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2023-10-01

6-5 ジェス・モウリー『ウェイ・パスト・クール』

ジェス・モウリー『ウェイ・パスト・クール』Way Past Cool 1992
Jess Mowry(1960-)
杉山次郎訳 講談社 1996.1


 ロサンジェルス暴動の年に発表された『ウェイ・パスト・クール』は、黒人大衆の行き場のないメッセージを発信した。ゲットーの苦い青春をレポートする鮮烈な叫び。青春といっても、ここに登場するのは、ロウティーンからミドルティーンのストリート・キッズだ。二十歳まで生き延びることが僥倖のような日常。

 ロス暴動に先立って、それを予兆するかのように、ブラック・ナショナリズム文化が花開いた。スタッフ、キャストともに黒人のつくり手によるブラック・シネマ。ブギ・ダウン・プロダクションやパブリック・エナミーなどのギャングスター・ラップ。それらは豊かなエコーとしてモウリーの小説にも鳴り響いている。アメリカ人口の十二パーセントを占めるアフリカ系アメリカ人。彼らの一部は中産階級化してい


ったが、依然として古典的な人種対立は払拭されていない。ポスト・レイシズム社会という議論はいまだに一般性を持ちえない。

 『ウェイ・パスト・クール』は、西海岸オークランドの街頭で、骨肉の争いを繰り広げる少年ギャングたちの物語だ。彼らの年齢を気にするのでなければ、特別すぐれた犯罪小説とはいえないが、類をみない小説だ。黒人が黒人に銃を向け合うゲットーの日常は何によって救済されるか。これも都市の中枢のなかのアメリカなのだ。


 ブラック・シネマの傑作としては、マリオ・ヴァン・ピーブルズ監督『ニュー・ジャック・シティ』1991、ジョン・シングルトン監督『ボーイズン・ザ・フッド』1991、スパイク・リー監督『ドゥ・ザ・ライト・シング』1989などがあげられる。他に、十二歳のドラッグ・ディーラーを描いた『フレッシュ』(サミュエル・L・ジャクスン助演)1994、四人の女銀行ギャングの物語『セット・イット・オフ』(ジェイダ・ピンケット・スミス、クィーン・ラティファ、ヴィヴィカ・A・フォックス、キンバリー・エリス主演)1996が記憶される。

2023-09-30

6-5 ポーラ・L・ウッズ『エンジェル・シティ・ブルース』

 ポーラ・L・ウッズ『エンジェル・シティ・ブルース』Inner City Blues 1999
Paula L. Woods(1953-)
猪俣美江子訳 ハヤカワミステリ文庫 2003.6


 『エンジェル・シティ・ブルース』は、黒人女性警官の視点でロス暴動を描いた、おそらく最初の作品だ。

 ジャスティス(正義)という名の女刑事の物語は、肌の色のみでなく女性ハードボイルドの流れにおいて支持を受けたようだ。小説の原タイトルはマーヴィン・ゲイの『インナーシティ・ブルース』からとられているが、七十年代のヒット曲が歌いあげたメッセージと今日の現実とは、大きな落差がある。

 暴動鎮圧にかりだされたヒロインは街頭で殺人事件に遭遇する。その被害者は彼女を過去の因縁に深い関わりを持つ男だった。当初、容疑者とみなされた黒人医師に彼女は複雑な思いをいだく。過去と現在と、彼女の置かれた双方向の圧力はストーリーを手堅く転がしていく。暴動は後景にしりぞき、始まるのはヒロインの物語だといってよい。

 人種対立の現状がどうあれ、マイノリティ主人公は無視しえない勢力となってミステリの一角を占めている。サンドラ・スコペトーネ『狂気の愛』1991(扶桑社文庫)は、レズビアンの女探偵。マイケル・ナーヴァ『秘められた掟』1992(創元推理文庫)は、ゲイのヒスパニック弁護士。スチュアート・カミンスキー『冬の裁き』1994(扶桑社文庫)は、ユダヤ系刑事。S・J・ローザン『チャイナタウン』1994(創元推理文庫)は、中国系私立探偵。などとリストを連ねれば多彩だ。彼らの現状報告は、部分的には、民主主義社会への観方を変える。


2023-09-29

6-5 マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』

 マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』Evil Eye 2003
Michael Slade
ジェイ・クラーク(1947 - )を中心とするチーム作家のペンネーム
夏来健次訳 文春文庫 2003


