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2024-03-28

3-2 ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』

 ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』 Last Seen Wearing... 1952
Hillary Waugh(1920-2008)
山本恭子訳 創元推理文庫 1960.11
法村里絵訳 創元推理文庫 2014.11

 警察小説のスタートは、ローレンス・トリート『被害者のV』1945(早川書房 HPB)による、というのが定説だ。
 路線の軌道はすぐさま敷かれていったのではなく、五十年代初頭の、ウォー、ウィリアム・マッギヴァーン、ベン・ベンスンらの登場まで、少し間があいた。変容はゆっくりとジャンルのうちに現われ、第二次大戦後数年にして結実をみたと考えられる。
 警察小説の大ざっぱな定義は、次の二点。
 一、組織的機構を通して、犯罪捜査を描く。
 二、主人公はその機構に属する複数の人物にふりわけられる。
 ミステリに組織的捜査活動が不可欠であるという原理は、ヴァン・ダインによって呈示された。クイーンが強力にそれを受け継いだ。そこでは、警察はあくまで探偵の支配下にある従属機関にとどまる。

 ミステリのヒーローが単独者からチームに移行していく場面は、ガードナーのペリイ・メイスンものに顕著に見られた。また探偵役をコンビ、もしくはトリオとして民主的にふりわける選択も、フェアやライス作品などで常態のものとなる。孤立者の栄光は、チャンドラー派の矜持でもあったが、そこから外れる設定もハードボイルド領域の射程に入ってきた。

 パズル派にしろ、チャンドラー派にしろ、警察への侮蔑や敵視という点では、奇妙に一致していた。私立探偵には、間抜けな警察・不正の巣たる警察という組織体が、自分の引き立て役として必要だった。空想的なゲーム小説の空間であろうと、リアルな現実の描破を努めようと、警察の定位置は変わらなかった。ヴァン・ダインは科学捜査にたいする公平な評価をミステリに導入するルールをつくった。しかし小説内での組織捜査員にたいしては、脇役として位置づけるほか、あまり愛情は注がなくてもいいと主張した。

 ミステリへのチーム・ヒーローの登場は、アメリカ民主制勝利の賜物とも解釈できるが、じっさいはもう少し複雑な要因が組み合わされているだろう。マッギヴァーンの悪徳警官ものなどは、チャンドラー世界の副産物のようにも思われる。

 『失踪当時の服装は』も、警察機構の組織的捜査とグループ主人公という要素を備えていたが、むしろ読み所は謎解き興味にある。もう一つの特徴は、警察署を都会ではなく、地方の小さな都市に置いた点だ。十代の少女の失踪から始まる。彼女は消えたのか、殺されたのか、誘拐されたのか。警察小説という外枠は取りながらも、ハードボイルド派に連なる社会批判の要素は抑えられている。

 戦後のミステリと黄金時代を分ける特徴の一つは多様化だ。ウォーの世界には、単独のヒーローもいないし、都市の考現学もない。主眼である謎解きを担当するのは、組織に属する平凡な男たちだ。語り口はドキュメンタリズムに徹し、淡々と進んでいく。事件もどちらかといえば地味だ。こうした傾向の現われは、何より支持層の多様化を示している。


2024-02-18

3-2 ミッキー・スピレーン『裁くのは俺だ』

 ミッキー・スピレーン『裁くのは俺だ』 I, the Jury 1947
Mickey Spillane(1918-2006)
中田耕治訳 早川書房HPB1953.11 ハヤカワミステリ文庫1976.5

 スピレーンの諸作をミステリ社会化の例示とするのは若干の限界がある。彼は一部の社会階層しか代表していない。だが彼の一面性もまた、戦後アメリカ社会の質的転換の忠実な反映だ。戦後初期から五十年代前半にいたる時代の申し子と彼をみなしても不当とはいえないだろう。

 彼の作品の表象は暴力とエロチシズムの鮮烈さだ。とはいえ、暴力とエロス描写の露出度は、各時代の制限を受ける。今日の目で、スピレーンのサディズムとエロチシズムを測定すれば、刺激はごくささやかなものだ。時代性を割り引いても、彼の固有性は残る。それは何かといえば、単純な情念だ。


 彼のヒーロー(作者と一体化している)がやたらに四五口径のガンを撃ちまくるだけの男だったなら、彼の受けた支持はもう少し小規模だったろう。彼の美徳はその単純さにある。もちろんそれは最大の弱点であったが。

 アメリカの第二次大戦後の戦争証言文学は、第一次大戦後に比べて、スケールが小さいといわれる。平和時の祖国にもどった青年の疎外感と素朴な怒りは、スピレーンなどの通俗小説に転位していったとも考えられる。

 また彼以降のハードボイルド派は、正統派と通俗派との分類に神経質となった。スピレーンは一方の代名詞だ。正統にたいする反対語は異端だが、通俗派はもっぱら暴力とエロを売り物にして、異端視される価値もない。スピレーンの流行は社会現象であり、ハードボイルド派は彼によって堕落させられたわけではない、という解釈は一般的なものだ。それが一面的でしかないことはいうまでもあるまい。


 『裁くのは俺だ』は、戦友の死から始まる。彼を無残に射殺した犯人を捜し当て、復讐しなければならない。そして俺が裁く。俺が俺が俺が裁くのだ。法廷というシステムはまったく想定されていない。いちおう容疑者は何人かいるので、作者が犯人当て興味も作品に盛りこもうと努めたことは了解できる。しかし法廷は彼の頭にはいっさいない。ヒーローは私的に正義を体現し、彼こそが法律なのだ。――これがアメリカの民主主義の伝統だった。伝統は必要とされたとき発見される。

 俺が裁かずして誰が裁く?

