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2024-04-08

2-4 レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』

 レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』 Farewell, My Lovely 1940
Raymond Chandler (1888-1959)
清水俊二訳 ハヤカワミステリ文庫 1976.4
(別冊宝石 1954.12 、 早川書房HPB 1956.3)
『さよなら、愛しい人』 村上春樹訳 早川書房 2009.4  
    ハヤカワミステリ文庫 2011.6



 幻の女が群集のヴェールをとおして現われて消えるという物語は、チャンドラーのケースでは、もう少し通俗的なドラマを借りて展開される。男は八年の刑務所暮らしを終えてもどってくる。女は消えている。場末の歌手という過去の女の痕跡はどこにもない。大鹿マロイとヴェルマの物語は、男の側からみれば一つの純愛ドラマだ。だが女のほうからすれば追いすがる過去の影でしかない。『幻の女』は捜される女の立場を描かなかったが、『さらば愛しき女よ』は、男と女とどちらの状況にも目配りした。二つの作品は、群集を通して「群集〈マルチチュード〉の女」が登場してくる点で、同じ本質を備えている。チャンドラーの物語のほうは、具体的である分、抽象度を見つけにくいかもしれない。

 マロイとヴェルマの物語の見届け人は、私立探偵フィリップ・マーロウ。チャンドラー小説は、「偉大なアメリカ探偵」の最も有力な神話でもあるから、従来は、マロイの純愛の顛末もサイド・エピソードの一つとして受け取られている。この点に、ささやかな修正をほどこしておこう。

 『さらば愛しき女よ』の冒頭、マーロウは大鹿マロイと出会う。六フィート五インチの、大型トラックのような男。暴力の臭いのする黒人居住区で自分の庭のようにふるまっている。マロイはポーの「群集の人」の語り手=尾行者にあたる。未知の男=幻の女を捜している。彼の探索は空しく失敗しつづける。作者は彼を語るにあたって、マーロウという全能のヒーローを注意深くフィルターに使った。愛しいヴェルマはいない。痕跡すらない。八年という歳月は、彼の主観とはうらはらに、途方もなく長い。彼はそのことを知るために、腕におぼえの黒人用心棒を、一撃で「蝶番のように」折り曲げてしまう。

 「群集の人」の尾行者は犯罪が始まる前に語りやめる。『さらば愛しき女よ』は、マロイを案内人に仕立てることによって、犯罪の街の闇の奥に潜行していく。行動者はマーロウだが、彼を導くのは大鹿マロイだ。大男の肉体に充填された一途な純愛だ。ヴェルマが体現する「犯罪」はそれと対置されることによって、いっそう輝きを増す。どちらも単独では輝かない。都市に無数に発生する犯罪の、裏と表を受け持つことによって、抽象性の高みに昇ることができる。二人のドラマが最高度に達するとき、さすがのマーロウも傍観者の位置に退く。見届け人に甘んじるしかない。

 すべてが終わった後、マーロウは不機嫌につぶやく。カリフォルニアの空ははるか遠くまで見渡せた。「けれど、ヴェルマの行ってしまったところまでは見えなかった」-but not as far as Velma had gone.

 幻の女は、チャンドラーの小説においては、具体的な名前を持ち、犯罪ドラマの輪を構成する要素となった。だが最後には、こうして抽象の高みに舞い上がった。彼女は最終的に自分の名前からも解放されたのだと読める。

 チャンドラーの称号はハードボイルド派の完成者として定まっている。これは、クイーンがヴァン・ダインを継承しながらヴァン・ダイン以上のジャンル史的重要性を与えられていることと、いくらか似ている。しかし観点をいくらかずらしてみるなら、チャンドラーが「偉大なアメリカ探偵〈ヒーロー〉物語」の最も強力な担い手だったことに気づく。彼はハメットの挫折や、クイーンの苦悩と試行錯誤とは無縁だった。ヒーロー神話を信じえた一貫性は作家としてのキャパシティの大きさとは関係ない。

 チャンドラーは中年過ぎて書き始めた。「ブラックマスク」に短編を発表したのは、偶然ながら、ハメットの沈黙と前後している。手本にしたハメットと交替するように活動を始めた。後発的な位置を生かし、己れの理想と人工的なミステリ世界をうまく調停することができた。彼の謎解きミステリへの敵意は有名なものだが、論争の論点となるリアルな現実との関わりは、後代からみればそれほど本質的とは思えない。ハードボイルドもまた現実の所産というより、ルールを整備した人工世界に映る。洗練に努めたのはチャンドラー自身だ。