 スレイドはカナダの作家だ。彼の作品群がひどく概括しにくいのは、作者が共作チームだからでもある。複数の作品を無理やりパッチワークしたように長く、付属データが度を超して膨大にある。あるいは、その良識性の完璧な欠如。度外れた下品さとは、それはそれでプラス評価の場合もあるけれど、それはスレイドの一面でしかない。

 スプラッタ・パンクを自称する一派がホラー・ジャンルにはいるが、スレイドの残虐描写の徹底性はこの派に似ている。ただただ自己目的のようにぎたぎたの血みどろ場面(とエロ)が追求される。加えてスレイド作品では、あたかもサイコ・キラー博覧会のように殺人鬼たちが我が物顔に闊歩する。

 『グール』1989に展開されたヘヴィロックやクトゥルー神話への言及を、真面目に受け取れる読者はいったいどれほどいたのか。三種の連続殺人鬼がグロテスクな虐殺を競う、きわめつきのC級サイコホラー。そこにラヴクラフト風の異世界が亀裂をつくり、背後にはヘヴィメタルが轟音でとどろく、といった具合だ。キラー・マニアの精神世界を覗き見る思いで辟易させられた者も多いだろう。こうした書物にたいしては二つの態度しかない。ひざまづいて崇めるか、叩きつけて燃やしてしまうかだ。

 『髑髏島の惨劇』1994(文春文庫)は、黒魔術への傾斜から本格謎解き小説の趣向がミックスされる。その混合の凄まじさは、新しいスレイド信者をつくったかもしれない。物語の中盤で出現する髑髏島。そこに招かれた十数人のミステリ・マニア。何が始まるかというと「そして誰もいなくなった」ゲームなのだ。殺人島の殺人館で起こる、仕掛け満載のきらびやかな殺人連鎖。時代の病的な(と思える)イマジネーションがとらえる情景は果てもないように思えた。


 『暗黒大陸の悪霊』は、十九世紀の植民地戦争から始まる。ここで読者はスレイド作品がカナダという混民族国家の警察小説でもあったという一面を思い出す。要するに、アメリカン・ミステリと成立においては同じ。ポスト・コロニアル小説の一種なのだ。人物たちの家系は自然と植民地主義と人種差別をその内部にかかえる。ここでも本格好みのアイテムは無原則・無造作に使われる。「双子トリック」だ。しかしこの小説に描かれたような人種混合の「双子トリック」にはだれもお目にかかったことがないに違いない。グロテスク好みのフォークナーも、これほどの「混血の悲劇」は造型しなかった。

 過剰すぎる題材のとりこみ、誇大にゆがめられた殺人劇。スレイドの一貫して節度のない創作法は、社会にひらかれたミステリがとりうる方法の一つの極点だ。。


2023-09-28

6-5 エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』

エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』Dog Eat Dog 1995
Edward Bunker(1933-2005)

黒原敏行訳 1996 ハヤカワミステリ文庫

 バンカーの鮮烈な小説の背景には、一九九四年カリフォルニア州が採択した「スリー・ストライク法」がある。二度凶悪犯罪を犯した者は、三度目はたとえ微罪でも終身刑となる。野球ルールとは違って、ツーストライクまで追いこまれると挽回の余地はかなり少なくなる。

 バンカーによれば、人間のリサイクルはきかない。壊れた家庭に生みつけられた子供はストリートに出て非行に走る。例外のない法則だ。少年院や刑務所は犯罪者を再生産するための工場〈アニマル・ファクトリー〉だ。法律はツーストライクからの逆転ホームランを促進する効果を持つのだろうか。

 アメリカの弁護士人口の多さはリーガル・サスペンスという国際競争力を備えた商品をつくりだした。しかし犯罪者人口の多さは、ごく少なくしか犯罪者小説を生んでいない。ジャン・ジュネのようなビッグネームは別としても、ジョゼ・ジョヴァンニやオーギュスト・ル・ブルトンのような書き手はおいそれと出てこない。

 バンカーは数少ない成功した書き手だ。


 『ドッグ・イート・ドッグ』は、タイトルの意味通り、犯罪者のサークルが実社会からはぴったりと締め出されていることを描き出す。犬は犬同士、戯れ合い、喰い合うしかないのだ。しかし物語に教訓話のような余裕はいっさいない。更生の道が見えるとかいった戯言も。はっきりしているのはただ一つ。犬は犬を喰いたくて喰うのでは絶対にない、ということだ。

