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2024-04-05

2-8 エラリー・クイーン『災厄の町』

 エラリー・クイーン『災厄の町』Calamity Town 1942

妹尾韶夫訳 新樹社ぶらっく選書1950.4、早川書房HPB1955.7
能島武文訳(ライツビルの殺人事件 ) 新潮文庫 1960.10
青田勝訳 『世界ミステリ全集3』早川書房 1972.8
 早川書房HPB 1975.10、ハヤカワミステリ文庫1977.1
越前敏弥訳 ハヤカワミステリ文庫 2014.12

 クイーンは若くしてアメリカン・ミステリの純粋培養体だった。伝統なき社会、常に相対化される正義の観念に囲繞され、ひたすら人工的なミステリ空間での答えを求道していく。貴公子から「王」への道を歩む作者の悪戦苦闘は、そのまま才能にあふれた青年探偵の試行錯誤に映し出されていく。作家クイーンの軌跡は、探偵エラリーが成人として社会性を学び取っていくプロセスと重なり合う。作家は主人公とともに成長していった。

 クイーンの成年期は、ニューディールの改革が実を結んできたよりも少し遅れて訪れた。それは天才少年が受ける試練にも似ていた。ハリウッドに飛んでいくつかの事件を解決したあと、彼は地方に、田園地帯におもむく。『災厄の町』に始まるライツヴィルものの開始だ。予告は、エラリー・クイーン・ジュニア名義の子供向けミステリのシリーズでなされていた。

 同じ時期に、編集者、アンソロジスト、研究者、書誌学者としての仕事も開花している。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)の創刊は四一年のことだ。アンソロジーや雑誌につけた、作家紹介や作品紹介の短いコラムには、批評家としてのクイーンの炯眼がきらめいている。

 アメリカの発見はクイーンの第二期を特徴づける。田舎町に表われる人間模様が普通の人びと、どこにでもいるアメリカ人の肖像を映していた。旧家の三人姉妹という様式性はまだ残っていたが、次女ノーラとジムの葛藤を中心とする物語は、国名シリーズの稚気を大きく踏み出していた。ここにあるのは、エラリー好みの謎ではなく、人間の心理に潜む秘密だった。探偵は自己探求をつづける人物たちの一人にすぎない。

 定型ミステリのルールを解除してしまった結果、この作品には、いくらかの綻び、もしくは不安定が生じている。探偵が役割を果たせないこと、妻殺しの容疑をかけられるジムの人間像がぼんやりしていること、ジムの筆跡による三通の手紙の効果が生かされていないこと。模索はまだもどかしい達成しか見ていない。だが一歩は踏み出されたのだ。

 ミステリの自己発見はその形式の自明性のなかにしかない。そして、アメリカの自己発見とは、常に現にそこに在りながらも欠如として感受される「アメリカ人であること〈ビーイング・アメリカン〉」を発見せねばならない、という衝迫だ。アメリカ人はアメリカ人であるにもかかわらず、自分がアメリカ人であることを充全に感じられない――という独特の条件に縛られている。クイーンの苦闘は二つの方向にかかっていた。


 初期の、ミステリの形式論理のなかで自足していた問いかけは、別の外界と衝突することによってさらに錯綜した応答を強いていくのだった。


2024-04-04

2-8 ウィリアム・フォークナー『八月の光』

 ウィリアム・フォークナー『八月の光』Light in August 1932
William Faulkner(1897-1962)
高橋正雄訳『世界文学全集45』河出書房 1961
加島祥造訳 新潮文庫 1967.9
須山静夫訳 フォークナー全集9 冨山房 1968 
諏訪部浩一訳 岩波文庫 2016.10
黒原敏行訳 光文社古典新訳文庫 2018.5

