ラベル

2023-12-28

3-4 ジム・トンプスン『内なる殺人者』

 ジム・トンプスン『内なる殺人者』 The Killer Inside Me 1952
Jim Thompson(1906-77)
村田勝彦訳 河出文庫 1990.11、2001.2
『おれの中の殺し屋』三川基好訳 扶桑社ミステリー文庫 2005.5

 トムプスンの場合も、伝説成立の事情は似通っている。こちらは作品紹介の内実が伴っている点が違う。十年ほど昔の邦訳点数はグーディスと変わりなかったが、最近、五点が追加されるほどの、再評価の勢いだ。フランスでの評判の後を追ったアメリカ本国での復活がきっかけとなった。それでも伝説が色褪せないところがこの作家の個性か。

 『現金に身体を張れ』1956でトンプスンのシナリオ協力をあおいだスタンリー・キューブリックなどは、彼のことを真正のバッドガイだと言っている。酒乱と粗野なふるまいは、創作世界のことだけではなかったのだろう。

 『内なる殺人者』は悪徳警官ものの早い時期の作品だが、そこに分類されることは少ない。この主人公は、悪事そのものによってよりも、悪事をなす内面の痛烈さで輝く。サイコ・ミステリの先駆け的な傾向が、同時代に並んでいる。マーガレット・ミラー、ヘレン・マクロイ、パトリシア・ハイスミス、ジョン・フランクリン・バーディン……。とりわけトンプスンの特別な位置は、まるごとサイコ野郎の話だという点だ。

 若い保安官補、見かけのナイスガイぶりを、間延びした愚鈍な南部なまりで隠しているが、そのもっと奥にはとんでもなく悪辣なサディストが潜んでいる。

 これはまさに二十世紀なかばのアメリカ語で書かれた『地下生活者の手記』だ。だがこの男は知性のかけらも持たず、内省などとは無縁だ。他人を痛めつけることにためらいはみせない。彼のモノローグは、ヒーローの一人称でありながら、他のミステリのヒロイズムとは通じない。タフガイはタフガイのごとく語れというチャンドラー的戒律は、スピレーンによってすら守られていた。トンプスンにとっては、タフガイの本質は変質者だ。しかも彼はそのことを隠さない。彼の語る物語はサイコ野郎の自慢話でさえある。

 彼が娼婦をぶちのめし、自らのキラーに目覚める場面は、最高に俗悪で、怖ろしい。現代の書き手のような丹念な残虐描写はむろん見られない。省略も多く、一定の検閲がはたらいてはいる。だが、ぶっきらぼうに積み重ねられる即物的な行動(殴る、蹴るなど)の平板さが、かえって息苦しさをもたらせる。特別の興奮もなく暴力を行使する男の内面〈インサイド〉は戦慄的だ。

 その上、話者は、キラーは、殺人の一件を早く報告したくてたまらないのだ。

 犯罪者(とくに殺人者)の自己顕示欲は常人の理解を超えている、とよくいわれる。彼らが、自分の行為を悔いたり反省したりすることは遂にない。彼らは、他人がその行為の「崇高さ」を知るべきだと独り決めする。誇らずにおれないのだ。

 行為そのものを語ろうと彼は焦る。《――心配するな、そのこと〈四字傍点〉もちゃんと話す。話したいんだ。起こったとおりのことをちゃんと》。これは、体裁通り読者に向かってのものではない。作者の「内なる殺人者」に向けての、文字通りの独白だ。

 しっかり眼をあけて「俺の」行為を明瞭に理解しろ。と、俺のなかに響く声。作者が奏でる深遠なエコーが、読む者にも乗り移ってくる。

 『内なる殺人者』『死の接吻』を隔てるものは、このエコーの有無だ。三人の令嬢を狙った殺人者は、たんに計画性のない道徳的失格者に映る。彼の犯罪は現実の延長にあるので、彼への嫌悪をもまた常識的なレベルにとどまる。トンプスンの主人公は、良識の彼方にいる。

2023-12-27

3-4 ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』

 ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』 The End of the Night 1960
John Dann MacDonald(1916-86)
吉田誠一訳 創元推理文庫 1963.10

 『夜の終り』は、ビート世代のジャンキー・グループが犯した強盗殺人を描いたノンフィクション風の犯罪小説。作者はたんにドキュルンタルなタッチを採用するのでなく、時制を組み替えたモンタージュを駆使している。弁護人の覚え書き、被害者に焦点を当てた客観記述、死刑を宣告された犯人の手記など。

 最初に置かれるのは、四人の犯人の絞首刑を執行した役人の自慢話だ。「大仕事だったぜ」。

 死刑から始まるこの物語は、彼らの犯行の本体を巧みに先送りにする。この卓抜な語り口に作者の力量はいかんなく発揮されている。トルーマン・カポーティ『冷血』1966(新潮文庫)の先駆ともいえるし、マンソン・ファミリーによる猟奇殺人を予見したともいえよう。

 マクドナルドはもう少し後に、『濃紺のさよなら』1963(早川書房HPB)に始まる、揉め事解決屋トラヴィス・マッギーのシリーズで人気を博する。他に、『呪われた者たち』1952(早川書房HPB)、『生き残った一人』1967(早川書房)、『コンドミニアム』1977(角川書店)、『ディベロッパー』1986(集英社)などのシリアス・タイプの作品がある。また初期に多作した短編のセレクションも見逃せない。

2023-12-26

3-5 ジャック・フィニイ『盗まれた街』

 ジャック・フィニイ『盗まれた街』The Body Snatchers 1955
Jack Finney(1911-95)
福島正美訳 早川書房1957.12、ハヤカワSF文庫1979.3、2007.9


 サイコ・ミステリの発祥は、「自分の中の自分でない自分」の発見を意味していた。トンプスン的な内なる本質の凝視とは異なり、自分ではコントロールできない自分を見つけることだ。それは、一方では、旧来からあるドッペルベンガーの方向に向かう。その点は、ひとまず置いて、外から来るコントローラーがいかに造型されたかを考察しよう。

 外から人格もしくは精神を操り動かされるという恐怖。これは冷戦によって生じた特有のイメージでもある。

 『盗まれた街』の原タイトルは「ボディ・スナッチャー」。侵略SFの古典として長い生命を持つ。

 五〇年代に、英米SFは、ミステリとは少し時期をずらせて、黄金期をむかえていた。二つの領域に共通したキーポイントは社会化だ。ミステリに警察小説が根づいていくことにみられた社会意識の拡大は、SFの小説世界にも同様に起こっていた。その最も明確な現われが、異星人の侵略を手を変え品を変えて題材とする侵略ものの流行だった。


