ラベル

2024-04-09

2-1 エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』

 エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』The Egyptian Cross Mystery 1932

エラリー・クイーン Ellery Queen ーー
 フレデリック・ダネイ Frederic Dannay(1905-82)
 マンフレッド・リー Manfred Lee(1905-71)

『エヂプト十字架の秘密』 伴大矩訳 日本公論社 1934
『エジプト十字架の秘密』 田中西二郎訳 新潮文庫 1958
『エジプト十字架の秘密』 青田勝訳 早川書房HPB 1956      
       ハヤカワミステリ文庫 1978.4
『エジプト十字架の謎』 井上勇訳 創元推理文庫 1959
           新版 創元推理文庫 2009.1
          中村有希訳 創元推理文庫 2016.7
『エジプト十字架の秘密』  越前敏弥・佐藤桂訳 角川文庫 2013.9


 クイーンはヴァン・ダインの忠実な継承者として出立した。初期の国名シリーズは、作者と同名の青年探偵エラリーを配した都市小説としても読める。各章の章題に、日時、時刻、場所を厳格に呈示する方式も先人からの踏襲だ。クイーンはそこに、さらに「読者への挑戦状」を加えた。物語が読者との知的なゲームであることを強調するシグナルであるとともに、その素材を提供しえているという作者の絶大な自信をも示す。


 国名シリーズ十作は、中期の『ギリシャ棺の謎』1931、『エジプト十字架の謎』『アメリカ銃の謎』1933 あたりに頂点をつくったというのが定説だが、『チャイナ・オレンジの謎』1934や、短編も面白い。




  クイーンはジャンルの整備について多くのことをヴァン・ダインに学んだが、探偵役の設定については無造作だった。天才素人探偵のエラリー青年は、父親がニューヨーク市警の要職にあったので、ごく自然に警察の捜査チームの「顧問」格になることができた。警察が行なう徹底した物的証拠の収集の恩恵を受けることも当然だった。彼は「犯罪=芸術」説をひけらかすヴァンスのような鼻持ちならない精神貴族ではなく、どちらかといえば無個性の人物だった。ヒーローではない。物語の必要から探偵役にすえられただけの便宜的な人物に思えた。しかし本人に自覚のあるなしにかかわらず、ミステリにおける探偵はヒーローだ。ヒーローたらざるをえない。

 それは後年のクイーンが直面した「悲劇」の大きな因子だった。

 国名シリーズ第五作になる『エジプト十字架の謎』では、計四件の、T字型ポールに磔にされる首なし死体の連続殺人事件があつかわれる。ミステリにおける死体は現実の血腥さからは別次元に属するという典型がここにある。「顔のない死体」=本人とは判別できない死体。ここでは、人間はトリックの小道具以上の存在意義を持っていない。

 一件目の殺人はTづくしだ。道標にも、交差路にも、被害者の家の扉にも、Tの字があった。これこそエラリー趣味〈エラリアーナ〉の極致だと、作者は強調している。事件が主体で探偵はその付属物となる。だが探偵好みの異常な事件によって、彼の存在は保証される。これがクイーンの初期作品が備える基本構造だった。好みの事件に出会うことでヒーローはミステリのうちに自分の望む高位を得ることができた。ヒーローと物語世界とは幸福な一致をみていた。

 彼の出番はもっぱら、異様な殺人の論理的な解析のためにのみ要請されていた。T字の謎について探偵が最後にふるう長口舌はそこにかかる。解決編にある、《というのは、要するに、頭を切断したことには、別の解釈もありえたからです》に続く数ページのおしゃべりは、謎解き小説に特有の論理であり、そして不可欠の儀式だ。独自の様式を備えた言語システム。こうも言える、ああも言える。しかして、なぜこの解決が唯一無二の解決でなければならないか――。探偵はその言葉を語るための特権を持った存在だ。

 ミステリの近代化はクイーンという第二走者において決定的な完成をみた。より入り組んだ謎を、より巧緻なトリックを、より意外な犯人を、より水際立ったミスディレクションを、より華麗な謎解きを……。こうした目標は疑われることはなかった。達成は同時に、ミステリの黄金期の歴史をつくることでもあった。

