ラベル

2023-09-30

6-5 ポーラ・L・ウッズ『エンジェル・シティ・ブルース』

 ポーラ・L・ウッズ『エンジェル・シティ・ブルース』Inner City Blues 1999
Paula L. Woods(1953-)
猪俣美江子訳 ハヤカワミステリ文庫 2003.6


 『エンジェル・シティ・ブルース』は、黒人女性警官の視点でロス暴動を描いた、おそらく最初の作品だ。

 ジャスティス(正義)という名の女刑事の物語は、肌の色のみでなく女性ハードボイルドの流れにおいて支持を受けたようだ。小説の原タイトルはマーヴィン・ゲイの『インナーシティ・ブルース』からとられているが、七十年代のヒット曲が歌いあげたメッセージと今日の現実とは、大きな落差がある。

 暴動鎮圧にかりだされたヒロインは街頭で殺人事件に遭遇する。その被害者は彼女を過去の因縁に深い関わりを持つ男だった。当初、容疑者とみなされた黒人医師に彼女は複雑な思いをいだく。過去と現在と、彼女の置かれた双方向の圧力はストーリーを手堅く転がしていく。暴動は後景にしりぞき、始まるのはヒロインの物語だといってよい。

 人種対立の現状がどうあれ、マイノリティ主人公は無視しえない勢力となってミステリの一角を占めている。サンドラ・スコペトーネ『狂気の愛』1991(扶桑社文庫)は、レズビアンの女探偵。マイケル・ナーヴァ『秘められた掟』1992(創元推理文庫)は、ゲイのヒスパニック弁護士。スチュアート・カミンスキー『冬の裁き』1994(扶桑社文庫)は、ユダヤ系刑事。S・J・ローザン『チャイナタウン』1994(創元推理文庫)は、中国系私立探偵。などとリストを連ねれば多彩だ。彼らの現状報告は、部分的には、民主主義社会への観方を変える。


2023-09-29

6-5 マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』

 マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』Evil Eye 2003
Michael Slade
ジェイ・クラーク(1947 - )を中心とするチーム作家のペンネーム
夏来健次訳 文春文庫 2003


 スレイドはカナダの作家だ。彼の作品群がひどく概括しにくいのは、作者が共作チームだからでもある。複数の作品を無理やりパッチワークしたように長く、付属データが度を超して膨大にある。あるいは、その良識性の完璧な欠如。度外れた下品さとは、それはそれでプラス評価の場合もあるけれど、それはスレイドの一面でしかない。

 スプラッタ・パンクを自称する一派がホラー・ジャンルにはいるが、スレイドの残虐描写の徹底性はこの派に似ている。ただただ自己目的のようにぎたぎたの血みどろ場面(とエロ)が追求される。加えてスレイド作品では、あたかもサイコ・キラー博覧会のように殺人鬼たちが我が物顔に闊歩する。

 『グール』1989に展開されたヘヴィロックやクトゥルー神話への言及を、真面目に受け取れる読者はいったいどれほどいたのか。三種の連続殺人鬼がグロテスクな虐殺を競う、きわめつきのC級サイコホラー。そこにラヴクラフト風の異世界が亀裂をつくり、背後にはヘヴィメタルが轟音でとどろく、といった具合だ。キラー・マニアの精神世界を覗き見る思いで辟易させられた者も多いだろう。こうした書物にたいしては二つの態度しかない。ひざまづいて崇めるか、叩きつけて燃やしてしまうかだ。

 『髑髏島の惨劇』1994(文春文庫)は、黒魔術への傾斜から本格謎解き小説の趣向がミックスされる。その混合の凄まじさは、新しいスレイド信者をつくったかもしれない。物語の中盤で出現する髑髏島。そこに招かれた十数人のミステリ・マニア。何が始まるかというと「そして誰もいなくなった」ゲームなのだ。殺人島の殺人館で起こる、仕掛け満載のきらびやかな殺人連鎖。時代の病的な(と思える)イマジネーションがとらえる情景は果てもないように思えた。


 『暗黒大陸の悪霊』は、十九世紀の植民地戦争から始まる。ここで読者はスレイド作品がカナダという混民族国家の警察小説でもあったという一面を思い出す。要するに、アメリカン・ミステリと成立においては同じ。ポスト・コロニアル小説の一種なのだ。人物たちの家系は自然と植民地主義と人種差別をその内部にかかえる。ここでも本格好みのアイテムは無原則・無造作に使われる。「双子トリック」だ。しかしこの小説に描かれたような人種混合の「双子トリック」にはだれもお目にかかったことがないに違いない。グロテスク好みのフォークナーも、これほどの「混血の悲劇」は造型しなかった。

 過剰すぎる題材のとりこみ、誇大にゆがめられた殺人劇。スレイドの一貫して節度のない創作法は、社会にひらかれたミステリがとりうる方法の一つの極点だ。。


2023-09-28

6-5 エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』

エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』Dog Eat Dog 1995
Edward Bunker(1933-2005)

黒原敏行訳 1996 ハヤカワミステリ文庫

 バンカーの鮮烈な小説の背景には、一九九四年カリフォルニア州が採択した「スリー・ストライク法」がある。二度凶悪犯罪を犯した者は、三度目はたとえ微罪でも終身刑となる。野球ルールとは違って、ツーストライクまで追いこまれると挽回の余地はかなり少なくなる。

 バンカーによれば、人間のリサイクルはきかない。壊れた家庭に生みつけられた子供はストリートに出て非行に走る。例外のない法則だ。少年院や刑務所は犯罪者を再生産するための工場〈アニマル・ファクトリー〉だ。法律はツーストライクからの逆転ホームランを促進する効果を持つのだろうか。

 アメリカの弁護士人口の多さはリーガル・サスペンスという国際競争力を備えた商品をつくりだした。しかし犯罪者人口の多さは、ごく少なくしか犯罪者小説を生んでいない。ジャン・ジュネのようなビッグネームは別としても、ジョゼ・ジョヴァンニやオーギュスト・ル・ブルトンのような書き手はおいそれと出てこない。

 バンカーは数少ない成功した書き手だ。


 『ドッグ・イート・ドッグ』は、タイトルの意味通り、犯罪者のサークルが実社会からはぴったりと締め出されていることを描き出す。犬は犬同士、戯れ合い、喰い合うしかないのだ。しかし物語に教訓話のような余裕はいっさいない。更生の道が見えるとかいった戯言も。はっきりしているのはただ一つ。犬は犬を喰いたくて喰うのでは絶対にない、ということだ。

