ラベル

2023-10-31

5-07 パトリシア・コーンウェル『検屍官』

 パトリシア・コーンウェル『検屍官』 Postmortem 1990
Patricia Cornwell(1956-)
相原真理子訳 講談社文庫 1992.1

 女性アマチュア探偵登場の、次は、何か。


 コーンウェルのヒロインが登場した。州検屍局の責任ある役職を持った女性。私立探偵には望めなかった専門的な位置にいる。『検屍官』の翻訳が出たのが九二年。日本でも女性ミステリの勢いにいっそう火がついた時点だ。

 警察小説が私立探偵小説にとって替わる、という時代の流れが女性ハードボイルドにも起こったということだ。ヒロインたちが三十代から四十歳をむかえるあたりにいることが共通している。コーンウェルの小説の初期には平均的なミステリ読者を戸惑わせるような素人っぽさがあったが、グラフトンが語る事件のような細部のアマチュア性はなかった。捜査側のディテールに関しては手堅く固められていた。どちらが上ということではないが、ミニマムな細部重視もまた時代の要請だったかもしれない。


 女性検屍官シリーズは毎回、最新捜査技術、機器の紹介に熱心だ。捜査当局のPRめいたところすらある。ミステリの型としては、勧善懲悪タイプのサイコ・キラー警察小説になる。キラーは適度に印象的な悪役というレベルにとどまっている。

 なお女探偵たちのリストをつづけることはいくらでも可能だ。きりがないから代表選手だけでやめておこう。ここにあげた三人の作家は長くシリーズを書きつづけている。シリーズ作の色調が変容するのは、いずれにしても避けられない。ヒロインのまわりの人物たちがそれぞれの役割で作品を豊かにしていくだろう。男性ハードボイルドが常連チームのファミリー・ストーリーの体裁を帯びていくのと同じだ。彼女たちも初期には思いもよらなかった自分自身の物語に立ち合っているようだ。そこからまた新しい試行錯誤が生まれてくるかもしれない。

2023-10-30

5-08 ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』

 ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』City of Glass 1985
Paul Auster(1947-)
山本楡実子、郷原宏訳 角川文庫 1989.4


 タフガイ神話の相対化という趨勢はフェミニズム方面からのみ襲ってきたのではない。その点は公平に見渡しておくべきだ。ポストモダンの波である。

 タフガイの脱構築。壊してつくり直す。そのとき、タフガイは依然としてタフガイなのか? もちろん、女タフガイもまた一種の脱構築だとする議論も成り立つだろう。

 間違い電話を入口にした迷路の物語。『シティ・オブ・グラス』は、後につづく『幽霊たち』1986(新潮文庫)、『鍵のかかった部屋』1986(白水社)と一括され、ニューヨーク三部作と称される。最もハードボイルドの痕跡を残しているのが第一作だ。

 目端の利くポストモダニストの例にもれず、オースターは商売上手な書き手だ。メインストリーム小説に向かってはこれはミステリではないと主張し、ミステリに向かっては、これはメタフィクショナルなミステリだというポーズをとってみせる。この作品は十七の出版社にボツにされたというアベレージを誇っている。通常の私立探偵小説に書き換えろという誘惑に作者が屈していたら、このアベレージはもっとささやかなものにとどまっていたはずだ。しかし後の名声もまたささやかだったろう。


 間違い電話。謎かけのような依頼。分身のペンネームでミステリを書く男。フィクションこそ現実だと信じていた男が現実の事件の捜査に踏みこんでいくと――現実はフィクション以上につくりものめいていた。

 ハードボイルドの行動主義が形而上的な問いかけでもあったという点は、つとに指摘されてきた。行動をあからさまに「哲学」に置き換えてしまった作品は初めてだろう。タフガイとは都市に捧げられた供物だ。英雄神話が輝きすぎて、彼が都市小説を書くための便利な「人形」であるという本質は忘れられている。都市ハードボイルドのヒーローは雑踏の中で目立ちすぎる不幸な単独者の影だ。彼の物語が真に必要とされているのではない。都市の物語が要請されているのだ。

 彼は「群集の人」に到る手段だ。

2023-10-29

5-08 ピート・ハミル『マンハッタン・ブルース』

 ピート・ハミル『マンハッタン・ブルース』Dirty Laundry 1978
Pete Hamill(1935-2020)
高見浩訳 創元推理文庫 1983.6

 ハミルの私立探偵小説も、『マンハッタン・ブルース』から『血の胸飾り』1979、『天国の銃弾』1984とつづき、ニューヨーク三部作と呼ばれている。こちらのポストモダン度はずっと慎ましいので、気づかないで普通のハードボイルド小説として読み終わってしまうだろう。これは、オースターが二度くらいボツにされた時点で心屈して常識的な定型に書き直したような作品イメージを持っている。ストーリーを追うごとに壊れていくのは、作者の力量不足かもしれないが、もっと積極的に定型を壊したかったのではないかとも解釈する余地がある。


 この小説も電話から始まる。ただし遠い過去を呼び覚ますやるせない電話だ。それは、「アパートの一室でチャーリー・パーカーの『オーニソロジー』を聴いているとき」鳴る。具体的な固有名詞によって情感が補強されているところからも明らかなように、第一行から「都市の中の匿名性」という興味は打ち捨てられている。しごくまっとうなハードボイルドの開幕シーンだ。かつての女友だちの電話にかき乱される心。彼がすでに事件の只中にまきこまれているという仕掛けはお馴染みのものだ。

 ハミルはジャーナリストで、この三部作は余技的な色合いが濃い。その分、気ままに形式を遊んだようで、ストーリー展開には定型から外れるところも多い。第三作では、ヒーローのルーツを求めてアイルランドに飛んでいる。


2023-10-28

5-09 ジェイムズ・エルロイ『ブラック・ダリア』

 ジェイムズ・エルロイ『ブラック・ダリア』Black Dahlia 1987
James Ellroy(1948-)
吉野美恵子訳 文藝春秋1990.1 文春文庫1994.3

 タフガイ小説は消滅の道をたどるばかりだったのか。そんなことはない。本流が絶えなかった点は確認しておくべきだ。エルロイをその本流の牽引者とみなしても、どこからも反論はないはずだ。ただそれも、私立探偵というタイプではなく、組織の中で孤立する「はぐれ刑事」を描くことによって守られた。孤立の様相は共通しても彼はあくまで警官なのだった。

