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2023-11-21

4-7 ロバート・ラドラム『暗殺者』

 ロバート・ラドラム『暗殺者』The Bourne Identity 1980
Robert Ludlum(1927-2001)
山本光伸訳 新潮文庫 1983.12

 ラドラムは彼一流の謀略史観にのっとって多くの作品を産出したが、だいたいパターンは一つだといってもよい。陰謀は世界を二分する。陰謀は不滅である。陰謀は米ソ二大国の冷戦よりはるか昔から存在する。

 トレヴェニアンがからかいの対象にした物語の外枠を、ラドラムは大真面目に生産しつづけた。皮肉なことに、覆面作家トレヴェニアンの正体が話題になったとき、ラドラムの名前もあがったという。

 第一作『スカーラッチ家の遺産』1971(角川文庫)は、第二次大戦下から始まる。ナチスの陰謀は過去のものではなくて、米ソの対立構造よりもはるかに根が深く広範に生き延びている。『マタレーズ暗殺集団〈サークル〉』1979(角川文庫)での狂信的テロリスト集団は、シチリア島の血の復讐に起源を持つ。世界のいたるところにネットワークをはりめぐらせる結社に対抗して、米ソ諜報機関ナンバーワンのエージェントが協力する話だ。

 ラドラムはおおむね、謀略アクションのワンパターンの供給者として七〇年代を通過した。このタイプの書き手の多くがそうであるように、語り口には動物的な精気があった。『暗殺者』はその頂点に位置する。「ボーンのアイデンティティ」という原タイトル。

 暗殺者ボーンは自己を喪って物語に現われ出てくる。任務に失敗し、重傷を負い、記憶を喪った。身につけた技能や暴力や悪辣な生存本能は個体の中に残っている。

 自分は何者なのか。

 ようやく解きほぐした断片はまた新たな謎を呼ぶ手がかりにすぎない。進めば進むほど迷路は深くなる。記憶を喪う前に彼がかかわっていたミッションが姿を現わす。。それに従って彼は伝説上のテロリストの役を演じていた。さらにヴェトナムで極秘の暗殺部隊に参加し、ある男を処刑して、彼の名前を借りて名乗ってもいた。

 『暗殺者』のアイデンティティは、トレヴェニアンの主人公の「布石」の逆をいっている。彼は確固たる自己の構成要素など持っていない。彼が出会う己れの断片は謀略作戦のために用意された贋の仮面ばかりだ。記憶を回復すればするほど、他人に化けていた自分の顔を見つけなければならない。ラドラムのボーンがパロディに分裂してしまわないのは、作者がそこまで一貫して描いてきた陰謀世界の強固さによる。現実よりも現実らしく張り巡らされた陰謀構図が、主人公の実在を裏面から支えていたということだ。

 暗殺者の内面は個人的にはほとんど無だ。彼の本質は陰謀のパーツとなる道具にすぎないからだ。陰謀の物語に実体的な主人公はいらない。ラドラムのおおかたの小説がそうであるように、陰謀こそがおどろおどろしい絶対の神なのだ。他の人物など出る幕がない。トレヴェニアンは逆をついて、ヒーローに実体を与えた。

 ラドラムはその実体を踏まえて再度の逆転を試みた。二重三重の迷路を仮設した。ここからようやく、旧世界の単純な様式ではなく、現代世界の複雑さに耐えうるヒーローが誕生してきたと認められる。


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