 前科を背負えば白人も黒人扱いだ。稼げる仕事を捜すと、同じように飢えた犬と顔を突き合わすことになる。

 行動がいっさいを語り、他には何も語らない。アメリカ小説の固いタフな真理はここに極まっている。スリー・ストライク・アウトで檻のなかにもどるのはご免だ。とすれば、犬のように噛み合いながら死んでみせるしかないのか。――答えはこの小説の行間に流れる深い哀しみにある。 












         タランティーノ『レザボア・ドッグス』Mr.ブルー役

No Beast So Fierce (1973) ストレートタイム(1978年8月) - 角川書店(のち文庫)
The Animal Factory (1977) アニマル・ファクトリー(2000年10月) - ソニー・マガジンズ
Little Boy Blue (1981) リトル・ボーイ・ブルー(1998年10月) - ソニー・マガジンズ
Mr. Blue: Memoirs of a Renegade (1999)—issued in the U.S. as Education of a Felon (2000) エドワード・バンカー自伝(2003年2月) - ソニー・マガジンズ

映画
暴走機関車(1985) - 脚本、出演
レザボア・ドッグス(1991) - 出演(Mr.ブルー役)
アニマル・ファクトリー(2000) - 共同製作、原作、脚本



2023-09-27

6-5 リチャード・プライス『フリーダムランド』

 リチャード・プライス『フリーダムランド』Freedomland  1998

Richard Price(1949-)

2000.6 白石朗訳 文春文庫


 プライスはむしろシナリオ作家として知られている。ジェラルド・カーシュ原作の『ナイト・アンド・ザ・シティ』、マーティン・スコセッシ監督の『ハスラー2』、スパイク・リー監督の『クロッカーズ』など。

 ゲットーの麻薬密売人の生態を描いた『クロッカーズ』はスコセッシによって映画化される予定だったが、リーに譲られた。『クロッカーズ』原作1992(竹書房文庫)は、映画とはまた別の価値を持つドキュメントだ。小説におけるプライスは、徹底した取材によって都市社会の全体像を浮かび上がらせようとする。

 『フリーダムランド』も同じ方法論で貫かれている。通常の意味のストーリー展開よりも、アメリカの都市生活の現


在、そこにうごめく人びとの生態を呈示することに力点がおかれる。舞台はニューヨーク近郊の街。黒人やヒスパニックの低所得者層が居住する。通りを隔てて白人地域がある。人種対立の根はストリートのあちこちに転がっている。この構図が三十年前にエド・レイシーが描いた設定とほとんど変わらないことに驚く。ドキュメントの質は進化していない。進歩しようがないのだ。

 街中の医療センターに現われた白人女が、黒人男に襲われ、四歳の息子を乗せたままの車を奪われた、と訴える。発端となる事件には現実のモデルがあった。対立の「境界」で起こる事件は、図式的なばかりに被害者と加害者の役割を色分けしているように思えた。だれもこの肌の色の境界を越えられない。


 一つの事件が万華鏡のように照らし出す社会の本質。その克明な報告を試みることは、社会全体の証言者となることだ。プライスがニュージャーナリストのトム・ウルフにならったかどうか知らないが、社会小説を提出する方法は同じだ。

 被害者、担当刑事、記者、社会運動家など、関係者たちの生が丹念にたどられるとき、小説のプロットは無用となる。事件は数日間の出来事だが、小説は一大パノラマとして拡がっている。

2023-09-26

6-5 ボストン・テラン『神は銃弾』

 ボストン・テラン『神は銃弾』God Is A Bullet 1999
Boston Teran

1999(田口俊樹訳 文春文庫)


 テランのデビュー作は一転して、純粋培養されたかのような狭い世界に終始する。そのかぎりで無類だ。無類の白人神話。神に見捨てられた土地には単一民族しかいないようだ。

 話はごくありふれている。カルト教団に妻を殺され、娘を連れ去られた刑事の復讐。仲間は元教団メンバーのジャンキーの女一人。ここは西部劇と適者生存理論のディズニーランドだ。彼らの追跡は風を追って、神なき土地、荒れ果てた砂漠へといたる。砂漠が戦場だ。裸の暴力が吹き荒れるならず者国家〈ローグ・ステイト〉にあっては、裸の暴力を駆使することだけが答え。彼らの行き着く場所は一つ。神は銃弾。答えは壁に描きなぐられたアフォリズムだ。

 煩出する映像的意識のフラッシュバック、BGMに鳴り響くロックンロール、行動と行動とをつなぐ荒々しいメタファー。《自らが処刑される瞬間、グラニー・ボーイは灰色の鋼鉄を見る。しかし、神経が脳に信号を送るまえに、彼の世界も白い太陽の中で粉々に砕かれ、消滅する》388P。これはエルロイ派の新手だ。テランのスタイルは次作『死者を侮るなかれ』2001で、いっそう密度を増す。

 ストーリーも人物も、ただ一直線だ。彼らの省察も、それ自体でみるかぎり陳腐なものだ。

 砂漠は空虚なる世界の中心、グラウンド・ゼロだ。この文明国の文明も野蛮もすべてがごっちゃに詰まっている。核実験場、有害ゴミ廃棄所、古代の遺跡、ディズニーランド……。ダンテの煉獄とP・K・ディックの悪夢が出会うところ。銃弾がすべての決着をつける。これもアメリカの歌だ。


2023-09-25

6-5 ビル・ボナーノ『ゴッドファーザー伝説 ジョゼフ・ボナーノ一代記』

 ビル・ボナーノ『ゴッドファーザー伝説 ジョゼフ・ボナーノ一代記』Bound by Honor
Salvatore "Bill" Bonanno(1932-2008)
1999 (戸田裕之訳 集英社)


 コーザ・ノストラの物語。ボナーノ・ファミリーとその跡取りビル・ボナーノのインサイド・ストーリーは一度、ゲイ・タリーズのノンフィクション『汝の父を敬え』1971に描かれている。マイノリティ社会とアメリカが衝突するところに生まれた個人悲劇。同様の話は、『ゴッドファーザー』以来のマフィア映画が繰り返し「伝説」をつくってきたところのものだ。アル・パチーノが演じたゴッドファーザー二世のモデルがボナーノであることは定説となっている。