 エドガー・パングボーン『オブザーバーの鏡』1954、ポール・アンダーソン『脳波』1954、フレドリック・ブラウン『火星人ゴーホーム』1955など。

 大戦前とは別の意味で、世界は二分された。対抗する共産主義国家は異星人〈エイリアン〉にたとえられる。ファシストとの闘いよりも、苛酷なイメージが大衆化していた。これは敵側の強大さよりもむしろ、アメリカが対共産主義の第一線に立たされた状況を反映するだろう。同盟国はあっても、アメリカは冷戦の最前線に踊り出ていた。SFの設定で、前線が国内に求められるのも当然のことだった。国内のふつうのアメリカ人の脳を襲う侵略。



 『盗まれた街』の異種生命体は、巨大な豆のサヤの形態を持っている。それは大気のなかに産み落とされ、人間の肉体を模倣して成長を遂げていく。「奴らは水分を吸収して人間の形になる」。人間の肉体の多くの割合は水分から成っているからだ。

 肉体をコピーして、人間に成り代わる。コピーされた人間もどきが一つの地域を乗っ取る。一つの地域が済めば、別の地域へ。このようにして異星人の侵略がじょじょに拡がっていく。こうした被侵略のイメージは、数多くの小説や映画で反復されてきたので、ごく親しい風景のように刷りこまれている。操られた人間もどきとは、最もポピュラーなエイリアンの姿ではないだろうか。


2023-12-25

3-5 ロバート・ハインライン『人形つかい』

 ロバート・ハインライン『人形つかい』The Puppet Masters 1951
Robert Anson Heinlein(1907-88)
石川信夫訳 元々社1956.4 
福島正実訳 早川書房世界SF全集1971.1、ハヤカワSF文庫1976.12 2005.12

 侵略テーマのもう一つの傑作『人形つかい』は、いっそうの憎悪と恐怖をこめて、侵略者を造型している。異星人は灰色がかった半透明の生命体。形はナメクジそっくりだ。知性は? こんな生物に知性があるのだろうか。作者は再三、強調する。こんな生き物には知性があってはならない、と。

 そいつらは寄生虫なのだ。人間の背中に貼り着いて人間をコントロールする。人形つかい〈パペット・マスター〉だ。貼り着かれた人間は「人形」になる。魂も自分の意志も持たない人形、これもまた人間もどきの発展イメージだろう。ハインラインは侵略者と乗っ取られた者の姿をとりわけ醜悪に描くことによって、侵略テーマのイデオロギー的責務を明らかにしたといえる。


 彼の反共十字軍的体質はスピレーン以上に強固なものだった。侵略者はより醜怪に、侵略者と闘うヒーローはよりヒロイックに。冷戦小説とは、ハインラインにとって、愛国者の自衛戦争を描く一大スペース・オペラでもあった。「二〇〇七年」、任務を持った秘密捜査官が地球を救うために立ち上がる。彼らの闘いは「自衛する民主主義」というアメリカの伝統にきっちり連なっている。冷戦期を彩るスペース・カーボーイの物語には、一片の矛盾もみられない。敵をロシア人とか、共産主義者とか特定するよりも、寄生虫のイメージで通すほうが、カーボーイの愛国心を鼓舞するのに都合が良かった。

2023-12-24

3-5 リチャード・コンドン『影なき狙撃者』

 リチャード・コンドン『影なき狙撃者』The Manchurian Candidate 1959
Richard Condon(1915-96)
佐和誠訳 ハヤカワミステリ文庫 2002.12

 コピーによる人間乗っ取り、寄生による脳の操り。それが代表的な侵略SFの危機イメージだった。共通するのは、外からの侵入という因子だ。現実的な危機として取りざたされたのは、もう少し直接的な事象だった。洗脳、ブレイン・ウォッシングだ。外部からの攻撃を受けるという点では同じだが、これは想像の出来事ではなかった。

 アメリカは革命中国を喪った。連続した朝鮮戦争は、新生中国を倒すための代理戦争の意味をも持たされた。朝鮮戦争が政治レベルの休戦交渉の段階に入った五一年、中国・北朝鮮側は、アメリカによって細菌兵器が使用されたと抗議した。さまざまの物証が呈示されたが、この件において、定説となるような確定事項はない。論者の立場によって、使ったとも使ってないとも主張される。朝鮮戦争史をあつかうあらゆる言説がそうであるように、水掛け論が

ここでも展開された。中国側は、捕虜にしたアメリカ兵士に罪状を告白させた。証言した兵士は祖国にもどってから証言には圧力があったことを明らかにする(当然これにたいしてアメリカ政府の圧力があったとするコメントも発生した)。ここで洗脳という言葉がにわかに脚光を浴びたのだった。

 用例の一つ――。洗脳されたアメリカ兵が「自分は細菌爆弾投下に従事した」と告白した。

 これは共産主義の非人道性を攻撃する論拠になることが多い。シベリアに抑留された旧日本軍兵士が数年して故国に帰されたさいにも、同じ用語が使われた。洗脳とは、当初、共産主義思想を注入して個人の「思想改造」を試みることを指した。ナメクジ状生命体の寄生による脳コントロールというハインラインのイメージは、洗脳「される側」のおぞましさをよく表わしている。後に『人形つかい』は映画化されて、『ブレイン・スナッチャー』と改題された。脳に取り憑くのだから、こちらの語感のほうが近いだろう。

 『影なき狙撃者』は、洗脳の諸影響をあつかった作品として(事実がどれほど取りこまれたかはさておいて)異色だ。ポリティカル・サスペンスとしてもかなり先駆的だろう。

 戦争で捕虜となった兵士が複雑なメカニズムの洗脳を施されてアメリカにもどってくる。スパイ小説におなじみのスリーパー・エージェントに近い存在。彼の脳にセットされた謀略を軸にストーリーは転がっていく。脳に施されたのは、正確には、後催眠だ。組みこまれた暗号がある配列を取ると、一定の指令として伝わる。しかし、あえて作者は、洗脳も催眠術も意識的に混同させて使っているように思える。

