ラベル

2023-11-30

4-4 ローレンス・サンダーズ『魔性の殺人』

 ローレンス・サンダーズ『魔性の殺人』 The First Deadly Sin 1973
Lawrence Sanders(1920-98)
中上守訳 ハヤカワミステリ文庫 1982.1

 サイコ・キラーを描くミステリは『殺人症候群』に先例をみた。犯人の側から覗かれた異常心理の世界だった。サンダーズは、それを捜査側の視点から描いて、警察小説の枠を大きく拡げた。サイコ・キラーがアメリカの社会現象であるなら、要請されているのは、その現象を細大もらさず物語に描きこむことではないか。

 『魔性の殺人』は以降のサイコ・ミステリの基本型をつくりあげた。未知の狂気の殺人を捉えるために、警察機構を主人公にパノラマ的な社会小説を展開していくこと。警察は未知の恐怖から社会を守る代表機関だ。善悪対立の二元論は確固として打ち立てられている。殺人鬼が出没するニューヨークの一区域は、徹底的な解剖学的視点にさらされることになる。

 作者は、善悪の両サイドに代表人物をすえた。善のほうは、分署署長ディレイニー。組織のトップとしての役割だけでなく、勇猛さと正常さを兼ね備えたヒーローだ。いささか紋切り型におちいるほどに彼の像は潔い。悪のほうは当然、サイコ殺人鬼。彼は物語の最初から姿を見せ、その内面を綿密すぎるほどに描かれる。魔性はゆっくりと彼のなかに目覚める。

 彼がある極点にまで舞いあがりかけるのを確かめた上で、作者は、小説の場面をディレイニーの執務室に移動させる。事件はすでに水面下で進行しつつあるはずなのだが、作者のペンは悠々と主人公のまわりを巡っていく。「奴は狂人だ」と彼が断言するまでに、ページは四分の一以上を費やしている。

 犯行が動き出すと彼の姿は霧のなかに退いていく。今度は組織的な捜査の様相が生き物のように捉えられ、犀利に描き分けられていく。殺人に用いられた凶器を特定するまで費やされたパーツの膨大さを考えるのみでも、この物語のスケールを推し測るのに充分だ。読者は犯人の哀れな内面と行動についても情報を与えられる。そしてそれに数倍する分量で、彼を狩り出すための善の動きを報告される。

 この進行と、善悪を描き分ける配分とが、以降の警察小説型サイコ・ミステリの定式となった。

2023-11-29

4-4 ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ『裁くのは誰か?』

 ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ『裁くのは誰か?』Acts of Mercy 1977
Barry N. Malzberg(1939-) Bill Pronzini(1943-)
高木直二訳 創元推理文庫 1992.7

 『裁くのは誰か?』は、いわゆる一つの「大統領ミステリ」だ。

 大統領の身辺で起こる連続殺人。魔手はやがて大統領自身にまでおよぶが、大統領は持てる明敏さを総動員して事件を解決していく……。

 アメリカ国家の大統領は公選によって選ばれる最高権力者だ。民主制度の国是というのか、ミステリとは縁が深い。じっさいにリレー短編の筆を取ったルーズヴェルト第三十二代大統領もいる。

 最近では、ホワイトハウスを題材にしたポリティカル・フィクションに大統領が登場するケースも増えている。またハリウッド映画で大統領役を演じたスターのリストも年ごとに膨大なものとなる。

 大統領本人が愛読ミステリを公言することは、支持率アップのための対策でもあるようだ。レーガンはトム・クランシー。クリントンはもっとマイナーにウォルター・モズリー。現大統領はおそらく、ないだろう……。

 しかし『裁くのは誰か?』のような大統領の登場の仕方はたぶん前例がないだろう。禁じ手はあるのか否か。最高権力者とはいっても、どこかの「国王」と違ってタブーはないのかもしれない。

 少し前にトリッキー・ディックと仇名された第三十七代大統領が不名誉な形で退場している。政治家としての功績はそれなりに評価されるべきだという意見もあった。しかし悪役イメージは常に彼にはついて回った。ウォーターゲイト事件は、今では現代史の欠かせない一項目となっている。事件に関して、ニクソンは嵌められたのだという解釈も一部にはある。『大統領の陰謀』1974(文春文庫)を書いたジャーナリストの一人ボブ・ウッドワードが、データのリークを受けていたという説だ。その論拠は、ウッドワード記者とCIAおよび保守財閥とのコネクションだ(広瀬隆『アメリカの保守本流』集英社新書)。

 仮にそれが事実であったとしても、ニクソンへの同情票は集まらないだろう。自分の上を行くトリックに引っかけられたことで、さらに悪名は高まるかもしれない。

 事実でなかったとしても――。なぜ『裁くのは誰か?』のようなミステリが突如として出現してくるのか、その理由を納得できるに違いない。この小説のサプライズ・エンディングは、大統領職の聖なる椅子という盲点を利用したものだ。見えすいたトリックを隠すための裏技に大統領制度は使われた。これを読むと、カー派の馬鹿騒ぎが完全に過去のものではなく、ささやかな水脈(パズル派の伝統といってもよい)としてひっそりと息づいていることを理解できる。

 作者の一人プロンジーニは、パルプマガジン・コレクターの探偵を主人公にしたB級ハードボイルド・シリーズも書いている。アンソロジストとしても活動し、この作品からは、いかにもうるさ型のマニアぶりが伝わってくる。

2023-11-28

4-5 トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』

 トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』Dance Hall of the Dead 1973
Tony Hillerman(1925-2008)
小泉喜美子訳 早川書房1975 ハヤカワミステリ文庫1995.7 


 黒人刑事、黒人私立探偵の登場は、局地的な出来事ではなかった。ジョン・ボール『夜の熱気の中で』1965 は、南部の田舎町で起きた殺人事件を解決するために、黒人刑事が奮闘する話だ。ボールの黒人刑事シリーズは後に三作つづく。

 中国人刑事チャーリー・チャンのシリーズやJ・P・マーカンドの日本人間諜ミスター・モトのシリーズを思い浮かべるまでもなく、ミステリは異人種排撃を原理的に謳っていたわけではない。作品を捜せばむしろ社会の寛容さを証拠だてる例が見つかるだろう。それでもまだ、六〇年代にいたっても、マイノリティのヒーローは充分に一般化したとはいえない。

 ボールと前後して、ケメルマンがユダヤ教のラビを探偵役としたシリーズの第一作『金曜日ラビは寝坊した』1964 を発表した。これは、短編集『九マイルは遠すぎる』をゆったりと書き継いでいた作者の、ユダヤ人コミュニティ研究の副産物ともいえる。力点はこちらのシリーズに移っていく。


 マイノリティ・ミステリの最も重要で長命なシリーズはトニイ・ヒラーマンによって、もう少し後に書かれ始める。『祟り』1970(角川文庫)に始まり、『死者の舞踏場』『黒い風』1982、『時を盗む者』1988、『聖なる道化師』1993(ともに、ハヤカワミステリ文庫)などとつづく、ナバホ先住民居留地シリーズだ。文化衝突の諸相、そして自然環境との交感。彼のシリーズが示すのは、通り一遍の共感や良識では、作家はこのテーマに立ち向かえないという当たり前のことだ。ヒラーマンはプアホワイトの家系に生まれ、インディアン寄宿学校で学んだ経験を持つ。