 すでに久しく「有名人」であったボナーノが、なぜ自らペンを取ったのか。それはこの本を前にしたとき自然と起こる素朴な疑問だ。彼は真実を語る衝迫にかられたのか。いやいや、それはあまりにありうべからざることだ。裏と表と裏。どんな社会にも付き物のからくりについて、著者はそれほど熱心に説明しようとしていない。彼は『白鯨』の語り手のように書き始める。「私の名前はイシュメルと呼んでくれ」と。聖書のなかで出てくる追放された息子。己れを語るために世界の組成を語ろうとする男のように。

 大統領と司法長官の兄弟(どちらも暗殺された)を育てた父親ジョゼフ・P・ケネディと、自分の父ジョゼフとはコインの表裏だった、とボナーノは書いている。エスタブリッシュメントの支配者と地下社会のボス。二人は個人的に三十年来の知己というだけではなく、同質の人物だった。二人の物語は同一であり、山ほどの虚偽と背信に満ちている、と。《二人はともに酒の密造から不動産へ、そして株式市場へ、さらに映画へと歩を進め、ともに巨大な富をえたが、常に金は蔑むべきものであり、金儲け自体が目的ではなく、影響力と力を行使するための手段に過ぎないと見なしていた》139P。
 ボナーノの記述は、ケネディ暗殺から始められるが、予想されるように事件の裏に張り巡らされた陰謀の解明に向かうわけではない。むしろ彼は陰謀は自明のこととして、興味の外に置いている。答えのわかりきったことをわざわざ書く必要はない、とでもいうように。

 だれにも語られなかったエピソードとして彼が公開するのは、ケネディ暗殺の後に起こった父ボナーノの誘拐事件だ。彼が陰謀について語るとき、社会を動かすメカニズムの中枢に自分が関わっているのだという確信がほの見える。政府によるヴェトナムへの介入には、想像される以上に麻薬ビジネスの関与があった。麻薬産業について、マフィアの方針は必ずしも一枚岩だったわけではない。裏社会にも反対論はあった。当然(ボナーノの見解によれば)表の支配層にも積極論があったということになる。

 ケネディ暗殺に関する資料は書物の形になっているだけでも膨大なものとなる。比較的早い時期に、落合信彦『二〇三九年の真実 ケネディを殺った男たち』1977(集英社文庫)がある。ニクソンやマフィアの陰での関与、カストロ暗殺未遂との関連など、陰謀説の主たる要素はそこに出揃っていた。データの多くの部分はFBIの一部からのリークによると想像される。正式な捜査機関は真相の封印に協力したが、情報の漏洩口を完璧にふさぐことはできなかったのだろう。

 ボナーノの回顧録は一種の哲学をはらんでいる。驚くのは、彼が十年以上も収監された経験を持つにもかかわらず、社会を動かすのは自分だという確信を揺るがしていないことだ。

2023-09-24

6-6 エリック・ガルシア『さらば、愛しき鉤爪』

 エリック・ガルシア『さらば、愛しき鉤爪』Anonymous Rex  1999
Eric Garcia(1973-)
酒井昭伸訳 ヴィレッジブックス 2001.11


 恐竜が人間型のボディスーツをまとって人間界に隠れ住んでいる世界の話。近未来か、多元宇宙か、妄想世界か。そんなことはどうでもいい。主人公で語り手は恐竜だ。

 パルプ雑誌マニアが妄想の願望が嵩じてタフガイになりきってしまったという話ならあったが、これはその上を行く。メタファーが物語に変じた。

 タフガイは時代遅れの恐竜めいた存在だという嘆きは、いつしかハードボイルドの基調となっていった。かつては、タフガイの美学こそある社会層の誇りであり、批判精神の拠り所でもあった。しかし変わらぬ感慨をいだいていても、もはや無様な繰り言になりかねない。そこで、いっそタフガイを真正の恐竜にしてしまったら――。


 そこで生まれたのが、人間の皮をかぶった恐竜の物語。絶え間なくまき散らすナルシズムのモノローグも、恐竜の口から発されるものなら、昔日の輝きをとりもどせる。

 すでに私立探偵という存在が定型ミステリの世界ですら滑稽なタイプに成り果てている時代。タフガイの蘇生には、こういう手もあったかと感心させられる。彼のものになる言葉も行動も、彼が真面目になればなるほど戯画的に映る。彼を恐竜と指定することによって、コミックの世界は、もういちど孤立したメッセージを語りえたのだ。

シリーズは、
『鉤爪プレイバック』 Casual Rex (2001)
『鉤爪の収穫』 Hot and Sweaty Rex (2004)
と続いた。

2023-09-23

6-6 ロバート・J・ソウヤー『イリーガル・エイリアン』

 ロバート・J・ソウヤー『イリーガル・エイリアン』Illegal Alien 1997

Robert J. Sawyer(1960-)
内田昌之訳 ハヤカワSF文庫 2002.10

 タイトルの意味は「不法入国者」だから、SFパッケージでなければ、国境警備隊の冒険アクションかと勘違いしそうだ。ソウヤーなかなか間口の広い才人だから、これはSFでありながら、「不法入国者」をめぐるシリアスなドラマとしても読めるつくりになっている。しかも、進行はリーガル・サスペンスと謎解きパズラーのフュージョンだ。


 異星人がやってくる。七人の小人数で害意は見られない。科学者のチームが中心となって友好的な関係を結ぶ。ところがその科学者の一人が残虐な死体となって発見される。片足を切断され、切り開かれた胴体からは臓器が取り出されていた。犯人は? 異星人の一人が被疑者として裁判にかけられるが、何しろ生命形態が異なるのだから、法廷の運用は困難をきわめる。

 感情や精神のありようからして地球人の尺度では測れない。彼らの原理で正当防衛とは何なのか。また、殺意をいだくとは具体的にどういう心の動きになるのか。仮に極刑になることを想定すると、どんな手段で死刑にできるのか。このあたりは、いかにもリーガルもののパロディとして笑える。

