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2024-04-07

2-5 ナサニエル・ウエスト『クール・ミリオン』

 ナサニエル・ウエスト『クール・ミリオン』Cool Milion 1934
Nathanael West(1903-40)
佐藤健一訳 角川文庫 1973
柴田元幸訳 『いなごの日/クール・ミリオン: ナサニエル・ウエスト傑作選』新潮文庫 2017.4

 ウエストはこの時期に短い活動を残したユダヤ系作家。ユダヤ系アメリカ文学が主流小説の舞台に大量に登場してくるのはもっと後のことだから、ウエストは孤立した先駆者といった項目に分類されている。

 『クール・ミリオン』はグロテスクで滑稽な巡礼物語だ。田舎町に住むレムエル・ピトキンという名の善意のユダヤ青年の受難を描く。彼はアメリカ・ファシスト運動に出会い、利用され尽くすことになる。初めは片目をなくし、歯をなくし、次には片脚を切断され、ついには頭皮を剥がれる。つぎはぎのフランケンシュタインみたいになった姿で、彼は政治運動のシンボルに使われる。

 果てには、不自由になった身体をさらして演説する最中に射殺されてしまう。死後、彼は、「民衆」の政治的大義に殉じた殉教者に祭り上げられるわけだ。

 小説中のファシストは叫ぶ。暗殺、万歳。アメリカの若者たち、万歳、と。

 アメリカという風土にもファシスト運動は力を持った。ウエストの諷刺はとりわけ深遠とはいえないにしても、貴重な証言として残されるだろう。

 ウエストの名前はハメットの伝記の交友録にも見つけられる。『影なき男』が執筆されたホテルの持ち主がウエストだった。後に彼は、フィッツジェラルド『ラスト・タイクーン』1940と並ぶハリウッド小説の傑作『いなごの日』1939を書く。そしてウエストは、ほかならぬフィッツジェラルドの葬儀に向かう道で自動車事故を起こし、その短い生涯を終えたのだった。



Nathanael West 

2-5 ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』

 ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』Headed for a Hearse 1935
ジョナサン・ラティマー Jonathan Latimer(1906-83)
井上 一夫訳 創元推理文庫 1981.1

 ラティマーの名前をつづけて並べるのはいくらか不適切だろうが、ハードボイルド派の諸相をながめる観点から注記しておく。

 『処刑六日前』は、タイトル通り、一週間というリミットを定めて死刑囚が無実を証明する話だ。タイム・リミットを設定してサスペンスを高めるという方式は、有名な『幻の女』に先んじている。

 技法的な面だけでなく、この小説には、注目すべき屈折が見られる。屈折というか、過剰、未整理の要素だ。それはたんに、作者のほうに定型におさめる力量が不足していたことを示すだけかもしれない。だとしても気になる。一つは、死刑囚監房において幕開けするという構造。刑務所が名探偵の住処となる構想は、「思考機械」シリーズの原点だったが、より極端な例には、ボルヘス&ビオイ=カサーレス『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』1942(岩波書店)がある。収監された安楽椅子探偵という魅力ある設定は、あるいはラティマー経由かとも思わせる。

 それ以上に見逃せない要素は、傭われたタフガイ私立探偵が中半で密室殺人の謎に取り組むという進行だ。常識的にみると何ともバッドチューニングだが、これは、奇手と感じるほうに問題があるのかもしれない。たしかにチャンドラーは謎解きミステリの人工庭園を罵ったが、それはたんに彼の個人的見解にすぎない。機械トリックとアクション活劇の混合を禁じるルールなど、べつにだれがつくったわけでもない。自然と分類意識が高じてしまっただけだ。……とはいえ、こうした作例が物珍しさを伴うこともたしかだ。作者は大真面目に描いているところが、何ともおかしい。

 ラティマーのタフガイはまた「二日酔い探偵」という新タイプの試験台にもなっている。泥酔して酔いつぶれた次の朝、最悪の体調にうめき声をあげながら、閃きに打たれる。このアイデアはほんの思いつき程度で、持続せずに終わった。