 フォークナーがミステリ文献でふれられるエピソードは派生的なものに限られるようだ。先に記したような脚本家としての貢献。あるいは、狭い意味のミステリにあてはまる『ナイツ・ギャンビット』(「駒裁き」『フォークナー全集18』冨山房)への言及。多くみられるのが、『サンクチュアリ』1931という彼の最もストレートで暴力のイメージにあふれた物語を、犯罪小説としてあつかう観点だ。この作品は、しばしばミステリの名作リストにもランクされる。

 たしかにそこに登場する不能の強姦者ポパイは、同時代のタフガイ小説の類型からはみ出すばかりでなく、遠く時代を経たサイコ野郎を先取りする特異なキャラクターだ。たとえばケインの小説などとの比較も面白いだろう。

 『八月の光』の主人公の一人ジョー・クリスマスは、ポ


パイの再来ともいえる。寡黙で魂を引き裂かれたタフガイ。彼は自分が何者であるか探る能力を持たない。有色人種であるクリスマスは、どんなタフガイとも問題を共有していない。ここにこそ、フォークナーと彼の作品の重要性がある。

 白人と黒人との民族混合は、彼が一貫して追求してきたアメリカ南部のゴシック的テーマだ。白と黒との混成は決して共生ではない。混成は、しばしばフォークナーのイメージにおいて、悪夢として捉えられていた。クリスマスの日に孤児院に捨てられていた男。彼の名はそのことを意味するだけだ。白い皮膚をした混血の男。血に流れこんだ物語の過剰さに比べて、彼の内実は貧しい。貧しさそのままの出来合いの名前。彼の父親はサーカス芸人(黒人かメキシコ人だった)。彼の誕生の前に、白人女と関係したことによって殺された。クリスマスは、個人的な意味からも社会的な意味からも、だれにも歓迎されないで生まれ落ちてきた。白い皮膚と黒い心の仮面。

 性にまつわる混血への恐怖。それはフォークナーのゴシック世界を縁取る基底的な感情だ。グロテスクな混血人間は彼の作品のなかに充満している。

 黒と白とが交わる獣じみた快楽模様は、『八月の光』の底に沈んだ主調音でもある。それは、クリスマスと宗教家の中年女ジョアナ・バーデンによって演じられる。その淫乱と憎悪(彼らが愛し合っていたとは作者は保証しない)ぶりを描くのに、作者は、コミック風ともいえる大げさな比喩を連発することも辞さない。異様なほどに誇張されたイメージを多用する。

 作家はむろんレイシズムの現状について有効な答弁をしたわけではない。何らかの生産的な提言をなしえたわけでもない。作家の仕事は、彼らの運命を翻弄する巨大な力を読者に目の当りにさせることだ。フォークナーは最深度ともいえる洞察をそこに下したいえよう。

 人物としてのクリスマスにはほとんど行動の自由はない。彼は白人社会からも黒人社会からも遮断される。彼の居場所はどこにもない。自分を保護し、性的な意味だけでもパートナーとなってくれた女性を殺し、私刑を受ける。筋書きだけを取り出せば、およそ陳腐な類型にみえるかもしれない。しかし作家が言葉を尽くして投げ入れた内実は示唆的だ。

 『八月の光』のドラマは、その二人によってのみ動いていくのではない。彼らは眼前に乱舞する巨大な影のような存在であり、その背後にはリーナという素朴な人物がいる。赤ん坊を生みに町にやってきた若い女。忍耐と光に満ちた彼女を通して、二人の煉獄は救済されるといってよい。だが物語のなかで鎮められたにせよ、クリスマスによって体現された恐怖は現実にはいかなる調停も得られなかった。


2024-04-03

2-8 リチャード・ライト『アメリカの息子』

 


リチャード・ライト『アメリカの息子』Native Son 1940
Richard Wright(1908-60)
橋本福夫訳 『黒人文学全集』早川書房 1961、 ハヤカワ文庫 1972
上岡伸雄訳 新潮文庫 2022


 そして問題は黒人作家の先行的な一人、ライトに引き継がれる。『アメリカの息子』が出たとき、人種間の問題をミステリ領域で受け止めるだけの素地がどれだけあっただろうか。