 半ばを過ぎて、容疑者のエイリアンが狙撃を受けて負傷するあたりから、謎解きのラインが明らかになる。彼らがプライバシーに属するという理由で隠してきた彼らの肉体構造の特殊さが解明される。それが謎解き小説の必須の手がかりとなる。異星人との遭遇のカルチャー・ショックに揺れるSF物語の枠組みが、そのまま本格ミステリのルールに利用されるのだ。

 これは、一回かぎりの設定とはいえ、楽しめる。ソウヤーには、ミステリ仕掛けのSFというより、SFの可能性を探るなかで本格謎解きを発見するといった作品がある。『ターミナル・エクスペリメント』95では、脳をスキャンしていくつもの「自己コピー」をつくったところ、そのだれかが殺人を犯すというシチュエーションが描かれる。自己像がますますヴァーチャル化する状況と「犯人捜し」の興味が、新しい形で合体するのだ。

 ここでまとめたSF系3作。下書きはあるが、調整のため削除した。

 ことのついでに復元しておく。

2023-09-22

6-6 未来からさかのぼってみれば テリー・ビッソン『バーチュオシティ』

 6-6 未来からさかのぼってみれば

 ここでまとめたSF系3作。下書きはあるが、調整のため削除した。

 ことのついでに復元しておく。



テリー・ビッソン『バーチュオシティ』Virtuosity 1995

Terry Bisson(1942-)

 映画ノベライゼーション 鎌田三平訳(徳間文庫)1996.5

 『バーチュオシティ』は、映画のノベライズだから、SF作家ビッソンの独自の世界を紹介するものではない。CGを多用したB級SF映画の設定のみをここで取り出すことになる。

 一九九九年の未来社会(製作時期から少しだけ先に置かれた)。治安組織は、人工知能テクノロジーを大幅に採用して、ヴァーチャル・リアリティ・シミュレーターによる


犯人追跡訓練を行なっていた。訓練の材料には、凶悪な合成デジタル・マシーンが使用される。中でも最高レベルのシド6・7には、百八十三人の凶悪殺人鬼の人格データを埋めこまれた。

 この最強の合成マシーンが現実世界に逃げ出して、悪事をほしいままにするというのがメイン・アイデア。主人公の捜査官にデンゼル・ワシントン、人間化したマシーンにラッセル・クロウという配役だった。デジタル・データがヒューマノイドの肉体を備えるという設定は呑みこみがたかったし、肉体化したマシーンがふたたびサイバースペ


ースに逃げこむというパターンもさらに不思議だった。コミックブック風だが、映画ならでは通用する話だろう。

 一大ブームとなった『マトリックス』の源流をつくった一作とみなせる。


2023-09-21

6-6 アメリカ的デラシネの遺書

パトリシア・ハイスミス『死者と踊るリプリー』1991 Ripley Under Water 
Patricia Highsmith(1921-95)

佐宗鈴夫訳 河出文庫 2003


 ハイスミスはほとんど晩年にあたる、リプリー・シリーズの最終第五作を、「インティファーダやクルド人たちの死者と死にいく者たち」に捧げている。いささか唐突に映る献辞の意味は、しばらくおこう。彼女は政治的な作家ではないし、彼女の描いた人物も政治思想の表明とは無縁だ。この作品が、湾岸戦争の時期にあたっていたことを思い出せば充分だろう。

 ハイスミスは終生デラシネとして生きた。アメリカ作家では、ヘンリー・ジェイムズやヘンリー・ミラーという先例がある。彼女と同世代では、ポール・ボウルズやウィリアム・バロウズがいた。ハイスミスは独特の粘着性を備えた書き手だった。メインストリームの批評家の支持者も多い。
 代表作を選ぶなら、活動の初期から中期にかけての、『太陽がいっぱい』1955、『水の墓碑銘』1957、『愛しすぎた男』1960、『ふくろうの叫び』1962、『殺人者の烙印』1965、『ヴェネツィアで消えた男』1967などがあげられる。


 作家の唯一のシリーズ主人公トム・リプリーは、まさに彼女の分身といえる存在だった。二度映画化された『太陽がいっぱい』(原題は「才人リプリー君」)から始まり、『贋作』(原題は「リプリー・アンダー・グラウンド」)1970、『アメリカの友人』1974、『リプリーをまねた少年』1980、『死者と踊るリプリー』(原題は「リプリー・アンダー・ウォーター」)に到った。みたとおり断続的に書き継がれている。

 『太陽がいっぱい』は、映画化タイトルとは似ても似つかない、陽の光からさえぎられたヨーロッパが舞台だ。避暑地に流れてきた青年の屈折した上昇願望を息苦しいまでに追いつめていく。憧れた金持ちの青年に成り代わり、彼の所有するものを何もかも奪い取りたいという欲望。変身願望は替え玉願望と一致する。彼の服を着た自分を鏡に映し、彼の筆跡をまねるだけでは願望は成らない。相手の青年を抹殺しなければ、彼に成り代わることはできない。犯罪はその結実にすぎない。彼を殺し、彼の恋人を自分のものにする。リプリーに罪の意識はない。

 以降のシリーズはこの犯罪を基軸に展開される。しかし主人公にたいする作者の特別な思い入れは見つけにくい。避けられない殺人を重ねながらも、リプリーは巧妙に捜査の網をかいくぐっていく。

 第五作は、ストーリー的にいって、二十年前の第二作に直接つながる続編と読める。「地底のリプリー」にたいする「水底のリプリー」。前作で犯した殺人の秘密を握っているらしい謎の夫婦に主人公がつきまとわれる。彼らはハイスミスに描かせては独壇場のストーカーだ。作中の時間は現実の時間の落差をまったく感じさせずにつながっている。九十年代に書かれているが、六十年代の物語だ。リプリーが海の向こうの妻とかわす電話が混線する模様は、明らかに前作の反復なのだ。作中の時間を喪ったリアリティは、人物の不気味さとも相まって、作者の絶頂期のパラノイア世界を蘇らせている。

 映像的でありながら、心理に分けいる凝視の力は類をみない。たんに心理描写だけならおぞましく感じさせるが、そのレンズが映しだす情景には目を見張らされる。彼女の暴く心理はグロテスクでいたたまれない。だが、孤独の異様さも、それが映像を通してであれば常人にも受け入れうるのだ。