 エルロイをあつかうと他のテーマも付随して流れこんでこざるをえない。レイシズムとセクシズム、そして政治的不公正による過去の歴史の「修正」。一口にいえば白人種馬男による三位一体の逆襲だ。強いアメリカ復活の一方に、ヴェトナム神経症の蔓延、サイコ・キラーの跳梁跋扈、女タフガイへの支持などがあった。彼の存在基盤はそれなりに了解がつく。そのイデオロギー十字軍の使命感は、スピレーンなどよりはるかに強固で骨がらみのものだ。そこに立ち止まるとかなり厄介なので、いったんは保留にしよう。

 エルロイの原風景は第二作『秘密捜査』1982に明らかだ。ブラック・ダリア事件。一九四七年、ハリウッド、未解決の娼婦殺人。被害者は全裸で胴体を両断され、内臓を抜かれた。犯人は見つかっていない。残虐な死体写真は、むしろマネキン人形を思わせる無機質を伝えてくる。

 母を喪い、孤児としてホームレスになった作者の原体験が、ブラック・ダリア事件とその時代背景への執拗なこだわりとして、エルロイ作品に刻印されてくる。


 『ブラック・ダリア』は、ブラック・ダリア事件を正面にすえた警察小説だ。未解決の事件は小説のなかで解決をみる。事件の真相に達した刑事は、タブーに触れたことによって、組織を追われる。

 エルロイが示したものはイデオロギーであるよりも、司法組織に身を置く白人の圧倒的な情念だ。彼は法の番人ではない。正義の側にいるという正当性はとうに彼から剥奪されている。彼は自分の主人であろうとするだけだ。エルロイの読者は、それこそがタフガイの真正な現状であることを知る。感動するか反吐を吐きたくなるか、反応は分かれる。暗黒〈ノワール〉は彼の泳ぎ出してきた源流であり、行き着く沸騰点だ。多くのアメリカ作家が燃え尽きていった彼方と別物であるわけがない。

 エルロイは以降、犯罪小説の形をとったロサンジェルス年代記に移る。歴史「修正」の嗜好はますます露骨さを増していった。

2023-10-27

5-09 ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』

 ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』Eight Million Ways to Die 1982
Lawrence Block(1938-)
田口俊樹訳 早川書房HPB 1984.4 ハヤカワミステリ文庫1988.10


 他にも私立探偵の新たな名簿を書き連ねることはできる。ジェイムズ・リー・バークトマス・クックグリーンリーフもまだ記憶に残すべき作品を産出していた。

 ブロックが創りだした探偵マット・スカダーは元警官で、ライセンスを持たない探偵。アル中だ。ニューヨークの安ホテルに住み、起きている時間のほとんどを酒場で過ごす。そこが事務所がわりだ。頼み事を引き受けたコールガールが惨殺され、彼はまた酒に溺れていく。飲みすぎるタフガイはいやほど描かれてきたが、これほど破滅的に飲む男はいなかった。酒と折り合いつけることができない。作者のアルコール依存症を強く投影していたらしい探偵の病状は『八百万の死にざま』で頂点に達する。


 彼は燃え尽きるエッジに立たされる。このまま飲みつづけて死ぬか、酒を断って別の人生を拾うか。出口なし。未来はどこにも見い出せなかった。

 彼の日常は、事件の進行とは切り離されて、酒との闘いに消耗していく。AA(アルコール中毒者自主治療協会)への参加と、泥のような禁酒の日々。その疲労と更正への道のりは、『聖なる酒場〈ジンミル〉の挽歌』1986、『慈悲深い死』1989(ともに、二見文庫)に持ち越されていく。

 期せずして、スカダー探偵の記録は、白人種馬男〈ホワイト・マッチョ〉の考古学〈アルケオロジー〉についての雄弁な報告書となっている。


 本流タフガイの失墜、サイコ・キラーと女タフガイの登場。ミステリの局地でほぼ同時に起こった事柄は、正確にアメリカ社会の病弊を映し出している。

2023-10-26

5-9 アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』

 アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』Strega 1987
Andrew Vachss(1942-)
佐々田雅子訳 早川書房1988.8 ハヤカワミステリ文庫1995.1


 エルロイと拮抗する強度を備えた作品は、ヴァクスによるバークとその仲間たちのシリーズのみだろう。

 バークには明確な敵がいる。子供をセックスの対象にする変態性欲者だ。基調は癒し。ある部分では、彼の物語は、小児性愛者告発の小説版だ。サイコ・キラーものに近づくことはなく、悪を征伐する話で一貫する。

 明快な勧善懲悪の物語として、トラヴィス・マッギーのシリーズとも響き合う。しかしバークの陰影ははるかに暗い。私立探偵でも揉め事処理屋でもない。暗い過去を秘め、来歴を隠したアウトロウだ。

 女たちは救いを求めて外からやってくる。シリーズは一作ずつヒロインに捧げられた賛歌でもある。しかし女たちは物語が終わるとふたたび外へ去って行く。バークと内面を共にすることはない。できない。変態性欲者の処刑人バークは自分の性欲は正常に健康に保っておく必要がある。女たちは便宜的な存在に押しやられる。

 シリーズの中心にはまたバークの助っ人たちがいる。刑務所で知り合ったアウトロウ仲間。拳法の達人、メカの専門家、犯罪の教授、地下銀行の主。特徴的なのは、みな何らかの障害・欠損をかかえた異能者だという点だ。モンゴル系、ヴェトナム系と、人種的にも雑多な構成だ。

 『赤毛のストレーガ』では、事件は依頼人から持ちこまれる。チャイルド・ポルノの写真を取り返してくれというものだ。結末こそ、ヒーローとその仲間たちが極悪人一味を襲撃して裁きをつけるという単線だが、ヒロインの正体は謎を残している。

 最後に彼が行き着くのは、彼が女を理解できなかったし喪わなければならないという苦い覚醒だ。彼らのあいだには結局、性の快楽がそれのみが荒涼として在ったにすぎなかった。


