ウィリアム・ディール『真実の行方』Primal Fear 1993
William Diehl(1924-2006)
田村義進訳 福武文庫 1996.9
リンジーとは逆に、このジャンルには、新規参入組が多い。こぞって『羊たちの沈黙』を超える(と謳った)世紀末的な作品を饗宴していったのだが、おおかたは宣伝倒れに終わった。
ディールの場合も、『フーリガン』1984(角川書店)、『タイ・ホース』1987(角川文庫)といった冒険アクションがすでにある。『真実の行方』は一転して、法廷ものだ。
カトリックの聖職者が殺される。容疑者は一人、その有罪は疑いないようにみえた。ここに介入してくる主人公の凄腕弁護士。有罪を無罪に変える法廷の魔術師といわれる男だ。真実の行方が白紙にもどったところでストーリーが進行する。O・J・シンプスン事件のような現実の判例が示したように、アメリカの裁判は真実の黒白をつけるにあたって独特のシステムを採用する。冤罪による極刑があるのだから、論理上ではその逆の、逆転無罪判決が強行されても不思議はないわけだ。有罪の人物が術策を弄して無罪を掠め取ろうとする話も少なくなかった。ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』1993(創元推理文庫)、ジョン・カッツェンバック『理由』1993(講談社文庫)など。後者は人種問題も含んでいる。
『真実の行方』もこのパターンで、手段を選ばない弁護士が話を主導していく。これだけなら法廷ミステリだが、作者はここにサイコ仕掛けをプラスした。ただし結末には賛否両論があるだろう。
同一パターンのもっと軽い作品はあるが、タイトル紹介は省略したい。そのアイデアはこうだ。ABCDEと五つの人格が解離した多重人格者がいるとする。Eの人格のときに犯した殺人について、記憶の連続していないAの人格は責任を取ることはできない。被疑者がAの人格として出廷すれば、彼は無罪である。……というアイデアで、気の利いた法廷サイコ・ミステリが一丁上がりになるわけだ。
人格交換のゲーム性は、その見地からのみみるなら、恰好のミステリの題材といえよう。しかし取扱いには細心の注意が必要だ。