 ハイスミスの代表作は他にあるし、また故郷喪失の苦い渇望が彼女の固有のテーマでもない。あえて晩年の一作、作家のうちに生きつづけた分身のような主人公との「最後のダンス」の物語を、ここにおく。二十世紀への遺言とまでいっては大げさだが、一人のアメリカ作家の遺言なら読み取れる。パレステイナ人やクルド人への想いも、そこに立たせることによって了解がつく。


回りつづける世界に立ち尽くす

2023-09-20

7 バッドランズのならず者

  二〇〇二年一月十三日。大統領がホワイトハウスでジャンクフードを食べながらテレビを観ている最中に喉を詰まらせて失神して以来、世界はこの男の挙動に一喜一憂することになった。ママ、スナック菓子を頬ばりすぎて息ができなくなっちゃったよ。

 ……なんか違うな。

 やはり、そうか。日付だ。日付が違う。境目になったのは、その前の年。九月十一日、セプテンバー・イレブンだ。世界貿易センタービル、グローバリゼーションのシンボル・タワーを破壊した同時多発テロ。世界の光景は塗り替えられてしまった。後にはもどれない。好むと好まざるにかかわらず、新しい時代は不気味な扉をこじ開けられてしまった。

 ようこそ、二一世紀の今日へ。バンバン。劣化ウラン弾でも食らえ。この時代がどんな歴史をつくるにせよ、きみたちはここに生きる。

 人びとが今、ブッシュの言動に一種の既視感をいだくのは、むかし観た西部劇によく似たガンマンが出てきたからではないだろうか。ガンにものを言わせて撃ちまくる。ガンが法律だ。あるいは、敵は撃ち殺してから、その理由をつくれ。明快である。西部劇ドラマの精神衛生効果は、この明快さにあった。悪役も善役も、いわば同じ原理にしたがって動く。善役が勝つのは、抜き撃ちの技が優れているから。正義の味方は早撃ちの王者だ。

 この種のドラマでは、悪役はこじつけの言い分で相手を撃ち殺す。安心してそれを観ていられるのは、彼が最後にはやっつけられる決まりがあるからだ。

 湾岸戦争でイラクを叩いたさいの果断な指揮によってブッシュ父は驚異的な支持率を得た。親の威光を借りた二世政治家である現大統領も、何かと失点が尽きないとはいえ、九・一一以降、果断な戦闘性をアピールすることにおいては面目を保ってきた。

 正義か悪かの判断は神がくだす。神は常に勝者と共にある。アメリカの歴史が証明してきたように、である。

 大量破壊兵器は、独裁者の国を叩きつぶすための、一つの大義名分だった。

 巣穴に隠れたサダムは捕らえられ、その敗残の姿を全世界に映像配信された。彼はまだ生きていたが、その息子たちは死体になった姿を晒した。「デッド・オア・アライヴ」の懸賞ポスターそのままの戦果だ。

 だが大量破壊兵器は出てこない。ないことを承知で決闘を仕掛けた、というトリックが剥げかけている。

 ことあるごとにブッシュは「北朝鮮」の国家元首への個人的嫌悪を公言している。これは危険な兆候だ。類は友を呼ぶ――じゃない。その反対で、人は己れにそっくりな者に度外れた憎悪をいだく。金正日は世襲でポストを受け継いだ人物だ。二代目。彼は、常に「偉大なる首領様」に次ぐ、敬愛すべき王子様だった。ブッシュもまた石油ファミリーの貴公子という特別待遇をバックに権力への階段を昇りつめていった。いやでも類似点が目につくのは仕方がない。

 ブッシュの顔が『OK牧場の決闘』の悪役一家の悪たれ息子に重なる。自分よりスケールの小さい同じタイプの男を撃ち殺したくてうずうずしているガンマン。理由はどうとでもなる。俺はおまえが嫌いだ、だから抜け。抜け。勝ち目のない相手に、彼は挑発をかけつづける……。


 さて明確に、これが「ポスト9.11」小説だという傾向を取り出してくるのは、まだ尚早だ。英国スパイ小説の老兵ジョン・ル・カレは『ナイロビの蜂』2001(集英社文庫)で、グローバリゼーションをせっせと進める製薬メジャーのアフリカ対策を槍玉にあげた。「9.11」は不可避だったという告発的観点がここにある。

 数年前から現時点につながってくるこの章の記述は、年度ごとに並べておこう。

2023-09-19

P・J・パリッシュ『死のように静かな冬』

 P・J・パリッシュ『死のように静かな冬』2001  Dead of Winter
P.J. Parrish

長島水際訳 ハヤカワミステリ文庫  2003.11

 近年の警察小説には、地方主義の傾向が出てきたのかと思わせる一冊。舞台はアメリカ北東部のリゾートタウン。主人公は旅先の一時的な落ち着き先として田舎警察の職を得る。事件は連続する警官殺し。地方警察署長は独特の手法で小人数の警官を支配していたが、その体制が崩れはじめる。

 『死のように静かな冬』のポイントは二つある。主人公を白黒の混血にしたこと、背景を八十年代においたことの二点。放浪者の個性を持つ主人公は、どちらかといえば輪郭のはっきりしない青年だ。事件の推移は彼を成長させるが、暴かれる人間模様にたいして彼は淡白なままだ。彼の日常を映す質感は、ひとむかし前の女性私立探偵ものを思わせる。さりげなく慎ましいノスタルジアと浮遊感。ゆったりとした自然主義などのものが、この警察小説に不思議な安らぎを与えている。

 癒し系の暖かさはS・J・ローザンなどと通じる。




2023-09-18

ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』

 ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』The Blue Nowhere 2001
ジェフリー・ディーヴァー Jeffery Deaver(1950-)

(土屋晃訳 文春文庫 2002)

 舞台はシリコン・ヴァレー。殺人事件の捜査のために、警察が服役中の天才ハッカーの助力をあおぐ、という出だしは快調だ。

 話の主眼を占める、コンピュータ・ハッカー同士の息詰まる闘いもなかなか読ませる。しかし。読み終わると、どこか物足らない思いがする。この不満はどこに因するのだろう。定番サスペンスにサイバースペースの現在を盛りこむ試みも急増している。けれどまだ現実に追いつかないと思わせるところが少なくない。