 探偵〈ヒーロー〉と物語世界との幸福な一致は、クイーン作品において、高いレベルの謎解きミステリを産出しえた。二度と訪れない黄金の日々だった。


2-1 エラリー・クイーン『Yの悲劇』

 エラリー・クイーン『Yの悲劇』The Tragedy of Y 1932
バーナビイ・ロス『Yの悲劇』 井上良夫訳 春秋社 1937
『Yの悲劇』 井上良夫訳 新樹社ぶらっく選書 1950
『Yの悲劇』 大久保康雄訳 新潮文庫 1956
『Yの悲劇』 砧一郎訳 早川書房HPB 1957
『Yの悲劇』 鮎川信夫訳 創元推理文庫 1959
『Yの悲劇』 宇野利泰訳 中央公論社 1960
『Yの悲劇』 鎌田三平訳 集英社文庫 1998.1
『Yの悲劇』 越前敏弥訳 角川文庫 2010.9
『Yの悲劇』 中村有希訳 創元推理文庫 2022.8


エラリー・クイーン『Yの悲劇』  宇野利泰訳 世界推理名作全集9 中央公論社 1960.7
 この一冊、このシリーズ、この造本。
 この巻は、他に、「神の灯」「気ちがいパーティ」 「ひげのある女」「首つりアクロバット」
 思えば、すべてはここから始まった。
 129p ルイザの陳述 143p ヴァニラの匂い  168p 実験室の椅子を動かした跡  この三点から犯人は明らかであると直観してしまった。

 これを「何の悲劇」と称するべきか。
 『北米探偵小説論』増補決定版(インスクリプト)248p-258p参照



 一九三二年と三三年は、クイーンの最も充実した制作時期だった。もう一つの筆名を使って悲劇四部作も発表している。クイーンは合作ペンネームだから、二人二役となる。

 悲劇四部作の探偵役は、引退したシェイクスピア劇の俳優。事件は彼の晩年に起こる。彼はいわば四作のみで使い尽くされるヒーローだった。『Xの悲劇』1932、『Yの悲劇』は、クイーンの代表作であるだけでなく、古今の名作リストの上位にくる。この二作を前編として、『Zの悲劇』1933、『ドルリー・レーン最後の事件』1934は、レーン探偵の退場編となる。そこで描かれるのは、ヒーローの悲劇だ。彼は敗北するだけでなく、推理機械としての自らの特権をも解体されて、訣れを告げていく。前兆はすでに『Yの悲劇』に描かれていた。最後に演じられたのは、より念入りな悲劇の再演だった。


 それは早く提出されすぎた悲劇の予告とも考えうる。

 『Yの悲劇』は、憎悪渦巻く異常な一家の屋敷内で起こる連続殺人をめぐって展開する。その意味のみでいえば、『グリーン家殺人事件』を継承したオーソドックスな謎解きミステリの結構に収まっている。収まらない要素は、じょじょに姿を見せてくる。一は、一家の(死亡したはずの)一人がミステリの腹案を残していたこと。二は、その殺人プロットが意外な形で利用されたこと。三は、探偵がすべての真実を自らの胸に隠してしまったこと。これらは、『Yの悲劇』を『グリーン家殺人事件』をはるかにしのぐ傑作とするのに貢献している。しかし特に三の要素は、ミステリの原理にたいする重大な逸脱だった。のみならず、それはヒーローの悲劇を決定づけてしまう。彼は探偵であることの自己矛盾に突き当たる。ヒーローたりえない探偵とは、ミステリにおいて何者なのか。この問いを悲劇四部作は内側にかかえこむことになる。展望ある回答は見つけられそうもなかった。


 探偵の敗北という偏執的テーマは以来、クイーンの創作から離れなくなる。それは、エラリアーナを無邪気に信じることができていた青年エラリーにも、容赦なく取り憑いていくのだった。

 アメリカの重要な作家は、一般に早く朽ち果てるが、クイーンは例外的に長く安定した活動を残している。安定した、とは表面的な意味であって、苦悩はいくつかの作品に明瞭に表われている。息の長さは、彼の苦悩に抗う力の強さを示している。

 ハメットの悲劇は、いわばページの余白に浮かび上がってくる体裁のものだ。クイーンのそれは本文に刻まれている。

 彼の悲劇は「アメリカ人であること」に関わっている。アメリカでミステリ作家であることに、である。問題は多くのアメリカ作家に取り憑いて、彼らの意気を阻喪させていったが、ミステリ作家のケースでは、クイーンが初めてだろう。だれもその問題から免れる者はいないのだが、立ち向かう者、立ち向かえ得る者はきわめて稀なのだ。