 ハメットはアメリカの悪を物語に取りこもうと苦闘したが、それに破れた。同じ葛藤をチャンドラーも経験したかと問えば、答えは否定に傾く。彼にとって悪とは、外側にあるもの、ストーリーの素材になりうる事象だった。逆にいえば、悪を追求する作家には、正義の側に自分を引き寄せることが可能になる。こうした正義は「密室の死体」以上にリアルでありえるのだろうか。

 チャンドラーが受けた、いま一つの見落とせない称号に、後代からの文学的評価がある。都市小説の卓抜な書き手として認める評価は強力だ。文章家としての彼は、パルプ・ライター時代から独特の習練を積んだ。ウールリッチはスタイリストとしての才能をミステリに流用したが、チャンドラーは低級犯罪小説を自分の文章で再構成しながら独自のスタイルを開発していった。行動的人間の世界をストーリー化するにあたって、彼はハメットのようにもヘミングウェイのようにも書かなかった。またガードナーのように口述するスピードでは書かなかった。言葉を削ることもなく、流れこむ情緒を禁ずることもなかった。

 彼のヒーローは都市の一部だった。孤高はたいていは彼のポーズであったとしても、都市の一面に属することもできた。マーロウはロサンジェルスの街に現われた中世の騎士として自分を律した。彼はアメリカ小説に登場する、最も自己陶酔的な人物だが、彼が都市の一部であるという本質によってナルシズムは部分的(ある観点では、全面的)に救われている。

 騎士の物語としてチャンドラーの世界はむしろ古い伝統につながっている。ヒーローの全能を彼が演じ、彼が語る。それは彼が審判する世界でもある。伝統的な騎士の物語を、チャンドラーは一九四〇年代のアメリカに蘇生させたのだった。

2024-04-07

2-5 ジェイムズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』

ジェイムズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』The Postman Always Rings Twice  1934
ジェームズ・M・ケイン James M Cain(1892-1977)


 ポーの最初の受容先がフランスだったように、不況期のある種のアメリカ小説作法は、本国以上にフランスで受け入れられることになった。ケインはその一人だ。ハードボイルド派に分類されるが、チャンドラー型の都市小説の産出者ではない。
  『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、非常に影響力をおびたタイトルでありながら、謎めいている。物語の中にポストマンは登場しない。物語の外からベルを鳴らすのだ。二度。必要に応じては、三度、四度か。フランス実存小説の元祖と崇められる理由は納得できる。  放浪するプアホワイトの青年が、ギリシャ系の男の営む安食堂に身を寄せ、そこの女房と結託して亭主を謀殺する話。一度は失敗して、二度目で目的を果たす。語り手でもある殺人者が裁

きを待ち受けるところで物語は終わるが、最後のページは、どことなく付け足しのようにも読める。 
 乾いた、短く途切れる文体は、この男の動物的ともいえる行動を報告していくだけだ。じっさいに人間なのだろうかと疑わせる。彼は思考すらしない。トタン屋根を打ちつける驟雨のような音。――それは彼が愛人の死に立ち会うとき使われる比喩だ。破局を表わすのにふさわしい粗野な響きは、小説のなかに不快なエコーをおよぼしている。





2-5 ホレス・マッコイ『彼らは廃馬を撃つ』

 ホレス・マッコイ『彼らは廃馬を撃つ』They Shoot Horses, Don't They? 1935
ホレス・マッコイ Horace McCoy(1897-1955)
常盤新平訳 角川文庫 1970.5、王国社 1988.9、白水社 2015.5



 『彼らは廃馬を撃つ』は、比べてずっと感傷的なストーリーだ。

 マラソン・ダンスという不況時代のハリウッドを映すコンテスト。賞金と観客のなかにいるプロデューサーにスカウトされることを目当てに、ひたすらパートナーとダンスをつづける競技だ。海岸に仮設された即製のダンス・ホール。そこで出会った男と女の苦い交感のドラマだ。

 生きる希望を喪った女は、男に銃を渡し、最後の引き金を引いてくれと懇願する。男はそのとおりにしてやる。それが愛の証しなのだと自らを納得させながら。彼が引かれるのは、愛というより自己憐憫に近い感情だ。