 引き合いに出した作品から少し離れてみよう――。

 インターネット革命と著作権の旧来的な防衛をめぐって、まったく未知のエピソードを提供した事件があった。

 ある日、インターネットにどっぷりとはまる日常を送っていた十八歳の青年が新規のソフトを開発した。ショーン・ファニング。彼の名は(ビル・ゲイツのように)歴史に残るだろうか。かつてSFが好んで題材化した、サイバースペースにおける新しいコミュニケーション・システムは次つぎと現実になっていく。

 ナップスターは音楽を自由にダウンロードできるツールとして社会現象化する。事柄は単純化して受け取られた。個人が、無料で無作為に、音楽データをやり取りするのは、合法なのか。違法なのか。ナップスターが会社組織となるのは、九九年六月。わずか二年ほどのあいだにナップスター現象は決着がつき、二千二百万人のユーザーと四十万ドル分のハードウェアが無効化された。音楽・映像のコピーはある種のフリーハンド領域だったが、「先例を残すな」と勢力の反撃は素早かったということになる。

 全米レコード協会は、その敵意を、「ナップスターの問題は、ビジネスではなく社会運動をつくりだしてしまったことだ」と控え目に表明した。しかし社会運動と捉えるのは正確ではない。パブリック・エナミーのリード・ラッパー、チャック・Dがいち早く支持を打ち出したように、ナップスターの問題は、文化運動をつくりだしてしまったことにある。

 著作権にガードされた作品のコピー流失を防げないということは、文化ビジネスにとっては致命的な損失となる。とはいえ有効なガイドラインはどうやってつくれるのだろう。

 ことはもちろん、音楽や映像部門にとどまらず、活字本の存続にも議論は拡がっている。グーテンベルクによる複製本が実現して以来の転換期にさしかかっていると主張する者もいる。とくに文字データはサイバースペースにおいてデータ量が驚くほど軽い。本一冊分のデータ・ダウンロードなど、ほんのまばたきするほどの間で済む。データ量に換算するだけなら、文字形態は「終わって」いる。あとは、活字書物というハードウェアの形に価値があるかどうかに限定されてしまう。

 音楽や映像データはそっくりコピーできるけれど、文字データは書物という形態を取る点ではコピーできない。だが文字情報を取得するだけなら、ずっと早くはるかに軽く操作できる。それはともかく――。

 じっさい『青い虚空』よりも、ジョセフ・メンのドキュメント『ナップスター狂騒曲』2003(合田弘子他訳 ソフトバンク・パブリッシング)を面白がるミステリ読者は多いかもしれない。ディーヴァーほどの手練れのストーリー・テラーをもってしてもファクトに追いつきかねるという事実。これは深刻だ。

 来たるべくパニック。やがてグローバルに遍在するウインドウズ・ユーザーを襲うかもしれない未曾有のサイバー・テロへの恐怖も含めて……。これは深刻なことではないか。

2023-09-17

マイクル・クライトン『プレイ 獲物』


 マイクル・クライトン『プレイ 獲物』Prey 2002

マイケル・クライトン Michael Crichton(1942-2008)

 『ジュラシック・パーク』1991、『ディスクロージャー』1993、『タイムライン』1999など映画化されるベストセラーを次つぎと放つ作者の話題作。今回のテーマはナノテクノロジーだ。まずは、作者の警告に耳をかたむけてみよう。

 「科学技術の飛躍的発展と人間の無謀さは、二十一世紀に必ず衝突を起こすだろう。衝突は、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、コンピュータ・テクノロジーの三分野で起こる。共通点は、自己コピーする存在を環境中に解


き放ちうることだ。

 すでにコンピュータ・ウイルスという形で人類は洗礼を受けている。

 ナノテクノロジーは最新で最も取扱い注意の技術だ。極微小〈ナノ〉サイズの機械を造る。単位は、一〇〇ナノメートル=一〇〇〇万分の一メートル。ナノマシンは癌治療から新型兵器まで、広範な利用を見こまれている」

 要するに、自らの力で生み出してしまった環境変成物を人間がどうやってコントロールできるのか、という問題だ。サイバースペースについて少しふれたように、これは難問である。


 警鐘をきっちり読み物として送り出してくるのが、クライトンの偉いところだ。さて、パニック・ホラーとして『プレイ 獲物』は手堅い出来とはいえ、怖さの点で、作者の出世作『アンドロメダ病原体』69に数歩およばないようだ。作者も苦労して、ナノテク・マシーンが虫〈スウォーム〉のように群生するモンスターと化して人間を襲ってくるシーンをつくっている。そこがまあ、ホラーとしては平均点の迫力にとどまっている。警告を真摯に受け取れないのは遺憾なことだ。