 前科を背負えば白人も黒人扱いだ。稼げる仕事を捜すと、同じように飢えた犬と顔を突き合わすことになる。

 行動がいっさいを語り、他には何も語らない。アメリカ小説の固いタフな真理はここに極まっている。スリー・ストライク・アウトで檻のなかにもどるのはご免だ。とすれば、犬のように噛み合いながら死んでみせるしかないのか。――答えはこの小説の行間に流れる深い哀しみにある。 












         タランティーノ『レザボア・ドッグス』Mr.ブルー役

No Beast So Fierce (1973) ストレートタイム(1978年8月) - 角川書店(のち文庫)
The Animal Factory (1977) アニマル・ファクトリー(2000年10月) - ソニー・マガジンズ
Little Boy Blue (1981) リトル・ボーイ・ブルー(1998年10月) - ソニー・マガジンズ
Mr. Blue: Memoirs of a Renegade (1999)—issued in the U.S. as Education of a Felon (2000) エドワード・バンカー自伝(2003年2月) - ソニー・マガジンズ

映画
暴走機関車(1985) - 脚本、出演
レザボア・ドッグス(1991) - 出演(Mr.ブルー役)
アニマル・ファクトリー(2000) - 共同製作、原作、脚本



2023-09-27

6-5 リチャード・プライス『フリーダムランド』

 リチャード・プライス『フリーダムランド』Freedomland  1998

Richard Price(1949-)

2000.6 白石朗訳 文春文庫


 プライスはむしろシナリオ作家として知られている。ジェラルド・カーシュ原作の『ナイト・アンド・ザ・シティ』、マーティン・スコセッシ監督の『ハスラー2』、スパイク・リー監督の『クロッカーズ』など。

 ゲットーの麻薬密売人の生態を描いた『クロッカーズ』はスコセッシによって映画化される予定だったが、リーに譲られた。『クロッカーズ』原作1992(竹書房文庫)は、映画とはまた別の価値を持つドキュメントだ。小説におけるプライスは、徹底した取材によって都市社会の全体像を浮かび上がらせようとする。

 『フリーダムランド』も同じ方法論で貫かれている。通常の意味のストーリー展開よりも、アメリカの都市生活の現


在、そこにうごめく人びとの生態を呈示することに力点がおかれる。舞台はニューヨーク近郊の街。黒人やヒスパニックの低所得者層が居住する。通りを隔てて白人地域がある。人種対立の根はストリートのあちこちに転がっている。この構図が三十年前にエド・レイシーが描いた設定とほとんど変わらないことに驚く。ドキュメントの質は進化していない。進歩しようがないのだ。

 街中の医療センターに現われた白人女が、黒人男に襲われ、四歳の息子を乗せたままの車を奪われた、と訴える。発端となる事件には現実のモデルがあった。対立の「境界」で起こる事件は、図式的なばかりに被害者と加害者の役割を色分けしているように思えた。だれもこの肌の色の境界を越えられない。


 一つの事件が万華鏡のように照らし出す社会の本質。その克明な報告を試みることは、社会全体の証言者となることだ。プライスがニュージャーナリストのトム・ウルフにならったかどうか知らないが、社会小説を提出する方法は同じだ。

 被害者、担当刑事、記者、社会運動家など、関係者たちの生が丹念にたどられるとき、小説のプロットは無用となる。事件は数日間の出来事だが、小説は一大パノラマとして拡がっている。

2023-09-26

6-5 ボストン・テラン『神は銃弾』

 ボストン・テラン『神は銃弾』God Is A Bullet 1999
Boston Teran

1999(田口俊樹訳 文春文庫)


 テランのデビュー作は一転して、純粋培養されたかのような狭い世界に終始する。そのかぎりで無類だ。無類の白人神話。神に見捨てられた土地には単一民族しかいないようだ。

 話はごくありふれている。カルト教団に妻を殺され、娘を連れ去られた刑事の復讐。仲間は元教団メンバーのジャンキーの女一人。ここは西部劇と適者生存理論のディズニーランドだ。彼らの追跡は風を追って、神なき土地、荒れ果てた砂漠へといたる。砂漠が戦場だ。裸の暴力が吹き荒れるならず者国家〈ローグ・ステイト〉にあっては、裸の暴力を駆使することだけが答え。彼らの行き着く場所は一つ。神は銃弾。答えは壁に描きなぐられたアフォリズムだ。