 アメリカのマイノリティのうちで、黒人と「インディアン」とは特別の存在だ。作者は、部族に残る風俗や伝承的儀式などを大胆に取りこんでいった。部族社会とはつまり、国家に囲いこまれた「統治地」だ。伝統も日常もそこに住む者にとっては絶えざる衝突の場なのだった。シリーズは文化人類学的アプローチがミステリに寄与する豊かな実例となっている。


2023-11-27

4-5 エド・レイシー『褐色の肌』

 エド・レイシー『褐色の肌』In Black and Whitey 1967
Ed Lacy(1911-68)
平井イサク訳 角川文庫 1969


 レイシーは最も早く、そして意識的に黒人探偵を登場させた書き手だ。『ゆがめられた昨日』の主人公の名は、トゥーサーン・ルヴェルテュールとマーカス・ガーヴェイから取られている。

 『褐色の肌』の舞台はニューヨークのゲットー。白人居住区と隣接する地域。そこで黒人少女が射殺される事件が起こった。KKKまがいの黒人差別集団が動き始める。

 若い黒人刑事リーは相棒のユダヤ人アルとともに潜入捜査を命じられる。物語は彼の視点から語られていく。社会運動家を装って潜入した彼らの前に、ゲットーの現実がたちふさがる。この作品の背景にあるのは、六〇年


代後半に頻発した人種都市暴動だ。

 とはいえ、物語そのものはドキュメンタリー・タッチで淡々と進んでいく。ラストに到るまで派手な事件は抑えられている。テーマにたいする作者の真摯な取り組みは疑いようがない。マルコムXやフランツ・ファノンに関する議論も出てくる。作者はさまざまなタイプの黒人を描き分けるべく努めている。主人公の潜入捜査官の内面は、恋人や相棒との葛藤で揺れ動く。警察小説というより、青い青春小説の苦さが強い。

2023-11-25

4-6 ジョゼフ・ウォンボー『クワイヤボーイズ』

 ジョゼフ・ウォンボー『クワイヤボーイズ』The Choirboys 1975
Joseph Wambaugh(1937-)
工藤政司訳 早川書房 1978

 『クワイヤボーイズ』をできるかぎり簡単に説明すれば、警官版『キャッチ=22』となるだろうか。

 とはいえ、ウォンボーは元警官作家として、多少の誇張は加えたが、想像力を羽ばたかせたわけではない。彼は一時期有力な警官出身の書き手だった。素朴に体験から出発し、ヒーローとしての警官の物語を発信しつづけた。彼の作品は、警察小説というより警官小説と称されるのがふさわしい。

 『クワイヤボーイズ』の発表年がアメリカのヴェトナム敗戦と一致していることは象徴的だ。その後おびただしく描かれることになる復員兵士のトラウマの諸相が、この小説のなかにはすでに満載されている。警官こそその傷痕に率先して晒されるのだという作者のメッセージを差し引いても、痛ましい質感がある。


 物語の主人公は十人の制服夜勤パトロール組警官だ。彼らは、勤務あけの夜中に、公園で乱痴気パーティをひらいて憂さ晴らしする。それでやっと精神の平衡を保っているというわけだ。聖歌少年隊〈クワイヤボーイズ〉だ。

 十人は二人組のコンビを一単位として紹介されていく。ウォンボーの世界の特質だが、ストーリー性はごく希薄なまま、配列されたエピソードの輝きで成り立っている。輝きというより『キャッチ=22』的な狂騒だ。狂執は物語に内向するのではなく、語っている作者自身が狂っているのではないかと思わせる。「はじき」〈ロスコー〉とか「なんちゅうた」〈ワッデヤミーン〉など、彼らの通称が雄弁だ。

 そしてやりとりされる人種差別ジョークの強烈さ。まともに受け止めるとあまりに刺激が強い。レイシズム・ジョークの味わいは、最近は、かなり一般化しているようでもあるが、事は要するに、裸の差別言葉の激突だ。差別を知らず差別語にだけ堪能になるとはいかがなものか。スマートに翻訳するのは不可能な世界の会話だと思ったほうがいい。

 ウォンボーはともかく、ヴェトナム世代の影について素晴らしい饒舌さで語った。一つひとつのエピソードは、現実に即しているだろうという意味で、シンボルにはなりがたい。『キャッチ=22』のような普遍性には到らないけれど、固有の悲喜劇性はありあまるほど備えている。

2023-11-24

4-6 ジェローム・チャーリン『ショットガンを持つ男』

 ジェローム・チャーリン『ショットガンを持つ男』Blue Eyes 1975
Jerome Charyn(1937-)
小林宏明訳 番町書房イフ・ノベル 1977.5 


 『ショットガンを持つ男』『狙われた警視』1976、『はぐれ刑事』1976(ともに、小林宏明訳 番町書房 イフ・ノベルズ)の「はぐれ刑事」三部作にとって、レイシズムはジョークの源泉〈ネタ〉ではない。物語のテーマそのものだ。

 三部作は、ラテン系ユダヤ系移民のファミリーとニューヨーク市警との骨肉の抗争を描く。トーンは、リアリズムとは少し違う。ファミリーとはいえ、ゴッドファーザー風のホームドラマの構成もない。犯罪集団も現場の刑事も同じ運命共同体の一員だ。これではとても警察小説の枠には収まりきらない。

 ラテン系ユダヤ人とは、マラーノと呼ばれるマイノリティ集団だ。マラーノのギャングの頭目パパ・ガズマンは五人の娼婦に産ませた五人の息子を持つ。末っ子のシーザーの他はみんな


知的障害者だ。別名を死神〈ミスタ・デス〉と呼ばれるパパ。そしてパパを取り巻く人物たちは、ことごとく二重に疎外されたマイノリティだ。記号が二つつく。ダブル・ハイフン付きアメリカ人だ。

 『ショットガンを持つ男』の主人公は、ユダヤ系ポーランド系の刑事。対抗する殺し屋は中国系キューバ系。とだれもが二重に入り組んだ出自を持たされている。しかも刑事はユダヤ系なのに、ブロンドで青い目をしている。彼のことを怖れる情報屋の男は「青い目をしたユダヤ人なんて、悪魔に違いない」と思う。その男はアルビノで肌の白い黒人なのだ……。

 チャーリンの世界では、ジョークがそのまま人物造型に直結している。シュールレアリズムのような世界だ。彼らが、警察


と犯罪者集団とに分かれているのは表向きのこと。みな幼な馴染みで、同じ共同体に属している。刑事かアウトロウかは、大した意味も持っていない。彼らはみなグロテスクに非アメリカの世界を生きている。その頂点に君臨し、彼らを束ねるのが、マラーノのゴッドファーザーたるパパなのだった。

 彼らはコミックブックのヒーローなのか。それともポスト・レイシズムの戯画を先取りしているのか。

2023-11-23

4-7 トマス・ブロック『超音速漂流』

 トマス・ブロック『超音速漂流』Mayday 1979
Thomas Block(1945-)
村上博基訳 文藝春秋 1982.6 文春文庫 1984.1
改訂版(ネルソン・デミル共著 村上博基訳 文春文庫 2001.12

 このページまで扱ってきた作品はおおむね、過去に属している。P・K・ディックを奇跡的な例外として。

 七〇年代といえば、もう自明に回顧の対象だ。この項目であげる三編は、その時代よりもむしろ現在に作品的意味が延長しているとみなしうる。境界にある。充分には過去に退行していない産物だ。


 『超音速漂流』は航空パニック・サスペンスの古典といわれる。ネルソン・デミルが共作者としてクレジットされ改定新版1998も出た。旧版がブロックの単独名義だったのは、二人が友人として協力し合ったこと、ブロックが現職パイロット作家だったこと、デミルがあまり有名になっていなかったことなどが理由だろう。