 これも映画化が決定しているが、ナノテクの「見えない恐怖」をいかに描くか。そこが難しい懸案だろう。


酒井昭伸訳 早川書房2002 ハヤカワミステリ文庫 2006.3

2023-09-16

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション

1 アメリカ小説の世紀 ――1920年代まで

 1 偉大なアメリカ探偵の先駆け

  ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905

  メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918

  シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925

  アーサー・コナン・ドイル『恐怖の谷』1914

 2 百パーセントのアメリカ製名探偵 Ⅰ 

  S・S・ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』1926

  S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』1929

  アール・D・ビガーズ『チャーリー・チャンの活躍』1930

  T・S・ストリブリング『カリブ諸島の手がかり』1929

 3 百パーセントのアメリカ製名探偵 Ⅱ

  ダシール・ハメット『赤い収穫』1929

  ダシール・ハメット『マルタの鷹』1930

 4 アメリカの奥の果て

  H・P・ラヴクラフト『インスマウスの影』1930

2 黄金時代 ――30年代から戦中へ

 1 予告された悲劇

   エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』1932

   エラリー・クイーン『Yの悲劇』1933

 2 あらかじめ回避された悲劇

   ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』1935

   ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』1937

 3 アメリカ的小説工房の名探偵二人

   アール・スタンリー・ガードナー『ビロードの爪』1933

   レックス・スタウト『料理長が多すぎる』1938

   アーヴィング・ストーン『クラレンス・ダロウは弁護する』1941

 4 マルチチュードの女たち

   ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』1942

   レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』1940

 5 三十年代実存小説の諸相その他

   ジェイムズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』1934

   ホレス・マッコイ『彼らは廃馬を撃つ』1935

   ナサニエル・ウェスト『クール・ミリオン』1934

   ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』1935

 6 死体置場行きロケット打ち上げ

   H・H・ホームズ『死体置場〈モルグ〉行きロケット』1942

   クレイトン・ロースン『棺のない死体』1942

   ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『赤い右手』1945

   オーガスト・ダーレス『ソーラー・ポンズの事件簿』1945

 7 ワット・ア・ワンダフル・ミステリズ

   クレイグ・ライス『スイート・ホーム殺人事件』1944

   パット・マガー『七人のおば』1947

   アラン・グリーン『くたばれ健康法!』1949

 8 アメリカの災厄と光明と

   エラリー・クイーン『災厄の町』1942

   ウィリアム・フォークナー『八月の光』1932

   リチャード・ライト『アメリカの息子』1940

 9 早く来すぎたポストモダン

   キャメロン・マケイブ『編集室の床に落ちた顔』1937

3 大戦後社会小説の多様化 ――大戦以後から50年代

 1 クイーン家の出来事

   エラリー・クイーン『十日間の不思議』1948

   エラリー・クイーン『九尾の猫』1949

   パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』1954

 2 社会化される個

   ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』1952

   ミッキー・スピレーン『裁くのは俺だ』1947

   エド・マクベイン『警官嫌い』1956

 3 社会化されざる人びと

   アイラ・レヴィン『死の接吻』1953

   フレドリック・ブラウン『彼の名は死』1954

 4 アメリカの庭の外で

   チェスター・ハイムズ『イマベルへの愛』1957

   デイヴィッド・グーディス『深夜特捜隊』1961

   ジム・トンプスン『内なる殺人者』1952

  ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』1960

 5 冷戦と洗脳

   ジャック・フィニイ『盗まれた街』1955

   ロバート・ハインライン『人形つかい』1951

   リチャード・コンドン『影なき狙撃者』1959

 6 クイーンの定員と非定員

   ハリー・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」1947

   ジェイムズ・ヤッフェ「ママは何でも知っている」1952

   スタンリー・エリン「特別料理」1948

   ロアルド・ダール『あなたに似た人』1953

 7 暗い鏡の中のマクロイ

   ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』1949

   ビル・S・バリンジャー『歯と爪』1955

   ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』1948

4 もう一つの黄金時代 ――60年代と70年代

 1 この不条理な夜に

   カート・ヴォネガット『母なる夜』1961

   ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』1961

   ケン・キージー『カッコーの巣の上で』1962

 2 ミラー=マクドナルドの試練

   ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』1961

   マーガレット・ミラー『見知らぬ者の墓』1960

 3 アンドロイドペット・シンドローム

   フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』1968

   リチャード・ニーリィ『殺人症候群』1970

 4 さまざまな定型の継承者たち

   アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会』1974

   エドワード・D・ホック「有蓋橋の謎」1974(サム・ホーソーンの事件簿)