2024-04-06

2-6 H・H・ホームズ『死体置場〈モルグ〉行きロケット』

 H・H・ホームズ『死体置場〈モルグ〉行きロケット』Rocket to the Morgue  1942
アントニイ・バウチャー(H・H・ホームズ)Anthony Boucher(1911-1968)
高橋泰邦訳 別冊宝石104号


 もう一つの有力な一派をあげるなら、筆頭にくるのは、あくなき精力で不可能トリックを追い求めたディクスン・カーの信者たちだろう。まず実在の猟奇殺人犯からペンネームを借りたH・H・ホームズ。彼は尼僧を探偵役にした密室もので師カーを追った。カルト教団での密室殺人をあつかった『密室の魔術師』1940(別冊宝石99号)が第一作。この作品は、ある長編密室傑作リストではベストテンの九位に入っている。

 第二作『死体置場行きロケット』では、物故した巨匠(カーをほうふつさせる)の息子ヒラリーを狙った殺人計画が連続する。彼は何度殺されてもおかしくないような憎まれ役。巨匠の著作権継承者として、言語道断の暴挙をくりかえす。たとえば、巨匠の作品の点字テキスト化に商業誌なみの転載料を要求するとか――。そんな男だから、車に撥ねられかけ、工事中のビルから落ちてきたレンガの下敷きになりかけ、毒入りチョコレートを口に入れかけ、次には、密室で刺殺されそうになっても、同情を引かない。いささか長すぎる前段、毒入りチョコレートも某作品をなぞったようで感心しない。

 ロケット実験の最中にほんとうの死人が出る。これが題名の由来だが、なかばすぎまで現われないのは苦しい。ロケットもその打ち上げにいたる仕掛けも充分には生かされていない。出てくるSF作家たちのおしゃべりに多元宇宙論などが早くも披露されるのが楽しい。不可能トリックの周囲を飾るデコレーションの面白さは、カー派の特徴だ。ホームズの二作は装飾が勝ちすぎる印象もある。

 この作家は、本名のアンソニー・バウチャー名義の評論・書評のほうが高名だ。小説家としては大成せず、評論に転じたという説(都筑道夫などによる)がもっぱらだが、いかがなものか。バウチャー名では『シャーロキアン殺人事件』1940(現代教養文庫)がある。

H・H・ホームズ『密室の魔術師』

2-6 クレイトン・ロースン『棺のない死体』

 クレイトン・ロースン『棺のない死体』No Coffin for Corpse  1942
Clayton Rawson(1906-71)
田中西二郎訳 東京創元社1959 創元推理文庫1961.5


 カー教徒のもう一人はロースン。作品の支持率からいっても、高名さからいっても、こちらが第一の弟子だ。

 奇術師マーリニを探偵役とする長編は四作で打ち止めになった。「この世の外から」「天外消失」などの短編も名高い。最後の長編『棺のない死体』を一読すれば、あとがつづかなかった理由も納得できる。装飾過多を通り越して、不可能トリックの大盤ぶるまいが並みではない。奇術VS心霊学、奇術VS魔術。不可能趣味と怪奇趣味のオンパレードで、超現実の世界が目眩く展開する。タッチはユーモア。というか慎みがない分、スラプスティックだ。

 密室大トリックが姿を現わすのはようやくページが半


分を過ぎてからだ。前半を引っ張るのが「不死の男」。いちど死んで埋葬されたのに現実世界に舞い戻ってくる。生き返りトリックのタネ明かしはともかく、天真爛漫さはカー派の大きな長所だ。死んだ男がよみがえり、ポルターガイストが起こるところ、心霊学者に守られていたはずの百万長者が被害者(チェスタトンの皮肉の実例がつけ加えられた)となる。不死は百万長者にはもたらされなかった。

 複雑に組み立てられた謎は、幾層にもわたって念入りに解かれていく。この謎解きについていけるかで、ミステリ読者は初級と中級とに分けられるかもしれない。「単純な殺人芸術」をリアルな観点から否定し去る立場もあった。それならいっそう複雑きわまりない「殺人芸術」トリックに向かうことこそ、カー派の矜持だったろう。アイデアと筆力が湧き上がってくるかぎり、理想は果てない……。








2-6 ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『赤い右手』

 ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『赤い右手』The Red Right Hand  1945
Joel Townsley Rogers(1896-1984)
夏来健次訳 国書刊行会 1997.1、創元推理文庫 2014.1

