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2024-04-11

1-1 アーサー・コナン・ドイル『恐怖の谷』

 アーサー・コナン・ドイル『恐怖の谷』
 Arthur Conan Doyle(1859-1930)
『恐怖の谷』 The Valley of Fear  『ストランド・マガジン』1914.9-1915.5 初出

   マーティン・リット『男の闘い』 THE MOLLY MAGUIRES 1969

 もともと発明者ポーは、探偵デュパンの肖像を、当時の国際都市パリに住む遊民として描いた。国籍も職業も持たない自由人。こうしたタイプにヒーロー役があてられたことの意味は大きい。アメリカに生きるアメリカ人はミステリという新形式の主人公にはなれなかった。ポーの時代においていっそう鮮明だった文化の後進性は、思考機械やアブナー伯父の登場によって払拭されたわけではない。

 ドイルのホームズ物語の成功は、さまざまな観点から述べられてきた。ウィリアム・ゴドウィン、エミール・ガボリオと、探偵像の源流をポー以外に求める考察もある。

 だが、なぜ彼がかくも長きにわたって広い人気を博しているかは、必ずしも解明されていないように思える。ドイルのストーリー・テラーとしての卓抜さを讃えることでは、この点は深まらない。素人探偵がヒーローになるためには、捜査能力において警察組織よりも優秀という人物が客観的に受け入れられる素地が必要だ。ホームズはデュパンのような遊民ではない。最初から体制側に寄り添った人物であることは間違いない。彼の足は十九世紀末のヴィクトリア朝社会にしっかりとついている。なかば職業的に犯罪を捜査する異能の人物は当の社会に確固たる位置を占めることができた。彼は、犯罪にたいする好奇心と刺激を求める知的スノビズムの具現化ともいえる。

 ヒーローが当該社会に根ざすことのできる安定した位置。これこそ、アメリカの「後進的」ミステリ作家が望んでも得られない渇望の的だった。矛盾はそれを鋭く意識した者によってしか解決されない。二十年代なかばまでそうした存在は現われなかった。

 『恐怖の谷』は、ホームズ譚四長編の最後の作品となる。事件がいったん解決をみた後、第二部の独立した因縁話がつけ加わるといった構成は『バスカヴィル家の犬』を除く他の二長編と同じだ。第二部の舞台が、未開の土地、植民地に取られる点も共通する。ただし『恐怖の谷』の場合は、一八七五年のアメリカ中西部となる。架空の土地名がつけられているが、ピンカートン探偵社は実名で、しかも善玉として出てくる。第二部の話にはモデルがあるが、鉱山町での労働争議にピンカートン社の労働スパイが潜入して組合潰しをはかったことは、公平に描かれているわけではない。労働側に立つか資本家側に味方するかは別としても、作者の視点において、アメリカは(この地方だけにしても)完全な未開の土地だ。

 ホームズ譚においては興味深い統計がある。短編五十六編、長編四編からなるその背景には、非ヨーロッパ世界が強く関わっている。数でいえば半数以上の三十二編。インド、アフリカなど、当時の大英帝国の版図がそれにあたる。犯罪の素因は、植民地もしくは未開の土地でつくられ、イギリス本国に還流してくるという構造だ。野蛮は野蛮の地にある。西欧小説が「自然」とみなした世界観はミステリにもそのまま採用されている。探偵の身分的安定とは、植民地経営が良好にいっていることの尺度でもあった。ホームズ物語が、大英帝国による支配文化を「最も包括的に記録したテキストだ」(正木恒夫『植民地幻想』みすず書房)とする見解はまったく正しい。

 ドイルの物語世界がイギリスによる支配システムを正確に反映していたことは了解がつく。しかし『恐怖の谷』はどうであろうか。十九世紀後半、アメリカがイギリス植民地でなくなってから百年は経過していたはずだ。あるいはドイルの意識内においては、そうした事実はなかったのかもしれない。この点、アメリカ人にとっては(とくに)この小説は憤激の的だったと思える。

 犯罪の源流を国外に求めるという発想は、少なくともアメリカのミステリ作家には訪れなかった。


参考
マーティン・リット『男の闘い』 THE MOLLY MAGUIRES 1969

 潜入するスパイにリチャード・ハリス、労働組合リーダーにショーン・コネリー。映画でのあつかいは、組合=テロ集団・秘密結社というもの。『恐怖の谷』と同様の不正確なドラマ化だ。ラストに魅せるコネリーの静かな怒りの爆発によって、かろうじて救われる。







『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...