 ジャンボ・ジェット旅客機が、テスト中のミサイル誤射を受け、機長は死亡、無線機も使用不能という危機におちいる。生存者は漂流する機をなんとか着陸にもっていこうとするが、失策を隠すために軍は非常手段に出ようとして……。パニックが機体の内と外とから来るという絶体絶命の状況を描く。


 七〇年代には旅客機のハイジャック事件が急増した。「金曜日はハイジャックの日」といわれるほどに頻発した。ハイジャックの時代が作品にまで反映していったのも当然だ。現実が航空パニックものというジャンルを産み落とした。ジャンボ機消失の謎を描いたトニー・ケンリック『スカイジャック』1972(角川文庫)、同じくジャンボ機の空中からのハイジャックを描いたルシアン・ネイハム『シャドー81』1975(新潮文庫)といった傑作がある。それらは『超音速漂流』に抜かれた。

 新しいところではジョン・J・ナンス(やはりパイロット作家)の『メデューサの嵐』1997(新潮文庫)があるが、『超音速漂流』の上を行く作品はまだ現われない。

2023-11-22

4-7 トレヴェニアン『シブミ』

 トレヴェニアン『シブミ』Shibumi 1979
Trevanian (1931-2005)
菊池光訳 ハヤカワ文庫 2011

 トレヴェニアンは、アメリカの物質主義とタフガイ指向への反対者として、自らを位置づけた。彼の描く国際謀略小説は知的なパロディのように読める。『アイガー・サンクション』1972(河出文庫)の主人公は大学教授で登山家。名画コレクションの資金作りのために暗殺を請け負う。こうした設定によって、作者は007シリーズなどに冷笑を浴びせているのだろう。

 『シブミ』では冷笑ぶりは変わらないが、主人公の造型はいっそう複雑さを増している。ニコライ・ヘルという男。孤高のテロリストが対決するのはCIAをも包括した「マザー・カンパニイ」と呼ばれる巨大謀略組織。アラブ過激派とユダヤ人報復グループの暗闘という、それらしい導入部はつくられているが、全体が冗談話のように感じられなくもない。


 タイトルの『シブミ』は(作者の理解するところの)日本的精神主義から取られている。いかにも、アメリカの物質主義に反対して物質主義のエッセンスのようなスパイ小説のパロディを書いてみせた作家らしい所業だ。武士道の対極に「渋み」があるという。章題も囲碁の用語から流用され、作者は、物語の進行そのものを囲碁の対局に擬している。主人公の造型をみると、こうした凝りようがたんに奇をてらった高踏趣味でないことがわかる。ニコライ・ヘルは無国籍の断片から成り立っているような男だ。第一章「布石」に登場する彼は、スペインのバスク地方独立主義者の仲間とともにいる。そして物語は、ニコライの出生を追って、数十年前の上海に飛ぶ。彼は、亡命ロシア貴族とドイツ人の血を引き、占領日本軍の将軍に育てられる。軍

国主義のふところにあって学び、反武士道の精髄を身につける。そして戦時下の日本に移り、敗戦をくぐり、占領軍の下部職員となる。そこで恩人である将軍と再会する。将軍はA級戦犯として連行されてきた。この不幸な再会が一人のテロリストを誕生させたのだった。

 ばらばらの要素を継ぎ足して構成されたような男。シブミの精神で自己を律する。これがアンチ・ヒーロー性の実例だ。謀略小説の主人公に与えられた伝記的事実としては不必要に長く、重たい。

 作者には、他に、警察小説『夢果つる街』1976、サイコ小説『バスク、真夏の死』1983(ともに、角川文庫)がある。

2023-11-21

4-7 ロバート・ラドラム『暗殺者』

 ロバート・ラドラム『暗殺者』The Bourne Identity 1980
Robert Ludlum(1927-2001)
山本光伸訳 新潮文庫 1983.12

 ラドラムは彼一流の謀略史観にのっとって多くの作品を産出したが、だいたいパターンは一つだといってもよい。陰謀は世界を二分する。陰謀は不滅である。陰謀は米ソ二大国の冷戦よりはるか昔から存在する。

 トレヴェニアンがからかいの対象にした物語の外枠を、ラドラムは大真面目に生産しつづけた。皮肉なことに、覆面作家トレヴェニアンの正体が話題になったとき、ラドラムの名前もあがったという。

 第一作『スカーラッチ家の遺産』1971(角川文庫)は、第二次大戦下から始まる。ナチスの陰謀は過去のものではなくて、米ソの対立構造よりもはるかに根が深く広範に生き延びている。『マタレーズ暗殺集団〈サークル〉』1979(角川文庫)での狂信的テロリスト集団は、シチリア島の血の復讐に起源を持つ。世界のいたるところにネットワークをはりめぐらせる結社に対抗して、米ソ諜報機関ナンバーワンのエージェントが協力する話だ。

 ラドラムはおおむね、謀略アクションのワンパターンの供給者として七〇年代を通過した。このタイプの書き手の多くがそうであるように、語り口には動物的な精気があった。『暗殺者』はその頂点に位置する。「ボーンのアイデンティティ」という原タイトル。

 暗殺者ボーンは自己を喪って物語に現われ出てくる。任務に失敗し、重傷を負い、記憶を喪った。身につけた技能や暴力や悪辣な生存本能は個体の中に残っている。

 自分は何者なのか。

 ようやく解きほぐした断片はまた新たな謎を呼ぶ手がかりにすぎない。進めば進むほど迷路は深くなる。記憶を喪う前に彼がかかわっていたミッションが姿を現わす。。それに従って彼は伝説上のテロリストの役を演じていた。さらにヴェトナムで極秘の暗殺部隊に参加し、ある男を処刑して、彼の名前を借りて名乗ってもいた。

 『暗殺者』のアイデンティティは、トレヴェニアンの主人公の「布石」の逆をいっている。彼は確固たる自己の構成要素など持っていない。彼が出会う己れの断片は謀略作戦のために用意された贋の仮面ばかりだ。記憶を回復すればするほど、他人に化けていた自分の顔を見つけなければならない。ラドラムのボーンがパロディに分裂してしまわないのは、作者がそこまで一貫して描いてきた陰謀世界の強固さによる。現実よりも現実らしく張り巡らされた陰謀構図が、主人公の実在を裏面から支えていたということだ。

 暗殺者の内面は個人的にはほとんど無だ。彼の本質は陰謀のパーツとなる道具にすぎないからだ。陰謀の物語に実体的な主人公はいらない。ラドラムのおおかたの小説がそうであるように、陰謀こそがおどろおどろしい絶対の神なのだ。他の人物など出る幕がない。トレヴェニアンは逆をついて、ヒーローに実体を与えた。

 ラドラムはその実体を踏まえて再度の逆転を試みた。二重三重の迷路を仮設した。ここからようやく、旧世界の単純な様式ではなく、現代世界の複雑さに耐えうるヒーローが誕生してきたと認められる。


2023-11-20

4-8 スティーヴン・キング『シャイニング』

 スティーヴン・キング『シャイニング』The Shining 1977
Stephen King(1947-)
深町眞理子訳 文春文庫

 キングの『シャイニング』は、古来の幽霊屋敷テーマを中西部山岳地帯の冬期には閉ざされるリゾートホテルに移して再生させた。それはたんにモダンホラーの拡大を実現したにとどまらなかった。

