二十世紀の最後の十年の始まりは、湾岸戦争によって区切られる。社会主義圏の内部崩壊は急速に進んだ。アメリカは軍拡競争の苛酷なレースに勝ち残った。冷戦システムは終わりを遂げたが、NATOは存続した。湾岸の「勝利」のあと、アメリカは、ソマリアおよび旧ユーゴスラヴィアの内戦に介入した。
二十世紀の戦争による大量死者数の試算がある。日本一国の総人口を上回る、まさに天文学的な数字だ。それでも全地球の人口は飛躍的に増加している。第二次大戦以降、恒常化してしまった局地戦争の大量虐殺について、人びとの感覚はもはや麻痺して久しい。そのはん頻度にも、数量にも。
とはいえ、最後の十年はグローバリゼーションの時代として強調される。世界はついに一つになった? グローバリゼーションを善だという者も悪だという者も、グローバリゼーションの勢いには逆行できないとする点では、一致している。世界市場、世界商品、世界情報。文化の均質化は怖るべきスピードで進行している。八十年代に始まった自由主義市場の波が新たな「適者生存説」を産出していることは、だれにも否定できない。排除こそが市場の原理だ。
勝ち残るか、負けて廃棄されるか。進化の果ての「人間の条件」が、単純なゲームにしか帰着しない。ことの残酷な皮肉には言葉を喪う。
情報テクノロジー改革の進行も急激だ。インターネットによって、ますます「世界は狭く、国境は意味をなくして」いく。一方で、インターネットにも電話にも無縁な層が大量に取り残される。
ある社会学者は現状を語るのに「ラナウェイ・ワールド」という言葉を使った。コントロールのきかない暴走をつづけるのみでなく、絶え間なく足元から遁走していく世界。
グローバリゼーションはある領域ではアメリカナイゼーションだ。グローバル・カルチャーはあらゆるものを商品として再編成する。ミステリという大衆読み物もそのカタログの一角を占める。