ラベル

2024-04-10

1-3 ダシール・ハメット『マルタの鷹』

 ダシール・ハメット『マルタの鷹』The Maltese Falcon 1930

砧一郎訳 早川書房HPB 1954
田中西二郎訳 新潮文庫 1956
村上啓夫訳 創元推理文庫 1961.8 
石一郎訳 角川文庫 1963 
鳴海四郎 訳 筑摩書房 1970
小鷹信光訳 ハヤカワミステリ文庫 2012.9

 ハメットの長編は、『マルタの鷹』『ガラスの鍵』1931とつづく。いずれもまず雑誌連載の形を取った。連載の執筆はほとんど連続している。後の二編では、叙述は三人称一視点になっている。技法的には変わらないが、作家の手から「私」(=オプ)という主語がこぼれ落ちたことの意味は大きい。『マルタの鷹』の主人公は私立探偵、『ガラスの鍵』の主人公は流れ者のギャンブラー。

 私立探偵は、単独者であり、定在者だ。『マルタの鷹』は、ハメットの最も影響力の大きな作品となった。ヒーローにすえられた探偵サム・スペイドは、同僚を裏切り、愛した女を警察に売り渡す。己れを律する掟のみが彼を動かす行動原理だ。こうした明快な個人主義こそが大衆的に求められていたものだろう。ハメットはここで、私立探偵の物語の強固な原型をも創りだした。

 それは彼がオプの物語を書き止めてから起こったことだ。

 『マルタの鷹』の外形は、宝物捜しの冒険譚であり、個性の際立つ悪役たちが絡む裏切りと欺瞞の物語だ。探偵が勝利するのは、彼が一番の悪党だったという理由による。スペイドが一かけらの正義も体現していない点には救われる。だが『マルタの鷹』の原型の追随者たちは、逆に、悪党の探偵に正義の性格を分け与えることによって、型を継承したのだった。チャンドラーしかり、ガードナーしかり、である。

 『ガラスの鍵』では、ふたたび正義と悪についての、作者の実りのない模索が扱われている。部分的には優れたところはあっても、全体としては了解のつけにくい作品だ。最後の長編『影なき男』1934は、ハメットが背負っていた混沌をすべてそぎ落としたような平明な作品だ。『マルタの鷹』にはまだ残されていた悪への傾斜も、どこかに消し飛んでいた。以降、ハメットの沈黙が始まった。事実上、作家として終わったのだ。

 『影なき男』は大成功をおさめ、映画化のシリーズとなった。沈黙の要因が多大な商業的成功によるものかどうかは断言しがたい。作家をバニッシング・ポイントに追いつめたものがあるとすれば、それはすでにオプ物語の方法に内在していた。

 『赤い収穫』の、ギャングたちが死に絶えたならず者の街に恒久的な平和は訪れたか。『マルタの鷹』の探偵は宝物を見つけられないし、愛する女を殺人犯として警察に引き渡すことでやっと自分の保身をはかる。『ガラスの鍵』のギャンブラーは傭い主にたいして意地を通してみせるが、己れがけちなやくざであることは変えられない。

 彼は勧善懲悪の物語をつくれなかったが、それは大衆読み物作家としてのハメットの限界ではない。正義と悪とが常に相対的でしかないアメリカ社会の本質に根ざす。どこまでもハメットは誠実であった。

 彼の才能ある弟子が、彼の沈黙と入れ替わるように登場した。チャンドラーが彼の完成できなかった文学形式を整備した。男の美学、都市と向き合う単独者の視点、社会悪との対決図式が、それにあたる。

 一九二〇年代は、現代の大衆社会状況が出揃った時期だとされている。革命ロシアのアヴァンギャルド芸術、ワイマール共和国の表現主義、フランスのシュールレアリズム。モダニズムの饗宴はいっせいに花咲いた感がある。それらと同時代に、アメリカにも自前のアメリカン・ミステリがもたらされた。発明された原型の価値については、後につづいた膨大な作品によって自ずと証明される。それらに払った先行者たちの犠牲にも注意は向けられるべきだろう。


2024-04-09

1-4 H・P・ラヴクラフト「インスマウスの影」

 H・P・ラヴクラフト「インスマウスの影」1931(『ラヴクラフト全集1』大西尹明訳 S)


 ラヴクラフトはアメリカの奥地にひっそりと生息していた。ハメットとは別領域の低級雑誌に書き、生前の刊行本は一冊しかない。死後にわたってカルト的な盛名をなした。アメリカン・ゴシックの原理主義が彼の名のもとに輝いている。

 アメリカの西部開拓、領土拡張とゴシック的恐怖は、メダルの表裏だ。フロンティア・ラインが拡張されるほど、未知の恐怖の領域は増大していく。ラヴクラフトはアメリカの古くからの領土である東北部に生まれ住み、ほとんど隠遁者の生活をおくった。具体的には開拓地など知らなかったわけだが、未開の恐怖は彼の内部のイマジネーションに醸成されていた。


