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2024-03-31

3-1 エラリー・クイーン『十日間の不思議』

 エラリー・クイーン『十日間の不思議』Ten Day's Wonder 1948

青田勝訳 早川書房HPB1959.2、ハヤカワミステリ文庫1976.4
越前敏弥訳 ハヤカワミステリ文庫2021.2

 クイーンの戦後は、いわば神経症的な傾斜から幕開けする。それが突如として現われたものでないことは明らかだ。『フォックス家の殺人』1945は、ライツヴィルもの第二作になる。物語の舞台のみでなく、人物に負わされた状況も、『災厄の町』を引き継いでいる。主人公の青年は、戦争の華々しい英雄として故郷に帰ってくる。だが戦争体験は平和な生活への適応をむずかしくしている。

 父親が母親を毒殺した少年時の記憶。それが彼を責め、やがては父親の罪を自分がくりかえすのではないかという予感に追いつめられる。この人物の像は、前作の「犯人」像の発展であるばかりでなく、戦後青年の世代的苦悩を投影したものでもある。父親の罪から逃れられない毒殺者という形であれ、彼は比較的早く描かれた戦後青年の典型であるだろう。

 クイーンによってさらに深化されていく戦後世代の探究は、後にロス・マクドナルドに継承されていく。

 『十日間の不思議』もその延長にある。主人公の青年ハワードは、部分的な記憶喪失者。記憶の欠けている時間に殺人を犯したかもしれないという怖れに囚われている。最初の設定は、ウールリッチなどに先例もあり、これ自体は特記するほどのものではない。物語は、限定された登場人物で構成される舞台劇のように進行する。主要な人物は、ハワードと探偵エラリーの他に、ハワードの父D(大富豪)、Dの若い妻、Dの弟の五人だけだ。

 『十日間の不思議』は、戦後世代=「アメリカの息子」の物語だが、そのテーマは微妙にずらされている。テーマを担うのは、記憶喪失の青年ではなく、かえって探偵エラリーだ。またしても現われてくるのは、探偵のアイデンティティのドラマだ。初期のクイーンに潜在していた「探偵と犯人の争闘」は、かなり図式的に『十日間の不思議』を規定している。

 犯人と探偵の闘争には、二つのレベルが考えられる。一は、「父ー息子」の関係。二は、「作者ー操られる人物」の関係。一は、国名シリーズにおいては、ずっと安定していた。青年探偵エラリーは父親を必要としていたが、父親はクイーン警視という脇役人物の形で存在したからだ。

 二は、『Yの悲劇』の物語内でミステリを書く人物と、その筋書きに導かれる犯人という設定で現われてきた。両者の問題は、『十日間の不思議』のなかに合流した。探偵はそこで、操られる人物という側面を大きく露呈してくる。

 さかのぼって、『エジプト十字架の謎』に強調されたようなエラリー好み〈エラリアーナ〉の「芸術的な犯罪」を考えてみよう。名探偵が己れの天才的頭脳にふさわしい難解で華麗な事件を求めるのは当然だった。それは小説の華であるとともに、名探偵の勲章でもあった。探偵は最終的には勝利者であっても、連続殺人を許すという意味では、物語の途上において敗北しつづけている。最後の勝利のみが彼の名誉を守る。だがこうした犯罪から名探偵という要素を取り去ってみるとどうなるか。「芸術的な犯罪」は、凡人には解決できないから迷宮入りとなり、たんに無意味な事件に変容してしまう。事件と探偵とは一体なのだ。どちらが欠けても存在の意味は喪われる。だが探偵は事件の主役ではない。解決編という「一部分」に関わるのみだから、極論すれば、他のパーツでは客体にすぎない。

 探偵は事件に選ばれる。後期のクイーンはこうしたシチュエーションを多用することになるが、『十日間の不思議』はその始まりだった。エラリー好み〈エラリアーナ〉に犯罪をアレンジするのは犯人のほうだった(もちろん最初から事態はこうなのだが、作者が照明を当てなかったといえる)。探偵は犯人に操られたと感じる。また、その点について敗北宣言すら残している。「あなた(犯人)はこの僕を、僕自身以上によく知っていた」と。これはいっそう重苦しく閉じられた密室の心理劇だ。

 おまけに作者は、この犯人(操る者)に父親性をも付与している。息子は父への反抗に失敗する。これはミステリにおけるヒーロー失墜の最も痛切な形ではないだろうか。その答えは、クイーンにおいては、二度と回復されなかったように思える。

クロード・シャブロル『十日間の不思議』1971


2024-03-30

3-1 エラリー・クイーン『九尾の猫』

 エラリー・クイーン『九尾の猫』Cat of Many Tails 1949

Ellery Queenーーフレデリック・ダネイ(Frederic Dannay 1905-82)&マンフレッド・リー(Manfred Lee 1905-71)

村崎敏郎訳 早川書房HPB 1954.10
大庭忠男訳 ハヤカワミステリ文庫1978.7
越前敏弥訳 ハヤカワミステリ文庫2015.8

 『九尾の猫』はライツヴィル三部作につづき、作品テーマでもつながるが、舞台はニューヨークにもどっている。都市の、群集の人の物語だ。群集のなかに出没する連続絞殺魔。被害者を結びつけるパターンは見つけられない。無作為に、出鱈目に、犯人は犠牲者を選んでいるように映った。