 それだけなら怪しげな謀略小説に終わったところだ。『影なき狙撃者』の効用は、マッカーシーイズムについて、大胆な解釈を試みたところにある。赤狩りはしばしばジョゼフ・マッカーシー議員の個性に引きつけて語られすぎている。小説は、彼をモデルにした人物を登場させて、そこに二点のフィクションを加えた。一は、彼を大統領候補に仕立てたこと。二は、候補の妻(名前はエリノア。F・D・ルーズヴェルトのファースト・レディと同じだ)に隠れたコントローラーの役割を振ったこと。彼女はアメリカのビッグ・ママだ。彼は妻の意のままに操られていた、というわけだ。

 マッカーシー的人物のほうが「操られた人形」だったとする解釈はスリリングだ。マッカーシー議員が用いたデマゴギーの低俗さや彼の個人的な性向の破廉恥さは名高いものだった。現実の上院議員は悪名を残した道化役だが、小説中の大統領候補は道化そのものだ。

 候補が暗殺のターゲットだと明らかになることによって、小説は別の深みを与えられた。兵士も候補も、ともにビッグ・ママの支配下にあることは疑いない。もしかすると、兵士が敵の洗脳にあっさりしてやられたのは、マザコンという決定的な弱みをかかえていたからではないか。いや、本当にそうだ。ところが標的になった候補はもともと妻に操られるだけの実体のない人物だった。

 兵士は(もし仮に)洗脳から自由になったとしても、信心深いアメリカン・マザーからは自由になれないだろう。こうした確信をもたらせるところなど、『影なき狙撃者』という小説は、妙に「予言」にみちている。現職アメリカ大統領と彼のママ(二代前のファースト・レディだ)との結びつきの強さを連想させる。

2023-12-23

3-6 ハリー・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」

 ハリー・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」The Nine Mile Walk 1947.4
Harry Kemelman(1908-96)
『九マイルは遠すぎる』永井淳、深町眞理子訳 早川書房HPB1971.9 ハヤカワミステリ文庫1976.7

 短編ミステリの書き手は、比較的、時代の変化をこうむらずに地歩を残している。ここで立ち止まって、彼らのリストを少しまとめておこう。


 短編ミステリこそミステリの真髄であると感じさせる作家は少なくない。ケメルマンもその一人だ。ニッキイ・ウェルト教授を探偵役とする安楽椅子探偵シリーズのスタートは戦後すぐのことだった。純粋論理を駆使することによって、机上の解決を読ませる。八編をまとめて同名の短編集が刊行されるまで、二十年を要している。

 一冊になった本の序文で、作者は、創作法の一端を明かした。ウェルトものが教室で生まれたと言っている。キーになったのは新聞の見出しだった。「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」という文章。これをもとに短編を書くのに十四年かかったと。まことに「遠すぎる九マイル」の道のりだったというべきか。


 作者はこれを作文の授業の風景だったと書いているが、創作クラスの秘密を語っているような雰囲気もある。探偵が語る論理の筋道と、作者が表明する創作への長い道程は、当然のことながら、軌を一にしている。推理するごとく書かねばならない、というのが作者の信条なのだろう。

2023-12-22

3-6 ジェイムズ・ヤッフェ「ママは何でも知っている」

 ジェイムズ・ヤッフェ「ママは何でも知っている」Mom Knows Best 1952 (Mom, The Detective 1968)
James Yaffe(1927-2017)
小尾扶佐訳 早川書房HPB1977.3 ハヤカワミステリ文庫2015.6


 ヤッフェは、十五歳のとき初めて書いた短編が、クイーンの編集するEQMMに当選する、という経歴の持ち主。同じ「クイーンの定員」出身者のケメルマンより二十歳若いが、デビューは先だ。一種の神童だったといえよう。

 ブロンクスのママ・シリーズを書き始めたのも、二十代の前半。こちらも安楽椅子探偵の短編シリーズだ。八編の短編集は日本語版のほうが先に発刊された。

 毎週金曜日に、刑事の息子が妻同伴で食事に来て、事件の話を語る。五十年配の未亡人ママが推理の解決編を与えるというパターンの短編だ。息子は妻の前で子供あつかいされて居心地悪くなり、インテリ妻はママに対抗しようとして逆にやりこめられる。場面はすべて食卓で進行する。


 安楽椅子というより食卓探偵の雰囲気だ。手作り料理の暖かさが推理の背後に流れ、コージー派の味わいも備えている。

 二十年のインターバルをあけて、同じ主人公で長編が書き継がれ、四冊を数えている。

 もう一人のEQMMの入選組は、ロバート・L・フィッシュ。第一作「アスコット・タイ事件」1960から、ホームズもののパロディを始めた。十二編が『シュロック・ホームズの冒険』1966として刊行された。計三十二編あり、三冊の短編集にまとめられている。

2023-12-21

3-6 スタンリー・エリン「特別料理」

 

スタンリー・エリン「特別料理」The Specialty of the House 1948.5
(Mystery Stories 1956)
Stanley Ellin(1916-86)
『特別料理』田中融二訳 早川書房 異色作家短編集2 1963.1、1974.9、2006.7
ハヤカワミステリ文庫 2015.5


 ヤッフェケメルマンフィッシュを「クイーンの定員」とするなら、エリンはさしずめ非定員かもしれない。異端というより、異色短編、「奇妙な味」と総称された短編。謎解きの論理過程を重んじた端正な短編とは違った、いわくいいがたい世界を切り取ってくる。

 エリンには二つの短編集『特別料理』1956と『九時から五時までの男』1964があるが、デビュー作の「特別料理」が特別に高名だ。その印象を短く尽くせば、ある短編の最後の一行がふさわしい。――人に厭われる仕事に就いている男が、その仕事を楽しんでいるかと訊かれて答える、《楽しまずにはいられないじゃないか》と。

 この上もなく残酷な人生の断片を切り開いてみせながら、


作家は楽しんでいるというのだ。楽しい仕事だとはとても思えないことを楽しいと言い切る。きわめて反語的に、だ。「特別料理」の奇妙な味も同じだ。楽しまずにはいられないではないか? 

