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2023-12-09

4-3 フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

 フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』Do Androids Dream of Electric Sheep? 1968
Philip K. Dick(1928-82)
浅倉久志訳 早川書房1969.6 ハヤカワSF文庫1977.3

 ディックの主人公は、ペットが飼われている屋上から飛行車〈ホバー・カー〉に乗って出勤する。局部を放射能から守る鉛製股袋〈コドピース〉を忘れず着けている。本物のペットを飼いたいのだが、彼の稼ぎでは無理だ。朝はうんざりするような夫婦喧嘩で明けた。今日の放射能降下量の予報はどうだったか。始まってくるのは、SF未来だ。

 核戦争後の地球は、放射能の残存する酸性雨によって、暗澹と包まれている。富裕な者はさっさと宇宙植民地に移住していく。地球に残るのは、スペシャルと呼ばれる障害者たち。そこに、植民地から脱出してきた人間型アンドロイドが逃げこむ。

 冴えない朝をむかえた主人公は、アンドロイド・ハンター。人間そっくりの精巧さを備えたアンドロイドを狩り立てる賞金稼ぎだ。これはディックの最も構成に破綻のない長編だが、期待されるような、アンドロイドとハンターの闘いを描くスペース西部劇の爽快感は、ごく少なくしか発信してこない。彼の世界はハインラインSFの対極にあった。ブレイン・スナッチャーと闘うには敵への憎悪が必要だ。しかし彼は精巧きわまりないアンドロイドを前にして、自身のアイデンティティを激しく揺さぶられる。

 彼の主人公は、他のすべてのディック作品とまったく同様に、一つの問いに取り憑かれている。

 ――自分は何者なのだ。

 あるいは。――自分は贋者ではないのか。という問いに。

 この問いが鎮められることはない。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においてはもちろんのこと。彼の全生涯を通しても。

 ディックは五〇年代SFに参入した異端児だった。彼のテーマは最初から一つだった。自己存在は模造=ダミー=コピーだというイメージ。あるいはそれは、世界が模造だという現われを取った。個か世界か、どちらかが非在だ。結果は同じことになる。――自分は何者なのだ。


 ディックの独自性は、彼のような存在感のおびる恐怖が以前のSFやゴシック・ホラーに系譜を見つけられないことだ。二十世紀なかばの突然変異種だ。ペイパーバックに転移したカフカだ。彼が死後こうむった神格化のスケールに比べられるのは、ラヴクラフトのみだろう。

 「贋者」1953、「変種第二号」1953、「パーキー・パットの日々」1963など『ベスト・オブ・P・K・ディック』(ハヤカワSF文庫)に収められた短編。『虚空の眼』1957(ハヤカワSF文庫)、『宇宙の操り人形』1957(ちくま文庫)、『時は乱れて』1959(ハヤカワSF文庫)、『火星のタイム・スリップ』1964(ハヤカワSF文庫)、『シミュラクラ』1964(サンリオSF文庫)、『最後から二番目の真実』1964(サンリオSF文庫)、『アルファ系衛星の氏族たち』1964(ハヤカワSF文庫)、『パーマー・エルドリッジの三つの聖痕』1965(ハヤカワSF文庫)、『逆まわりの世界』1967(ハヤカワSF文庫)、『ユービック』1969(ハヤカワSF文庫)などの長編は、すべて彼の取り憑かれた問いの切実なメッセージだ。

 もう一つ付言しておけば、後代から見渡したとき、これらはその個人性と低俗性にもかかわらず(あるいは、その故にか)六〇年代という時代のカウンターカルチャーの記念品たりえている。




2023-12-08

4-3 リチャード・ニーリィ『殺人症候群』

 リチャード・ニーリィ『殺人症候群』 The Walter Syndrome 1970
Richard Neely(1941-)
中村能三、森愼一訳 角川文庫1982.2、1998.9

 ニーリィの強烈な一編もまた、偽造された人格アイデンティティの物語だ。

 テーマは近似しているが、系譜は別になる。『狙った獣』『暗い鏡の中に』からつながってくる。異常心理、多重人格という題材が、ここでは方法的に追求されている。ニーリィにとって多重人格は叙述トリックの対象となった。明確な図式をあてはめることによって見事なテキストが出来上がった。一つのヒントは『彼の名は死』だったと推測される。

 「自分は何者なのか」という問いは、異常心理の問題でもあった。

 『殺人症候群』は三人の人物の視点で交互に語られる。主要なのは二人だ。三番目の人物は、便宜的に設定された説明役となる。また驚愕のラストの見届け人という役目も果たす。二人は、広告業界のセールスマンで同僚だ。ランバートとチャールズという。陰性と陽性、およそ対照的な性格の友人同士だった。

 物語は、書かれた時代より三十年前の一九三八年の話として設定されている。これは作品世界の根幹とも関わる。主人公たちの仕事は電話で商品の勧誘をするセールスマンだ。きっかけはランバートを馬鹿にした女をチャールズが殺したことだ。「俺にまかせておけ。何もかも俺が片づけてやる」。片方は殺人の悦びに傾いていき、もう一方は彼に依存し支配されたいと望むようになる。殺人はつづき、彼らは異様な興奮の深みにはまっていく。

 二人殺し、三人殺し、彼は犯行を宣伝する。死刑執行人を名乗る。手口は、若い女ばかり狙うセックス殺人だ。『殺人症候群』は、サイコ連続殺人鬼が残虐な犯行を重ね、死体をめった斬りに切り刻む様子まで踏みこんで描いた早い時期の作例となる。性行為の代償として犯される酸鼻な殺人。それは八〇年代から九〇年代にかけて、こぞってミステリの題材に流れこんだが、七〇年にはまだ珍しかった。

 加えてこの小説には驚愕のエンディングがあった。ラスト十ページほどのところで明かされる真実の衝撃はどっしりと重たい。技巧を弄した結末ではここまでの効果は望めない。トリッキィな叙述は、トリックのためのトリックではなく、テーマそのものから要請されたものだ。主人公二人が交替で語り役になるという方法によって、彼らの異常心理はより深い陰影をもって掘り下げられた。

 自分が何者か。彼が答えを得るとき同時に、彼の避けがたい破滅が来る。この小説の成功は、分身テーマの可能性をも拡大させたといえよう。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...