バリー・アイスラー『雨の牙』Rain Fall 2002
バリー アイスラー Barry Eisler
池田真紀子訳 ヴィレッジブックス 2002.1
ハヤカワミステリ文庫 2009.3
殺し屋は政治家〈フィクサー〉の意を受けて、反対者を自然死させるエキスパート。彼は自分を傭う勢力にたいして深い洞察を備えている。もちろんこの作品を風俗を活写したハード・アクションとしてのみ楽しむことはできる。だが読み物としての価値は別にして、この物語が示している日本社会の現状レポートを素通りするわけにもいかないのだ。彼が殺しを請け負う構造は、フィクションというより、そのまま作者の日本社会論だと思える。
ベンジャミン・フルフォードの『ヤクザ・リセッション さらに失われる10年』2003(光文社)が一部で話題を呼んだ。在日二十年になるカナダ人ジャーナリストによるニッポン絶望レポートだ。その主張をまとめれば、以下になる。――バブル以降の十年を日本は誤った政策によって空費してしまった。政・官・財・ヤクザの不健全な結託によって、不良債権がなし崩しに放置された結果だ。一方アメリカは、日本の輸出力を抑える必要から内需拡大路線を迫って、公共事業の大規模な展開を要求した。これは日本の「政・官・財・ヤクザ」の私利にもつながる政策だった。日本が約束した内需拡大の総額は「十年で六百七十兆円」だったが、この額は日本の累積国家債務とほぼ一致する。
フルフォードのレポートが提起していることは、グローバリゼーションが日本社会に何をもたらせ、またもたらせつづけるのか、という観点だ。グローバリゼーションが避けられないとすれば、日本の失速と没落もまた避けられない。活力を喪った日本システムについては様々な議論が飛びかっている。その中でもこれは最も痛烈な一撃だろう。ポスト・バブルの息苦しい腐食感を、これほど率直に暴いた論考はなかったと思える。
『雨の牙』は、日本社会の現状認識として、フルフォードの論点をほぼ取り入れている。東京は金融犯罪とスキャンダルと謀略が渦巻く、世界でもトップをいく危険な街だ。殺し屋はヤクザ・リセッションの隠れエージェントに他ならない。のみならず、小説の後半には、フルフォードをモデルにしたジャーナリストが赤坂で謀殺される場面も置かれている。