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2024-04-02

2-9 キャメロン・マケイブ『編集室の床に落ちた顔』

 

キャメロン・マケイブ『編集室の床に落ちた顔』 The Face on the Cutting-Room Floor 1937
Cameron McCabe(Ernest Wilhelm Julius Borneman 1915-95)
熊井ひろ美訳 国書刊行会 1999.4

 黄金期の作品リストの最後に『編集室の床に落ちた顔』が並ぶのは、奇妙な印象をもたらすだろう。ここまで、指標的・標準的な作品、時代をするどく刻印していると思われる作品、別領域とされてきたが関連づけられるべき作品をあげてきた。この小説はとりわけ異色に映る。何が異色なのか。

 これはアメリカ産でないことが一つ。タイトルはハリウッド映画風だが、作者は亡命ドイツ人。小説はイギリスで出版された。作者はまだ二十代前半だった。七四年にイギリスで再版された。これにはジュリアン・シモンズ(油断のならない批評家で実作者)の評価が大きかったという。八一年にアメリカ版が出た。じつのところ、アメリカ版の出た年の新作として考えてもおかしくないほどの「前衛的」な作風を持った問題作なのだ。

 マケイブはペンネームだが、作中主人公=語り手の名前としても使われている。事件は映画スタジオで起こった新人女優の殺人。映画会社のフィルム編集者マケイブは、新人女優の出番シーンをすべてカットしろと、製作者から乱暴な命令を受ける。タイトルの意味はここからくる。カットされたフィルムは編集室の床に散らばる。そこにしか出ていない俳優は哀れ捨てられる運命にあるわけだ。

 次にくるのは、当の女優殺しだ。殺人現場は編集室。よくある展開と思っていると、犯行の模様が逐一フィルムに収められていることがわかる。このあたりから、話が猛烈に歪んでくる。

 探偵役のスミス警部が登場し、マケイブは容疑者の一人となる。事件の再吟味が始まる。会話のテンポはいいが、その内容はかなり難解だ。証人はそれぞれの主観から事件の様相を語っていく。当てにならない証人ばかり出てくる技法をこらしているのでもない。作者は事件を五度、六度と語り直す。ただの反復だ。視点が変わるのみで、新しい事実が出るわけではない。

 探偵はやがて宣告する。《殺人事件を解決したいのなら、自分で殺さねばならない》と。この物語で、探偵と容疑者たちとが交わす問答は、要するに、この命題のまわりをぐるぐると旋回している。渦巻き状で終わりが見えない。被害者がこの議論に加わらないことはわずかな救いかもしれない。この命題を言い換えれば「犯罪を解決できるのは、犯人ただ一人だ」となる。

 これは、作者の欲求でいえば、「探偵の死」もしくは「探偵の敗北」を意味する。べつだん鬼面人を驚かすという原理というわけではなく、チェスタトンが「犯人は独創的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎない」という箴言によって簡潔に言い表わしていた。つきつめると、クイーンの悲劇四部作の探偵の運命が待っている。その剣呑さは、作家を尻ごみさせるに充分だった。「探偵の死すなわちミステリの終末」と感じられたからだ。

 ミステリという自己完結的システムにおいて、モダンの絶頂とポストモダンの幕開けは、同時にやってきたようだ。同時といって悪ければ、前後をわきまえもせず、ということだ。奇想天外なトリック、叙述パターンの迷彩、意外な結末、想像を絶するドンデン返し……。などといった基本仕様は早晩、開発され尽くすはずだった。そのあとは? 気の滅入るほど長いポストモダンの歳月が、早く訪れた老年期のように待ちかまえているだけなのだろうか。

 探偵が殺せばそれは探偵の敗北だ、というのはモダニズムの解釈。ポストモダニズムで言い換えると――「探偵と犯人の一人二役」などなどの命題に化ける。

 犯人が解決すればそれは犯人の敗北だ、というのはモダニズムの解釈。ポストモダニズムで言い換えると――「犯人と探偵の一人二役」。……なんだ同じじゃないか、馬鹿にするな、と言うなかれ。同一でしかも差異がある、というのがポストモダン言語のサービス精神なのだ。

 注。(言い換えのパターンは無数にあるが省略した)。

 マケイブ(作者のほう)のテキストは、少し冗長さをみせながら、ミステリの外枠を破壊して終わる。探偵も犯人も「自爆」して果てた。作者はそれでも満足せずに、末尾に非常識なほど長いエピローグ――注釈を加えている。長さは全体の四分の一。これは「キャメロン・マケイブの墓碑銘に代えて」とわざわざ注記されている。そこに並べられたのは、マケイブの手記の形を取った『編集室の床に落ちた顔』にたいする書評である。作者はその一部をやむを得ず書き直したことを弁明しているが、出典は明記している。

 テキストへの外部からの批評がテキストに合体したわけだ。これは作者が念入りに試みた入れ子細工だ。テキストを真に完成したいのなら他人の評価を内に含まなければならない――という命題の実践だ。探偵の敗北を言上げする登場人物の言い草よりも、はるかに可愛げがない。はるかに悪辣で自覚的だ。叙述トリックの諸変化に慣れてしまっている今日の読者には驚きに足らないかもしれない。しかし当時の理解者の水準を想像すると、いささか早く来すぎた試みかとも同情したくなる。

 とにかく、ミステリの原理のみでなく、テキストの成り立ちにたいしても、作者は、「形式の死」を宣告した。宣告せねば気が済まなかった。

 見事である。少々の細部の空転は我慢しよう。

 アラン・ロブ=グリエのアンチ・ミステリよりも、ポール・オースターのすかしたポストモダン小説よりも、はるかに早く、はるかに孤立していた。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...