 煩出する映像的意識のフラッシュバック、BGMに鳴り響くロックンロール、行動と行動とをつなぐ荒々しいメタファー。《自らが処刑される瞬間、グラニー・ボーイは灰色の鋼鉄を見る。しかし、神経が脳に信号を送るまえに、彼の世界も白い太陽の中で粉々に砕かれ、消滅する》388P。これはエルロイ派の新手だ。テランのスタイルは次作『死者を侮るなかれ』2001で、いっそう密度を増す。

 ストーリーも人物も、ただ一直線だ。彼らの省察も、それ自体でみるかぎり陳腐なものだ。

 砂漠は空虚なる世界の中心、グラウンド・ゼロだ。この文明国の文明も野蛮もすべてがごっちゃに詰まっている。核実験場、有害ゴミ廃棄所、古代の遺跡、ディズニーランド……。ダンテの煉獄とP・K・ディックの悪夢が出会うところ。銃弾がすべての決着をつける。これもアメリカの歌だ。


2023-09-25

6-5 ビル・ボナーノ『ゴッドファーザー伝説 ジョゼフ・ボナーノ一代記』

 ビル・ボナーノ『ゴッドファーザー伝説 ジョゼフ・ボナーノ一代記』Bound by Honor
Salvatore "Bill" Bonanno(1932-2008)
1999 (戸田裕之訳 集英社)


 コーザ・ノストラの物語。ボナーノ・ファミリーとその跡取りビル・ボナーノのインサイド・ストーリーは一度、ゲイ・タリーズのノンフィクション『汝の父を敬え』1971に描かれている。マイノリティ社会とアメリカが衝突するところに生まれた個人悲劇。同様の話は、『ゴッドファーザー』以来のマフィア映画が繰り返し「伝説」をつくってきたところのものだ。アル・パチーノが演じたゴッドファーザー二世のモデルがボナーノであることは定説となっている。

 すでに久しく「有名人」であったボナーノが、なぜ自らペンを取ったのか。それはこの本を前にしたとき自然と起こる素朴な疑問だ。彼は真実を語る衝迫にかられたのか。いやいや、それはあまりにありうべからざることだ。裏と表と裏。どんな社会にも付き物のからくりについて、著者はそれほど熱心に説明しようとしていない。彼は『白鯨』の語り手のように書き始める。「私の名前はイシュメルと呼んでくれ」と。聖書のなかで出てくる追放された息子。己れを語るために世界の組成を語ろうとする男のように。

 大統領と司法長官の兄弟(どちらも暗殺された)を育てた父親ジョゼフ・P・ケネディと、自分の父ジョゼフとはコインの表裏だった、とボナーノは書いている。エスタブリッシュメントの支配者と地下社会のボス。二人は個人的に三十年来の知己というだけではなく、同質の人物だった。二人の物語は同一であり、山ほどの虚偽と背信に満ちている、と。《二人はともに酒の密造から不動産へ、そして株式市場へ、さらに映画へと歩を進め、ともに巨大な富をえたが、常に金は蔑むべきものであり、金儲け自体が目的ではなく、影響力と力を行使するための手段に過ぎないと見なしていた》139P。
 ボナーノの記述は、ケネディ暗殺から始められるが、予想されるように事件の裏に張り巡らされた陰謀の解明に向かうわけではない。むしろ彼は陰謀は自明のこととして、興味の外に置いている。答えのわかりきったことをわざわざ書く必要はない、とでもいうように。

 だれにも語られなかったエピソードとして彼が公開するのは、ケネディ暗殺の後に起こった父ボナーノの誘拐事件だ。彼が陰謀について語るとき、社会を動かすメカニズムの中枢に自分が関わっているのだという確信がほの見える。政府によるヴェトナムへの介入には、想像される以上に麻薬ビジネスの関与があった。麻薬産業について、マフィアの方針は必ずしも一枚岩だったわけではない。裏社会にも反対論はあった。当然(ボナーノの見解によれば)表の支配層にも積極論があったということになる。

 ケネディ暗殺に関する資料は書物の形になっているだけでも膨大なものとなる。比較的早い時期に、落合信彦『二〇三九年の真実 ケネディを殺った男たち』1977(集英社文庫)がある。ニクソンやマフィアの陰での関与、カストロ暗殺未遂との関連など、陰謀説の主たる要素はそこに出揃っていた。データの多くの部分はFBIの一部からのリークによると想像される。正式な捜査機関は真相の封印に協力したが、情報の漏洩口を完璧にふさぐことはできなかったのだろう。

 ボナーノの回顧録は一種の哲学をはらんでいる。驚くのは、彼が十年以上も収監された経験を持つにもかかわらず、社会を動かすのは自分だという確信を揺るがしていないことだ。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...