 ロジャーズに関するデータはじつのところ貧弱だ。ここに『赤い右手』を並べるのは、カー派についての新解釈を記すためではない。関連としてはごく薄い。『赤い右手』は、これのみで記憶される一作という特別の位置づけにふさわしい傑作でもない。人騒がせな作品、というのが最も妥当な評価だろう。

 まずその文体。《今夜立てつづけに起こった一連の出来事がはらむ不可解な謎の数々のなかで、わけても重要な一つを挙げるとすれば、それはなんといっても、まんまと姿をくらましたあの醜い小男の行方だ》という一人称の書き出し。熱を帯びた主観によって、せきこんで語られる。語られる出来事は、必ずしも整理されたイメージを結んでこない。語り手は事件を起こった順に語らない(あるいは、その能力が欠如している)。自分が語りたいことを優先して語るのみだ。読み進むほどに混迷に突き落とされる。

 ハネムーン旅行中のカップルが怪異な容貌(書き出しの一行につづいて微細に描写される)のヒッチハイカーに殺される。死体の右手は切り取られていた。殺人は一種の密室状況でなされる。密室状況の証人になるのみでなく、語り手は、連続する殺人の死体発見者にもなりつづける。

 こうした叙述スタイルは、書き手が意識的に駆使するケースと、狂熱にまかせて書いた結果できてしまうケースと、二つある。前者は「叙述トリック」と呼ばれる方法。後者はたとえば、ジム・トンプスンのような札つきの作家が選ぶスタイル。『赤い右手』はそのどちらにもあてはまらない。途中で場面のつながりを無視してかかったとしか思えないトンプスンの投げやりなストーリー・テリングに似たところはあるが、少し違う。

 この小説の語り手は「信用できない話者」の典型だ。「信用できない話者」は、作者によって周到にコントロールされるが、『赤い右手』には、そうしたコントロールの形跡を見つけられない。

 読み進んでいくほどに、偶然の符号につきあたる。時間軸が前後する。場面が飛んで、またおかしなところでつながってくる。ミスディレクションと思えるモノ(たとえば語り手のなくした帽子)がばらまかれる。――それらの方法を、ほとんど作者は無自覚に使用しているようだ。

 読者のミスリードを誘う手がかりを配置することも作者の腕の見せ所だ。ところがこの作品の「ニセの手がかり」のほとんどは、推理には無関係なものだったことが判明する。これはたんに作者の技法がつたなく、下手糞なせいだ。他の理由などない。事件が進行通り語られないというのも、要するに、創作初心者のおちいりやすい傾向だった。ミスディレクションを生かせないのも計算違いによる。

 『赤い右手』は、このように駄作・失敗作の条件を山ほど備えていながら、しかし全体として統一像をもって読めてしまうという、奇跡的な作品だ。すべて綿密な計算によって書かれたのだとすれば天才の技だが、ロジャーズの他の作品が評判を呼んでいないことを考えるなら、この一作は、神が偶然に宿った唯一無二のケースとみなされるべきなのかもしれない。


2024-04-05

2-6 オーガスト・ダーレス『ソーラー・ポンズの事件簿』

 オーガスト・ダーレス『ソーラー・ポンズの事件簿』The Casebook of Solar Pons  1945
August Derleth(1909-71)
吉田誠一訳 創元推理文庫 1979.7

 これもまたカー派の収穫とは別領域。

 ダーレスの名前は、ラヴクラフトの死後、その作品世界を異端の信者たちに普及しつづけた忠実な使徒として残っている。クトゥルー神話体系を書き継ぐ後継者でもあり、また師ラヴクラフトの作品を刊行する出版者でもあった。ホラー系の奇特な人物といったイメージが強いが、その活動はけっこう多彩だ。

 ソーラー・ポンズものは、ホームズ物語のパロディとして有力なシリーズだ。全七十編あるから、「聖典」(本家ドイルの作品をこう通称する)よりも数的に多い。ポンズはホームズの生まれ代わりという。聖典を忠実に模作している点も特質だ。第一短編集の発刊は四五年だが、ダーレスはすでに、二八年ごろから書き出していたという。

