・ダインの忠実な継承者として出立した。初期の国名シリーズは、作者と同名の青年探偵エラリーを配した都市小説としても読める。各章の章題に、日時、時刻、場所を厳格に呈示する方式も先人からの踏襲だ。クイーンはそこに、さらに「読者への挑戦状」を加えた。物語が読者との知的なゲームであることを強調するシグナルであるとともに、その素材を提供しえているという作者の絶大な自信をも示す。


 国名シリーズ十作は、中期の『ギリシャ棺の謎』1931、『エジプト十字架の謎』『アメリカ銃の謎』1933 あたりに頂点をつくったというのが定説だが、『チャイナ・オレンジの謎』1934や、短編も面白い。




  クイーンはジャンルの整備について多くのことをヴァン・ダインに学んだが、探偵役の設定については無造作だった。天才素人探偵のエラリー青年は、父親がニューヨーク市警の要職にあったので、ごく自然に警察の捜査チームの「顧問」格になることができた。警察が行なう徹底した物的証拠の収集の恩恵を受けることも当然だった。彼は「犯罪=芸術」説をひけらかすヴァンスのような鼻持ちならない精神貴族ではなく、どちらかといえば無個性の人物だった。ヒーローではない。物語の必要から探偵役にすえられただけの便宜的な人物に思えた。しかし本人に自覚のあるなしにかかわらず、ミステリにおける探偵はヒーローだ。ヒーローたらざるをえない。

 それは後年のクイーンが直面した「悲劇」の大きな因子だった。

 国名シリーズ第五作になる『エジプト十字架の謎』では、計四件の、T字型ポールに磔にされる首なし死体の連続殺人事件があつかわれる。ミステリにおける死体は現実の血腥さからは別次元に属するという典型がここにある。「顔のない死体」=本人とは判別できない死体。ここでは、人間はトリックの小道具以上の存在意義を持っていない。

 一件目の殺人はTづくしだ。道標にも、交差路にも、被害者の家の扉にも、Tの字があった。これこそエラリー趣味〈エラリアーナ〉の極致だと、作者は強調している。事件が主体で探偵はその付属物となる。だが探偵好みの異常な事件によって、彼の存在は保証される。これがクイーンの初期作品が備える基本構造だった。好みの事件に出会うことでヒーローはミステリのうちに自分の望む高位を得ることができた。ヒーローと物語世界とは幸福な一致をみていた。

 彼の出番はもっぱら、異様な殺人の論理的な解析のためにのみ要請されていた。T字の謎について探偵が最後にふるう長口舌はそこにかかる。解決編にある、《というのは、要するに、頭を切断したことには、別の解釈もありえたからです》に続く数ページのおしゃべりは、謎解き小説に特有の論理であり、そして不可欠の儀式だ。独自の様式を備えた言語システム。こうも言える、ああも言える。しかして、なぜこの解決が唯一無二の解決でなければならないか――。探偵はその言葉を語るための特権を持った存在だ。

 ミステリの近代化はクイーンという第二走者において決定的な完成をみた。より入り組んだ謎を、より巧緻なトリックを、より意外な犯人を、より水際立ったミスディレクションを、より華麗な謎解きを……。こうした目標は疑われることはなかった。達成は同時に、ミステリの黄金期の歴史をつくることでもあった。

 探偵〈ヒーロー〉と物語世界との幸福な一致は、クイーン作品において、高いレベルの謎解きミステリを産出しえた。二度と訪れない黄金の日々だった。


2-1 エラリー・クイーン『Yの悲劇』

 エラリー・クイーン『Yの悲劇』The Tragedy of Y 1932
バーナビイ・ロス『Yの悲劇』 井上良夫訳 春秋社 1937
『Yの悲劇』 井上良夫訳 新樹社ぶらっく選書 1950
『Yの悲劇』 大久保康雄訳 新潮文庫 1956
『Yの悲劇』 砧一郎訳 早川書房HPB 1957
『Yの悲劇』 鮎川信夫訳 創元推理文庫 1959
『Yの悲劇』 宇野利泰訳 中央公論社 1960
『Yの悲劇』 鎌田三平訳 集英社文庫 1998.1
『Yの悲劇』 越前敏弥訳 角川文庫 2010.9
『Yの悲劇』 中村有希訳 創元推理文庫 2022.8


