トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』Red Dragon 1981
Thomas Harris(1940-)
小倉多加志訳 ハヤカワミステリ文庫 1989.11
加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2015.11
アメリカが殺人大国と呼ばれるにいたった理由は、必ずしも、絶え間ない戦争行為によるものではない。平和時の市民生活においても悪質な殺人者をかかえてしまった。
なかでもシリアル・サイコ・キラー――連続異常性愛殺人者の存在は、アメリカ独自の発明とみなされるにいたる。シリアル(シリーズもの)ドラマのように同一パターンの、性的なシグナルを持った殺人。
殺人事件ファイルの収集家で研究者のコリン・ウィルソンによれば、サイコ・キラーの現象は、一九六〇年代以降に目立ってくる。統計が素朴な事実を告げる。事例はほとんどアメリカで起こっている。犯人の大部分は白人男性だ。性的連続殺人は、ほとんどアメリカの白人男の病理の表われなのだ。アメリカ人は、「白人・男性・異性愛」という三位一体に誇りを持てなくなったのみではない。かえってその病理が無視できない勢いで事件化してきた。
殺人鬼は、ウィルソンの研究のようにカルト化して受け止められる一方、司法当局に現実的な対応策を迫った。FBI行動科学課が開発したプロファイリング技術はその代表的なものだ。サイコ・キラーの或る者は、性行為の代償として被害者を切り刻む。その殺し方、死体損壊の方法にはいつも一定のパターンがある。それはキラーの「芸術作品」であると同時に、病跡のシグナルでもある。犯行現場には必ず犯人の明確な「サイン」が残されるという確信は、
S・S・ヴァン・ダインによって初めてミステリのなかで語られた。プロファイリングはその確信を現実レベルで系統化した。
特殊・異常な殺人であるほど、それは、常人の想像を超えて、小説のなかの殺人に近似する。現実味に欠けるとみなされていた様式的な殺人が現実の側に還流してくることは、い
かにも皮肉だった。性的殺人の専門家となったFBIのプロファイラーたちは、自分が犯人と同質の人間かもしれないという意識に苦しめられる。こうした犯人との共鳴感は、遊戯的な謎解きミステリに特有の思考だったはずだが、現実のほうに滲み出してくることになった。
少なからぬ作家がこの先進的な施設を取材のために訪れた。トマス・ハリスもその一人だった。ハリスは、狂ったヴェトナム復員兵がスポーツ競技場の大観衆皆殺しを画策する『ブラック サンデー』75(新潮文庫)で成功していた。次の作品が転機となる。望んだかどうかは別として、サイコの世界に足を踏み入れて抜けられなくなった。
サイコ・キラーを登場させるミステリは『魔性の殺人』によって定型をつくられた。捜査側を主役とした警察小説だ。殺人鬼は脇役で、最後に捕まって裁かれるまでは慎ましい位置にとどまっていなければならない。
『レッド・ドラゴン』も基本的にはこの型を踏襲している。しかし出来上がった作品にあって、捜査官はいかにも精彩ない受難者のように描かれていた。比べて、殺人者ダラハイドの像は強烈だった。作者の共感は明らかに犯人の側にあった。ヒーローはこの男であり、多様で豊かな行動と思索を作者によって与えられていた。一人の人間の個性に納まりきらないほど過剰なキャラクターだ。
犯人像の過剰さは、作家の情念の噴出でもある。作品の統一的な構造を破ってしまいかねない。作品に分裂的な印象すらもたらす。ただそれは、ハリスがこのテーマにいかに深く捕らわれたかを示す指数でもある。
作家の溢れ出る情念は、
『レッド・ドラゴン』にもう一つの中心点を設定させる。ハンニバル・レクター博士の創造だ。彼は、役割としては強力な脇役にすぎないが、結果的に中心点に立つことになって、物語のバランスをさらに不安定に揺さぶっている。捜査官はレクターに助言を求め、レクターは決定的な意見をさしはさむ。犯人もまた「著名な殺人鬼」にたいして尊敬の念にうたれている。九人殺しの人肉嗜好者という勲章ばかりでなく、レクターは超越者のような位置に立たされていく。
現実のシリアル・サイコ・キラーたちのリストを詳細に記せば、数ページを要するだろう。現にハリスの小説以降もそれは増加しつづけている。レクター博士の盛名がそれらをまとめて凌駕するかのように印象されるのは皮肉なことだ。作家の想像力は多くの殺人鬼を取材することによって決定的に「損傷」を受けたのではないか。後の作品歴をみると、そんな想いにすら打たれる。