 単純粗暴さを正当化するものは、戦後の平和な社会に戦争体験者(元従軍兵士)がいだく違和感の大きさだ。私闘はつづく。敵がいなければ見つけるまでだ。


 彼は言う。《俺は物のけじめをつける男だ。その野郎が罪を犯した男だと認めたら、その男は死ぬんだぜ。たとえ証明できなくたって、とにかくそいつの息の根は止まってしまうんだ》

 この言葉は、現アメリカ大統領ブッシュの口から発されたとしても不思議のない発言だ。ブッシュは、サダムにけじめをつけさせたが、大量破壊兵器は見つからなかった。

 鎮まらない暴力志向が、時の冷戦の潮流と結びついていくのに特別の理由はいらなかった。単純な美徳をそこなうことなしに、彼は反共の闘士に変身していく。たしかにそれもまた社会化ミステリの一側面だった。戦友を無惨に殺した卑劣漢もモスクワの手先の共産主義者〈コミー〉も同じだ。難しく考えることはない。公共の敵〈パブリック・エネミー〉であり、民主主義の敵だ。バンバン。俺が、俺の四五口径が裁いてやる。

 第一作『裁くのは俺だ』から第四作の反共小説『寂しい夜の出来事』1951(早川書房 ハヤカワ・ミステリ)へと、作者はなんら変わったわけではない。かといって彼の反共主義が時代の風潮に迎合した結果だとも断言しにくい。彼の怒りにみちた個人主義は、アメリカ社会を覆った画一的全体主義とまったく矛盾しない。リンチも私闘もアメリカ民主主義の根幹にある情動だ。人びとが狂気をもって反共主義に走ったとするのは、誤った歴史認識だ。

 正義こそ理性である。冷戦時代にその原理は後戻りできない勢いで確定した。アメリカは国際社会をリードする大国に押し上げられた。さらには、共産主義国家圏を現状以上に拡大させないための聖なる義務もアメリカに押しつけられてきた。正義の行使は、そうした環境の飛躍的な拡大に応じて、いっそう単純な原理を必要としていった。

 スピレーンの流行は、時代に求められた潮流のなかでも中心をなすものだった。それはまたミステリが社会化した結果の雄弁な症例でもある。


2024-02-12

3-2 エド・マクベイン『警官嫌い』

 エド・マクベイン『警官嫌い』Cop Hater 1956
Ed McBain(1926-2005)
井上一夫訳 早川書房HPB1959.12 ハヤカワミステリ文庫1976.4

 マクベインが警察小説に参画したのは、むしろ遅かったが、やがて最も安定したこのジャンルの供給者となる。87分署シリーズは、警察小説の代名詞となるほどに普及し、半世紀近くになる歴史と五十一作の作品を持っている。

 舞台は架空の都市アイソラ。これはニューヨークとみなして誤差はない。都市小説、グループ主人公、組織的捜査のドキュメントという要素を組み合わせた。それにプラスして、マクベインはもう一つ重要な要素をつけ加える。

 人種だ。シリーズの常連刑事たちには、それぞれ独自の出自が与えられている。イタリア系、ユダヤ系、アフリカ系などが、うまく配されている。警察社会がとりわけ、人種のるつぼを呈していることは、充分に警察小説を成り立たせる背景だったはずだ。その取り入れは、マクベインが早かったし、よりスマートな出来映えを誇ってもいる。

 マクベインは人種を主な素材としたミステリの先駆者とはいえない。マイノリティは社会化されたミステリにとって無視しえない題材となっていた。ビル・S・バリンジャー『赤毛の男の妻』1956(創元推理文庫)、エド・レイシー『ゆがめられた昨日』1957(早川書房HPB)、マッギヴァーン『明日に賭ける』1957(早川書房HPB)などに、黒人刑事、黒人私立探偵が登場してきた。マクベインのうまさは、深刻におちいりがちな題材を、シリーズの群像のエピソードとして短くコンパクトに呈示するところにあった。刑事たちのさりげない日常がさしはさまれる。人種はそこにつけられたスパイスのようなものだった。

 『警官嫌い』は、警官ばかり狙った連続殺人事件をあつかう。『九尾の猫』の連続無差別殺人には隠れたリンクが秘められているわけだが、87分署シリーズ第一作の連続警官殺しにも一種の連続キーがある。作者は、ある古典謎解きミステリを(かなり明瞭に)置き換えることによって、キーを作製した。マクベインは、まったく新しい様式を問うたのではなく、古い価値を巧みにブレンドしてみせた。

 作者はこの人気シリーズに先立って、エヴァン・ハンター名義の非行少年もの『暴力教室』1954(早川書房HPB)を書いている。またアル中の私立探偵の短編シリーズ『酔いどれ探偵街を行く』1958(早川書房HPB)もある。ストーリー・テラーとして多種の傾向に対応していた。不良少年に投影された戦後世代の内面は、たとえばシリーズ第三作『麻薬密売人』1956(早川書房HPB)にも、印象的に描かれている。長いシリーズの全体が社会学的考察のユニークな対象となりつづけるだろう。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...