 『アメリカの息子』は二つの殺人をあつかっているが、犯罪小説というより、むしろ『アメリカの悲劇』のような古いタイプの自然主義小説の近縁として読める。ドライサーの小説にライトがつけ加えたものがあるとすれば、作者のアフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティのみだ、とする元も子もない見解もあるだろう。古びた人種差別抗議小説、というのがこの小説への分類項目だ。

 白人・黒人の人種対立はアメリカのレイシズムのすべてではないが、主要なものだ。現在も変わらない。何よりアフリカにルーツを持つ黒人は、合州国に自らの意志で移住してきた民族集団ではない。十九世紀のなかば過ぎまで奴隷制度を手放さなかった南部諸州は「市民戦争」に敗退したとはいえ、依然として風土に根ざす習慣を捨てていなかった。レイシズムも「習慣」と呼びうる。

 ライトは南部の生まれ。北部の都市部に移動した黒人知識人の一人。一時期、共産主義者だった。

 『アメリカの息子』の主人公ビガー・トーマスは二十歳の青年。作中では少年〈ボーイ〉と指定され、またタイトルも「ネイティヴ・サン」だ。リベラルな白人の住みこみ運転手の職を得るが、そこの娘を事故で死なしてしまう。過失を隠すために、また、殺人(と強姦)の疑いをかけられるのを避けるために、ビガーは娘の死体を地下の焼却炉で焼く。彼の犯罪は、死体隠匿によって、より殺人に近くなる。

 彼は逃亡を重ね、厳寒のシカゴの街を逃げまわった末、逮捕される。その過程で、ビガーは彼を助けた黒人娘ベシーをも殺してしまう。二件の「殺人」が彼の犯罪の内容だ。

 犯罪は、アメリカにおいて黒人であることの意味を考察するための、一つの手段だ。ライトは、『アメリカの悲劇』がとった三部構成を採用している。だがビガーの行動は典型的というより、夢幻的で孤立した印象をもたらせる。彼はどこにでもいる黒人青年ではなく、誇張されたマイナスの性格を多く負わされている。知性は平均以下、性格も粗暴で思いやりに欠ける。容貌も、黒人種の黒さ醜さが際立つ。

 デフォルメはキャラクター設定のみならず、技法処理にもみられる。作者は、故意に、自然主義的な粗野な書き方を選んでいるようだ。しかも、主人公が逮捕された後の第三部を、アメリカ黒人の運命に関する長々しいディスカッションにあてる。この小説だけ読むと、ライトが小説の技法に無頓着な素朴な書き手だと勘違いするだろう。だが、あえて作者は古い技法にしたがい、構成上の欠陥も修正せずに済ましたと思える。

 黒人のマイナス面を肥大させた人間像を問うことによって、ライトが黒人の民族性について限られたヴィジョンしか呈示しえなかったという後代の評価がある。それは誤りだ。彼ほど雄弁にそして能弁に語った者はいない。一つの犯罪は、複雑な社会構成にあって、さまざまな照明を当てられる。ビガーの選択は不可避なものであり、都市の黒人のだれにでも起こりうる状況だった。

 すでに黒人が独自性を示す文化領域は大きく拡がりつつあった。スポーツや音楽などの分野でも、黒人の活躍は目立ってきていた。しかし社会がレイシズムの環から脱却するには、まだ遠い道のりが横たわっていた。

 ライトは『アウトサイダー』1953(新潮社)においてもう一度、デスペレートな反逆者の像を描く。クロス・デイモンと名づけられた主人公は、十字架と悪魔を不吉に背負っている。彼は地下鉄事故で死んだとみせかけ、新たな身分を詐称して生まれ変わろうとする。彼もまた殺人者であり、ファシスト一人とコミュニスト二人を殺す。殺人というメタファーに表われた算術は、作者の混迷を経た思想的到達点でもあるだろう。



『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...