ディーン・クーンツ『ウィスパーズ』Whispers 1980
Dean Koontz(1945-)
竹生淑子訳 ハヤカワミステリ文庫
初期の作品でいちばん記憶されるべきは『デモン・シード』1973(集英社文庫)だ。高度な機能を備えたコンピュータ・セキュリティ・システムが暴走し、守るべき住人を逆に監禁してレイプを企てる、という話だ。作者はこれを後年、改定して完全版1997をつくった。サイバーパンクSF的なシチュエーションをホラーに転用し、古びていない傑作だ。
ここには、理由なく不可解な状況で追われるヒロイン、というクーンツの定式が姿をみせている。ストーカー役はコンピュータに振り当てられた。彼はこのパターンを使いまくってベストセラー・ライターの列に踊り出た。
『ウィスパーズ』は彼の転機になる作品だ。ヒロインを追いまわす怪物は多重人格のサイコ男。この男はどちらかといえばホラーよりのキャラクターで登場してくる。彼の狙うのはたった一人の女だ。たった一人の女を何回も殺す。相手がなんど殺しても生き返ってくると信じこんでいる。その内面は怪物そのものだ。ヒロインの狙われる理由も、彼女が怪物の頭のなかでは第何十番目かの「たった一人の女」と認知されているからだ。
そして彼は、物語の折り返し点で、いちど死んで生き返ってくるというとびきりの離れ業をやってのける。
ホラー風に進行していくが、作者は、サイコ・ミステリのバランス感覚も巧妙に取り入れている。追う者と追われる者の中間に、捜査側の刑事をおく。刑事とヒロインのあいだに淡い感情が交差するのも、定石通りで救いになっている。怪物の造型が興味本位から免れているのは、彼のいだいたトラウマを、作者がいくらか共有していたからだろう。ニーリィのトリッキィな小説に先駆的に登場し、やがて八〇年代ミステリの主要なタイプを占めることになる多重人格者。彼を怪物とするだけでは、片づかなかった。クーンツはその特異さをよく理解しえていた。『ウィスパーズ』は、作者の美点を多く備え、かつクーンツのみが書き得る世界を前面に出すことに成功した。