 作者がまだ十代のときだ。聖典はすべて読んでしまって、原作者にもう新作を書く意志がないことを確かめて、自分がシリーズを書き継ごうと決意した。この逸話はダーレスという書き手の性格をよく語っている。愛読者が決意することだけなら珍しくはないが、じっさいに書けてしまう。クトゥルー神話への肩入れも彼にとっては同位相のものだったのだろうか。美術のジャンルでは贋作家という存在は多いが、文芸領域でこの種の仕事を残している書き手は珍しい。

 「消えた機関車」という一編は、消失トリックをあつかう。ドイルの非ホームズ短編の設定を借用し、聖典ならこう書いただろうという結末をつけた。

 ホームズ物語のパロディ、パスティーシュは、それこそ枚挙にいとまがないが、生まれ代わりを称したのはダーレスだけだろう。後継者になろうとした熱意も他を抜きん出ていたと思える。

2-7 クレイグ・ライス『スイート・ホーム殺人事件』

 クレイグ・ライス『スイート・ホーム殺人事件』Home Sweet Homicide 1944
Craig Rice(1908-57)
長谷川修二訳 早川書房HPB1957.6、ハヤカワミステリ文庫1976.6
羽田詩津子 ハヤカワミステリ文庫 2009.9

 ライスは、不可能趣味と怪奇趣味という二大要素を欠いたカー派の変わり種、ともみなせる。スラプスティック・コメディの側面が肥大した。

 最も有名なシリーズ主人公は、酔いどれ弁護士J・J・マローンのトリオだ。アマチュアの探偵好き夫婦ヘレンとジェイクが加わる。夫婦の素人探偵は『影なき男』のヒットの延長と考えられる路線だ。トリオは協力し合うが、肝心なところでは意地を張り、かえって事件を紛糾させていく。探偵役はたいてい、ドタバタ喜劇のプレーヤーも兼任している。

 ただしどんな書き手にしろ、ユーモアとは、うまくこしらえられた擬態であることが多い。カーのファルスに埋めこまれていた感情が多層だったように、ライスの場合も、


アルコールと事件好みのどんちゃん騒ぎの底に沈んでいるのは、胸を突かれるような哀しみだ。こうしたワンダフルな世界では、死体が勝手に移動する。死体もまた夢見る。生きていようが、死んでいようが、哀しいことに違いはない。

 『スイート・ホーム殺人事件』は、そうしたライスの主流作品からはトーンを変えている。事件そのものの派手さは抑えられ、探偵チームの日常風景がむしろ主になる。三人の子供をかかえて奮闘する未亡人ミステリ作家の隣家で殺人が起こる。彼女は執筆に忙しく、フィクションの世界にかかりきりだから、出番はごく少ない。探偵役は三人の子供だ。十二歳のエープリルを中心にして十四歳の姉と十歳の弟のトリオ。彼らがマローンのチームとよく似ているのは当然のこと。ライスの描く人物の根っ子は子供なのだから。

 彼らの探偵活動の心強い味方は、母親の作になるミステリ・シリーズだ。謎解きのヒントも大人の嘘を見破る手管も、すべてはママの書いた「J・J・レインもの」という教科書に載っている。なおかつ彼らは、母親と独り者の刑事の仲がうまく進展するようにと、いろいろ心をくだく世話好きタイプでもある。

 この作品は単発だが、ライスの世界の祈願を最も濃密に反映したものといえる。ドメスティック・ミステリ、もしくはコージー派と呼ばれる傾向は、このあたりから発した。キッチンを中心とした日常に事件が絡んでくる。ごく狭い拡がりのなかで話は展開していって、解決をみる。親しい家に招かれて家庭料理をご馳走されるような作品世界だ。

 ホーム・スイート・ホームをもじった「ホーム・スイート殺人事件〈ホミサイド〉」というタイトルにコージー派のモチーフは尽くされている。暖かい家庭料理とそれを供してくれる優しいママなんて幻想だ。幻想だからこそフィクションに描く値打ちがある。そしてそういう空間にミステリの題材を生かす試みも――。

 殺人と家庭団欒と。ミステリの歴史はさまざまの背反する空間をいとも簡単に結びつけてきた。その新たな成功が、ここから始まったといえよう。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...