 癒しの物語としてヴァクスの世界は、ほとんど『赤毛のストレーガ』に尽きている。原型はすべてここに出揃っている。『ブルー・ベル』1988、『ハード・キャンディ』1989、『ブロッサム』1990、『サクリファイス』1991とつづく。新たなヒロイン、新たな敵役を得て、さらにストーリーは爆発していく。

 おのおの輝いているにしろ、一度語られた物語の精緻な注釈に読めてしまう。

 バークの終わりのない闘いがつづけばつづくほど、性の荒野の空疎は耐えがたいものとなる。彼もある種のパラノイアになって燃え尽きる未来しか持たないようだ。

 ヴァクスが八〇年代の物語につけ加えた貢献の大きさは疑いない。たんにエルロイの偏向のバランスを正すことにはとどまらない。しかし彼の未来に明るさを見つけるのは困難なのだ。白人マッチョの現状はこのように、極端な振幅を示しながらも、全体としては暗澹な色調におおわれている。

2023-10-25

5-10 スコット・トゥロー『推定無罪』

 スコット・トゥロー『推定無罪』Presumed Innocent 1987
Scott Turow(1949-)
上田公子訳 文藝春秋1988.10 文春文庫1991.2

 女探偵、サイコ・キラー、警官タフガイにつづくアメリカン・ヒーローの真打ちは弁護士だった、といえるかもしれない。黄金時代のペリイ・メイスンの後継者だ。メイスンにとって法廷はスポーツ競技場だった。観客を楽しませるプレーヤーのみが勝ち残ることができる。アメリカの弁護士人口はジョークの種になるほど多い。その点からすれば、弁護士ミステリの流行はむしろ遅きに失したといえる。

 トゥローは一人のヒーローを際立たせるよりも、法廷そのものを主人公として押し出す方法をとった。法曹界は一つの家だ。家に属する者は、だれであれファミリーの一員だ。とてつもなく大きく肥大した「家」には、善人もいれば悪人もいる。事件はその中で起こり、その内部で解決される。家は閉ざされたサークルではない。法廷は社会の全体をのみこむ多頭の怪物〈ヒドラ〉だ。人間の生きる普遍的な条件を示唆するすべてを備えている。

 法曹界にたいする揺るぎない誇りに支えられたこの観念は、もう一つの、ファミリーと呼ばれる集団を思い起こさせる。ファミリーを描いた小説には、マリオ・プーヅォ『ゴッドファーザー』1969などがあるが、その成員によって書かれたものではない。警察組織にせよ、法曹界にせよ、いわば体制の根幹をなす機構がミステリの主要な意匠に用いられ、その微細な再現が人気を博するのも、たしかな時代の流れだろう。

 作者は、インサイダーゆえの強みを生かして、汚職や権力の私物化といった内部の腐敗から、複雑煩瑣な裁判進行の案内まで、多くの生データを小説に注ぎこむことができた。 語り手は首席検事補、事件の被害者は彼がかつて愛した同僚。容疑を受けた彼は告発され、法廷に立たねばならない。家に所属する人間にも、個人的な家族があり、個人的な感情がある。明かされてくるのは、法廷は正義も真実も問わないという事実だ。法廷で争われるのは無罪か有罪かであり、それは真相を解明するはたらきとは別レベルに属している。法廷は社会全体の縮図でありながら、またそうであるからこそ、下しうる判断はごく事務的な手続きにすぎない。無罪か、有罪か。

 法廷はそこに所属する人間のすべてを決定する。だが人間は法廷の奴隷ではない。人間性の幅は最後に法廷の限界をのりこえる――。それを深く受け止めることによってトゥローの法廷物語は最終的に救いをもたらす。


 『推定無罪』が以降のリーガル・サスペンス流行の口火を切ることができた要因はいくつかある。もちろん作家の側の豊かな地力とミステリとしての緊密な構成も群を抜いていた。加えて、法廷という主人公を印象づけておきつつ、結末に人間を勝利させる鮮やかな手口がある。信じうるのは人間だという認識も、考え抜かれた「意外な結末」とともにさしだされることによって、より大きな効果を持ちえた。法廷ミステリという仕掛けのみが可能にしたミステリの醍醐味だった。

2023-10-24

5-10 ジョン・グリシャム『評決のとき』

 ジョン・グリシャム『評決のとき』A Time to Kill 1989
John Grisham(1955-)
白石朗訳 新潮文庫 1993.7

 グリシャム人気は今や、第一走者のトゥローをはるかにしのいでしまっているが、じつはデビュー作では、まったく成功を収めていない。泣きたくなるような部数しか売れなかったというのが不思議だ。シンプルなドラマ構造とけれん味たっぷりのプロットでブームを巻き起こすのは、第二作『法律事務所』1991(新潮文庫)以降のことだ。法廷という家が謀略小説めいた舞台となる。作風はトゥローとは対照的に華麗でわかりやすい。

 『評決のとき』は、作者の正義感をよく伝えるドラマだ。南部のある町で、黒人少女の強姦事件が起こる。被害者の父親が裁判所で犯人二人を射殺してしまう。主人公の弁護士が孤立無援を承知で父親の弁護を引き受ける。単純に父親に同情したというより、派手な事件にかかわって有名になりたいという打算も大きかった。作者は、ある強姦事件の裁判を傍聴して怒りにかられたところから創作を思い立ったといっている。人種差別の取扱いはやや図式的とはいえ、作者の良心を示している。

2023-10-22

6 グローバリゼーション〈革命〉に向けて


  二十世紀の最後の十年の始まりは、湾岸戦争によって区切られる。社会主義圏の内部崩壊は急速に進んだ。アメリカは軍拡競争の苛酷なレースに勝ち残った。冷戦システムは終わりを遂げたが、NATOは存続した。湾岸の「勝利」のあと、アメリカは、ソマリアおよび旧ユーゴスラヴィアの内戦に介入した。

 二十世紀の戦争による大量死者数の試算がある。日本一国の総人口を上回る、まさに天文学的な数字だ。それでも全地球の人口は飛躍的に増加している。第二次大戦以降、恒常化してしまった局地戦争の大量虐殺について、人びとの感覚はもはや麻痺して久しい。そのはん頻度にも、数量にも。