 彼は、単一の小説作品の成功のみではなく、アメリカン・ポップ文化のグローバルな発信人としての王座を得つつあった。王座を彼は、同年生まれの映画作家スティーヴン・スピルバーグと分け合った。それは同時に、六〇年代のカウンター・カルチャーの恩恵を全身で呼吸しながら育った身勝手なベビー・ブーマーたちが、自前のコミュニケーション・システムを創り出してきたことを意味する。キングは代表選手に育っていった。

 『シャイニング』の主要人物は、駆け出しの若い作家と妻、彼らの五歳の息子とに、ほとんど限られる。出没する幽霊や妖怪たちは極彩色にけばけばしく多彩だが、外部にいる人物はごく少なくしか登場しない。息子は異界と通じ、若い父親はホテルの魔にからめとられる。彼の精神が蝕まれていく様相は異世界の案内役でもある。過度の飲酒、幼児期のトラウマ、抑制できない暴力癖。通常の小説なら主人公の試練を形作る要素がすべて、彼をホラー領域に誘うためのパワーとなる。

 彼は狂気の人ではなく、異次元の満ち足りた住人へと変身する。『シャイニング』は裏返しにされた自己形成小説〈ビルドゥングス・ロマン〉だ。そしてベビー・ブーマー世代の家族の物語でもある。全世界的に人口増加をみた時代の当事者たちが成人して自前の家族を持った。親たちへの反抗によって自己形成した世代が、家族の問題に突き当たって試みた、一つの答えがここにある。

 『キャリー』1974(新潮文庫)、『呪われた町』1975(集英社文庫)、『シャイニング』と、キングは、マニアックなゴシック・ロマンを広大な荒野に解き放った。家族の物語の後日譚は『ペット・セマタリー』1983(文春文庫)に描かれた。彼が身近に使った道具は、コミックブックやB級SFやポップミュージックだった。彼を文化全体に精通したマスターとみなす者はだれもいないだろう。

 キングが体現したのは、サブカルチャーがメインカルチャーを包囲し、それに取って代わるという六〇年代文化革命の日常そのものだった。

 常に過剰でとどまるところを知らないデティール描写、迫りくる効果音にも似た「影の声」の挿入。キングが定着した技法は、活字領域以外からもたらされたものが多い。効果音は反復されるが、意味を満たされているわけではない。キングは、短編ホラーの世界に純化して封印されてきた手作りの恐怖を、分厚いペイパーバックの見世物小屋的世界に拡大した。活字は無色だが、それが喚起してくる興奮は原色にぎらついている。

 きわめて映像的でありながら、キング本がたいてい原作とは似ても似つかない奇妙な映画になってしまうことも面白い現象だ。キング世界は安っぽく下品な言葉の奔流から成り立っている。構成要素を移し変えてみると、それらは復元不可能だと了解される。品性の欠如はうわべの印象にすぎず、本質はその奥に隠されているのだが、それを映像的に翻案してくることが困難なのだ。


2023-11-19

4-8 ディーン・クーンツ『ウィスパーズ』

 ディーン・クーンツ『ウィスパーズ』Whispers 1980
Dean Koontz(1945-)
竹生淑子訳 ハヤカワミステリ文庫 

 クーンツは七〇年代をアイデア豊富なジャンル・ライターとして通過した。多数の読者をつかむパターンを確立するのは、八〇年代になるが、そこでも第一人者の次席に甘んじたようだ。

 初期の作品でいちばん記憶されるべきは『デモン・シード』1973(集英社文庫)だ。高度な機能を備えたコンピュータ・セキュリティ・システムが暴走し、守るべき住人を逆に監禁してレイプを企てる、という話だ。作者はこれを後年、改定して完全版1997をつくった。サイバーパンクSF的なシチュエーションをホラーに転用し、古びていない傑作だ。

 ここには、理由なく不可解な状況で追われるヒロイン、というクーンツの定式が姿をみせている。ストーカー役はコンピュータに振り当てられた。彼はこのパターンを使いまくってベストセラー・ライターの列に踊り出た。

 『ウィスパーズ』は彼の転機になる作品だ。ヒロインを追いまわす怪物は多重人格のサイコ男。この男はどちらかといえばホラーよりのキャラクターで登場してくる。彼の狙うのはたった一人の女だ。たった一人の女を何回も殺す。相手がなんど殺しても生き返ってくると信じこんでいる。その内面は怪物そのものだ。ヒロインの狙われる理由も、彼女が怪物の頭のなかでは第何十番目かの「たった一人の女」と認知されているからだ。

 そして彼は、物語の折り返し点で、いちど死んで生き返ってくるというとびきりの離れ業をやってのける。

 ホラー風に進行していくが、作者は、サイコ・ミステリのバランス感覚も巧妙に取り入れている。追う者と追われる者の中間に、捜査側の刑事をおく。刑事とヒロインのあいだに淡い感情が交差するのも、定石通りで救いになっている。怪物の造型が興味本位から免れているのは、彼のいだいたトラウマを、作者がいくらか共有していたからだろう。ニーリィのトリッキィな小説に先駆的に登場し、やがて八〇年代ミステリの主要なタイプを占めることになる多重人格者。彼を怪物とするだけでは、片づかなかった。クーンツはその特異さをよく理解しえていた。

 『ウィスパーズ』は、作者の美点を多く備え、かつクーンツのみが書き得る世界を前面に出すことに成功した。

2023-11-18

5 世界のための警察国家

  八〇年代は強い大統領の就任とともに始まる。時代の保守回帰はますます決定的なものになり、冷戦期は最後の十年をむかえる。終末をよく予想しえた者はいなかった。レーガノミックス、新自由主義経済を是とした国家戦略は、軍事路線においてもスターウォーズ計画によって競争の範を示した。相手が力尽きるまで軍備拡大競争をやり抜いたのだ。

 中東ではイラン革命が起こり、親米政権の一つを喪った。アメリカが新生イランと対抗するために手を組んだのが隣国の「独裁国家」イラクだった。ほどなくソ連がアフガニスタンに侵攻する。長くトラウマとなりつづけた「ヴェトナムの傷」を競争相手も負うことになる。レーガンに「悪の帝国」と名指しされたソ連は、都合よく崩壊への道に踏み出していった。アメリカは反ソゲリラを援助したが、彼らはやがてアメリカの中枢を攻撃する「狂信的テロリスト」に成長していく。

 資本主義の勝利は揺るぎないものとして喧伝された。他の思考モデルへの想像力は先細りになる。

 変動ドル本位制に切り替わった七〇年代以降、世界経済の流れは止まらない。毎日変動する為替ルートの動きによって巨額のマネーが取り引きされる。通貨は有力な商品だ。アメリカの産業構造も、製造業からサービス情報産業主体へと変化していく。為替の差益で市場が成り立つ世界。

 一九八五年のプラザ合意(円高ドル安の容認)は、通貨資本主義の流れを決定づけた。ある経済学者は早くもその翌年に、こう警告しなければならなかった。《西側の金融システムは急速に巨大なカジノ以外の何物でもなくなりつつある》と。カジノ資本主義が未来への賢明な合意であったのか否かは、だれにもわからない。

 すでにアメリカの貿易赤字は常態となっていたが、八〇年代中頃から驚くべき率で巨額化していった。赤字を買い支えるのがだれなのかについては諸説がある。二十世紀後半のアメリカは、もはやモノは作らずに、モノを大量消費するだけのバカ大国になった。

 アメリカが製造するモノで国際競争力を備えているのは、兵器とコンピュータと映画のみだという説もある。アメリカ人の書くミステリも、その文化項目の一端に位置を占められるだろう。


