ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』The Minds of Billy Milligan 1981
Daniel Keyes(1927-2014)
堀内静子訳 早川書房 1992
すでにサイコ・ミステリ流行の時代の只中にあって、精神障害をかかえる者らは、重大な基本的人権侵害にさらされていた。「障害=サイコ=殺人鬼」といったお手軽な興味の的にされたのだ。
簡略化すれば、人格障害は幼時に家族によって虐待、もしくはセクシャル・アビューズを強く受けることによって発現
してくる。虐待の現実に耐えかねる子供は、別次元に逃げる人格を仮想的につくって、適応しようとする。適応はうまくいっても、その人格が記憶のつながりすら切断して、自己のなかの「孤島」になってしまう場合がある。この点は、不当な無理解の時代を経過して、新たな社会的認知が生まれてきたといってよい。殺人鬼への好奇心だけが六〇年代以降、肥大してきたのではなかった。キングやクーンツなども、こうしたトラウマを、ごく自然に自分のホラー作品の素材として使っていた。
ただ、このケースに理解の浅い者が興味本位の読み物に多重人格を利用すると、とんでもない造型が横行することになる。多重人格を巧みに演じた殺人犯が無罪をかちとる結末をセールスポイントにしただけのふざけた作品も出現した。これらを防止する手立てはない。「サイコ大衆化」の弊害も無視できなくなっていた。サイコ野郎が女性をモノ化して切り刻む小説にフェミニストが抗議するのは当然だった。であれば、障害ゆえにサイコ・キラーあつかいに白眼視された者たちの精神的災害も相当のものだったといえよう。
キイスは『24人のビリー・ミリガン』を、《幼児虐待の犠牲者たち、とりわけ隠れた犠牲者たちへ……》捧げている。彼らの被害の甚大さを訴えることが、何より作者には肝要なのだった。キイスはまず、ビリー・ミリガンのなかに隠れ住む二十四人の人格ステージを、登場人物風に列挙することから語り始める。他人に知られていた十人。ミリガンは強姦事件の被疑者として裁判を受けていた。精神科医、弁護士、警察、メディアは、十人の交替人格を把握していた。その奥に、十三人の「好ましくない人格」がいる。物語でいえば、悪役だ。隠されていたのは、十人のうちのコントローラー的役割を持つ人格が、悪役を抑えこんでいたからだ。制御を喪ったとき、彼のなかに悪役が解き放たれてしまう。最後に控えるのは、教師と呼ばれる統合的な人格。彼には、自分のなかに断続的に現われては去っていった断片すべての記憶が蓄積されている。教師の案内によって、ミリガンの驚くべき物語は語られることが可能になった。
教師はミリガンの人格分裂の統合として現われたわけではない。教師の出現によってミリガンの障害は完全に治癒したのではない。この点の説明は簡単には済まないので省略するが、念のため注記しておく。
ミリガンの内面は複雑に物語化して、他者の関わらないところで善悪のキャラクターを生み出していった。物語は整理して語られたからこそ理解できる。その混沌のままでは、脅威であり、恐怖であるほかなかったろう。わたしという物語はここまで複雑化することはない。わたしのなかのわたしでないわたしを捜す旅に要した途方もない労力は、ミリガンとともに報告者のキイスによっても贖われた。
重度の虐待体験者は生還者〈サヴァイヴァー〉と称される。キイスの作品にこめられたものは、生還への祈願だった。アメリカ社会での虐待件数の統計は、年間に三百万から四百万といわれている。社会の病理が弱い環に集中してくるとすれば、生還という言葉のはらむ意味は重い。アメリカの家族の一部は安全な環境ではなくなっている。