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2024-04-08

2-4 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』

 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』Phantom Lady 1942
William Irish、 コーネル・ウールリッチ Cornell Woolrich(1903-68)
黒沼健訳(宝石 1950.5) 早川書房HPB 1955.3
稲葉明雄訳(早川書房HPB 1975.6)ハヤカワミステリ文庫 1976.8
黒原敏行訳 ハヤカワミステリ文庫 2015.12

 ポー「群集の人」について、ワルター・ベンヤミンは「ミステリの骨組みだけが投げ出され、犯罪という肉体が欠けている」とコメントした。以来、数知れないミステリ作家たちが、「群集の人」に肉体を付与することになった。たとえばアイリッシュ。たとえばチャンドラー。

 『幻の女』は薄暮のロンドンをニューヨークに移した。病み上がりの夢想家のかわりに、若い感傷的な男。彼は妻と争って家を飛び出してきた。そして夜が終わると、妻を殺した容疑で逮捕される運命にあった。物語は、彼の死刑執行百五十日前から語りだされる。
 《夜はまだ若かった。彼も人生の何たるかを知らない。夜は甘く、しかし彼はくさっていた》
 書き出しの一行は、アイリッシュの散文家としての冴えを不朽に残している。後段の「But the night was sweet,and he was sour.」は、どう引っ繰り返しても日本語にならない。

 彼が出会う「群集の人」は若い女だ。オレンジ色のパラソルのような帽子をかぶった女。バーで会って、夜の時間を共にした。食事に出かけ、劇場でレヴューを見物した。女は言った。「これをかぶってるときは気をつけてね。何をするかわからないから」と。この言葉が深い意味を帯びていることに、やがて気づく。彼も、そして読者も。彼女は彼のネクタイに注意を向ける。コーデイネートしそこねたネクタイ。これも後で意味を放ってくる。何時間か後、彼は彼が服に合わせたはずのネクタイが妻の首に巻きついているのを発見することになる。

 彼らは一場のゲームを試みる。お互いに名乗らないでおこう、と。見知らぬ者同士で食事し、観劇し、そして別れる。他愛もないルールで夜のムードを高めたかった。別れの挨拶を済ませれば、お互い「群集の人」となる。それで終わるはずだった。

 捕らわれた彼は無実を証明できない。アリバイの証人が必要だ。女だけがそれをできる。女を捜さねばならない。死刑執行の日は迫ってくる。拘置された彼のかわりに友人が調査を引き受ける。二人がいたバーのバーテン、二人が乗ったタクシーの運転手、レストランのウェイター、劇場のドアマンと、聞き込みをするが、彼と一緒だったという女をだれも見ていないと言う。群集のなかから現われ消えていった女。痕跡を求めるが、ことごとく否定される。そんな女はいなかった。オレンジ色の帽子の女などいなかったと。

 幻の女だ。

 無実の人間が罰されるのか。物語はサスペンスを高めながら、常識的な結末も用意している。ハッピエンドの法則に従ったといえよう。ところが、驚くことに、作者は幻の女を「幻の女」のまま物語の外に弾き出している。女が現われて彼を解放するという解決は選ばれない。女は群集のなかに消えたままなのだ。だれもこの女の正体を知らない。名前すらも。作者は、ほんとうに知らないと白状している。女はこの物語に参加していない。捜されるだけの女。しかもその探索は成功しないのだ。

 ポーの「群集の人」の尾行者が自分の尾行の理由を把握できなかったのと同じだ。「幻の女」を捜し出すという目的を、アイリッシュの主人公は果たせなかった。その意味では、彼は主人公ではない。彼もまた物語から疎外される。犯罪は彼を取り巻く外側で起こった。彼は獄につながれ、死刑執行までのカレンダーをめくる進行係でしかない。