2023-11-17

5-01 トム・ウルフ『虚栄の篝火』

 トム・ウルフ『虚栄の篝火』The Bonfire of the Vanities 1987
Tom Wolfe(1930-2018)
中野圭二訳 文藝春秋 1991.4


 アメリカの作家が今日、要求されていることはじつに単純なことだ、とウルフはいった。バルザックやディケンズの壮大なリアリズムを復活させ、われわれの社会の一大パノラマを書くべきではないか。ウルフの主張はそれほど目新しいものではないが、彼は自作を権威づける必要があった。ウルフによれば、現代アメリカ小説は、不条理小説やマジック・リアリズム小説、ミニマリズム小説、田舎のKマート小説などなど、要するに窒息しかけている。蘇生者が必要だ。

 『虚栄の篝火』の主人公はウォール街のヤッピー。レーガン時代のエリートだが、彼が生きている街はニューヨークだった。黒人のホールドアップにあい、車で逃げるさいに相手を跳ねとばしてしまう。彼は、差別されたマイノリ


テイを轢き逃げした悪質な白人野郎になる。アメリカは機会均等の国だ。同じ犯罪でも白人なら罪を免れ黒人は厳罰の対象になる――こうした通例は好ましくない。微罪によって、不公平に罰される白人というケースも時どきあってしかるべきだ。というわけで、彼は犯した罪によってではなく、その罪が象徴するものによって罰を受けなければならない破目になる。人種主義の奇妙な逆説が白人の供物を要求した。生けにえである。

 都市生活の全体を描こうとするウルフの野心は、その騒々しい饒舌体によってよく果たされている。そして作者が自覚する以上に、一つの犯罪が肥大して社会の表面に傷をつけていく相を描くことによって、ミステリの領域にも刺激を与えている。月並みな轢き逃げ事件が、それに関わる検事や弁護士、ジャーナリスト、社会運動家などによって、アメリカの良心という「虚栄の篝火」に燃えあがる。炬火をたやすな。

 ウルフの方法は、そのまま野心的なミステリ作家に受け継がれていく。

2023-11-16

5-01 カール・ハイアセン『殺意のシーズン』

 カール・ハイアセン『殺意のシーズン』Tourist Season 1986
Carl Hiaasen(1953-)
山本光伸訳 扶桑社ミステリー文庫 1989.11

 フロリダで出会う最も不愉快なものはわれわれアメリカ人自身だ、とハイアセンは注記している。

 聞くところによると、フロリダ州では、どこかの発展途上国顔負けの選挙不正が行なわれたらしい。二〇〇〇年の大統領選挙の数ヵ月前、フロリダの選挙人名簿から五万七千七百人のリストを外す指示が出された。過去に重犯罪を犯しており投票権を認められないという。リストの半数以上は黒人かヒスパニック、民主党支持者だったという。これは小説の話ではなく、どうやら事実らしい。

 詳細は省くが、この顛末はグレッグ・パラストの『金で買えるアメリカ民主主義』2002(角川書店)の第一章「サイバースペースでの人種差別」に書かれている。マイケル・ムーアのベストセラー『アホでマヌケなアメリカ白人』2001(柏書房)の第一章「まさに、アメリカ的クーデター」も同じ情報をあつかっている。時のフロリダ州知事は、いうまでもなく現大統領の弟である。

 ハイアセンはフロリダを舞台に、アホでマヌケな白人たちの、おかしくも野蛮な物語を一貫して書きつづけてきた。この作者の描くフロリダは、先輩格のジョン・D・マクドナルドレナードとは明らかに違っている。陽光ぎらぎらと眩しい。ブラックユーモアというには破目を外しすぎのドタバタ・アクション。どこまでが諷刺でどこからがお笑いなのか。笑いすぎてどうでもよくなってくる。

 フロリダ奇人変人博覧会の第一作は『殺意のシーズン』。四人のテロリストが登場する。環境を破壊して恥じない観光客を的にして革命的行動を起こす。メンバーは、地元新聞社の花形コラムニスト、元プロフットボール選手、先住民セミノール族、反カストロ派のキューバ人。うち二人はアメリカン・ドリームの体現者であり、二人が周縁のマイノリティだ。人間は最も端迷惑な「珍獣」なので駆逐する必要があると主張する。

 彼らはテロの対象者を拉致する。そして体長十七フィートの鰐の餌にしてしまうのだ。表向きは人VS野性動物の闘いだ。縄張り争いは一対一の真剣勝負で、公平に、つけるべきだという。彼らは観光客にその機会を与えるだけ。彼らがいうには、マイアミのAQは134(IQならぬAQとはアホ指数。一平方マイルにアホが百三十四人もいるという意味)、高すぎる。

 鰐に裁きをつけさせるという行動は前段。テロリストたちは、さらに突飛な手段によってマイアミを大混乱におとしいれる。環境破壊への告発というモチーフはこの一作に極まった。つづく作品はヴァリエーション。しかしハイアセン・ワールドは、かえって加速度をつけ、ますます珍無類に爆発していく。人物もクレージーなら、ストーリーも破天荒だ。元州知事のホームレス、ハリケーン大好きのスキンクという人物がひときわ異彩を放っている。

 『虚しき楽園』1995、『トード島の騒動』1999(ともに、扶桑社文庫)などがあるが、どれをとっても爽快に痺れさせてくれる。

2023-11-15

5-02 ロス・トーマス『神が忘れた町』

 ロス・トーマス『神が忘れた町』 The Fourth Durango 1989
Ross Thomas(1926-95)
藤本和子訳 早川書房 1990.9 ハヤカワミステリ文庫 1996.8


 スタイリッシュで通好みのクライム小説の書き手というと、トーマスとレナードの二人になる。どちらもキャリアは長く、代表作をしぼりにくい。だいたい平均的に「この人しか書けない」独自の作品を万遍なく並べている。『冷戦交換ゲーム』1966(早川書房 ハヤカワ・ミステリ)、『黄昏にマックの店で』1990と、シリーズ・キャラクターはいるのだが、それ以上に毎回異なった名前で出てくる人物たちも面白い。

 『神が忘れた町』の舞台は、カリフォルニアの小さな町。命を狙われる逃亡者を高額の報酬で匿ってやる裏ビジネスで市政を支えている。ここを仕切っている女市長と警察署長は六十年代ヒッピーの生き残り。無実の罪で服役した元判事が保護を求めてくるところから話は始まる。元判


事の生命は横領の罪をかぶせられた五十万ドルという大金にかかわっている。

 トーマス作品の妙は、一つにストーリー設定にある。まず人物たちが放りこまれる冒頭のうまさ。話は単純明快とはいいかねるのだが、そこに引きこんでくるシーンの描写はいつも名人芸だ。ストーリーを紛糾させるのは多彩な脇人物たち。役割も定かでない人物が交差し、飛び回る。彼らのかわす科白は、気の利いた会話シーンの宝庫となっている。時には利きすぎて、意味をとりそこねる部分があることもご愛敬だ。陳腐な話や型にはまった人物では満足しない読者のために、書き手は力をしぼっている。分類すれば、騙し騙されのコン・ゲーム小説とも紹介できるが、詐欺師もののカタルシスとも無縁だ。


 キャラクターを衝突させては、作者はプロットを進めていく。平均的なストーリー・ライターなら「初めにストーリーありき」で、その進行に適宜、人物を埋めこんでいくから手順は逆だ。コン・ゲームの当事者たちが玉突き台の玉のように衝突をくりかえす。先が読めない。

