フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』Do Androids Dream of Electric Sheep? 1968
Philip K. Dick(1928-82)
浅倉久志訳 早川書房1969.6 ハヤカワSF文庫1977.3
核戦争後の地球は、放射能の残存する酸性雨によって、暗澹と包まれている。富裕な者はさっさと宇宙植民地に移住していく。地球に残るのは、スペシャルと呼ばれる障害者たち。そこに、植民地から脱出してきた人間型アンドロイドが逃げこむ。
冴えない朝をむかえた主人公は、アンドロイド・ハンター。人間そっくりの精巧さを備えたアンドロイドを狩り立てる賞金稼ぎだ。これはディックの最も構成に破綻のない長編だが、期待されるような、アンドロイドとハンターの闘いを描くスペース西部劇の爽快感は、ごく少なくしか発信してこない。彼の世界はハインラインSFの対極にあった。ブレイン・スナッチャーと闘うには敵への憎悪が必要だ。しかし彼は精巧きわまりないアンドロイドを前にして、自身のアイデンティティを激しく揺さぶられる。
彼の主人公は、他のすべてのディック作品とまったく同様に、一つの問いに取り憑かれている。――自分は何者なのだ。
あるいは。――自分は贋者ではないのか。という問いに。
この問いが鎮められることはない。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においてはもちろんのこと。彼の全生涯を通しても。
ディックは五〇年代SFに参入した異端児だった。彼のテーマは最初から一つだった。自己存在は模造=ダミー=コピーだというイメージ。あるいはそれは、世界が模造だという現われを取った。個か世界か、どちらかが非在だ。結果は同じことになる。――自分は何者なのだ。
ディックの独自性は、彼のような存在感のおびる恐怖が以前のSFやゴシック・ホラーに系譜を見つけられないことだ。二十世紀なかばの突然変異種だ。ペイパーバックに転移したカフカだ。彼が死後こうむった神格化のスケールに比べられるのは、ラヴクラフトのみだろう。
「贋者」1953、「変種第二号」1953、「パーキー・パットの日々」1963など『ベスト・オブ・P・K・ディック』(ハヤカワSF文庫)に収められた短編。『虚空の眼』1957(ハヤカワSF文庫)、『宇宙の操り人形』1957(ちくま文庫)、『時は乱れて』1959(ハヤカワSF文庫)、『火星のタイム・スリップ』1964(ハヤカワSF文庫)、『シミュラクラ』1964(サンリオSF文庫)、『最後から二番目の真実』1964(サンリオSF文庫)、『アルファ系衛星の氏族たち』1964(ハヤカワSF文庫)、『パーマー・エルドリッジの三つの聖痕』1965(ハヤカワSF文庫)、『逆まわりの世界』1967(ハヤカワSF文庫)、『ユービック』1969(ハヤカワSF文庫)などの長編は、すべて彼の取り憑かれた問いの切実なメッセージだ。
もう一つ付言しておけば、後代から見渡したとき、これらはその個人性と低俗性にもかかわらず(あるいは、その故にか)六〇年代という時代のカウンターカルチャーの記念品たりえている。