   ドナルド・E・ウェストレイク『ホット・ロック』1970

   ジョー・ゴアズ『ハメット』1975

   ジェイムズ・クラムリー『さらば甘き口づけ』1978

   ロバート・B・パーカー『レイチェル・ウォレスを捜せ』1980

   ローレンス・サンダーズ『魔性の殺人』1973

   ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ『裁くのは誰か?』1977

 5 ポスト・レイシズムの視点

   トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』1973

   エド・レイシー『褐色の肌』1967

 6 遅れてきた不条理小説

   ジョゼフ・ウォンボー『クワイヤボーイズ』1975

   ジェローム・チャーリン『ショットガンを持つ男』1975

 7 境界線上に立つ

   トマス・ブロック『超音速漂流』1979

   トレヴェニアン『シブミ』1979

   ロバート・ラドラム『暗殺者』1980 

 8 カウンター・カルチャーの申し子たち

   スティーヴン・キング『シャイニング』1977

   ディーン・クーンツ『ウィスパーズ』1980

5 世界のための警察国家 ――80年代

 1 アメリカ人よアメリカから出ていけ

  トム・ウルフ『虚栄の篝火』1987

  カール・ハイアセン『殺意のシーズン』1986

 2 犯罪小説の二人

  ロス・トーマス『神が忘れた町』1989

  エルモア・レナード『ラブラバ』1983

 3 鷲の翼に乗って

  マーティン・クルーズ・スミス『ゴーリキー・パーク』1981

  ケン・フォレット『鷲の翼に乗って』1983

 4 すべての哀しきサイコ・キラーたち

  トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』1981

  ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』1986

  トマス・ハリス『羊たちの沈黙』1988

 5 わたしのなかのわたしでないわたし

  ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』1982

  ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』1989

 6 ヴェトナムから遠く離れて

  ネルソン・デミル『誓約』1985

  ピーター・ストラウブ『ココ』1988

 7 私立探偵小説の変容 一 女探偵登場

  サラ・パレツキー『サマータイム・ブルース』1982

  スー・グラフトン『探偵のG』1990

  パトリシア・コーンウェル『検屍官』1990

 8 私立探偵小説の変容 二 ポストモダンのタフガイ

  ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』1985

  ピート・ハミル『マンハッタン・ブルース』1978

 9 私立探偵小説の変容 三 本流はどこに

  ジェイムズ・エルロイ『ブラック・ダリア』1987

  ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』1982

  アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』1987

 10 新たなアメリカン・ヒーローの登場

  スコット・トゥロー『推定無罪』1987

  ジョン・グリシャム『評決のとき』1989

6 グローバリゼーション〈革命〉に向けて ――90年代

 1 生まれながらの殺人者たち

  デイヴィッド・リンジー『悪魔が目をとじるまで』1990

  ウィリアム・ディール『真実の行方』1993

  ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』1997

  グレッグ・アイルズ『神の狩人』1997

  トマス・ハリス『ハンニバル』1999

 2 過去を振り返る

  マックス・アラン・コリンズ『リンドバーグ・デッドライン』1991

  ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』1992

 3 歴史をさかのぼる

  デイヴィッド・ハンドラー『女優志願』1992

  フェイ・ケラーマン『慈悲のこころ』1989

  ウィリアム・ヒョーツバーグ『ポーをめぐる殺人』1994

  ルイス・シャイナー『グリンプス』1993

  シオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』1991

  ダン・シモンズ『諜報指揮官ヘミングウェイ』1999

 4 夜明けの光の中に

  オットー・ペンズラー『愛の殺人』1996

  ローレンス・ブロック『殺し屋』1998

  D・W・バッファ『審判』2001

  スティーヴン・ハンター『極大射程』1993

  トマス・H・クック『夏草の記憶』1995

 5 神の見捨てた地

  ジェス・モウリー『ウェイ・パスト・クール』1992

  ポーラ・L・ウッズ『エンジェル・シティ・ブルース』1999

  マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』1996

  エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』1996

  リチャード・プライス『フリーダムランド』1998

  ボストン・テラン『神は銃弾』1999

  ビル・ボナーノ『ゴッドファーザー伝説』1999

 6 アメリカ的デラシネの遺書

  パトリシア・ハイスミス『死者と踊るリプリー』1991

7 バッドランズのならず者 ――9・11から現在へ

 P・J・パリッシュ『死のように静かな冬』2001

 ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』2001

 マイクル・クライトン『プレイ 獲物』2002

 バリー・アイスラー『雨の牙』2002

 デニス・ルヘイン『シャッター・アイランド』2003

 エドガー・アラン・ポー「群集の人」1840 & ダシール・ハメット「ターク通りの家」1924

オールタイムベスト


 

バリー・アイスラー『雨の牙』

 バリー・アイスラー『雨の牙』Rain Fall 2002
バリー アイスラー Barry Eisler

池田真紀子訳 ヴィレッジブックス 2002.1
                 ハヤカワミステリ文庫  2009.3

 『雨の牙』は、東京で活動する殺し屋を主人公としたシリーズの一作目。彼は日本人とアメリカ人の混血と設定されている。ジャーナリストとして日本での長い滞在歴を持つ作者は、東京の都市風俗を見事に捉えている。西洋人の描いた日本の例では『シブミ』と並ぶだろう。

 殺し屋は政治家〈フィクサー〉の意を受けて、反対者を自然死させるエキスパート。彼は自分を傭う勢力にたいして深い洞察を備えている。もちろんこの作品を風俗を活写したハード・アクションとしてのみ楽しむことはできる。だが読み物としての価値は別にして、この物語が示している日本社会の現状レポートを素通りするわけにもいかないのだ。彼が殺しを請け負う構造は、フィクションというより、そのまま作者の日本社会論だと思える。

 ベンジャミン・フルフォード『ヤクザ・リセッション さらに失われる10年』2003(光文社)が一部で話題を呼んだ。在日二十年になるカナダ人ジャーナリストによるニッポン絶望レポートだ。その主張をまとめれば、以下になる。――バブル以降の十年を日本は誤った政策によって空費してしまった。政・官・財・ヤクザの不健全な結託によって、不良債権がなし崩しに放置された結果だ。一方アメリカは、日本の輸出力を抑える必要から内需拡大路線を迫って、公共事業の大規模な展開を要求した。これは日本の「政・官・財・ヤクザ」の私利にもつながる政策だった。日本が約束した内需拡大の総額は「十年で六百七十兆円」だったが、この額は日本の累積国家債務とほぼ一致する。


 フルフォードのレポートが提起していることは、グローバリゼーションが日本社会に何をもたらせ、またもたらせつづけるのか、という観点だ。グローバリゼーションが避けられないとすれば、日本の失速と没落もまた避けられない。活力を喪った日本システムについては様々な議論が飛びかっている。その中でもこれは最も痛烈な一撃だろう。ポスト・バブルの息苦しい腐食感を、これほど率直に暴いた論考はなかったと思える。

 『雨の牙』は、日本社会の現状認識として、フルフォードの論点をほぼ取り入れている。東京は金融犯罪とスキャンダルと謀略が渦巻く、世界でもトップをいく危険な街だ。殺し屋はヤクザ・リセッションの隠れエージェントに他ならない。のみならず、小説の後半には、フルフォードをモデルにしたジャーナリストが赤坂で謀殺される場面も置かれている。


『レインフォール/雨の牙』2009 
 監督・脚本マックス・マニックス
 製作国日本
  椎名桔平、ゲイリー・オールドマン主演

2023-09-15

デニス・ルヘイン『シャッター・アイランド』

 デニス・ルヘイン『シャッター・アイランド』Shutter Island 2003
デニス・ルヘインDennis Lehane (1965-)


 映画化されて二〇〇四年度のアカデミー賞の話題をさらった『ミスティック・リバー』2001は、ルヘインの特質をよく語っている。物語は三人の幼なじみをめぐって進む。一人は殺人容疑者、一人は殺された娘の父親、一人は事件を担当する刑事。話の基底を現在の事件に置きながら、彼らの源流を十歳のときに体験したある事件に求める。そのとき彼らの身に起こったこと、起こらなかったことが、彼らの人生を決めたのだ。いかにもアメリカ的な成長小説の味わいを、サスペンスの技法に無理なく融合した。

 『シャッター・アイランド』の主人公は捜査官。犯罪者を収容する精神病院のある孤島に、相棒とともに送りこまれる。時は五十年代のなかば。物語のうちには過去の情景が適宜フラッシュバックされる。戦時の記憶はいまだ生々しかった。人間とは過去の体験の総和なのだという造型は、ここでも当然のごとく採用されている。


 医療刑務所としての島の実態は予想を超えたものだった。彼は相棒に自分が島に来た真の目的を明かす。島の監視最高度の隔離病棟に入れられた放火犯に復讐を遂げるためだった。彼の妻を殺した男だ。

 ハリケーン、囚人患者の暴動。捜査官の身の安全も確保できなくなっていく。彼は相棒さえも信頼できないことを知るに到る。

 物語のラスト五十ページは袋綴じにされていて、驚嘆の結末が待っているという仕掛けだ。見せかけの真実の底に沈んでいた真の現実とは何か。人間の本質が、もし過去の総和などではないとすれば……。その疑問は、堅く綴じられた結末のなかにある。


 なお、この作品は、先行作品の悪質なパクリだという意見が出ている。ものは、ウィリアム・ピーター・ブラッティの『トゥインクル・トゥインクル・キラー・ケーン』1966(未訳)。とくに、ブラッティ自身の脚本・監督による映画版1980(未公開)とは、ラストが同じだという(『ジャーロ』2004春号)。


加賀山卓朗訳 早川書房 2003
 ハヤカワミステリ文庫 2006.9





2010 監督マーティン・スコセッシ・主演レオナルド・ディカプリオ

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...