2-2 ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』

 ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』The Three Coffins(The Hollow Man) 1935
ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr(1906-77)
『魔棺殺人事件』 伴大矩訳 日本公論社 1936
『三つの棺』 村崎敏郎訳 早川書房HPB 1955
  改訂版 三田村裕 訳 早川書房HPB 1976
『三つの棺』 加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2014.7



 カーはクイーンと並ぶ黄金期の巨匠だが、作品傾向はともあれ、その作家的姿勢には対照的なものがある。結論からいってしまえば、カーはイギリスに移住したことによってアメリカ作家に課せられる「重荷」をあらかじめ回避した。カーの創作において、道徳的命題は余計な事柄だった。

 パリを舞台にして最初の作品を書いたとき、カーの脳裏にあったのは先人ポーだけだったろう。しかしポーの時代とは比較にならないほど、パリはアメリカの知的な青年にとって身近な都会になっていた。カーは精神的亡命者ではないし、根無し草〈デラシネ〉志向でもない。彼の作品世界はイギリス社会という堅固な土壌を必要としていた。

 『三つの棺』は不可能犯罪を語る上での指標的な名作だ。


結末がわかっていても再読に足る作品のリストをつくっても高位にあがるだろう。複雑な解決の仕組みを理解するために三読は必要かもしれない。二件の殺人は、どちらも別種の密室状況で起こる。一つは、拳銃を撃った犯人が部屋から消失し、もう一つは、最初から姿の見えない犯人が路上で拳銃を撃って殺人を犯した、というもの。この小説は『うつろな男』というタイトルも持っていた。消えた犯人、もともと消えていた犯人は「うつろな男」だった。

 地中の棺から脱け出すマジックや悪魔学の講義が重要な背景に使われる。探偵役による「密室講義」が後半に置かれていることでも名高い。ミステリのなかでミステリを論じるという「自己言及性」の早い作例だ。カーの人物たちは、自分らが作中人物であることを自覚しているばかりでなく、進んで口にする。これは「読者への挑戦状」にも増して、ミステリ空間のゲーム性を強く意識させる。モラルが入りこむ余地はない。


 人間は機械トリックを成立させるための道具だ。人体が『エジプト十字架の謎』のようにT字型死体のオブジェとして使われるなら、掛け金をかける紐のような小道具として役立つのも当然だった。うつろな男、がらんどうの男なら、それも可能だ。カーの人間観は他のミステリ作家よりもはるかにラディカルに非人間的だ。ヒューマニズムはカーの世界においてはまったく無意味だ。外界からの強い切断がなくては、こうしたワンダーランドは成立しない。

 徹底した切断はいかにして可能だったのか。謎が小説内ですべて解決されているにもかかわらず、カーの世界は謎に満ちている。

2-2 ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』

 ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』The Burning Court 1937
西田政治訳 早川書房HPB 1955.2
小倉多加志訳 ハヤカワミステリ文庫 1976
加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2011.8



 『火刑法廷』の探偵役は、この作品一作きりにしか登場しない。その理由を探れば、『火刑法廷』の作品世界の無類さにたどり着く。最後に明らかになるのは、「探偵の敗北」だが、クイーンの悲劇四部作と比べて、この様態ははるかに陽気だ。そしてある意味では根源的にミステリの原理を転倒させている。その根源性はカーのモラルからの自由さに応じたものだ。



 カーは怪奇趣味をミステリの背後に流れる効果音のように使った。『火刑法廷』では、三百年前の毒殺魔の話が印象的に冒頭に置かれる。これは通例なら、ゆっくりと後景に退いていく。ところがこの効果音がいつまでも鳴り響いて止まないのだ。毒殺事件の犯人が、三百年前の魔女ではないかという疑いが浮上してくる。行き過ぎた怪奇趣味ともみえるが、結末にいたるとその意味が大きく浮上してくる。カーのなかで見せかけの怪奇趣味と合理的な解決はうまく調停されてきた。しかし『火刑法廷』が狙い、達成した水準は、まったく別の絶無のものだ。



 そこではミステリと怪奇小説とが渾然と一体化している。溶け合い反撥し合うのだが、エッシャーの騙し絵のように、互いに相補して二つの解決を呈示する。毒殺事件にたいする合理的な解決と怪奇小説的非合理性にみちた解決と。二つが結末にくる。