 ストーリーの外に視線を離してみるとトーマス作品の特質はよく見えてくる。いたるところに脇道がついているが、標識はそれほど定かではない。その乱れた道すじを作者と一体になって楽しむことができれば、そこには無類の手練れがいる。比較的、話の一本線を見つけやすい『女刑事の死』1984や『五百万ドルの迷宮』1987が一般的だろう。


2023-11-14

5-02 エルモア・レナード『ラブラバ』

 エルモア・レナード『ラブラバ』 La BRAVA 1983
Elmore Leonard(1925-2013)
鷺村達也訳 早川書房 1985.7 ハヤカワミステリ文庫 1988.4
田口俊樹訳 早川書房HPB 2017.12

 1980年春、ハバナ郊外のマリエル港からマイアミに十二万五千人のキューバ人が流入した。彼らはマリエリットと呼ばれ、ある情報によれば、その中には、二万五千人から三万人の凶悪犯罪者が含まれていた。

 ブライアン・ディ・パーマはこれを背景に『暗黒街の顔役〈スカーフェイス〉』のリメイク映画を作った。二〇年代のシカゴ・ギャングの物語は、キューバ難民ファミリーのどぎつい暴力映画としてよみがえった。アル・カポネのキューバ版を演じたアル・パチーノは「おれは政治的亡命者だ」と印象深い啖呵をきった。『スカーフェイス』は、ハワード・ホークスベン・ヘクトの監督脚本コンビに捧げられている。マイアミにおける人種人口比は八〇年代に逆転する。キューバ系を中心とするヒスパニックと黒人が絶対多数派となった。


 『ラブラバ』は、ディ・パーマ映画の泥絵の具のような極彩色に彩られているわけではないが、かつてのハリウッド・フィルムへのオマージュに満ちあふれている点は共通している。アメリカの人種対立の現在に向き合いながら、ドラマの作りには徹底したノスタルジアが流れている。

 小説は、元シークレット・サービス捜査官の写真屋ラブラバが往年のハリウッド女優と邂逅するところから始まる。スクリーンの中で憧れていたスターとの出会いはメルヘンのように語られる。彼は自分が麻薬で眠たげな目つきをしているロバート・ミッチャムの世界にいるような気がする。大人のメルヘンからトラブルが転がってきて、クライム・ストーリーが始まる。レナードの常套世界だ。郷愁をともにできる者にとっては快い。


 マリエリットも登場してくるけれど、彼らは難民の影を背負っているというより、レナード印のちょっといかれた小悪党の変型だ。必ずしも人種のるつぼの最前線が生々しくレポートされるわけではない。レナードもトーマスに劣らず、会話をそれ自体として読ませる芸を持った書き手だ。ただの無意味なやりとりでも楽しませる。

 作者にはウェスタン小説のキャリアがある。犯罪ものに転じてからもデトロイトを舞台にしていた。マイアミに移動してから独特のタッチが明瞭になった。

 『バンディッツ』1987は作者にしては珍しく、ニカラグア内戦を背景にして、アメリカ政府の介入を非難する部分もある。

2023-11-12

5-03 マーティン・クルーズ・スミス『ゴーリキー・パーク』

 マーティン・クルーズ・スミス『ゴーリキー・パーク』 Gorky Park 1981
Martin Cruz Smith(1942-)
中野圭二訳 早川書房 1982.8 ハヤカワミステリ文庫 1990.11


 冷戦期の後半に生まれた、未来のないメロドラマ。檻の障壁は、『寒い国から帰ってきたスパイ』においてはベルリンの壁(という歴史的遺物)だった。ここではシベリアの荒野が恋人たちを引き裂く。

 アメリカ作家がソ連警察小説の形式を選ぶことは異色だった。先見的だったといったほうがいい。カミンスキーがモスクワ警察小説シリーズを書くのはペレストロイカ以降だし、フリーマントルのロシア警察小説シリーズはソ連解体の後だ。

 先住民族の血を引くスミスは文字通り、マイナーなミステリ作家だった。ジプシー探偵のシリーズやバチカン市国の諜報員のB級シリーズなどを経て、先住民の呪術と吸血コウモリを組み合わせたパニックもの『ナイトウィング』1977(早川書房)を書く。つづく『スタリオン・ゲート』1986(角川書店)がロス・アラモスの原爆実験基地に材をとっているように、『ゴーリキー・パーク』のシリーズ化は、想定されていなかったろう。


 主人公レンコは、赤軍の英雄だった父親と立身出世を望む妻とによって抑圧された陰鬱な男。公園で発見された不審な他殺死体をめぐって話は型通りに進んでいく。捜査の途上に現われてくる反体制の女イリーナ。そして野性動物捕獲の利権を握ったアメリカ人。捜査官は祖国の官僚制度の腐敗に突き当たる。途中からニューヨーク市警の刑事も参入してくる。題材の先見性はあったが、話の進行は正攻法で手堅い警察小説だ。全体を冷戦体制という檻に封じこめた。

 作者は間隔をあけてこの主人公を登場させている。第二作『ポーラー・スター』1989(新潮文庫)は強制労働につかされたレンコが下級船員として事件に遭遇する話。独立した一編と読んでもさしつかえない。第三作『レッド・スクェア』1992(ベネッセ)は、解体直前のソ連における八月クーデターを直接の背景にした。ペレストロイカの進行を共感をもって描き、一種の証言読み物にもなっている。メロドラマの主役たちには再会の劇的なステージでもあった。最近の第四作『ハバナ・ベイ』1999(講談社文庫)はレンコをキューバに赴かせている。シリーズとしての連続性は無視しても読めるようだ。また作者には、十九世紀イギリスの炭坑地帯を描いた歴史ロマン『ローズ』1996(講談社文庫)もある。


2023-11-11

5-03 ケン・フォレット『鷲の翼に乗って』

 ケン・フォレット『鷲の翼に乗って』On Wings of Eagles 1983
Ken Follett(1949-)
矢野浩三郎 集英社文庫 1984.1

 『鷲の翼に乗って』は、勇壮な冒険アクション読み物ではあるが、小説ではない。事実にのっとったノンフィクションだ。

 この作品においては、重要人物が二人いる。エレクトロニクス・データ・システム社(EDS)の会長ロス・ペロウ。退役グリーンベレー兵士ブル・サイモンズ大佐。書き手は、すでに国際スパイ小説で高名だったが、作品に関しては、この二人ほど重要な役割を果たしていない。

 イラン革命前夜、業務のために駐在していたEDS社社員が収賄容疑で逮捕された。政治交渉で釈放させようとした試みは失敗し、彼らは刑務所に送られてしまう。ペロウは自社の社員が人質になったと受け止め、人質奪還を決意する。救出作戦のためにブル・サイモンズを傭い、チームを編成する。レスキュー・チームはイランの刑務所の模型を使って作戦の訓練をした。しかし社員がさらに堅固な刑務所に移送されたので、訓練は無駄になる。 じっさいの作戦は、七九年の二月、革命派の刑務所襲撃に便乗する形で実行された。


 ペロウはこの成功に飽き足らず、作戦の全体をすぐれた読み物として発表する義務を感じた。彼は、後に第三党から大統領選挙に打って出るわけだが、政治的野心はすでに芽生えていたのだろう。一流の名の売れたライターを傭うことにした。書き手の貢献は、この本に関するかぎり、ごくささやかだったと思える。ペロウは作家の想像力に敬意をいだいてなかったろう。彼が望んでいたものは、個人的な名声でないとすれば、アメリカの失地回復だったはずだ。名誉の回復である。