 とはいえ、最後の十年はグローバリゼーションの時代として強調される。世界はついに一つになった? グローバリゼーションを善だという者も悪だという者も、グローバリゼーションの勢いには逆行できないとする点では、一致している。世界市場、世界商品、世界情報。文化の均質化は怖るべきスピードで進行している。八十年代に始まった自由主義市場の波が新たな「適者生存説」を産出していることは、だれにも否定できない。排除こそが市場の原理だ。

 勝ち残るか、負けて廃棄されるか。進化の果ての「人間の条件」が、単純なゲームにしか帰着しない。ことの残酷な皮肉には言葉を喪う。

 情報テクノロジー改革の進行も急激だ。インターネットによって、ますます「世界は狭く、国境は意味をなくして」いく。一方で、インターネットにも電話にも無縁な層が大量に取り残される。

 ある社会学者は現状を語るのに「ラナウェイ・ワールド」という言葉を使った。コントロールのきかない暴走をつづけるのみでなく、絶え間なく足元から遁走していく世界。

 グローバリゼーションはある領域ではアメリカナイゼーションだ。グローバル・カルチャーはあらゆるものを商品として再編成する。ミステリという大衆読み物もそのカタログの一角を占める。

2023-10-20

6-1 デイヴィッド・リンジー『悪魔が目をとじるまで』

 デイヴィッド・リンジー『悪魔が目をとじるまで』Mercy 1990
David L. Lindsey(1944-)
山本光伸訳 新潮文庫 1991.1


 サイコ・ミステリや映画のなかの異常殺人鬼たちは、八〇年代を過ぎてもしぶとく生き延びた。彼らの紳士録をつくる作業は、九〇年代に入っても手を休めることができない。その領域に潜在する活力が使い果たされてもなお、表層的な現象は持続する。『羊たちの沈黙』以降という問題の立て方をしてもいい。ブームを牽引した作品が作家たちの目標に掲げられ、またジャンルの水準をつくる。さまざまなパターンが繰り返され、かえってこの領域は空前の活況を呈したようにもみえた。

 リンジーはテキサス州ヒューストンを舞台にサイコ・キラーものを書きつづけてきたから、便乗派とは区別されるべきだろう。残虐描写の精緻さではかなり上位にくる。


 『悪魔が目をとじるまで』は作者の集大成的な作品となる。描かれるのは徹底した性倒錯の世界だ。常人の想像を超えるハードSMの現場でサイコ殺人が連続する。タイトルは死体のまぶたが切り取られるところから来ている。作者は犯人あての興味も手堅くそこに仕込んでみせる。異常性愛のハードプレイと殺人の境界はどこにあるのか? 読者は、異常な精神世界を共にする閉鎖集団こそ謎解きミステリの有効な土壌であったことを、思い出すだろう。

 捜査側は、女性刑事とFBI行動科学課の補佐役から成る。ここでは流行の意匠が無難に採用されている。徹底した倒錯世界において、性行為における性差、役割の固定は無意味になる。一般の性行為でならありうる性差別は起こりえないという。単なる猟奇殺人というレベルを超えた思索も展開されるこの作品は、このジャンルの一側面を代表する。


 作者は以降、別の路線に切り替え、グアテマラを舞台にしたポリティカル・サスペンス『狂気の果て』1992(新潮文庫)などがある。


2023-10-19

6-1 ウィリアム・ディール『真実の行方』

 ウィリアム・ディール『真実の行方』Primal Fear 1993
William Diehl(1924-2006)
田村義進訳 福武文庫 1996.9

 リンジーとは逆に、このジャンルには、新規参入組が多い。こぞって『羊たちの沈黙』を超える(と謳った)世紀末的な作品を饗宴していったのだが、おおかたは宣伝倒れに終わった。


 ディールの場合も、『フーリガン』1984(角川書店)、『タイ・ホース』1987(角川文庫)といった冒険アクションがすでにある。『真実の行方』は一転して、法廷ものだ。

 カトリックの聖職者が殺される。容疑者は一人、その有罪は疑いないようにみえた。ここに介入してくる主人公の凄腕弁護士。有罪を無罪に変える法廷の魔術師といわれる男だ。真実の行方が白紙にもどったところでストーリーが進行する。O・J・シンプスン事件のような現実の判例が示したように、アメリカの裁判は真実の黒白をつけるにあたって独特のシステムを採用する。冤罪による極刑があるのだから、論理上ではその逆の、逆転無罪判決が強行されても不思議はないわけだ。有罪の人物が術策を弄して無罪を掠め取ろうとする話も少なくなかった。ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』1993(創元推理文庫)、ジョン・カッツェンバック『理由』1993(講談社文庫)など。後者は人種問題も含んでいる。

 『真実の行方』もこのパターンで、手段を選ばない弁護士が話を主導していく。これだけなら法廷ミステリだが、作者はここにサイコ仕掛けをプラスした。ただし結末には賛否両論があるだろう。

 同一パターンのもっと軽い作品はあるが、タイトル紹介は省略したい。そのアイデアはこうだ。ABCDEと五つの人格が解離した多重人格者がいるとする。Eの人格のときに犯した殺人について、記憶の連続していないAの人格は責任を取ることはできない。被疑者がAの人格として出廷すれば、彼は無罪である。……というアイデアで、気の利いた法廷サイコ・ミステリが一丁上がりになるわけだ。

 人格交換のゲーム性は、その見地からのみみるなら、恰好のミステリの題材といえよう。しかし取扱いには細心の注意が必要だ。

2023-10-17

6-1 ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』

 ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』The Bone Collector 1997
Jeffery Deaver(1950-)
池田真紀子訳 文春文庫 1999

 『ボーン・コレクター』はサイコ型の警察小説としては、久しぶりの大ヒット作となった。

 成功の要因は、一に捜査官ヒーローの独創、二に敵役キラーのバランスのいい設定にある。それだけでなく、巧みなストーリー操縦術とあざといばかりのドンデン返しもプラスした。作者は意外性にこだわりすぎる傾向もあるが、この作品ではさほど気にならない。

 ヒーローの独創とは、その肉体にある。手足がまったく動かない。事故の後遺症で四肢麻痺者になった男。これが、元市警の科学捜査専門家にして、科学捜査法とFBIふうのプロファイリング技術を兼ね備えた名探偵だ。首から下で動かせるのは指一本だけ。文字通り頭脳のはたらきだけで存在する「思考機械」だ。頭脳を酷使しすぎたストレスで発作を起こすとき最も人間的になる。

