トマス・H・クック『夏草の記憶』Breakheart Hill 1995
Thomas H. Cook(1947-)
芹澤恵訳 文春文庫 1999
クックは八〇年代から私立探偵小説の書き手として登場していた。暗鬱で良心的な苦悩にみちた作風だ。そちらのシリーズでも秀作はあるが、「記憶」シリーズ(これは日本での命名)が文学的ミステリとしての評判を定着した。
少年の頃の記憶が人の一生を決定する。社会的な成功者として中年をむかえた男。彼の過去には何があったのか。初恋の少女の無惨な死。事件の真相はこれまで信じられてきた事実とは異なるのか。過去は迷路なのではない。あったとおりに語れない者を縛りつけているだけだ。彼は苦しめられ、記憶を解放するロックを一つひとつ解除していく。鍵の開け方が独自の文体と語り口を可能にした。
シリーズとしては、次作『緋色の記憶』1996(文春文庫)
とが、頂点だろう。技巧を尽くした語りによって、一人の人間の記憶をたどるストーリーに目眩にも似た悦楽を仕込むことに成功している。暴かれる真相は物語効果の上からは、それほどショッキングなものではない。暴かれ方に酔わされるのだ。いかにも思わせぶりなカットバックでも、一流の文体によって読まされると納得できる。
犯罪者は告白に倒錯的な悦びをいだくし、それを遠巻きにする観客は自白を目の当りにする興奮に胸を踊らせる。クックが用いた技法は、それらを二つながらに二重に満足させるものだ。読者は旧悪を告解する犯罪者になった気分まで味わうことができる。
だれもが過去の囚人だ。その意味で、クックは、ロス・マク
ドナルドが通路をつけた失われた時を求めるプルースト的ミステリ世界を確実に継承したといえよう。