 カーターの人権外交は人気の高い標語だった。しかし革命後の七九年十一月、テヘランのアメリカ大使館が占拠され、五十二名のアメリカ人が人質にとられたときは事情が異なった。その上、政府によるアメリカ軍兵士の救出作戦は失敗に終わり、その失敗の模様は、全世界に報道された。ヴェトナム敗戦の記憶も新しいうちに、アメリカ政府軍はまたしても無様な失策をさらしたのだ。ペロウが私兵を傭って敢行した作戦の成功は、「民主主義を守る戦い」として宣伝されるべきだと思われた。


 フォレットはライターとしての契約を果たした。ささやかな抵抗にも似て、彼は、イランのような近代化されていない独裁国家にコンピュータ・システムを売りこもうとするEDSの企業理念に疑問を呈した。それはアメリカ民主主義の輸出と介入についての、慎ましい反論であったかもしれない。

 ともあれ面目をつぶしたカーターの席を奪ったのは強い大統領だった。ほとぐなく小説のなかのヒーロー待望も、『レッド・オクトーバーを追え』1984(文春文庫)でのトム・クランシーの登場によって満たされた。

2023-11-10

5-04 トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』

 トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』Red Dragon 1981
Thomas Harris(1940-)
小倉多加志訳 ハヤカワミステリ文庫 1989.11
加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2015.11


 アメリカが殺人大国と呼ばれるにいたった理由は、必ずしも、絶え間ない戦争行為によるものではない。平和時の市民生活においても悪質な殺人者をかかえてしまった。

 なかでもシリアル・サイコ・キラー――連続異常性愛殺人者の存在は、アメリカ独自の発明とみなされるにいたる。シリアル(シリーズもの)ドラマのように同一パターンの、性的なシグナルを持った殺人。

 殺人事件ファイルの収集家で研究者のコリン・ウィルソンによれば、サイコ・キラーの現象は、一九六〇年代以降に目立ってくる。統計が素朴な事実を告げる。事例はほとんどアメリカで起こっている。犯人の大部分は白人男性だ。性的連続殺人は、ほとんどアメリカの白人男の病理の表われなのだ。アメリカ人は、「白人・男性・異性愛」という三位一体に誇りを持てなくなったのみではない。かえってその病理が無視できない勢いで事件化してきた。


 殺人鬼は、ウィルソンの研究のようにカルト化して受け止められる一方、司法当局に現実的な対応策を迫った。FBI行動科学課が開発したプロファイリング技術はその代表的なものだ。サイコ・キラーの或る者は、性行為の代償として被害者を切り刻む。その殺し方、死体損壊の方法にはいつも一定のパターンがある。それはキラーの「芸術作品」であると同時に、病跡のシグナルでもある。犯行現場には必ず犯人の明確な「サイン」が残されるという確信は、S・S・ヴァン・ダインによって初めてミステリのなかで語られた。プロファイリングはその確信を現実レベルで系統化した。

 特殊・異常な殺人であるほど、それは、常人の想像を超えて、小説のなかの殺人に近似する。現実味に欠けるとみなされていた様式的な殺人が現実の側に還流してくることは、い


かにも皮肉だった。性的殺人の専門家となったFBIのプロファイラーたちは、自分が犯人と同質の人間かもしれないという意識に苦しめられる。こうした犯人との共鳴感は、遊戯的な謎解きミステリに特有の思考だったはずだが、現実のほうに滲み出してくることになった。

 少なからぬ作家がこの先進的な施設を取材のために訪れた。トマス・ハリスもその一人だった。ハリスは、狂ったヴェトナム復員兵がスポーツ競技場の大観衆皆殺しを画策する『ブラック サンデー』75(新潮文庫)で成功していた。次の作品が転機となる。望んだかどうかは別として、サイコの世界に足を踏み入れて抜けられなくなった。

 サイコ・キラーを登場させるミステリは『魔性の殺人』によって定型をつくられた。捜査側を主役とした警察小説だ。殺人鬼は脇役で、最後に捕まって裁かれるまでは慎ましい位置にとどまっていなければならない。

 『レッド・ドラゴン』も基本的にはこの型を踏襲している。しかし出来上がった作品にあって、捜査官はいかにも精彩ない受難者のように描かれていた。比べて、殺人者ダラハイドの像は強烈だった。作者の共感は明らかに犯人の側にあった。ヒーローはこの男であり、多様で豊かな行動と思索を作者によって与えられていた。一人の人間の個性に納まりきらないほど過剰なキャラクターだ。

 犯人像の過剰さは、作家の情念の噴出でもある。作品の統一的な構造を破ってしまいかねない。作品に分裂的な印象すらもたらす。ただそれは、ハリスがこのテーマにいかに深く捕らわれたかを示す指数でもある。

 作家の溢れ出る情念は、『レッド・ドラゴン』にもう一つの中心点を設定させる。ハンニバル・レクター博士の創造だ。彼は、役割としては強力な脇役にすぎないが、結果的に中心点に立つことになって、物語のバランスをさらに不安定に揺さぶっている。捜査官はレクターに助言を求め、レクターは決定的な意見をさしはさむ。犯人もまた「著名な殺人鬼」にたいして尊敬の念にうたれている。九人殺しの人肉嗜好者という勲章ばかりでなく、レクターは超越者のような位置に立たされていく。

 現実のシリアル・サイコ・キラーたちのリストを詳細に記せば、数ページを要するだろう。現にハリスの小説以降もそれは増加しつづけている。レクター博士の盛名がそれらをまとめて凌駕するかのように印象されるのは皮肉なことだ。作家の想像力は多くの殺人鬼を取材することによって決定的に「損傷」を受けたのではないか。後の作品歴をみると、そんな想いにすら打たれる。


2023-11-09

5-04 ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』

 ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』KIller on the road 1986
James Ellroy(1948-)
小林宏明訳 扶桑社ミステリー文庫 1998.8


 エルロイはハリスほどに熱心には現実のキラーを取材していないだろう。まったく何も取材らしき労は取っていないかもしれない。
 彼の場合は、キラーは彼自身の内に激情をもって棲息していた。エルロイは『内なる殺人者』を書いたトンプスンと同じく、現実のキラーになってもおかしくない資質の持ち主だ。暴力性と嗜虐性とは、一定のレベルを超えて作品に露出している。それは、「もし作品において燃焼されなかったとしたら……」と想像させるほど威嚇的だ。

 作者はむしろ、投げやりともいえる無造作なタッチで書いている。物語の体裁は連続殺人鬼の告白記だ。「彼」は大まか五十人を殺したが、自分には何の罪もないと思っている。罪がないことを証明するために手記を書いている。

 数あるサイコ・キラー小説のなかでも、犯人の一人称で一貫した作品は他にない。理由は明らかだろう。キラーの内面を微細に再現していくモノローグ。その記述に耐ええる書き手はそうそう現われ出ない。

 多くのサイコ・ミステリが産出され消費された。そのほとんどはジョークのような流行便乗型のものであり、消えてなくなった。エルロイの殴り書きの一編は、流されないケースの一つだろう。

2023-11-08

5-04 トマス・ハリス『羊たちの沈黙』

 トマス・ハリス『羊たちの沈黙』The silence of the Lambs 1988
Thomas Harris(1940-)
菊池光訳 新潮文庫 1989.9
高見浩訳 新潮文庫 2012.2

