トマス・ハリス『羊たちの沈黙』The silence of the Lambs 1988
Thomas Harris(1940-)
菊池光訳 新潮文庫 1989.9
高見浩訳 新潮文庫 2012.2
『羊たちの沈黙』は控え目にいっても、『レッド・ドラゴン』の続編、もしくは第二部といった連続性を持っている。あるいは前作の不充分さを正すように構成が整備されたと読むこともできる。ただレクター博士の再登場に加えて、彼に対抗するFBI女性捜査官クラリスの設定など、大衆受けを狙ったところは明らかだ。構成上のバランスを保ったので、小説には付加価値もついた。その大きな要素
は、レクターとクラリスとの「男と女のドラマ」だ。彼らの会話は、たんにストーリーの進行の便宜のみでなく、心理のひだを縫って深い陰影をみせている。レクターは前作の超越的な脇役という位置から、安定した助言者役、そしてロマンスの主役という場所に昇格した。
現場捜査官に適切な助言を与える「専門家」の存在は、ホームズ以来、定型ミステリに欠かせない要素だ。レクターが『羊たちの沈黙』の前半で果たす役割は、そこにきっちりと納まる。
この小説に登場する殺人鬼は後景に退いてしまっている。彼は殺した女性の皮を剥ぐ。皮を剥いでなめして造った胴衣をまとい、究極の女装願望を満たそうとする。彼の行動は物語のかたわらでジョークのように消費される。
死体を切り刻むだけでなく、胴衣の材料にするという事例には、もちろんモデルがある。この分野では最も有名なエド・ゲインが逮捕されたのは、五〇年代の終わりだった。彼はサイコ・キラーの時代の先駆者とみなされる。ゲインの犯行はロバート・ブロックの『サイコ』1959の素材となり、またその小説はヒッチコックによって映画化され、さらに名を残した。サイコのジャンルでは古典的ヒーローともいえるが、その殺人の性的な、真に酸鼻な側面は長く秘匿されてきた。『羊たちの沈黙』は、ゲインの「偉業」にたいする全面的な考察でもあった。しかしそれは物語においては周辺的なエピソードにとどまった。ゲイン・モデルが受けるべきだった抽象化の高みをさらったのはレクターだ。『レッド・ドラゴン』の殺人者は、ウィリアム・ブレイクの詩とエッチングによって、殺人を哲学に翻訳する道を与えられた。『羊たちの沈黙』の皮剥ぎ男は、比べると、たんなる肉体労働者のレベルしか許されていない。レクターは人肉喰いの伝説が反復されるにあたって、グレン・グールド演奏のバッハ『ゴルドベルグ変奏曲〈ヴァリエーション〉』という背景を新たに与えられた。殺人のための清楚なBGM。むしろレクターはオールマイティのヒーローへの道を歩みだしたように思える。
彼はある場面では、作者の祈りにも似た言葉を代理に述べることさえしている。クラリス、きみは今でも子羊たちの悲鳴を聞くのか。酸鼻な殺人はこの世界で終わることはない。作家にできるのは、祈りを捧げることか、か細い悲鳴をあげることか。終わりのないカノンについて、作者になりかわって告げるのはレクターだった。
ハリスの二作はサイコ・キラーの時代の作品水位を決定した。それはまた、作家から他の傾向の作品を書く余力を根こそぎ奪う結果にもなった。アメリカにおいて作家でありつづけることの困難を証するケースがここにもある。