 どれもが丹精をこめられた短編だ。凝縮された世界は単独作品として難解なものもあるが、それは、後に長編の書き手になってからのエリンの作品を関連づけてみると了解できる場合が多い。人好きのしない作家とはいえ、再読三読に値する。いや、三読しないと奇妙な味の深みに到達できないこともしばしばだ。

 『特別料理』に収められた「パーティの夜」は、ネヴァー・エンディングの強烈な輪に閉じられた話だ。舞台上で


何度もなんども同じ役を演じる役者の、ある夜のパーティの情景。さまざまな読み取りができるにしろ、こんな短い話にすら黒々とあけている人生の深淵を見ないで済ますのは難しい。一種のリドル・ストーリー(結末が冒頭につながる話)なのだが、もっと痛烈な隠し味もある。墜落感を伴った夢幻性は、エリンの一番の怪作『鏡よ、鏡』1972を思わせる。

 『九時から五時までの男』に収められた「ブレッシントン計画」は、老人問題への最終解決を提起したアイデア・ストーリー。同短編集の表題作「九時から五時までの男」は、奇抜な保険金詐欺を描いて不気味な余韻を残す。両者とも、晩年の人騒がせな人種差別小説『闇に踊れ!』1983(創元推理文庫)のゆがんだ情念に直結している。


 「特別料理」が暗示するにとどめたセクシャルな主題も、『鏡よ、鏡』にはほとんど前面に立ち現われてくる。

 短編ミステリの醍醐味にもいろいろある。「クイーンの定員」の書き手のものは、謎解きプロセスの結晶を見せてくれる。一口に「奇妙な味」派といっても、マイルドからビターまで幅はある。フレドリック・ブラウンなら、常識をくすぐり、さらりと裏返してみせる程度で済ます。エリンは、常識の隙間に背筋の震えるような風穴をこじ開けてみせる。その筆致は時には威嚇的なほど容赦ない。

2023-12-20

3-6 ロアルド・ダール『あなたに似た人』

 ロアルド・ダール『あなたに似た人』Someone Like You 1953
Roald Dahl(1916-90)
田村隆一訳 早川書房HPB1957.10 ハヤカワミステリ文庫2000
田口俊樹訳 ハヤカワミステリ文庫 2013.5


 戦後から六〇年代にかけて、「奇妙な味」派の最盛期があったといえよう。他には、チャールズ・ボーモント、デイヴィッド・イーリイ、ジャック・フィニイ、ロバート・ブロックなどの書き手がいた。

 なかでもエリンと双璧をつくるのは、ダールだ。ダールは、イギリス系アメリカ人で、本筋は童話作家だ。彼の短編も大人の童話を思わせるところがある。ダールの短編が時おり垣間見せる薄気味悪さは、「子供の時間」に属しているともいえる。

 『あなたに似た人』には、「南から来た男」をはじめ、ギャンブル小説に独自の輝きがある。賭博は人間性のキャパシティを不快な力で押し拡げる。熱狂にとらわ


れた賭博者の姿を、単純に狂気とは指定できない。一度ダールのペンに捉えられた妄想は狂気を超越した次元に羽ばたいていく。

 《いまでも私には、彼女の手がはっきり見える――その手は》……、という幕切れの鮮やかさ。この閃光のような戦慄は長く残るものだが、気がつくとそれほど不快なショックではないことがわかる。これがダールの童心だ。エリンと比べてみると、はるかに「安全」なのだ。

 ダールとよく似た異色短編のもう一人の書き手に、ジェラルド・カーシュがいる。同じイギリス系、ダールは元飛行士だったが、カーシュは元レスラー、用心棒などと職歴も多彩だ。荒唐無稽なホラ話に相通じるところがある。カーシュには「壜の中の手記」1957などの作品がある。短編集は、日本独自で編まれたものが二冊(晶文社)ある。



2023-12-18

3-7 ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』

 ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』 Through a Glass, Darkly 1950
Helen McCloy(1904-94)
高橋豊訳 早川書房1955.11、ハヤカワミステリ文庫1977.6 
駒月雅子訳 創元推理文庫2011.6

 自分の中から追放された自分の物語。十九世紀ロマン派の紋章でもあったドッペルゲンガーの物憂い夢は、ミステリとそれほど友好的な関係にあったわけではない。双子の替え玉というアイデアは比較的、トリックとの相性は良かった。けれど分身〈ダブル〉の出現は、論理的な構成という観点からみると、どうにも場違いにならざるをえなかったようだ。カーおよびカーの熱心な信者たちは、特別のこだわりをもって超常現象をミステリと合体させようとした。しかしその試みは、例外はあっても、装飾的な側面にかぎられていた。

 分身〈ダブル〉による殺人事件。容疑者も解決編の犯人も、どちらも分身〈ダブル〉。それは初めてマクロイによって描かれる。

 ダブルがダブルを殺す事件。

 これは、ポーの「ウィリアム・ウィルスン」の再生という一面もあるが、そこをさらに突き抜けた試みだといえる。

 同タイトルの短編版は二年先んじているが、基本形は同じだ。余韻たっぷりの思わせぶりで引き延ばされた長編版のラストは、読み手にさまざまの想像を膨らまさせる。だがトーンの変更はない。

 ドッペルゲンガー現象については、『暗い鏡の中に』にも、いくつかの可能性が考察されている。一は、容疑者がなんらかのトリックを弄して分身を出現させた。二は、無意識に夢遊状態の行動をした。三は、容疑者が分身の姿を空中に投影してみせた。この考察はミステリを進行させる手続きとしてなされる。

 容疑者は、計七回、分身を目撃される女教師。彼女は以前の職場でも同様の分身騒ぎを起こしていた。

 彼女は前半では容疑者として疑われ、後半では密室殺人の被害者となる。作者は、事件を現実らしくするために、実在のドッペルゲンガーの症例を引用する方法を手堅く取っている。そして物語内の事件はすっきり合理的に解決する。探偵役の精神科医が犯人を追いつめて真相を看破するというミステリに不可欠な場面は省略されていない。だが探偵は、引用の症例については解釈がつかないと強調する。二面作戦だが、神秘は神秘として、アンタッチャブルにするという配慮だろうか。

 《きみは勝手のわからない薄暗い部屋に入ったとき、見知らぬ人がきみに近づいてくるのを見たことがあるかね。……その見知らぬ人が鏡に写ったきみ自身であることに気づいた経験があるかね》

 だが合理的解決は、無数にある非合理な(小説のなかにおいてのみ可能な)解決のすべてを抜き去るほど特別のものではないことに、読者は気づく。これは解決編の説得力の問題ではない。合理を優先させるというミステリのルールそのものに内在する問題だろう。

 ともあれ、この小説には、暗い鏡の中に入っていったマクロイがまだそこから出てきていないのではないかという不審をいだかせるところがある。これはルイス・キャロル『鏡の国のアリス』1871(角川文庫)とミステリが交差するところに生ずる不協和音だ。マクロイはこの不協和音を鳴り響かせて、放置したようにすら思える。