 残念ながら、カーは同様の試みには二度と挑戦していない。





2024-04-08

2-3 アール・スタンリー・ガードナー『ビロードの爪』

アール・スタンリー・ガードナー『ビロードの爪』The Case of the Velvet Claws 1932

E・S・ガードナー Erle Stanley Gardner(1889-1970)
 別名 A・A・フェア A.A. Fair など 

砧一郎訳 早川書房HPB 1954
田中西二郎訳 世界推理名作全集 第10 中央公論社 1960
小西宏訳 創元推理文庫 1961、1996.10
山下諭一訳 世界推理小説大系 第23 東都書房 1963
宇野利泰訳 新潮文庫 1964
能島武文訳 角川文庫 1965

 ハメットの肖像画はごく暗いものだが、後継者たちは暗鬱さからは免れている。最も成功した書き手はガードナーだろう。長編第一作『ビロードの爪』は直接には『マルタの鷹』を下敷きにしているが、『影なき男』を先取りした設定も取られている。探偵役と女性秘書との協力関係だ。

 『ビロードの爪』によって、ペリイ・メイスンの長命人気シリーズはスタートした。ガードナーのヒーローは彼のまわりにチームを形成した。主役はメイスン弁護士だが、秘書デラ・ストリートはワトスン役を兼ねるし、協力者ポール・ドレイクもたんなる助手にとどまらない。チームのパートナーは同等の重みだ。シリーズは八十二作の記録をつくった。

 成功の側面ばかりが照らされがちだが、ガードナーには

長編デビューまで十年ほどのパルプ・ライター時代がある。キャリアはハメットと変わらない。弁護士業のかたわら「ブラックマスク」などのパルプ雑誌に、十以上の筆名でおびただしい短編を書いてきた。速筆多作はそこでも発揮され、長編デビュー直前の三二年の発表量は短編六十作を数える。

 アメリカン・ヒーローの探偵役に弁護士をすえたことによって、彼の栄光のときが始まった。

 メイスン物語はおおむね、依頼人が主人公を訪れて、奇妙な事件をもちかけるところから始まる。導入には一定のパターンがあり、しかも冒頭の数ページで読者をとらえて離さない。

 『ビロードの爪』では、スキャンダルもみ消しを頼みにきた女がトラブルにまきこんでくる。『幸運な足の娘』1934では、脚線美コンテストに優勝した娘が悪質な詐欺に引っかかって行方を絶つ。『吠える犬』1934では、遺言状の件で相談に訪れた男が隣家の吠える犬の苦情を訴える。『管理人の飼猫』1935では、百万長者の別荘管理人が遺産相続した孫から飼い猫を捨てろと強要される。

 巧妙な導入から、やがて事件の複雑な全貌が見えてくるという展開は、ホームズ物語の人気にも共通する要素だった。奇抜な見せかけから、事件はたいてい殺人に発展する。描写はアクションと会話を主体にして、淀みない。メイスンは一度はピンチにおちいりながら、終盤には、本来のフィールドである法廷で派手な勝利をおさめる。

 ガードナーは一種の小説工房をつくった。口述筆記でスピーディに作品を仕上げる。第一作は、四、五日で書き上げたという。以降、同一パターンの規格品を一定のサイクルで供給するというスタイルを確立した。他に、A・A・フェア名義のバーサ・ラムとドナルド・クールのコンビ・シリーズ二十九冊と、主人公を検事に逆転したD・Aシリーズ九冊がある。

 機会均等と正義。アメリカ民主制の光の部分をメイスン弁護士は代表する。アメリカの公正な法と正義とは、彼の行動、スタンドプレイ、弁舌によって示される。大不況の時代を背景に、メイスン物語はアメリカの新たな伝統つくりに寄与した。


2-3 レックス・スタウト『料理長が多すぎる』


レックス・スタウト『料理長が多すぎる』Too Many Cooks 1938
レックス・スタウト Rex Stout(1886-1975)
『十五人の名料理長』平井イサク訳 別冊宝石56 1956.8
『料理長が多すぎる』平井イサク訳 ハヤカワミステリ文庫 1976.10


 ガードナーと同時期に同年代で出立して、別種のアメリカ式名探偵を創造したのがスタウトだ。

 ガードナーのアベレージには及ばないものの、長短合わせて四十冊を超えるネロ・ウルフのシリーズは、旺盛な筆力と高い人気のたまものだ。

 数ある名探偵のうちでも、ウルフは無類だ。探偵能力によってよりもむしろ装飾的キャラクター要素によって記憶される。美食、体重過多、蘭の愛好。ウルフの解決した名推理は忘れてしまっても、彼の厳格に守られる快楽主義的日常生活は忘れられない。ウルフはものぐさで高慢な人物だが、そのほとんどは太りすぎて動くのが大儀だからだ。見た目の滑稽さによって、このヒーローは愛される。