 サスペンスの古典に位置する作品の構造がこうした変則性にとらわれているのは奇妙に思える。これは形式の不整合にすぎないのだろうか。違う。幻の女が群集〈マルチチュード〉の彼方に消えたままなのは理にかなったことだ。なぜなら彼女の孤立〈ソリチュード〉は彼のそれでもあり、彼らの自由にはならないからだ。ミステリの法則のみでは説明できない物語の本質的要請に、作者は、身をゆだねたといえる。

 アイリッシュ、別名コーネル・ウールリッチは若くして、フィッツジェラルド風の都会小説で世に出た。何冊か書いたが、その本は彼に将来を与えなかった。成功に恵まれなかったのではなく、フィッツジェラルド風そのものが(本人の存在ともども)急速に時代遅れになっていた。ウールリッチはパルプ雑誌の短編ミステリ・ライターに転身した。彼の成功はそれ以降のものだ。スタイリストの名残りは、短編にも、もう少し後の長編にも認められた。『幻の女』の書き出しがそうであるように。

 『黒衣の花嫁』1940、『喪服のランデヴー』1943、『夜は千の目を持つ』1945などが代表作。また短編に、「私が死んだ夜」「午後三時」「妄執の影」「さらば、ニューヨーク」「爪」「裏窓」などがある。

 タイトルに黒を常用し、「黒の作家」と呼ばれた。『幻の女』のように、窮地におちいった人間の絶望的な孤立感を設定したサスペンスに独創を示した。破局の時が迫るとともに、孤立を歌い上げる感傷的なタッチも高まる。群集〈マルチチュード〉のなかの孤独〈ソリチュード〉が個人に強いる錯乱を見事に物語化した『幻の女』によって、作家は、二十世紀のミステリにふたたび原型的な力を注ぎこんだ。


2-4 レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』

 レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』 Farewell, My Lovely 1940
Raymond Chandler (1888-1959)
清水俊二訳 ハヤカワミステリ文庫 1976.4
(別冊宝石 1954.12 、 早川書房HPB 1956.3)
『さよなら、愛しい人』 村上春樹訳 早川書房 2009.4  
    ハヤカワミステリ文庫 2011.6



 幻の女が群集のヴェールをとおして現われて消えるという物語は、チャンドラーのケースでは、もう少し通俗的なドラマを借りて展開される。男は八年の刑務所暮らしを終えてもどってくる。女は消えている。場末の歌手という過去の女の痕跡はどこにもない。大鹿マロイとヴェルマの物語は、男の側からみれば一つの純愛ドラマだ。だが女のほうからすれば追いすがる過去の影でしかない。『幻の女』は捜される女の立場を描かなかったが、『さらば愛しき女よ』は、男と女とどちらの状況にも目配りした。二つの作品は、群集を通して「群集〈マルチチュード〉の女」が登場してくる点で、同じ本質を備えている。チャンドラーの物語のほうは、具体的である分、抽象度を見つけにくいかもしれない。

 マロイとヴェルマの物語の見届け人は、私立探偵フィリップ・マーロウ。チャンドラー小説は、「偉大なアメリカ探偵」の最も有力な神話でもあるから、従来は、マロイの純愛の顛末もサイド・エピソードの一つとして受け取られている。この点に、ささやかな修正をほどこしておこう。

 『さらば愛しき女よ』の冒頭、マーロウは大鹿マロイと出会う。六フィート五インチの、大型トラックのような男。暴力の臭いのする黒人居住区で自分の庭のようにふるまっている。マロイはポーの「群集の人」の語り手=尾行者にあたる。未知の男=幻の女を捜している。彼の探索は空しく失敗しつづける。作者は彼を語るにあたって、マーロウという全能のヒーローを注意深くフィルターに使った。愛しいヴェルマはいない。痕跡すらない。八年という歳月は、彼の主観とはうらはらに、途方もなく長い。彼はそのことを知るために、腕におぼえの黒人用心棒を、一撃で「蝶番のように」折り曲げてしまう。