 鏡は『三つの棺』では密室トリックの構成要素でもあった。その観点からいえば、『暗い鏡の中に』も密室トリックの変奏として受け取られている。分身〈ダブル〉イメージそのものは解決されていない。手つかずなのだ。

 鏡と分身イメージについては、マーガレット・ミラー『狙った獣』1955の冒頭に印象的なシーンが出てくる。ドッペルゲンガーを多重人格の方向から考察しようとする傾向がぼちぼちと生まれてきていた。サイコ・ミステリの兆しだ。マクロイの作品は、こうした予兆を強くまとったものだったが、充分な追求はなされないまま終わった。

2023-12-17

3-7 ビル・S・バリンジャー『歯と爪』

 ビル・S・バリンジャー『歯と爪』The Tooth and the Nail 1955
Bill S. Ballinger(1912-80)
森本清水訳 東京創元社クライム・クラブ 1959.8、
大久保康雄訳 創元推理文庫 1977.7

 もう一冊の分身小説。

 『歯と爪』はトリッキィなサスペンスとして名高いが、隠れたテーマは分身だ。挫折したドッペルゲンガーの話だ。作者の興味が分身を追うことよりも、分身テーマを描く技法にあったことは間違いない。

 プロローグでは、主人公の奇術師が紹介される。彼のなしたこと。一、復讐を遂げた。二、殺人犯人となった。三、自分も被害者となった。一人二役だ。復讐と殺人が区別されているところに注意すれば、一人三役となる。「被害者を捜せ」「犯人を捜せ」タイプの新種ということはわかる。


 作者はこれを、二種の叙述法によって処理する。一つの流れは、奇妙な殺人事件をめぐる裁判の記録。もう一つは、一人称で語られる恋愛ストーリー。客観叙述の裁判記録は時間軸を逆にたどり、一人称の物語は時間軸にしたがって進行する。交差する流れはどこかで合流をみると予想させる。

 二種の叙述と並行する時間進行とが、分身を可能にするキーだ。これは叙述トリックの技法としては、すでに教科書的ともいえる。F・ブラウン『彼の名は死』で、多数の人物に視点を分散することによって、エンディングの意外性を際立たせようとした。バリンジャーの技法は、並列ではなく、交差だ。二種の話が衝突してくるところに物語の焦点を置いた。一人三役の完成だ。


 さらに作者と版元は、この解決編を袋綴じにして、独創性をアピールした。書物の封印された末尾。これは「読者への挑戦状」以上に好奇心をかきたてるものだった。本そのものにトリッキィなオーラがまつわりついたともいえる。書物はもちろん、その書かれた内容のみで読者を捕らえるのではない。パッケージ全体が「書物」なのだ。袋綴じは、叙述の仕掛けをさらに強化するアイテムだった。


 こうした形式上のトリックも相まって『歯と爪』は歴史をつくった。


2023-12-16

3-7 ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』

 ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』Devil Take the Blue-Tail Fly 1948
John Franklin Bardin(1916-81)
浅羽莢子訳 翔泳社 1999.10、創元推理文庫 2010.12

 時代に先んじすぎた作品は、しばしば気の毒な軌跡を強いられる。『悪魔に食われろ青尾蠅』も異常心理を迫真的に追いつめる筆致によって、発表当時は不遇をかこった。マクロイやバリンジャーのケースにも明らかなように、サイコはまだ一編を満たすテーマとは意識されていなかった。バーディンは、認知されていない領域に正面突破をはかったとみなせる。

 話はヒロインが精神病院から退院する朝から始まる。ストーリーはひたすらこの女性の内面に粘着して進行していく。彼女のなかに現われてくるのは忌まわしい分身だ。過去に受けた家族からの虐待、記憶のひだにまつわりつく殺人。サイコ・ミステリの基本的な小道具はそろえられている。「青尾蠅」を歌う黒人霊歌が悪魔の声の代用としてヒロインに侵入してくる。

 彼女はハープシコード奏者だ。作品のなかには、クラシックを中心に多くの音楽が引用されている。それらはおおむねヒロインの内面の豊かさを映す。だが南部なまりの黒人が口ずさむフォーク・ブルースは別だった。それは混乱の引き金だ。「この男は何かが起きたことを知っている」と彼女は怖れる。黒人は彼女の機嫌を取るように、ギターの曲目をゴルドベルク変奏曲に変えてみせる。だが彼女は元にもどれない。突然の変調を語る場面も繊細な音楽を通して描かれる。作者の計算は、こうした細かい場面にも行き届いている。

 トンプスンが粗暴な加害者のモノローグによってなした貢献を、バーディンは被害者の物語を描くことによって果たした。どちらも、サイコものの先駆作だ。分身〈ダブル〉の発見という意味では、こちらがはるかに徹底している。

2023-12-15

4 もう一つの黄金時代

 4 もう一つの黄金時代

 六〇年代と七〇年代を連結して、その時代の文化事象をくくるのは乱暴な試みだ。高度経済成長の頂点と、豊かな社会を背景にした政治=文化運動の高揚。それらは六〇年代末によって区切られる。七〇年代は明白な退潮の季節だった。ドルショック、第一次オイルショックという出来事が並ぶ。経済情勢のかげりに先行して、時代意識の保守化は確実に始まっていた。解放の空気に馴れ親しんだ者にとっては、あたかも五〇年代の閉塞状況をリメイクした悪夢のごとき時代の再来とも映った。

 「偉大な社会」に向かった六〇年代の神話はいまだに記憶に鮮明だ。公民権運動の高まり、反戦運動の爆発のみでなく、文化革命の広範なエピソードに飾られた時代。

 連続よりも断絶をみるのが一般的だ。

 断絶は時代の大統領の個性によっても語られやすい。片や、暗殺されることによってさらにヒーロー伝説を華やかに飾ったケネディ。片や、不名誉なスキャンダルによって任期なかばに退場させられたニクソン。個性や政治作法の差はあっても、後者はあまりに、末代にまでわたって不人気だ。その「不愉快な」個性は、いかにも七〇年代にふさわしい陰険さだという気がする。

 しかし本書は歴史認識を主要に述べるものではないので、あえて連続面のみにしたがっておく。

 作品をふりかえってみると複雑な感慨が浮かぶ。輝かしかったはずの収穫は急速に古びてしまって、過去という額縁に収納されたように思える。時代そのものが、六〇年代も七〇年代もあえて区別しなくてもかまわないほどに、遠景に退いた。