 その手足となって働く助手役には、手堅く女性警官があてられている。

 対する殺人鬼も負けず劣らず、創意工夫のキャラクターだ。犯行現場には必ずメッセージと偽の手掛かりを残していく。ボーン・コレクターという異名は彼の誇りなのだ。

 寝台に寝た「思考機械」に指示されて女性警官が殺人現場を克明に捜査する場面は、物語の一つのハイライトだ。無線でつながっている彼らの会話。彼女は手錠で縛られた被害者の遺体を調べ報告せねばならない。彼は死体の手首を切断して、証拠品として持ち帰るように命令する。こうしたやりとりは『羊たちの沈黙』が描いた捜査コンビの巧妙な発展なのだが、作者は独自のものをつけ加えたといえる。

 最新の科学捜査の成果を取り入れる点でも、作者は貪欲なところをみせた。それは頭脳活動以外の面で決定的なハンデを背負ったヒーローの造型によって、いっそう鮮烈な印象を帯びることになった。シリーズは勢いをもって、『コフィン・ダンサー』2000(文藝春秋)など早くも五作を数えている。

2023-10-16

6-1 グレッグ・アイルズ『神の狩人』

 グレッグ・アイルズ『神の狩人』Mortal Fear 1997
Greg Iles(1960 -)
雨沢泰訳 講談社文庫 1998.8

 『神の狩人』はインターネット殺人鬼を扱って成功したケースだ。失敗の例は数多くあるが、その理由まで詮索しなくてもいいだろう。ヴァーチャルな空間とリアルな殺人のスペースとがいかにして交差するか。そこにはアイデアがそのまま説得力あるストーリーに直結していかない様々な困難がある。

 セックス専門のサイト「EROS」を舞台に出没する殺人鬼。サイト会員は不特定多数に広がっているが、コアなメンバーは秘密クラブのエリートにも似た紐帯で結ばれている。セックスが物語の根幹を占めている点では、『悪魔が目をとじるまで』と双璧だ。

 サイバースペースの匿名コミュニケーション・システムが、殺人という絶対のコミュニケーションによってその匿


名性を破壊される。犯人は犯行の発端からその全身像をさらしている。その像はネット空間のものだから、リアルなレベルでは意味を持たない。サイバースペースを泳ぎ被害者を自在に物色する犯人の姿は奇妙に魅惑的で、戦慄をもたらす。インターネット時代が発明した透明人間。しかもこれは現実の一端なのだ。

 主人公がネット上で犯人との会話を試みる長いシーンが出色だ。彼は女性人格に仮想してチャットを挑んでいく。犯人は第一声を放つ。「きみの会話にはパターン化したミスがあるね。音声認識ユニットを使っているのか?」と。そう語るからといって、彼が男である証拠にはならない。会話は、両者の頭脳戦・心理戦であるとともに、サイバー・コミュニケーションのすべてがそうであるように、仮装ゲームでもある。三次元ではないが、かといって四次元まではいかない。三・五次元ほどの不徹底な、しかし未知の空間で展開するゲーム。

 『神の狩人』は新たなサイコ空間を小説にもたらせた。


2023-10-15

6-1 トマス・ハリス『ハンニバル』

 トマス・ハリス『ハンニバル』Hannibal 1999
Thomas Harris(1940-)
高見浩訳 新潮文庫 2000.4

 しかし九十〇年代全般にわたって、サイコ・ミステリに底流したトピックは「トマス・ハリスの沈黙」だった。待たれたのは人喰いレクター博士の復活だ。この点、理由は単純なヒーローへの待望の他にもう一面ある。「怪物と向かい合う者は、その深淵を覗き、同時に深淵から覗きこまれるのだ」というニーチェの言葉は、FBIプロファイラーによって別の照明を当てられた。怪物とはサイコ・キラーだ。ハリスの沈黙は、作家が「深淵から覗きこまれ」そこに招かれてしま

ったことを意味するのではないか。沈黙は怪物との争闘からの敗北を示すのではないか。レクター第三作が待たれた裏には、こうした懸念も多くあったと思える。

 七年の後、レクターは外国での逃亡生活のさなかに捕捉される。彼に不具にされた億万長者が懸賞金をかけていたのだ。FBI組織のなかで孤立を深めるクラリス捜査官もこの追跡劇に関わってくる。物語の多くの部分は、英雄が追いつめられ逆襲に出る冒険アクションに費やされる。残りは、英雄譚の念入りな注釈だ。

 ハリスは自らがきりひらいたサイコ・ミステリという領域の幕引きも兼任したというわけだ。彼は端的にいう。もはやサイコ・ミステリは成立しない、と。それは、作家の


沈黙によってではなく、別ジャンルの作品を書くことによって証明された。その事実は人を安堵させるものがある。ともかくも「怪物との争闘」にはっきりした一区切りが、作家の側から与えられたわけだから。

2023-10-14

6-2 マックス・アラン・コリンズ『リンドバーグ・デッドライン』

 マックス・アラン・コリンズ『リンドバーグ・デッドライン』Stolen Away 1991
Max Allan Collins(1948-)
大井良純訳 文春文庫 2001.1


 伝統の欠如、誇るべき民族的記憶の希薄。アメリカ社会についてよくいわれる論点だ。この国はしばしば、国民国家としてよりも、統合国家としては変則的な、多民族社会のモデル・ケースとして考察される。とはいえ歴史功利主義はどんな社会にも発生する。アメリカと非アメリカが忠誠の証しのシンボルにされた時代もあった。それほど昔のことではないし、完全に払拭されたわけでもない。

 功利主義は、教訓を過去に求めようとする。伝統がなければ、あったように取り繕う。現在の正当化に都合のいい項目のみを過去から拾ってこようとする歴史教育は、どこの国でも至便な支配イデオロギーであるだろう。

 『リンドバーグ・デッドライン』は実話をもとにした現代史物語だ。ネイト・ヘラーという私立探偵のシリーズ主人公を現実の歴史的事件に噛み合わせて「時代」を再構成する試み。歴史ノンフィクションに私立探偵小説の風味と必要最小限の虚構〈フィクション〉を割りこませる方法だ。