 この小説も、主人公を待ち受ける死刑の裁きによって閉じられる。教訓話の体裁はきちんとつけられているわけだが、これは作者の本意とは別のところにあるのだろう。

 ケインやマッコイの影響がアルベール・カミユ『異邦人』につながったとする説は有力だ。どちらも、いかにも三〇年代小説の暗鬱な閉塞性にみちているが、別の観点においても救えるというわけだ。文学史におけるささやかなエピソードに、とくに反対する理由はない。もう一点、不条理小説のリストをつけ加えておこう。



『ひとりぼっちの青春』1969 シドニー・ポラック監督
ジェーン・フォンダ、マイケル・サラザン、ギグ・ヤング主演



2-5 ナサニエル・ウエスト『クール・ミリオン』

 ナサニエル・ウエスト『クール・ミリオン』Cool Milion 1934
Nathanael West(1903-40)
佐藤健一訳 角川文庫 1973
柴田元幸訳 『いなごの日/クール・ミリオン: ナサニエル・ウエスト傑作選』新潮文庫 2017.4

 ウエストはこの時期に短い活動を残したユダヤ系作家。ユダヤ系アメリカ文学が主流小説の舞台に大量に登場してくるのはもっと後のことだから、ウエストは孤立した先駆者といった項目に分類されている。

 『クール・ミリオン』はグロテスクで滑稽な巡礼物語だ。田舎町に住むレムエル・ピトキンという名の善意のユダヤ青年の受難を描く。彼はアメリカ・ファシスト運動に出会い、利用され尽くすことになる。初めは片目をなくし、歯をなくし、次には片脚を切断され、ついには頭皮を剥がれる。つぎはぎのフランケンシュタインみたいになった姿で、彼は政治運動のシンボルに使われる。

 果てには、不自由になった身体をさらして演説する最中に射殺されてしまう。死後、彼は、「民衆」の政治的大義に殉じた殉教者に祭り上げられるわけだ。

 小説中のファシストは叫ぶ。暗殺、万歳。アメリカの若者たち、万歳、と。

 アメリカという風土にもファシスト運動は力を持った。ウエストの諷刺はとりわけ深遠とはいえないにしても、貴重な証言として残されるだろう。

 ウエストの名前はハメットの伝記の交友録にも見つけられる。『影なき男』が執筆されたホテルの持ち主がウエストだった。後に彼は、フィッツジェラルド『ラスト・タイクーン』1940と並ぶハリウッド小説の傑作『いなごの日』1939を書く。そしてウエストは、ほかならぬフィッツジェラルドの葬儀に向かう道で自動車事故を起こし、その短い生涯を終えたのだった。



Nathanael West 

2-5 ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』

 ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』Headed for a Hearse 1935
ジョナサン・ラティマー Jonathan Latimer(1906-83)
井上 一夫訳 創元推理文庫 1981.1

 ラティマーの名前をつづけて並べるのはいくらか不適切だろうが、ハードボイルド派の諸相をながめる観点から注記しておく。

 『処刑六日前』は、タイトル通り、一週間というリミットを定めて死刑囚が無実を証明する話だ。タイム・リミットを設定してサスペンスを高めるという方式は、有名な『幻の女』に先んじている。

 技法的な面だけでなく、この小説には、注目すべき屈折が見られる。屈折というか、過剰、未整理の要素だ。それはたんに、作者のほうに定型におさめる力量が不足していたことを示すだけかもしれない。だとしても気になる。一つは、死刑囚監房において幕開けするという構造。刑務所が名探偵の住処となる構想は、「思考機械」シリーズの原点だったが、より極端な例には、ボルヘス&ビオイ=カサーレス『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』1942(岩波書店)がある。収監された安楽椅子探偵という魅力ある設定は、あるいはラティマー経由かとも思わせる。

 それ以上に見逃せない要素は、傭われたタフガイ私立探偵が中半で密室殺人の謎に取り組むという進行だ。常識的にみると何ともバッドチューニングだが、これは、奇手と感じるほうに問題があるのかもしれない。たしかにチャンドラーは謎解きミステリの人工庭園を罵ったが、それはたんに彼の個人的見解にすぎない。機械トリックとアクション活劇の混合を禁じるルールなど、べつにだれがつくったわけでもない。自然と分類意識が高じてしまっただけだ。……とはいえ、こうした作例が物珍しさを伴うこともたしかだ。作者は大真面目に描いているところが、何ともおかしい。