 クイーンはこの作品で、作風を一転させるようにも、社会学的にテーマを押し拡げてみせた。それが術策であることは、後の部分になるほど明らかだ。九人の被害者から最終的に明らかにされる答えは、ある一つのリンクだ。思いもよらない事柄だが、そこに到ってクイーンのテーマの深刻さに打たれない者はいないだろう。かなりに視野を拡散させながらも、姿を現わすのは徹底的にクイーン好みの悲劇なのだった。


 その意味で『九尾の猫』に群集の発見という方向はない。都市の記号を読み取るという欲求は作者にはない。あえてそれに背を向けさせたのは、クイーンの偏奇的ともいえる、家族的悲劇へのこだわりだろう。大都会のなかで被害者が無関係に通り魔的に殺されていく事件の真相として、家族の絆という要素は突飛にも感じられる。それがクイーンの選択だった。

 『十日間の不思議』は「父親殺し」というテーマの挫折だったとも受け取れる。『九尾の猫』は同じものの反転だった。とまれ探偵エラリーの危機は、この作品では回避されている。いいかえれば「敗北する探偵」というテーマは不徹底のまま、未決の項目に棚上げされた。

 クイーンは間もなく、赤狩り時代への抗議をこめた寓話的ミステリ『ガラスの村』1954を発表する。


2024-03-29

3-1 パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』

パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』 My son, The Murderer 1954
Patrick Quentinーーリチャード・ウェッブ(Richard Wilson Webb 1901-70)&ヒュー・ウィーラー(Hugh Callingham Wheeler 1912-87) 1952年以降はウィーラー単独名義。大久保康雄訳 創元推理文庫 1961.9 1999.10


 クェンティンは夫婦探偵を主人公とするシリーズ(タイトルに「パズル」が冠される)で出発する。このシリーズは、ガードナーやライスやロックリッジ夫妻の作品とは雰囲気が異なる。夫婦の関係はそれほど盤石ではなく、不安定でやがては壊れていってしまう。作品世界が深化するにしたがって人物たちも成長する。成長が関係解消につながっていくところまでを作者は追いかけた。人間の結びつきの崩壊とは、別面では、新しい自分の発見でもある。クェンティンの持ち味は、崩壊とセットになった発見をドラマの基底に置くところにある。崩壊は作家のキャリアにあっては助走とも位置づけられる。

 アメリカの家族への信頼を訴えようとしたマガーの被害者捜しミステリは、一つの明快な方法だった。謎解きタイプの物語においては、人物の役割がトリックになりうる。


被害者を捜し、探偵を捜し、目撃者を捜すという変則の進行があぶり出してきたのは、家族の価値だった。後代の余裕をもってながめれば、テーマが初めにあって、それにふさわしい形式的工夫を捜し求めたということになろうか。崩壊という一面から家族を追求したクイーンの試みは、むしろ例外的だとみなせる。クェンティンにとっては、人物の役割は移ろうものだった。あえて被害者捜しを旗印にしなくても、彼の物語は、家族のなかの隠れた関係を解明するところに向かっていく。

 『女郎ぐも』1952(創元推理文庫)は、夫婦のシリーズ主人公の間柄が破綻するところから始まる。夫のほうが若い恋人を殺した犯人と疑われる。無実を晴らすための彼の捜査は、無邪気な恋人という仮面を演じていた女の意外な面に向き合うことになる。


 事件によって親しい人間の本質に直面させられるという展開方法はミステリではよくある型だ。それを作者は完成に近づけていく。『わが子は殺人者』では、タイトルが雄弁に語るとおり、殺人の容疑者にされた息子への父性愛テーマが浮上してくる。同時に、友人として尊敬してきた男への感情が揺らいでいく。基本的には、怪しくない人物が容疑者の役割を顕にするというパズル・ストーリーの法則で動いている。そこにプラス・アルファがあるのは、「わが子」や親友といった強力な要素をパズルのキーに用いて、補強材にしているからだ。

 つづく『二人の妻を持つ男』1955(創元推理文庫)も、同じパターンの話となる。現在の妻とかつての妻。ストーリーの進行とともに、やはり主人公は、前には気づきもし


なかった二人の本質を知っていく。最初にくるショック、つづいて覚醒を力につなげていこうと立ち直る勇気。それがクェンティンの小説にたんなるミステリを超えた感動要素をつけ加えている。

 





パトリック・クェンティン『癲狂院殺人事件』

https://nozaki66.xsrv.jp/2024/03/20/%e3%83%91%e3%83%88%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%bb%e3%82%af%e3%82%a7%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%b3%e3%80%8e%e5%91%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%80%b1%e6%9c%ab%e3%80%8f/

パトリック・クェンティン『呪われた週末』

https://nozaki66.xsrv.jp/2024/03/20/%e3%83%91%e3%83%88%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%bb%e3%82%af%e3%82%a7%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%b3%e3%80%8e%e7%99%b2%e7%8b%82%e9%99%a2%e6%ae%ba%e4%ba%ba%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8f/


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...