 現在に生々しく連結してくる作品はすでにごく少ない。二つの本質的には異なる年代の差異はほとんど感じられなくなっている。

 もう一つの黄金時代でありながら、この時期の作品は明瞭な時代の顔を欠いている。さりとて時間の風化をのりこえる古典としての質を持ちえている作品は少ない。中途半端な古めかしさに居心地悪くなる。リストの選定がいくらかミステリの枠をはみ出しているのは、その理由からだ。

 これは一つに、こちらの立つ場所が目まぐるしく前のめりに「前進また前進」と駆り立てられていることにもよる。

2023-12-14

4-1 カート・ヴォネガット『母なる夜』

 カート・ヴォネガット『母なる夜』Mother Night 1961
Kurt Vonnegut(1922-2007)
池澤夏樹訳 白水社1973,飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫SF 1987.1


 第二次大戦後の戦争文学はリアリズム一辺倒に後退したという意見がある。その傾向が変容してくるのは、戦後もワンサイクル経過した後だった。

 『母なる夜』は、同じ作者の『スローターハウス5』1969(ハヤカワ文庫SF)に先行した、ブラックユーモアの戦争寓話だ。小説は、主人公の回想記の体裁を取る。彼は大戦中、ドイツに在ったアメリカのダブル・スパイだ。エルサレム旧市街の刑務所に捕らわれ、手記を執筆している。


 「生国からいえばアメリカ人、評判によればナチ、気質は無国籍」という人物。戦争犯罪人の格好のサンプルとして、自己分析のペンを取った。

 この小説がアイヒマン裁判から想を得ているのは明らかだ。ゲシュタポの高官アイヒマンは逃亡先のブラジルでイスラエル秘密警察によって狩り出された。全世界の注目する裁判の場で「自分は命令に従っただけで罪はない」と自己弁護したことでも名を残した。


 小説にも、アイヒマンは出てきて、主人公と滑稽な会話をかわす。アイヒマンは執筆について気にかけ、いくつかの助言を求める。「著作権のエージェントを使ったほうが有利なのかね?」

 短い断章のスタイルで手記は進む。テーマが帯びる深刻さとは、アイヒマンとの会話に如実なように、いっさい無縁だ。ヴォネガットのストーリー・テリングの達者さは、この作品で頂点をみせた。不景気な黒い笑い。底に沈むのは、にもかかわらず歴史への厳粛な想いだ。

2023-12-13

4-1 ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』

 ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』Catch-22 1961
Joseph Heller(1923-99)
飛田茂男訳 早川書房1969 ハヤカワミステリ文庫1977、2016

 『キャッチ=22』は、戦争に付随する腐敗と狂気と官僚主義とそれらいっさいの反復を描いた予言的な作品だ。少なくともこの小説が支持を得たとき、現実を映したものとは解されなかったろう。しかし、ほどなく現実の戦争が『キャッチ=22』に似てくる、という事態が起こった。

 ヘラーが描いた、戦争基地における正気と狂気の逆転、かぎりなく無意味に繰り返される爆撃作戦。などの事柄は、やがてヴェトナムで現実のものとなる。その意味で『キャッチ=22』は、未来社会の圧制を描いたジョージ・オーウェル『一九八四年』に並ぶ、強烈なシンボル性を備えた作品だ。

 小説の舞台は、第二次大戦末期、中部イタリアにあるアメリカ空軍基地。といちおうは指定されているが、ここを真に支配するものはキャッチ22と呼ばれる幻の軍規だ。公文書がすべての事実に優先し、秘密機関が暗躍し、権力者は私欲のために戦争をとことん利用する。

 兵士たちは、一定の出撃回数をクリアすれば除隊して帰国できるだろうと夢を持つ。ところが任務回数はいつの間にか増えていく。除隊の日など永遠に訪れそうもない。「気が狂っている」というキーワードは、物語のなかに無数に出没する。使われすぎて意味を喪っているともいえる。それは、正気だという意味でもあれば、たんに無感動だという意味でもある。あるいは言葉そのままの狂っているという意味でもある。


 『キャッチ=22』に現われる、異常なエピソードや常軌を逸した人物たちに目を奪われても、おそらくそれ自体は何も語っていない。それらの集積がつくる度をこしたドタバタ喜劇。あるいは、マイロ・マインダーバインダーとかメイジャー・メイジャー・メイジャー少佐〈メイジャー〉とかシャイスコプフ(この人物は三年で下士官から将軍にまで出世する)の命名。読む者は、この世界が永遠につづく悪夢的現実の模型であるかのような錯覚におちいるだろう。

 物語に終わりが訪れるのは不思議だが、今度は現実の戦争のほうが『キャッチ=22』を模倣してきたのだ。


2023-12-12

4-1 ケン・キージー『カッコーの巣の上で』

 ケン・キージー『カッコーの巣の上で』One Flew Over the Cuckoo's Nest 1962
Kenneth Elton Kesey(1935-2001)
岩元厳訳 冨山房1974、1996.6 白水社2014.7


 『カッコーの巣の上で』は、六〇年代に集中してくるアメリカ実存小説のなかで、とりわけ優れたものとはいえない。ただ寓話性の率直さでは上位にくるものだ。個と全体との対立は、ここでは精神病院内で自由を求める患者たちと病院体制との闘いに置き換えられている。病院は画一社会(コンバイン)とほぼ重なる。患者たちが善玉、病院の医師、看護士、看取は悪玉だ。反抗のリーダーになるのは、マクマーフィという赤毛の男だ。

 物語は患者の一人、ブロムデン酋長によって語られる。アメリカ先住民の彼は、善玉のなかでもアウトサイダーに位置する。出来事の正確な証言者になろうと努めているらしいが、時どきそう


できないことを自ら露呈してしまう。彼は自分の語ることが真実に相違ないという。だが、すぐそばから「起こっていないとしても」とつけ加えずにはおれない。

 彼は、他の患者と同様に間違って病院に監禁されている人物かもしれないが、じっさいに狂っていて、彼の語るすべての物語は狂人のゆがんだ主観に投影された出鱈目だという可能性もある。彼は、霧の中にある感覚を訴え、記憶に障害があるような記述も残す。彼の狂気が演技なの


か、真実なのか物語の受け取り手には判断のつかないところがある。

 狂気は精神病院が舞台であるこの物語においては日常化しているから、『キャッチ=22』のようにキーワードとして繁出してこない。正気と狂気の反転は、『キャッチ=22』のようには起こらない。この点は、『カッコーの巣の上で』の明快さだが、小説の深みに欠けるところにもなった。語り手は仲間の患者たちを三つに分ける。自由に歩きまわれるウォーカーズ、車椅子の必要なウィーラーズと、病状の深刻なヴェジタブルだ。