エラリー・クイーン『Yの悲劇』  宇野利泰訳 世界推理名作全集9 中央公論社 1960.7
 この一冊、このシリーズ、この造本。
 この巻は、他に、「神の灯」「気ちがいパーティ」 「ひげのある女」「首つりアクロバット」
 思えば、すべてはここから始まった。
 129p ルイザの陳述 143p ヴァニラの匂い  168p 実験室の椅子を動かした跡  この三点から犯人は明らかであると直観してしまった。

 これを「何の悲劇」と称するべきか。
 『北米探偵小説論』増補決定版(インスクリプト)248p-258p参照



 一九三二年と三三年は、クイーンの最も充実した制作時期だった。もう一つの筆名を使って悲劇四部作も発表している。クイーンは合作ペンネームだから、二人二役となる。

 悲劇四部作の探偵役は、引退したシェイクスピア劇の俳優。事件は彼の晩年に起こる。彼はいわば四作のみで使い尽くされるヒーローだった。『Xの悲劇』1932、『Yの悲劇』は、クイーンの代表作であるだけでなく、古今の名作リストの上位にくる。この二作を前編として、『Zの悲劇』1933、『ドルリー・レーン最後の事件』1934は、レーン探偵の退場編となる。そこで描かれるのは、ヒーローの悲劇だ。彼は敗北するだけでなく、推理機械としての自らの特権をも解体されて、訣れを告げていく。前兆はすでに『Yの悲劇』に描かれていた。最後に演じられたのは、より念入りな悲劇の再演だった。


 それは早く提出されすぎた悲劇の予告とも考えうる。

 『Yの悲劇』は、憎悪渦巻く異常な一家の屋敷内で起こる連続殺人をめぐって展開する。その意味のみでいえば、『グリーン家殺人事件』を継承したオーソドックスな謎解きミステリの結構に収まっている。収まらない要素は、じょじょに姿を見せてくる。一は、一家の(死亡したはずの)一人がミステリの腹案を残していたこと。二は、その殺人プロットが意外な形で利用されたこと。三は、探偵がすべての真実を自らの胸に隠してしまったこと。これらは、『Yの悲劇』を『グリーン家殺人事件』をはるかにしのぐ傑作とするのに貢献している。しかし特に三の要素は、ミステリの原理にたいする重大な逸脱だった。のみならず、それはヒーローの悲劇を決定づけてしまう。彼は探偵であることの自己矛盾に突き当たる。ヒーローたりえない探偵とは、ミステリにおいて何者なのか。この問いを悲劇四部作は内側にかかえこむことになる。展望ある回答は見つけられそうもなかった。


 探偵の敗北という偏執的テーマは以来、クイーンの創作から離れなくなる。それは、エラリアーナを無邪気に信じることができていた青年エラリーにも、容赦なく取り憑いていくのだった。

 アメリカの重要な作家は、一般に早く朽ち果てるが、クイーンは例外的に長く安定した活動を残している。安定した、とは表面的な意味であって、苦悩はいくつかの作品に明瞭に表われている。息の長さは、彼の苦悩に抗う力の強さを示している。

 ハメットの悲劇は、いわばページの余白に浮かび上がってくる体裁のものだ。クイーンのそれは本文に刻まれている。

 彼の悲劇は「アメリカ人であること」に関わっている。アメリカでミステリ作家であることに、である。問題は多くのアメリカ作家に取り憑いて、彼らの意気を阻喪させていったが、ミステリ作家のケースでは、クイーンが初めてだろう。だれもその問題から免れる者はいないのだが、立ち向かう者、立ち向かえ得る者はきわめて稀なのだ。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...