ウィリアム・フォークナー『八月の光』Light in August 1932
William Faulkner(1897-1962)
高橋正雄訳『世界文学全集45』河出書房 1961
加島祥造訳 新潮文庫 1967.9
須山静夫訳 フォークナー全集9 冨山房 1968
諏訪部浩一訳 岩波文庫 2016.10
黒原敏行訳 光文社古典新訳文庫 2018.5
たしかにそこに登場する不能の強姦者ポパイは、同時代のタフガイ小説の類型からはみ出すばかりでなく、遠く時代を経たサイコ野郎を先取りする特異なキャラクターだ。たとえばケインの小説などとの比較も面白いだろう。
『八月の光』の主人公の一人ジョー・クリスマスは、ポ
パイの再来ともいえる。寡黙で魂を引き裂かれたタフガイ。彼は自分が何者であるか探る能力を持たない。有色人種であるクリスマスは、どんなタフガイとも問題を共有していない。ここにこそ、フォークナーと彼の作品の重要性がある。
白人と黒人との民族混合は、彼が一貫して追求してきたアメリカ南部のゴシック的テーマだ。白と黒との混成は決して共生ではない。混成は、しばしばフォークナーのイメージにおいて、悪夢として捉えられていた。クリスマスの日に孤児院に捨てられていた男。彼の名はそのことを意味するだけだ。白い皮膚をした混血の男。血に流れこんだ物語の過剰さに比べて、彼の内実は貧しい。貧しさそのままの出来合いの名前。彼の父親はサーカス芸人(黒人かメキシコ人だった)。彼の誕生の前に、白人女と関係したことによって殺された。クリスマスは、個人的な意味からも社会的な意味からも、だれにも歓迎されないで生まれ落ちてきた。白い皮膚と黒い心の仮面。
性にまつわる混血への恐怖。それはフォークナーのゴシック世界を縁取る基底的な感情だ。グロテスクな混血人間は彼の作品のなかに充満している。
黒と白とが交わる獣じみた快楽模様は、『八月の光』の底に沈んだ主調音でもある。それは、クリスマスと宗教家の中年女ジョアナ・バーデンによって演じられる。その淫乱と憎悪(彼らが愛し合っていたとは作者は保証しない)ぶりを描くのに、作者は、コミック風ともいえる大げさな比喩を連発することも辞さない。異様なほどに誇張されたイメージを多用する。作家はむろんレイシズムの現状について有効な答弁をしたわけではない。何らかの生産的な提言をなしえたわけでもない。作家の仕事は、彼らの運命を翻弄する巨大な力を読者に目の当りにさせることだ。フォークナーは最深度ともいえる洞察をそこに下したいえよう。
人物としてのクリスマスにはほとんど行動の自由はない。彼は白人社会からも黒人社会からも遮断される。彼の居場所はどこにもない。自分を保護し、性的な意味だけでもパートナーとなってくれた女性を殺し、私刑を受ける。筋書きだけを取り出せば、およそ陳腐な類型にみえるかもしれない。しかし作家が言葉を尽くして投げ入れた内実は示唆的だ。
『八月の光』のドラマは、その二人によってのみ動いていくのではない。彼らは眼前に乱舞する巨大な影のような存在であり、その背後にはリーナという素朴な人物がいる。赤ん坊を生みに町にやってきた若い女。忍耐と光に満ちた彼女を通して、二人の煉獄は救済されるといってよい。だが物語のなかで鎮められたにせよ、クリスマスによって体現された恐怖は現実にはいかなる調停も得られなかった。