 シリーズ第二作になる『羊たちの沈黙』は、ハリスがいかに深くシリアル・キラーの世界にはまったを明らかにする。作者の選択が後戻りのきかないものだったかどうかは議論の余地があろう。レクター博士の再登場に商売っ気がまるでなかったと断言するのはむずかしい。だが作家が他のテーマを選ぶことができたのかどうかについては、否定論に傾く。

 『羊たちの沈黙』は控え目にいっても、『レッド・ドラゴン』の続編、もしくは第二部といった連続性を持っている。あるいは前作の不充分さを正すように構成が整備されたと読むこともできる。ただレクター博士の再登場に加えて、彼に対抗するFBI女性捜査官クラリスの設定など、大衆受けを狙ったところは明らかだ。構成上のバランスを保ったので、小説には付加価値もついた。その大きな要素


は、レクターとクラリスとの「男と女のドラマ」だ。彼らの会話は、たんにストーリーの進行の便宜のみでなく、心理のひだを縫って深い陰影をみせている。レクターは前作の超越的な脇役という位置から、安定した助言者役、そしてロマンスの主役という場所に昇格した。

 現場捜査官に適切な助言を与える「専門家」の存在は、ホームズ以来、定型ミステリに欠かせない要素だ。レクターが『羊たちの沈黙』の前半で果たす役割は、そこにきっちりと納まる。

 この小説に登場する殺人鬼は後景に退いてしまっている。彼は殺した女性の皮を剥ぐ。皮を剥いでなめして造った胴衣をまとい、究極の女装願望を満たそうとする。彼の行動は物語のかたわらでジョークのように消費される。

 死体を切り刻むだけでなく、胴衣の材料にするという事例には、もちろんモデルがある。この分野では最も有名なエド・ゲインが逮捕されたのは、五〇年代の終わりだった。彼はサイコ・キラーの時代の先駆者とみなされる。ゲインの犯行はロバート・ブロック『サイコ』1959の素材となり、またその小説はヒッチコックによって映画化され、さらに名を残した。サイコのジャンルでは古典的ヒーローともいえるが、その殺人の性的な、真に酸鼻な側面は長く秘匿されてきた。『羊たちの沈黙』は、ゲインの「偉業」にたいする全面的な考察でもあった。しかしそれは物語においては周辺的なエピソードにとどまった。

 ゲイン・モデルが受けるべきだった抽象化の高みをさらったのはレクターだ。『レッド・ドラゴン』の殺人者は、ウィリアム・ブレイクの詩とエッチングによって、殺人を哲学に翻訳する道を与えられた。『羊たちの沈黙』の皮剥ぎ男は、比べると、たんなる肉体労働者のレベルしか許されていない。レクターは人肉喰いの伝説が反復されるにあたって、グレン・グールド演奏のバッハ『ゴルドベルグ変奏曲〈ヴァリエーション〉』という背景を新たに与えられた。殺人のための清楚なBGM。むしろレクターはオールマイティのヒーローへの道を歩みだしたように思える。


 彼はある場面では、作者の祈りにも似た言葉を代理に述べることさえしている。クラリス、きみは今でも子羊たちの悲鳴を聞くのか。酸鼻な殺人はこの世界で終わることはない。作家にできるのは、祈りを捧げることか、か細い悲鳴をあげることか。終わりのないカノンについて、作者になりかわって告げるのはレクターだった。

 ハリスの二作はサイコ・キラーの時代の作品水位を決定した。それはまた、作家から他の傾向の作品を書く余力を根こそぎ奪う結果にもなった。アメリカにおいて作家でありつづけることの困難を証するケースがここにもある。

2023-11-07

5-5 ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』

 ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』The Minds of Billy Milligan 1981
Daniel Keyes(1927-2014)
堀内静子訳 早川書房 1992


 多重人格――解離性人格障害の症例は、ミラーの『狙った獣』やニーリイの『殺人症候群』などに部分的な姿を垣間見せた。ケースを報告した記録も、目にふれるようになった。キイスの作品も、基本的にはノンフィクションなのだが、二つの理由で、特筆される。一は、二十四の人格ステージを持つ典型的なケースが詳細に描かれていること。二は、作者のこのテーマにたいするモラルの深さ。

 すでにサイコ・ミステリ流行の時代の只中にあって、精神障害をかかえる者らは、重大な基本的人権侵害にさらされていた。「障害=サイコ=殺人鬼」といったお手軽な興味の的にされたのだ。

 簡略化すれば、人格障害は幼時に家族によって虐待、もしくはセクシャル・アビューズを強く受けることによって発現


してくる。虐待の現実に耐えかねる子供は、別次元に逃げる人格を仮想的につくって、適応しようとする。適応はうまくいっても、その人格が記憶のつながりすら切断して、自己のなかの「孤島」になってしまう場合がある。この点は、不当な無理解の時代を経過して、新たな社会的認知が生まれてきたといってよい。殺人鬼への好奇心だけが六〇年代以降、肥大してきたのではなかった。キングやクーンツなども、こうしたトラウマを、ごく自然に自分のホラー作品の素材として使っていた。

 ただ、このケースに理解の浅い者が興味本位の読み物に多重人格を利用すると、とんでもない造型が横行することになる。多重人格を巧みに演じた殺人犯が無罪をかちとる結末をセールスポイントにしただけのふざけた作品も出現した。これらを防止する手立てはない。「サイコ大衆化」の弊害も無視できなくなっていた。サイコ野郎が女性をモノ化して切り刻む小説にフェミニストが抗議するのは当然だった。であれば、障害ゆえにサイコ・キラーあつかいに白眼視された者たちの精神的災害も相当のものだったといえよう。

 キイスは『24人のビリー・ミリガン』を、《幼児虐待の犠牲者たち、とりわけ隠れた犠牲者たちへ……》捧げている。彼らの被害の甚大さを訴えることが、何より作者には肝要なのだった。

 キイスはまず、ビリー・ミリガンのなかに隠れ住む二十四人の人格ステージを、登場人物風に列挙することから語り始める。他人に知られていた十人。ミリガンは強姦事件の被疑者として裁判を受けていた。精神科医、弁護士、警察、メディアは、十人の交替人格を把握していた。その奥に、十三人の「好ましくない人格」がいる。物語でいえば、悪役だ。隠されていたのは、十人のうちのコントローラー的役割を持つ人格が、悪役を抑えこんでいたからだ。制御を喪ったとき、彼のなかに悪役が解き放たれてしまう。最後に控えるのは、教師と呼ばれる統合的な人格。彼には、自分のなかに断続的に現われては去っていった断片すべての記憶が蓄積されている。教師の案内によって、ミリガンの驚くべき物語は語られることが可能になった。

 教師はミリガンの人格分裂の統合として現われたわけではない。教師の出現によってミリガンの障害は完全に治癒したのではない。この点の説明は簡単には済まないので省略するが、念のため注記しておく。


 ミリガンの内面は複雑に物語化して、他者の関わらないところで善悪のキャラクターを生み出していった。物語は整理して語られたからこそ理解できる。その混沌のままでは、脅威であり、恐怖であるほかなかったろう。わたしという物語はここまで複雑化することはない。わたしのなかのわたしでないわたしを捜す旅に要した途方もない労力は、ミリガンとともに報告者のキイスによっても贖われた。

 重度の虐待体験者は生還者〈サヴァイヴァー〉と称される。キイスの作品にこめられたものは、生還への祈願だった。アメリカ社会での虐待件数の統計は、年間に三百万から四百万といわれている。社会の病理が弱い環に集中してくるとすれば、生還という言葉のはらむ意味は重い。アメリカの家族の一部は安全な環境ではなくなっている。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...