 ラティマーのタフガイはまた「二日酔い探偵」という新タイプの試験台にもなっている。泥酔して酔いつぶれた次の朝、最悪の体調にうめき声をあげながら、閃きに打たれる。このアイデアはほんの思いつき程度で、持続せずに終わった。

2024-04-06

2-6 H・H・ホームズ『死体置場〈モルグ〉行きロケット』

 H・H・ホームズ『死体置場〈モルグ〉行きロケット』Rocket to the Morgue  1942
アントニイ・バウチャー(H・H・ホームズ)Anthony Boucher(1911-1968)
高橋泰邦訳 別冊宝石104号


 もう一つの有力な一派をあげるなら、筆頭にくるのは、あくなき精力で不可能トリックを追い求めたディクスン・カーの信者たちだろう。まず実在の猟奇殺人犯からペンネームを借りたH・H・ホームズ。彼は尼僧を探偵役にした密室もので師カーを追った。カルト教団での密室殺人をあつかった『密室の魔術師』1940(別冊宝石99号)が第一作。この作品は、ある長編密室傑作リストではベストテンの九位に入っている。

 第二作『死体置場行きロケット』では、物故した巨匠(カーをほうふつさせる)の息子ヒラリーを狙った殺人計画が連続する。彼は何度殺されてもおかしくないような憎まれ役。巨匠の著作権継承者として、言語道断の暴挙をくりかえす。たとえば、巨匠の作品の点字テキスト化に商業誌なみの転載料を要求するとか――。そんな男だから、車に撥ねられかけ、工事中のビルから落ちてきたレンガの下敷きになりかけ、毒入りチョコレートを口に入れかけ、次には、密室で刺殺されそうになっても、同情を引かない。いささか長すぎる前段、毒入りチョコレートも某作品をなぞったようで感心しない。

 ロケット実験の最中にほんとうの死人が出る。これが題名の由来だが、なかばすぎまで現われないのは苦しい。ロケットもその打ち上げにいたる仕掛けも充分には生かされていない。出てくるSF作家たちのおしゃべりに多元宇宙論などが早くも披露されるのが楽しい。不可能トリックの周囲を飾るデコレーションの面白さは、カー派の特徴だ。ホームズの二作は装飾が勝ちすぎる印象もある。

 この作家は、本名のアンソニー・バウチャー名義の評論・書評のほうが高名だ。小説家としては大成せず、評論に転じたという説(都筑道夫などによる)がもっぱらだが、いかがなものか。バウチャー名では『シャーロキアン殺人事件』1940(現代教養文庫)がある。

H・H・ホームズ『密室の魔術師』

2-6 クレイトン・ロースン『棺のない死体』

 クレイトン・ロースン『棺のない死体』No Coffin for Corpse  1942
Clayton Rawson(1906-71)
田中西二郎訳 東京創元社1959 創元推理文庫1961.5


 カー教徒のもう一人はロースン。作品の支持率からいっても、高名さからいっても、こちらが第一の弟子だ。

 奇術師マーリニを探偵役とする長編は四作で打ち止めになった。「この世の外から」「天外消失」などの短編も名高い。最後の長編『棺のない死体』を一読すれば、あとがつづかなかった理由も納得できる。装飾過多を通り越して、不可能トリックの大盤ぶるまいが並みではない。奇術VS心霊学、奇術VS魔術。不可能趣味と怪奇趣味のオンパレードで、超現実の世界が目眩く展開する。タッチはユーモア。というか慎みがない分、スラプスティックだ。

 密室大トリックが姿を現わすのはようやくページが半


分を過ぎてからだ。前半を引っ張るのが「不死の男」。いちど死んで埋葬されたのに現実世界に舞い戻ってくる。生き返りトリックのタネ明かしはともかく、天真爛漫さはカー派の大きな長所だ。死んだ男がよみがえり、ポルターガイストが起こるところ、心霊学者に守られていたはずの百万長者が被害者(チェスタトンの皮肉の実例がつけ加えられた)となる。不死は百万長者にはもたらされなかった。

 複雑に組み立てられた謎は、幾層にもわたって念入りに解かれていく。この謎解きについていけるかで、ミステリ読者は初級と中級とに分けられるかもしれない。「単純な殺人芸術」をリアルな観点から否定し去る立場もあった。それならいっそう複雑きわまりない「殺人芸術」トリックに向かうことこそ、カー派の矜持だったろう。アイデアと筆力が湧き上がってくるかぎり、理想は果てない……。








『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...