 これは多くの書き手が手軽に選ぶ方法だが、コリンズの場合は、ファクトを取り入れる割合が比較的大きい。想像力は限定されるが、それだけ安心して読める。事実に依拠している部分が多いので、むしろ歴史ミステリと受け取れる。

 本作は『シカゴ探偵物語 悪徳の街1933』1983(扶桑社文庫)から数えて五作目。題材はリンドバーグ事件だ。飛行機による大西洋横断に初めて成功した、「翼よあれがパリの灯だ」の空の英雄リンドバーグの愛児誘拐事件である。よく知られた二十世紀のトピックに新発見の事実とかがつけ加えられるのではない。再構成されたエピソードのはざまに、フィクションの人物が孤独なダンスを踊る。私立探偵という人工的な存在の居場所はミステリのステージからじょじょに消えていった。もはや彼にとって最適の場所とは、過去の実話のなかだけかもしれない。歴史上の人物の列に配されることによって、やっと彼は、現実味を取りもどすのだ。


 ここには、ハードボイルド都市小説の可能性についての控え目な提言が見い出せるだろう。


2023-10-13

6-2 ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』

 ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』White Jazz 1992
James Ellroy(1948-)
佐々田雅子訳 文藝春秋 1996.4 文春文庫 1999.3


 歴史はもうもう一人のタフガイによって、別様の再構成を試みられている。彼は慎み深さとは最も遠い人物だ。彼は起点を五〇年代に求める。
 それ以前の歴史には興味がないのか、あるいはまったく無知なのかもしれない。エルロイの疾走(暴走?)はすでに、『ブラック・ダリア』において始まっていた。ロサンジェルス年代記は、『ビッグ・ノーウェア』1988、『LAコンフィデンシャル』1990(ともに、文春文庫)とつづいて、ここに完結した。殺意と怨念の原点たる五〇年代。彼に、彼にのみ特有の、損なわれた時代。スピレーンの暴力的夢想とマッカーシー議員の妄想プロパガンダに隈取られた時代。彼の呪わしいノワールの原点はそこだ。

 猟奇殺人と「アカ狩り」とセックス・スキャンダル。――男が男であった時代? エルロイの主人公はさらに悪徳警官タイプに求心してくる。制服を着てバッジをつけた悪党が跋扈する暗黒の「神話」。年代記の文体もまた彼のなかで沸騰してくる。記事、報告書を適宜さしはさんでいくモンタージュの方法ばかりではなく、ストーリーの叙述も変容する。過剰で歪んだ情念の物語は、切り詰められたスタイルに押しこまれる。修飾語を削り取った文章は前のめりに切迫する。心象風景を凝縮する名詞がぶつ切りのまま投げ出される。真っ黒〈ノワール〉なかたまりがページを埋め尽くす。


 『ホワイト・ジャズ』はその完成体だ。暴力の詩人。センテンスは構文をていするより先に断ち切られ、爆発を繰り返す。科白とト書きだけのシナリオ状態の描写。

 《焼ける。熱く/冷たく――首筋、両手》

 ――これはほんの一例だ。断片は解体された人間の正確な反映かもしれない。暴力の使徒となってばらばらに壊れてしまった人間像。

 待てよ。これはどこかで見かけた「風景」なのではないかと思う。そうだ。ハメット、ヘミングウェイ、ドス・パソスが試みたこと。エルロイはそれ以上の極地を求めたのだろう。結果がパロディに随したかどうかについては諸論がある。だが、叙述の外面は破壊されてしまっても、彼のなかの悪辣なストーリー・ライターと歪んだ歴史修正主義者は生き残っている。

 エルロイはある種のエッジを示してはくれる。もちろん登りつめた頂上からどうやって降りるかは、まったく別の問題だ。

2023-10-12

6-3 デイヴィッド・ハンドラー『女優志願』

 デイヴィッド・ハンドラー『女優志願』The Boy Who Never Grew Up 1991
David Handler(1952-)
北沢あかね訳 講談社文庫


 とはいえ、コリンズやエルロイの試行は例外とみなしておくほうがいいだろう。歴史は、とくにミステリ作家にとっては、もう少し自在なキャンパスとして受け止められているはずだ。イマジネーションを投げこむ場所が煉獄であったりすれば、無事にもどってくることが難しいからだ。

 ノスタルジアは重要な標識だ。安全か否かを保証してくれるという意味でも。

 ジョン・ダニングが古書マニアの警官を主人公に出世作『死の蔵書』1992を書いたときも、稀覯本の世界にまつわる堅固な過去イメージを利用することができた。

 ウォルター・モズリーは、彼の人種的テーマと創作を調停するために黒人私立探偵の主人公の物語を五十年代の近辺から始めた。『ブルー・ドレスの女』1990から始まるシリーズに過剰なところは何もない。かえって、そうした設定はモズリーが人種問題の現在を慎重に回避するのに役立っている。

 ジェイムズ・サリスも黒人私立探偵のシリーズを問うているが、成立はもう少しややこしい。『コオロギの眼』1997などの作品は六〇年代の経験を再考する欲求にささえられているようだ。

 ゴーストライター、ホーギーを主人公とするハンドラーのシリーズも基調は回顧趣味にある。ホーギーは若くして「天才作家」ともてはやされて成功した。しかし才能は一発屋で終わり、もっぱらゴーストライターで糊口をしのぐことになる。彼に代作を依頼してくるのは、不思議と彼に境遇の似た人物ばかり。かつては成功したが今は尾羽打ち枯らしたひがみっぽい性格に変わっている。その人物がトラブルを抱えていて、代作仕事そっちのけで事件が進行していく、というのが常套の進行だ。

 『笑いながら死んだ男』1988では元人気コメディアン。『真夜中のミュージシャン』1989ではロックンロールのかつてのスーパースター。『フィッツジェラルドをめざした男』1991ではホーギー自身とよく似た才能の枯渇した作家。それぞれ騒動の種になる人物は似たり寄ったりだ。題材から予想されるような暗く湿りがちなところはまったくない。主人公は挫折について、お気楽なポーズを取るのみだ。得意のへらず口には少しも自虐が混じらない。何よりノスタルジアが救いになっている。扱われるのは溯った時代背景だが、ショービジネス界や音楽界や文壇のインサイドストーリーもおまけについてくる。