 キージーの寓意はむろん、この社会全体が精神病院化しているという訴えにある。しかしそうした率直さは、時代を離れてみると色褪せるのも早かった。ともあれ六〇年代そのものを感じさせる証言だ。

2023-12-11

4-2 ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』

 ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』The Wycherly Worman 1961
Ross Macdonald(1915-83)
小笠原豊樹訳 早川書房1962.12 ハヤカワミステリ文庫1976.4

 マクドナルドは戦後に活動したミステリ作家のうちで最も重要な一人だ。しかし彼の作家的頂点が六〇年代にかかっていることは、彼自身にとってそれほど幸運とはいえない。ミステリはふたたびの黄金期ともいえる活況をむかえていたが、他方では、新しいものを何も産んでいない。時代状況との距離は甚だしかった。安定した市民社会の陽の部分を反映していたわけだが、それは六〇年代の激しい文化革命とは隔たった場所だった。

 そうしたなかでマクドナルドは技法的完成を遂げる。探偵〈ヒーロー〉と社会との関係を定位する独特の語りは、彼以外の何者も成しえなかった深みに達する。だが作家が己れの世界を究めていったとき、時代は先へさきへと疾走していた。

 マクドナルドのジャンル的貢献は二点となる。一は、主人公としての探偵〈タフガイ〉の語りの手法を極限にまで高めたこと。二は、ハードボイルド派が追放したはずのトリック要素を貪欲にとりこんだこと。

 一については、「ハメット‐チャンドラー‐マクドナルド」スクールという系譜をたてる説を訂正しておいたほうがいい。たしかに都市小説の書き手としてチャンドラーとマクドナルドは傑出している。そのことは彼らの作品の「文学的価値」を示すが、作品世界の近似までは証明しない。チャンドラーはヒーローとしての探偵という小説世界を美しく完成した。追随者で彼を超えた者はいない。その部分では、マクドナルドは彼を継承していない。

 マクドナルドが新しくつけ加えたのは、全能の語り手という独特の技法だ。彼は語り手を他の登場人物とは異なる次元に置くことに成功した。探偵は存在するけれど、現存しない。彼は彼の語る事件のなかに「遍在」している。私〈アイ〉の行動は描かれても、彼はその世界で他の人物と同じ様にふるまっているのではない。探偵は、物語にたいしては全能者、描かれる事件にたいしては傍観者である、という二重性にいる。

 その複雑な位置は、『ウィチャリー家の女』のラストの犯人と対決する場面に典型的に描かれた。「魂に慈悲を乞う」犯人を前にして、探偵は、慈悲を乞うのは自分だと強く感じる。犯罪を犯したのは犯人でも、その犯罪世界は探偵の所有になる。事件はすべて探偵に属している(ここまで探偵存在を特権化した書き手は彼の他にいない)。

 探偵の人格についてマクドナルドはクイーン的問題に悩まされることはなかった。その点はチャンドラー主義の恩恵をこうむった。ヒーローとしての探偵の透明化、非在化。画面全体に貼られるシートのような人物に変えたのだ。

 だが題材としては、クイーンを継いだ側面が大きい。戦後青年の苦悩を描き、家族のなかの不幸な娘を描き、反抗する息子を描いた。どの事件も過去の土壌から滲み出してくる記憶に彩られていた。彼の最盛期の作品がどれもよく似た印象を持つのは、透明な探偵が絶対的に君臨しているからだ。事件はどれも同じ紋章になる。方法の完成によって、作家は少なくないマイナスも引き受けることを余儀なくされた。

 二については、『ウィチャリー家の女』の替え玉トリックを例にとれば、わかりやすい。仔細は省くが、リアリズムを是とする小説世界に「誰某に化けた(変装した)誰某」が登場すること自体、驚きだ。非現実性をものともせず、作家がこうしたシチュエーションを描き入れるのはなまなかのことではない。

2023-12-10

4-2 マーガレット・ミラー『見知らぬ者の墓』

 マーガレット・ミラー『見知らぬ者の墓』A Stranger in My Grave 1960
Margaret Millar(1915-94)
榊優子訳 創元推理文庫 1988.5

 ミラーマクドナルドは奇蹟の夫婦作家といえるだろう。
 いっけん似たところのない彼らの作品は、深い部分で共鳴し合っている。マクドナルドはシリーズ作品をずっと書きつづけたが、ハードボイルド・ヒーローの戒律にしたがうことによって、喪ったものは大きかったとも思える。作品はまったく異質でも、妻は夫が描きえなかった世界をより究めていったのではないか。ミラーのほうが息長く書きつづけたから、それだけ作家的容量は上だったと印象される。
 ミラーの後期の作品は、その意味で興味深い。マクドナルドが最後の作品を書いて以降の三作。「同行二人」で書いていたペースが崩れ、ミラー一人の執筆に切り替わった時期。『明日訪ねてくるがいい』1976(早川書房 ハヤカワ・ミステリ)、『ミランダ殺し』1979(創元推理文庫)、『マーメイド』1982(創元推理文庫)は、同じ私立探偵キャラクターを使ったシリーズだ。話はどれも失踪人捜しだが、微妙に作家夫婦の晩年を映し出しているようにも読める。

 とはいえミラーの代表作も、中期にあるとするのが定説だ。『見知らぬ者の墓』に始まり、『まるで天使のような』1962(ハヤカワ・ミステリ)、『心憑かれて』1964(創元推理文庫)と並ぶ。

 初期作品『眼の壁』1943(小学館文庫)、『鉄の門』1945(ハヤカワミステリ文庫)、『狙った獣』(この三作しか翻訳されていない)にあった、重苦しく強引なプロット運びは安定したものになっている。

 『見知らぬ者の墓』の発端には、自分の墓の夢を見るヒロインが出てくる。墓標の日付は四年前。彼女は混血の私立探偵に調査を依頼する。この私立探偵は調査人とはなるが、役柄も性格も蒙昧な人物で、むしろ狂言回しといったほうがいい。彼は自分が何者かよく知らない。『八月の光』のジョー・クリスマスに似た男だ。この作品は、マクドナルドの数少ない非シリーズ小説『ファーガスン事件』1960(ハヤカワミステリ文庫)との対応が顕著だ。どちらもメキシコ系アメリカ人の問題に踏みこんでいる。完成度はミラー作品が上だ。民族混血というフォークナー的な悲劇の根は、カリフォルニアにも存在する。それを凝視する力はミラーが勝っていた。

