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2023-12-17

3-7 ビル・S・バリンジャー『歯と爪』

 ビル・S・バリンジャー『歯と爪』The Tooth and the Nail 1955
Bill S. Ballinger(1912-80)
森本清水訳 東京創元社クライム・クラブ 1959.8、
大久保康雄訳 創元推理文庫 1977.7

 もう一冊の分身小説。

 『歯と爪』はトリッキィなサスペンスとして名高いが、隠れたテーマは分身だ。挫折したドッペルゲンガーの話だ。作者の興味が分身を追うことよりも、分身テーマを描く技法にあったことは間違いない。

 プロローグでは、主人公の奇術師が紹介される。彼のなしたこと。一、復讐を遂げた。二、殺人犯人となった。三、自分も被害者となった。一人二役だ。復讐と殺人が区別されているところに注意すれば、一人三役となる。「被害者を捜せ」「犯人を捜せ」タイプの新種ということはわかる。


 作者はこれを、二種の叙述法によって処理する。一つの流れは、奇妙な殺人事件をめぐる裁判の記録。もう一つは、一人称で語られる恋愛ストーリー。客観叙述の裁判記録は時間軸を逆にたどり、一人称の物語は時間軸にしたがって進行する。交差する流れはどこかで合流をみると予想させる。

 二種の叙述と並行する時間進行とが、分身を可能にするキーだ。これは叙述トリックの技法としては、すでに教科書的ともいえる。F・ブラウン『彼の名は死』で、多数の人物に視点を分散することによって、エンディングの意外性を際立たせようとした。バリンジャーの技法は、並列ではなく、交差だ。二種の話が衝突してくるところに物語の焦点を置いた。一人三役の完成だ。


 さらに作者と版元は、この解決編を袋綴じにして、独創性をアピールした。書物の封印された末尾。これは「読者への挑戦状」以上に好奇心をかきたてるものだった。本そのものにトリッキィなオーラがまつわりついたともいえる。書物はもちろん、その書かれた内容のみで読者を捕らえるのではない。パッケージ全体が「書物」なのだ。袋綴じは、叙述の仕掛けをさらに強化するアイテムだった。


 こうした形式上のトリックも相まって『歯と爪』は歴史をつくった。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...