 『猫と針金』1991、『女優志願』『自分を消した男』1995、『傷心』1996(以上、すべて講談社文庫)と、映画界の内幕ものが多くなっていく。成功と挫折がおりなす人生の明かるみと闇。代作者を頼む者たちのほうがむしろゴーストライターのゴーストにも映ってくるシリーズの持ち味はなかなか得がたい。斜めに構えたノスタルジック・ハードボイルドにも読める。


2023-10-11

6-3 フェイ・ケラーマン『慈悲のこころ』


 フェイ・ケラーマン『慈悲のこころ』The Quality of Mercy 1989
Faye Kellerman(1952-)
小梨直訳 1998.6 創元推理文庫

 『慈悲のこころ』は十六世紀末、ペストの蔓延するロンドンを舞台にした冒険活劇だ。主人公は若き日のシェイクスピア。歴史ミステリとはいっても、時代絵巻にかかる力点が強い。

 ケラーマンは、『水の戒律』1986に始まる、ロサンジェルスを舞台にした警察小説シリーズでも知られている。このシリーズのもう一人の主役はユダヤ人コミュニティの女性教師だ。シリーズ人物にマイノリティの性格が加わるの


は新しい傾向だが、その流れの一つ。

 なお、ケラーマンはロス・マグドナルド=マーガレット・ミラーに次ぐ夫婦ミステリ作家。夫ジョナサンには小児精神科医を主人公にしたシリーズがある。


2023-10-10

6-3 ウィリアム・ヒョーツバーグ『ポーをめぐる殺人』

 ウィリアム・ヒョーツバーグ『ポーをめぐる殺人』Nevermore 1994
William Hjortsberg(1941-2017)
三川基好訳 扶桑社ミステリー文庫 1998.12

 探偵役をもう少しミステリに親しい人物に設定する試みも、もちろん見つけられる。ホームズ譚の生みの親コナン・ドイルはなかでも定番的キャラクターといえるだろう。ドイルは人気ミステリ作家としてのみでなく、オカルト心酔者としても知られる。心霊論者としては不人気だが、こちらのほうが歴史ミステリに登場させるには都合がいい。

 脱出王の奇術師フーディーニとの友情。それがフーディーニの心霊術批判によって亀裂をみてしまったことも、利用しやすいエピソードだ。

 ドイル&フーディーニ・ミステリの一つは、ウォルター・サタスウェイト『名探偵登場』1995だ。奇術師、霊媒、幽霊、心理学者、護衛などが入り乱れる降霊会で起こる密室殺人と、往年のロースンを思い出させるにぎやかな道具立てで迫る。

 『ポーをめぐる殺人』のほうも趣向の凝り方では負けていない。二〇年代のニューヨーク、ポーの小説を見立てにした連続殺人が起こる。たとえば「落とし穴と振り子」……。探偵役はドイルだが、彼のもとにポーが霊魂のかたちで降り立つ。たんに夢の枕元に立つ人物にとどまらない。ポーは「おれこそ実在であって、きみドイルのほうが未来から迷いこんできた亡霊なのだ」などと、深遠なことをのたまう。ありうる設定だと思わせるところが秀逸だ。

 ポーの決め科白は、いうまでもなく「大鴉」の詩句に封じこめられた「ネヴァーモア」の一言だ。もはやない。これを作者は小説の原タイトルに使ったのだった。

 さらにはポーを主人公にした一作がある。スティーヴン・マーロウ『幻夢 エドガー・ポー最後の五日間』1995(徳間文庫)だ。ポーが巷間に横死を遂げる「死の直前」を想像力的に復元してみせた。正確にいうと、主人公はポーではなく、瀕死の状態で幻夢をつむぎ出すポーの幻覚のほうだ。行き倒れになって絶命したことは有名な事実、死の前の五日間は謎のままである。物語はその期間に特別の行動があったとは示さない。その期間にポーのイマジネーションがどれだけ飛翔したかを語っていく。まさにグロテスクとアラベスクのファンタジー。幻想文学のマスターを巧みに利用した、じつに味わい深い幻想小説だ。


2023-10-09

ルイス・シャイナー『グリンプス』

 ルイス・シャイナー『グリンプス』Glimpses 1993
Lewis Shiner(1950-)
小川隆訳 創元SF文庫 1997.12
    ちくま文庫 2014.1


 六〇年代はロック世代にとっては、まぎれもなく「偉大な文化革命」が実現した栄光の日々でありつづける。しかしこういった手放しの情感は、ふつうミステリには流入しにくい。無理にこじ入れても珍品ができあがってしまう。先にあげたサリス作品はかなり屈折にみちて善戦しているほうだ。これは一つに、六〇年代への回顧が、ある特殊な層をのぞいては、身勝手な自己顕示以上のものになりえないからだ。

 『グリンプス』は、SFファンタジーの形で時代への愛惜を歌い上げた数少ない成功例だ。伝説の時代はそれにふさわしい幻を持っているものだ。録音された事実は確認されているけれど音源が見つからない幻のセッション。ステレオ修理屋の主人公レイがこの幻を耳にするところから物


語は始まる。過去を再現して、あの時代の栄光をふたたび幻視しようとする空しい願望。誰もが遠くまでトリップした。トリップしすぎて帰ってこなかった者はいるが、それこそが栄光だった。

 彼は、ジミ・ヘンドリックスが一九七〇年に死なずに済む工作にかりたてられる。死と瞑想と精神拡張、世界を一変させたロックという幻。ジミ・ヘンの「蘇生」は成功するが、かえって彼は多元宇宙の迷路にはまりこんでしまう。死者の送りつづけるメッセージは変更しようがない。


2023-10-08

6-3 シオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』

 シオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』Flicker 1991
Theodore Roszak(1933-2011)
田中靖訳 文藝春秋 1998.6
    文春文庫 1999.12