2023-12-09

4-3 フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

 フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』Do Androids Dream of Electric Sheep? 1968
Philip K. Dick(1928-82)
浅倉久志訳 早川書房1969.6 ハヤカワSF文庫1977.3

 ディックの主人公は、ペットが飼われている屋上から飛行車〈ホバー・カー〉に乗って出勤する。局部を放射能から守る鉛製股袋〈コドピース〉を忘れず着けている。本物のペットを飼いたいのだが、彼の稼ぎでは無理だ。朝はうんざりするような夫婦喧嘩で明けた。今日の放射能降下量の予報はどうだったか。始まってくるのは、SF未来だ。

 核戦争後の地球は、放射能の残存する酸性雨によって、暗澹と包まれている。富裕な者はさっさと宇宙植民地に移住していく。地球に残るのは、スペシャルと呼ばれる障害者たち。そこに、植民地から脱出してきた人間型アンドロイドが逃げこむ。

 冴えない朝をむかえた主人公は、アンドロイド・ハンター。人間そっくりの精巧さを備えたアンドロイドを狩り立てる賞金稼ぎだ。これはディックの最も構成に破綻のない長編だが、期待されるような、アンドロイドとハンターの闘いを描くスペース西部劇の爽快感は、ごく少なくしか発信してこない。彼の世界はハインラインSFの対極にあった。ブレイン・スナッチャーと闘うには敵への憎悪が必要だ。しかし彼は精巧きわまりないアンドロイドを前にして、自身のアイデンティティを激しく揺さぶられる。

 彼の主人公は、他のすべてのディック作品とまったく同様に、一つの問いに取り憑かれている。

 ――自分は何者なのだ。

 あるいは。――自分は贋者ではないのか。という問いに。

 この問いが鎮められることはない。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においてはもちろんのこと。彼の全生涯を通しても。

 ディックは五〇年代SFに参入した異端児だった。彼のテーマは最初から一つだった。自己存在は模造=ダミー=コピーだというイメージ。あるいはそれは、世界が模造だという現われを取った。個か世界か、どちらかが非在だ。結果は同じことになる。――自分は何者なのだ。


 ディックの独自性は、彼のような存在感のおびる恐怖が以前のSFやゴシック・ホラーに系譜を見つけられないことだ。二十世紀なかばの突然変異種だ。ペイパーバックに転移したカフカだ。彼が死後こうむった神格化のスケールに比べられるのは、ラヴクラフトのみだろう。

 「贋者」1953、「変種第二号」1953、「パーキー・パットの日々」1963など『ベスト・オブ・P・K・ディック』(ハヤカワSF文庫)に収められた短編。『虚空の眼』1957(ハヤカワSF文庫)、『宇宙の操り人形』1957(ちくま文庫)、『時は乱れて』1959(ハヤカワSF文庫)、『火星のタイム・スリップ』1964(ハヤカワSF文庫)、『シミュラクラ』1964(サンリオSF文庫)、『最後から二番目の真実』1964(サンリオSF文庫)、『アルファ系衛星の氏族たち』1964(ハヤカワSF文庫)、『パーマー・エルドリッジの三つの聖痕』1965(ハヤカワSF文庫)、『逆まわりの世界』1967(ハヤカワSF文庫)、『ユービック』1969(ハヤカワSF文庫)などの長編は、すべて彼の取り憑かれた問いの切実なメッセージだ。

 もう一つ付言しておけば、後代から見渡したとき、これらはその個人性と低俗性にもかかわらず(あるいは、その故にか)六〇年代という時代のカウンターカルチャーの記念品たりえている。




2023-12-08

4-3 リチャード・ニーリィ『殺人症候群』

 リチャード・ニーリィ『殺人症候群』 The Walter Syndrome 1970
Richard Neely(1941-)
中村能三、森愼一訳 角川文庫1982.2、1998.9

 ニーリィの強烈な一編もまた、偽造された人格アイデンティティの物語だ。

 テーマは近似しているが、系譜は別になる。『狙った獣』『暗い鏡の中に』からつながってくる。異常心理、多重人格という題材が、ここでは方法的に追求されている。ニーリィにとって多重人格は叙述トリックの対象となった。明確な図式をあてはめることによって見事なテキストが出来上がった。一つのヒントは『彼の名は死』だったと推測される。

 「自分は何者なのか」という問いは、異常心理の問題でもあった。

 『殺人症候群』は三人の人物の視点で交互に語られる。主要なのは二人だ。三番目の人物は、便宜的に設定された説明役となる。また驚愕のラストの見届け人という役目も果たす。二人は、広告業界のセールスマンで同僚だ。ランバートとチャールズという。陰性と陽性、およそ対照的な性格の友人同士だった。

 物語は、書かれた時代より三十年前の一九三八年の話として設定されている。これは作品世界の根幹とも関わる。主人公たちの仕事は電話で商品の勧誘をするセールスマンだ。きっかけはランバートを馬鹿にした女をチャールズが殺したことだ。「俺にまかせておけ。何もかも俺が片づけてやる」。片方は殺人の悦びに傾いていき、もう一方は彼に依存し支配されたいと望むようになる。殺人はつづき、彼らは異様な興奮の深みにはまっていく。

 二人殺し、三人殺し、彼は犯行を宣伝する。死刑執行人を名乗る。手口は、若い女ばかり狙うセックス殺人だ。『殺人症候群』は、サイコ連続殺人鬼が残虐な犯行を重ね、死体をめった斬りに切り刻む様子まで踏みこんで描いた早い時期の作例となる。性行為の代償として犯される酸鼻な殺人。それは八〇年代から九〇年代にかけて、こぞってミステリの題材に流れこんだが、七〇年にはまだ珍しかった。

 加えてこの小説には驚愕のエンディングがあった。ラスト十ページほどのところで明かされる真実の衝撃はどっしりと重たい。技巧を弄した結末ではここまでの効果は望めない。トリッキィな叙述は、トリックのためのトリックではなく、テーマそのものから要請されたものだ。主人公二人が交替で語り役になるという方法によって、彼らの異常心理はより深い陰影をもって掘り下げられた。

 自分が何者か。彼が答えを得るとき同時に、彼の避けがたい破滅が来る。この小説の成功は、分身テーマの可能性をも拡大させたといえよう。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...