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2024-04-09

1-4 H・P・ラヴクラフト「インスマウスの影」

 H・P・ラヴクラフト「インスマウスの影」1931(『ラヴクラフト全集1』大西尹明訳 S)


 ラヴクラフトはアメリカの奥地にひっそりと生息していた。ハメットとは別領域の低級雑誌に書き、生前の刊行本は一冊しかない。死後にわたってカルト的な盛名をなした。アメリカン・ゴシックの原理主義が彼の名のもとに輝いている。

 アメリカの西部開拓、領土拡張とゴシック的恐怖は、メダルの表裏だ。フロンティア・ラインが拡張されるほど、未知の恐怖の領域は増大していく。ラヴクラフトはアメリカの古くからの領土である東北部に生まれ住み、ほとんど隠遁者の生活をおくった。具体的には開拓地など知らなかったわけだが、未開の恐怖は彼の内部のイマジネーションに醸成されていた。


 彼の名は、たんなるホラー作家にとどまらず、彼の創造したクトゥルー神話体系と呼ばれる世界観のマスターとして崇められている。その影響力はポーよりずっと狭くローカルだが、その狭い部分にたいしては深く、侵犯的だ。彼の描く恐怖は、その大仰できめの粗い散文にもかかわらず、コズミックな感覚を掘り起こす。恐怖は折にふれて感じる意識ではない。本性に根ざす宇宙的な感覚なのだ。恐怖によって、ただそれだけによって人は外界とつながっている。喜怒哀楽がふつうの人間が日常的に持つ外界への反応だとすれば、ラヴクラフトにとっては、恐怖がその上位にある本質的で全身的な感覚だった。こうした感受性は、一般には、成人の現実感とはみなされない。

 太古の宇宙には、善神と悪神とに対立した異様な生命体が存在した。今日の人類を脅かす怪物は悪神たちの配下だ。彼らは、大地、深海、星間、森林、極地、睡眠などの領域を支配して、人間に厄禍をもたらす。クトゥルー神話体系とは、悪神たちの名簿であり、その恐怖の目録だ。今風に配列しなおせば、アドベンチャー・ゲームのルールにもなるだろう。彼の死後は弟子たちが体系の保全と整備に努めた。

 他に、「クトゥルーの呼び声」1926、「ダンウィッチの怪」1929、「闇に囁くもの」1930、「狂気の山脈にて」1936、「時間からの影」1936などの作品がある。

 彼は活動期を通じてアウトサイダーでありつづけたが、作品は宇宙的ともいえる生命を保っている。

『ラヴクラフト全集』1 大西尹明訳 創元推理文庫 1974.12
『ラヴクラフト全集』2 宇野利泰訳 創元推理文庫 1976.8
『ラヴクラフト全集』3 大瀧啓裕訳 創元推理文庫 1984.3
『ラヴクラフト全集』4 大瀧啓裕訳 創元推理文庫 1985.11
『ラヴクラフト全集』5 大瀧啓裕訳 創元推理文庫 1987.7
『ラヴクラフト全集』6 大瀧啓裕訳 創元推理文庫 1989.11
『ラヴクラフト全集』7 大瀧啓裕訳 創元推理文庫 2005.1
『ラヴクラフト全集』別巻上 大瀧啓裕訳 創元推理文庫 2007.9
『ラヴクラフト全集』別巻下 大瀧啓裕訳 創元推理文庫 2007.12

『インスマスの影―クトゥルー神話傑作選―』 南條竹則訳 新潮文庫 2019.8
『狂気の山脈にて―クトゥルー神話傑作選―』 南條竹則訳 新潮文庫 2020.11
『アウトサイダー―クトゥルー神話傑作選―』 南條竹則訳 新潮文庫 2022.7


他に
『ラヴクラフト小説全集』 創土社 1975-1978
『定本ラヴクラフト全集』10巻 国書刊行会 1984-1986
などなど……

 この作家については、『北米探偵小説論21』の214-218Pに少しの言及がある。
 クトゥルー神話体系と人種差別思想の本質的な「不即不離」について、さらに踏みこんだ考察が必要なのだが、どうもわたしには荷が重い。適任者はほかにいないものだろうか。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

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