 六〇年世代にとって、このゴシック・ミステリの作者の名前は驚きだった。ローザックはカウンター・カルチャーの理論家として記憶されていたからだ。

 それはともあれ、驚きは、幾重もの複雑な仕掛けで送りだされたこの小説の迷宮に向かった。すぐれた映画評論はしばしば常軌を逸しているし、或る映像作家について書かれた書物がその作家の作品自体よりはるかに豊饒で面白い、という皮肉もありえる。この小説の半分は、そうした破格の映画評論の質を備えている。埋もれた映像の天才を発見していく物語は、映像作品から自立して輝く批評者の眼のきらめきに満ちている。虚実入り乱れる映画論の魔力を目の当りにすると、ほとんど無尽蔵な創作材料が二十世紀の映画史には埋められているのではないかという錯覚にすらおちいる。

 フィルムのジャングル探索がこの小説の半面だとすれば、もう半面は異端教団の謎を追うカルト・ミステリだ。芸術家小説には満足できない人向きの受け皿もきちんと備わっている。




2023-10-07

6-3 ダン・シモンズ『諜報指揮官ヘミングウェイ』

 ダン・シモンズ『諜報指揮官ヘミングウェイ』The Crook Factory 1999
Dan Simmons(1948-)
小林宏明訳 扶桑社ミステリー文庫  2002

 『諜報指揮官ヘミングウェイ』は実在の人物を主人公にしたイフ・ノベルの趣向だ。第二次大戦秘話のポリティカル・フィクション。冒険スパイ小説だ。一九四二年、ハバナに住み、私設民間防衛組織を動かしていたヘミングウェイを主人公とする。物語の九五パーセントは真実だと作者は保証している。文豪の伝記に《ルーカスと呼ばれていた寡黙な男は、その名前以外、だれも彼の出自を知らなかった》とある一行が虚構の入口だ。小説は、この男に、FBI特別捜査官の身分を与え、語り手の役を振って進行していく。

 この時期に関する多くの伝記の記述は、あてにならないと作者はいう。ヘミングウェイは、対ドイツの諜報組織をつくり、ハバナに潜入しているドイツ工作員や近海に出没するUボートの動きを監視していた。果たしてそれ以上の


行動はあったのか、なかったのか。

 登場する実在人物は、イングリッド・バーグマン、マリーネ・ディートリッヒ、ゲーリー・クーパーなどのスターから、若き日のジョン・F・ケネディ、イアン・フレミングなど多彩だ。

 作家は、スペイン義勇軍への参加体験を、ベストセラー小説『誰がために鐘は鳴る』として問うた後だった。ヘミングウエイの旺盛な作家的ヒロイズムと行動派としての飽くなき野心は、キューバという局地的情勢にあっていかなる謀略に包囲されていたのか。あるいは、されていなかったのか。

 この小説は、たんに歴史秘話への好奇心をかきたてるのみでなく、ヘミングウェイ文学にたいする限りない愛惜によって裏打ちされている。《一九六二年七月二日、アイダホ州の新居で、彼はついに決行した》という書き出しの一行に、その点は明らかだ。彼を猟銃自殺にまで追いつめたもの。それが彼の個人性に帰されるのではなく、アメリカ作家を固有に襲う不可避の運命であったことを、作者はよく理解していた。

 成功と名声の絶頂においてすら作家を恐怖させた不安。それは一九四二年のハバナにおいてもすでに明瞭に形をなしていた。

 外界と他人へのとめどない猜疑心、タフガイの仮面のうちに隠された臆病さ。そういった個人的資質が彼を追いつめたのではない。彼はアメリカの作家をとらえる超個人的な運命に殉じたのだ。とシモンズは物語の全体をこめて表明している。

2023-10-06

6-4 オットー・ペンズラー『愛の殺人』


 オットー・ペンズラー『愛の殺人』
Murder for Love 1996
Otto Penzler(1942-)
田口俊樹他訳 ハヤカワミステリ文庫 1997.5

 『愛の殺人』は、短編こそミステリの精髄だという信頼を新たにさせる。短編嗜好に応じた試みのうちでも異彩を放つ一冊。短編アンソロジーは数多いが、目利きの選択眼を売り物にした短編集がほとんどだ。編者が見識をもって書き手を選び、オリジナルの新作を書かせ、それが成功した例は珍しい。しかも内容のグレードが高い。

 編者ペンズラーは、評論家・研究者として活躍する一方、ミステリ専門の出版社・書店を経営する。このアンソ


ロジーでは編集者としての手腕も示した。ほとんど短編を書いたことのないミステリ作家から、メインストリーム文学の書き手まで、編者の個性は際立っている。『シークレット・ヒストリー』1992一作のみで知られるドナ・タートの詩が並んでいるのも編者ならではだ。

 集中では、マイケル・マローン「赤粘土の町」がベスト。

 続編に『復讐の殺人』1998がある。


2023-10-05

6-4 ローレンス・ブロック『殺し屋』

 ローレンス・ブロック『殺し屋』Hit Man 1998
Lawrence Block(1938-)
田口俊樹訳 二見文庫 1998


 ケラーという名のキラーの短編シリーズ。原タイトルは端的に「ヒットマン」だ。ニューヨーク派の書き手ブロックは短編の手練れとしても定評がある。飲まなくなった(元)アル中探偵のシリーズも書きつづけているが、ヒットマン連作がヒットした。短編十編をまとめて一冊にしてみると、いっそう引き立った。

 ケラーは古典的な殺し屋だ。書物のなかでしか存在感がない。報酬と引き換えに殺しを請け負う専門家――大衆的な映画やミステリで数かぎりなく登場してきたので、人びとは殺し屋のことを隣人みたいに親しく思っているかもしれない。任務をまっとうするたびにケラーはディレンマにとらわれる。哲学的思索を好むのではなく、いわば行きがかりで悩むことになる。人口を減らす職業のはずが、人助


けする世話好きのヒューマニストを演じてしまったりする。彼の行動はいつも皮肉だが、彼自身は皮肉屋ではない。

 書物のなかにも現実の世界にも、もっと大量にもっと残酷に殺す奴らがはびこり始めた。彼らはアマチュアにすぎないのに、アベレージでプロを上回る。彼の不満はそうした方面からも発してくる。書物のなかですら自分が何者であるかを充分にアピールできないからだ。これは誇りを持てるかどうかとは別のことだ。「殺し屋の話だって。だれが読むんだ、そんなもん」――彼なら憂鬱そうにつぶやくだろう。




『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...