 ワトスン役の語り手たるアーチー・グッドウィンは、ウルフの非行動のいっさいを代行する。タフガイ的人物が語り手となる奇人探偵の謎解きもの。ウルフ・シリーズのセールス・ポイントはそこにある。彼のチームには、他に、料理人フリッツ、園芸係ホルストマンと、本筋とは関係なさそうな専門家が加えられるところが特徴だ。

 美食ミステリはヴァン・ダインに始まる。イギリスにしろアメリカにしろ、相対的に料理文化が貧しい社会にあって、ヴァン・ダインが先覚者になりえたのは頼もしいことだった。ファイロ・ヴァンスの料理帳は、味覚の点においてはフランスびいきになってしまった気まぐれな男の記念碑だ。だが先覚者は忘れ去られている。美食探偵の名誉は、今日では、すっかりスタウトに作品に移行している。

 シリーズ第五作『料理長が多すぎる』は、その傾向を代表する。

 冒頭でアーチーは、摩天楼ビルの屋上にピラミッドを運びあげたような気分になっている、と語り始める。巨漢ウルフを新型列車の車内の座席に押しこんだところだった。外出すること自体が事件になる探偵の旅は、十四時間にわたる列車旅行。十五人のグランド・シェフが一同に会して腕を競う晩餐会にゲストとして招かれたのだ。

 名コックばかりが集まる保養地が、外界から遮断された一種のクローズド・プレイスをていするという趣向。そこで、九種類の香辛料をブレンドした精妙な味のソースの味きき競技が催される。一つずつスパイスを省いた九種を用意して、省かれたスパイスを当てる。その競技の最中に殺人が起こる。動機はいくらでも見つけられた。ある料理の秘法レシピをめぐって殺意が芽生えるような特殊世界なのだ。

 どんな領域にしろ、専門家が集まるサークルは、部外者にとっては驚異に、いっそういえば狂気にあふれている。外界からは理解できないし、また外界を理解する気もない。ミステリの題材としては絶好のシチュエーションをスタウトは見事に生かした。

 美食ミステリはたしかに有力なサブジャンルなのだが、印象深い名作は意外と少ない。美食はミステリにおいてメイン・ディッシュにしないほうが無難、ということだろうか。ただし短編は別だろう。ピーター・ヘイニング編のアンソロジー『ディナーで殺人を』1991には、メニューを一望できる作品が並んだ。スタウト作品では、「ポイズン・ア・ラ・カルト」が収録されている。


2-3 アーヴィング・ストーン『クラレンス・ダロウは弁護する』

 アーヴィング・ストーン『クラレンス・ダロウは弁護する』(『アメリカは有罪だ -アメリカの暗黒と格闘した弁護士ダロウの生涯』) Clarence Darrow For the Defense 1941
アーヴィング・ストーン Irving Stone(1903-89)

 ペリイ・メイスン人気を側面から証明するような伝記が一冊ある。実在した正義の弁護士を描いて興味深い。ストーンが著した伝記は数多く、その対象も、ジャック・ロンドン、ゴッホ、リンカーン夫人、ミケランジェロ、フロイトと、時代もジャンルも多岐にわたっている。


 この本の翻訳は、雑誌連載がまとめられて単行本化されたさい、なぜか『アメリカは有罪だ』(小鷹信光訳 サイマル出版会)というタイトルに変更されている。

 ダロウは、二十世紀初めのアメリカ労働運動史には欠かせない名前だ。IWW(世界産業労働者組合)の指導者を陥れるためにピンカートン探偵社はスパイを傭った。そのフレーム・アップ裁判の弁護士としてダロウは招かれた。コロラド州ボイシー。これはホームズ物語のモデルになった事件とは別だ。ダロウ弁護士は、IWWと主義を共にしたわけではないが、社会的不公正と闘うために弁護を引き受けた。

 この伝記は、アメリカ的正義の伝統と左翼ポピュリズム思想とが幸福な蜜月を過ごしていた時代の産物といえるだろう。ストーンの筆致は講談のように面白い。


『クラレンス・ダロウは弁護する』連載第3回 ミステリマガジン1969.2














『クラレンス・ダロウは弁護する』連載第9回 ミステリマガジン1969.8

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...