エラリー・クイーン『十日間の不思議』Ten Day's Wonder 1948
青田勝訳 早川書房HPB1959.2、ハヤカワミステリ文庫1976.4
越前敏弥訳 ハヤカワミステリ文庫2021.2
父親が母親を毒殺した少年時の記憶。それが彼を責め、やがては父親の罪を自分がくりかえすのではないかという予感に追いつめられる。この人物の像は、前作の「犯人」像の発展であるばかりでなく、戦後青年の世代的苦悩を投影したものでもある。父親の罪から逃れられない毒殺者という形であれ、彼は比較的早く描かれた戦後青年の典型であるだろう。
クイーンによってさらに深化されていく戦後世代の探究は、後にロス・マクドナルドに継承されていく。
『十日間の不思議』もその延長にある。主人公の青年ハワードは、部分的な記憶喪失者。記憶の欠けている時間に殺人を犯したかもしれないという怖れに囚われている。最初の設定は、ウールリッチなどに先例もあり、これ自体は特記するほどのものではない。物語は、限定された登場人物で構成される舞台劇のように進行する。主要な人物は、ハワードと探偵エラリーの他に、ハワードの父D(大富豪)、Dの若い妻、Dの弟の五人だけだ。
『十日間の不思議』は、戦後世代=「アメリカの息子」の物語だが、そのテーマは微妙にずらされている。テーマを担うのは、記憶喪失の青年ではなく、かえって探偵エラリーだ。またしても現われてくるのは、探偵のアイデンティティのドラマだ。初期のクイーンに潜在していた「探偵と犯人の争闘」は、かなり図式的に『十日間の不思議』を規定している。
犯人と探偵の闘争には、二つのレベルが考えられる。一は、「父ー息子」の関係。二は、「作者ー操られる人物」の関係。一は、国名シリーズにおいては、ずっと安定していた。青年探偵エラリーは父親を必要としていたが、父親はクイーン警視という脇役人物の形で存在したからだ。
二は、『Yの悲劇』の物語内でミステリを書く人物と、その筋書きに導かれる犯人という設定で現われてきた。両者の問題は、『十日間の不思議』のなかに合流した。探偵はそこで、操られる人物という側面を大きく露呈してくる。
さかのぼって、『エジプト十字架の謎』に強調されたようなエラリー好み〈エラリアーナ〉の「芸術的な犯罪」を考えてみよう。名探偵が己れの天才的頭脳にふさわしい難解で華麗な事件を求めるのは当然だった。それは小説の華であるとともに、名探偵の勲章でもあった。探偵は最終的には勝利者であっても、連続殺人を許すという意味では、物語の途上において敗北しつづけている。最後の勝利のみが彼の名誉を守る。だがこうした犯罪から名探偵という要素を取り去ってみるとどうなるか。「芸術的な犯罪」は、凡人には解決できないから迷宮入りとなり、たんに無意味な事件に変容してしまう。事件と探偵とは一体なのだ。どちらが欠けても存在の意味は喪われる。だが探偵は事件の主役ではない。解決編という「一部分」に関わるのみだから、極論すれば、他のパーツでは客体にすぎない。
探偵は事件に選ばれる。後期のクイーンはこうしたシチュエーションを多用することになるが、『十日間の不思議』はその始まりだった。エラリー好み〈エラリアーナ〉に犯罪をアレンジするのは犯人のほうだった(もちろん最初から事態はこうなのだが、作者が照明を当てなかったといえる)。探偵は犯人に操られたと感じる。また、その点について敗北宣言すら残している。「あなた(犯人)はこの僕を、僕自身以上によく知っていた」と。これはいっそう重苦しく閉じられた密室の心理劇だ。
おまけに作者は、この犯人(操る者)に父親性をも付与している。息子は父への反抗に失敗する。これはミステリにおけるヒーロー失墜の最も痛切な形ではないだろうか。その答えは、クイーンにおいては、二度と回復されなかったように思える。