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2023-11-07

5-5 ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』

 ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』The Minds of Billy Milligan 1981
Daniel Keyes(1927-2014)
堀内静子訳 早川書房 1992


 多重人格――解離性人格障害の症例は、ミラーの『狙った獣』やニーリイの『殺人症候群』などに部分的な姿を垣間見せた。ケースを報告した記録も、目にふれるようになった。キイスの作品も、基本的にはノンフィクションなのだが、二つの理由で、特筆される。一は、二十四の人格ステージを持つ典型的なケースが詳細に描かれていること。二は、作者のこのテーマにたいするモラルの深さ。

 すでにサイコ・ミステリ流行の時代の只中にあって、精神障害をかかえる者らは、重大な基本的人権侵害にさらされていた。「障害=サイコ=殺人鬼」といったお手軽な興味の的にされたのだ。

 簡略化すれば、人格障害は幼時に家族によって虐待、もしくはセクシャル・アビューズを強く受けることによって発現


してくる。虐待の現実に耐えかねる子供は、別次元に逃げる人格を仮想的につくって、適応しようとする。適応はうまくいっても、その人格が記憶のつながりすら切断して、自己のなかの「孤島」になってしまう場合がある。この点は、不当な無理解の時代を経過して、新たな社会的認知が生まれてきたといってよい。殺人鬼への好奇心だけが六〇年代以降、肥大してきたのではなかった。キングやクーンツなども、こうしたトラウマを、ごく自然に自分のホラー作品の素材として使っていた。

 ただ、このケースに理解の浅い者が興味本位の読み物に多重人格を利用すると、とんでもない造型が横行することになる。多重人格を巧みに演じた殺人犯が無罪をかちとる結末をセールスポイントにしただけのふざけた作品も出現した。これらを防止する手立てはない。「サイコ大衆化」の弊害も無視できなくなっていた。サイコ野郎が女性をモノ化して切り刻む小説にフェミニストが抗議するのは当然だった。であれば、障害ゆえにサイコ・キラーあつかいに白眼視された者たちの精神的災害も相当のものだったといえよう。

 キイスは『24人のビリー・ミリガン』を、《幼児虐待の犠牲者たち、とりわけ隠れた犠牲者たちへ……》捧げている。彼らの被害の甚大さを訴えることが、何より作者には肝要なのだった。

 キイスはまず、ビリー・ミリガンのなかに隠れ住む二十四人の人格ステージを、登場人物風に列挙することから語り始める。他人に知られていた十人。ミリガンは強姦事件の被疑者として裁判を受けていた。精神科医、弁護士、警察、メディアは、十人の交替人格を把握していた。その奥に、十三人の「好ましくない人格」がいる。物語でいえば、悪役だ。隠されていたのは、十人のうちのコントローラー的役割を持つ人格が、悪役を抑えこんでいたからだ。制御を喪ったとき、彼のなかに悪役が解き放たれてしまう。最後に控えるのは、教師と呼ばれる統合的な人格。彼には、自分のなかに断続的に現われては去っていった断片すべての記憶が蓄積されている。教師の案内によって、ミリガンの驚くべき物語は語られることが可能になった。

 教師はミリガンの人格分裂の統合として現われたわけではない。教師の出現によってミリガンの障害は完全に治癒したのではない。この点の説明は簡単には済まないので省略するが、念のため注記しておく。


 ミリガンの内面は複雑に物語化して、他者の関わらないところで善悪のキャラクターを生み出していった。物語は整理して語られたからこそ理解できる。その混沌のままでは、脅威であり、恐怖であるほかなかったろう。わたしという物語はここまで複雑化することはない。わたしのなかのわたしでないわたしを捜す旅に要した途方もない労力は、ミリガンとともに報告者のキイスによっても贖われた。

 重度の虐待体験者は生還者〈サヴァイヴァー〉と称される。キイスの作品にこめられたものは、生還への祈願だった。アメリカ社会での虐待件数の統計は、年間に三百万から四百万といわれている。社会の病理が弱い環に集中してくるとすれば、生還という言葉のはらむ意味は重い。アメリカの家族の一部は安全な環境ではなくなっている。


2023-11-05

5-5 ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』

 ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』Carrion Comfort 1989
Dan Simmons(1948-)
柿沼瑛子訳 ハヤカワミステリ文庫 1994.11


 『殺戮のチェスゲーム』は分類としてはモダンホラーになる。マインド・ヴァンパイア・テーマの短編「死は快楽」が発展して大長編に肥大した。テーマは引き継がれているが、展開はアクション小説になり、アクションのはざまに作者の誠実なモラルが埋めこまれるという不思議な作品だ。

 マインド・ヴァンパイアとは血を吸うように精神を吸い尽くし相手を支配下に置いてしまう怪物の新種。吸血鬼の「進化」種だ。五〇年代なら脳に寄生する異星人という形をとった。最近では、脳を外から操作するマインド・コントローラーと呼ばれるだろう。ホラーのルールでいけば、マインド吸血鬼になる。「死は快楽」が収録された現代吸血鬼アンソロジー『血も心も』1989(新潮文庫)の作品の半


数以上は、マインド吸血鬼ものだった。

 「死は快楽」は、ナチスの生き残りのヴァンパイア同士が人間どもを操って戦わせる話だ。そこから長編が接ぎ木されていくと、派手なアクションが息もつかせず連続する。植物化した吸血鬼が昏睡状態下でマインド・コントロール能力のパワーを最大限に発揮する場面などは出色だ。何人かの善玉が出てくるが、暴力は外に現われる見せかけの力だという作品のテーゼによるのか、途中で退場していく。最後にヒーローの位置を託されるのは、肉体的にはほとんど無力なユダヤ人の老人だ。彼に強制収容所の生き残りという要素を与えることによって、作者は、殺戮のチェスゲームの戦いが究極の暴力否定によって浄化されるというアピールを作品にこめた。


 この小説で「わたし」は外から犯され、乗っ取られる。その様相のみをとれば、五〇年代SFの変奏であって、新しさはない。しかし「わたし」を防衛するために、作者がヒーローに選ばせた行動は、その古さをカバーしうるヴィジョンに貫かれていた。

 無力な老人が超能力の怪物に勝利するという結末は、ホラー小説としてもいささか紋切り型に感じられる。作者はあえて野暮な終幕を選んだのだろう。外から乗っ取られた「わたし」を奪い返すのは、「わたし」の内的な治癒力にほかならない。それがこの物語に示された全的な生還〈サヴァイヴァル〉の内実だ。

 シモンズは、ホラーのみならず、『ハイペリオン』1989などのSFでも知られる。短編集として『愛死』1993(角川文庫)がある。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...