 「群集の人」の尾行者は犯罪が始まる前に語りやめる。『さらば愛しき女よ』は、マロイを案内人に仕立てることによって、犯罪の街の闇の奥に潜行していく。行動者はマーロウだが、彼を導くのは大鹿マロイだ。大男の肉体に充填された一途な純愛だ。ヴェルマが体現する「犯罪」はそれと対置されることによって、いっそう輝きを増す。どちらも単独では輝かない。都市に無数に発生する犯罪の、裏と表を受け持つことによって、抽象性の高みに昇ることができる。二人のドラマが最高度に達するとき、さすがのマーロウも傍観者の位置に退く。見届け人に甘んじるしかない。

 すべてが終わった後、マーロウは不機嫌につぶやく。カリフォルニアの空ははるか遠くまで見渡せた。「けれど、ヴェルマの行ってしまったところまでは見えなかった」-but not as far as Velma had gone.

 幻の女は、チャンドラーの小説においては、具体的な名前を持ち、犯罪ドラマの輪を構成する要素となった。だが最後には、こうして抽象の高みに舞い上がった。彼女は最終的に自分の名前からも解放されたのだと読める。

 チャンドラーの称号はハードボイルド派の完成者として定まっている。これは、クイーンがヴァン・ダインを継承しながらヴァン・ダイン以上のジャンル史的重要性を与えられていることと、いくらか似ている。しかし観点をいくらかずらしてみるなら、チャンドラーが「偉大なアメリカ探偵〈ヒーロー〉物語」の最も強力な担い手だったことに気づく。彼はハメットの挫折や、クイーンの苦悩と試行錯誤とは無縁だった。ヒーロー神話を信じえた一貫性は作家としてのキャパシティの大きさとは関係ない。

 チャンドラーは中年過ぎて書き始めた。「ブラックマスク」に短編を発表したのは、偶然ながら、ハメットの沈黙と前後している。手本にしたハメットと交替するように活動を始めた。後発的な位置を生かし、己れの理想と人工的なミステリ世界をうまく調停することができた。彼の謎解きミステリへの敵意は有名なものだが、論争の論点となるリアルな現実との関わりは、後代からみればそれほど本質的とは思えない。ハードボイルドもまた現実の所産というより、ルールを整備した人工世界に映る。洗練に努めたのはチャンドラー自身だ。

 ハメットはアメリカの悪を物語に取りこもうと苦闘したが、それに破れた。同じ葛藤をチャンドラーも経験したかと問えば、答えは否定に傾く。彼にとって悪とは、外側にあるもの、ストーリーの素材になりうる事象だった。逆にいえば、悪を追求する作家には、正義の側に自分を引き寄せることが可能になる。こうした正義は「密室の死体」以上にリアルでありえるのだろうか。

 チャンドラーが受けた、いま一つの見落とせない称号に、後代からの文学的評価がある。都市小説の卓抜な書き手として認める評価は強力だ。文章家としての彼は、パルプ・ライター時代から独特の習練を積んだ。ウールリッチはスタイリストとしての才能をミステリに流用したが、チャンドラーは低級犯罪小説を自分の文章で再構成しながら独自のスタイルを開発していった。行動的人間の世界をストーリー化するにあたって、彼はハメットのようにもヘミングウェイのようにも書かなかった。またガードナーのように口述するスピードでは書かなかった。言葉を削ることもなく、流れこむ情緒を禁ずることもなかった。

 彼のヒーローは都市の一部だった。孤高はたいていは彼のポーズであったとしても、都市の一面に属することもできた。マーロウはロサンジェルスの街に現われた中世の騎士として自分を律した。彼はアメリカ小説に登場する、最も自己陶酔的な人物だが、彼が都市の一部であるという本質によってナルシズムは部分的(ある観点では、全面的)に救われている。

 騎士の物語としてチャンドラーの世界はむしろ古い伝統につながっている。ヒーローの全能を彼が演じ、彼が語る。それは彼が審判する世界でもある。伝統的な騎士の物語を、チャンドラーは一九四〇年代のアメリカに蘇生させたのだった。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...