 彼の名は、たんなるホラー作家にとどまらず、彼の創造したクトゥルー神話体系と呼ばれる世界観のマスターとして崇められている。その影響力はポーよりずっと狭くローカルだが、その狭い部分にたいしては深く、侵犯的だ。彼の描く恐怖は、その大仰できめの粗い散文にもかかわらず、コズミックな感覚を掘り起こす。恐怖は折にふれて感じる意識ではない。本性に根ざす宇宙的な感覚なのだ。恐怖によって、ただそれだけによって人は外界とつながっている。喜怒哀楽がふつうの人間が日常的に持つ外界への反応だとすれば、ラヴクラフトにとっては、恐怖がその上位にある本質的で全身的な感覚だった。こうした感受性は、一般には、成人の現実感とはみなされない。

 太古の宇宙には、善神と悪神とに対立した異様な生命体が存在した。今日の人類を脅かす怪物は悪神たちの配下だ。彼らは、大地、深海、星間、森林、極地、睡眠などの領域を支配して、人間に厄禍をもたらす。クトゥルー神話体系とは、悪神たちの名簿であり、その恐怖の目録だ。今風に配列しなおせば、アドベンチャー・ゲームのルールにもなるだろう。彼の死後は弟子たちが体系の保全と整備に努めた。

 他に、「クトゥルーの呼び声」1926、「ダンウィッチの怪」1929、「闇に囁くもの」1930、「狂気の山脈にて」1936、「時間からの影」1936などの作品がある。

 彼は活動期を通じてアウトサイダーでありつづけたが、作品は宇宙的ともいえる生命を保っている。

2 黄金時代

 

 大恐慌によってそのスタートを区切られる時代。戦争の終わりまでの十五年間が、ミステリの最も豊かな果実を産する日々となる。

 世界は現在にも増して不均等だったが、経済恐慌は全世界に伝播した。第一次大戦の戦後処理の失敗が次の大戦を不可避にしたという歴史解釈は有力だ。一部の国では、急進右翼が政治的勝利をおさめ、ファシズム体制を強化していった。左翼勢力が全般に弱体化していく流れにあって、アメリカは例外だった。

 革命的左翼はアメリカ社会を変えるほどの力を一度も持たなかったが、社会全体は左翼的行動に同伴していた。アメリカ民主主義の良質的な部分は伝統を形成していった。国際共産主義運動の致命的な誤謬の影響は免れなかったにしろ、赤い十年と呼ばれる歳月は、何の矛盾もなく対ファシズム戦争につながっていった。

 ニューディール主義による経済復興は一つの神話だ。相対的な孤立主義を守り、アメリカは国内問題を最優先させた。広い国土、豊かな資源は、「海の向こうの戦争」を戦うためのスーパー・パワーを充分すぎるほどに保証していた。

 文化の爛熟はそのささやかなエピソードの一つだ。

2-1 エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』

 エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』The Egyptian Cross Mystery 1932

エラリー・クイーン Ellery Queen ーー
 フレデリック・ダネイ Frederic Dannay(1905-82)
 マンフレッド・リー Manfred Lee(1905-71)

『エヂプト十字架の秘密』 伴大矩訳 日本公論社 1934
『エジプト十字架の秘密』 田中西二郎訳 新潮文庫 1958
『エジプト十字架の秘密』 青田勝訳 早川書房HPB 1956      
       ハヤカワミステリ文庫 1978.4
『エジプト十字架の謎』 井上勇訳 創元推理文庫 1959
           新版 創元推理文庫 2009.1
          中村有希訳 創元推理文庫 2016.7
『エジプト十字架の秘密』  越前敏弥・佐藤桂訳 角川文庫 2013.9


 クイーンはヴァン・ダインの忠実な継承者として出立した。初期の国名シリーズは、作者と同名の青年探偵エラリーを配した都市小説としても読める。各章の章題に、日時、時刻、場所を厳格に呈示する方式も先人からの踏襲だ。クイーンはそこに、さらに「読者への挑戦状」を加えた。物語が読者との知的なゲームであることを強調するシグナルであるとともに、その素材を提供しえているという作者の絶大な自信をも示す。


 国名シリーズ十作は、中期の『ギリシャ棺の謎』1931、『エジプト十字架の謎』『アメリカ銃の謎』1933 あたりに頂点をつくったというのが定説だが、『チャイナ・オレンジの謎』1934や、短編も面白い。




  クイーンはジャンルの整備について多くのことをヴァン・ダインに学んだが、探偵役の設定については無造作だった。天才素人探偵のエラリー青年は、父親がニューヨーク市警の要職にあったので、ごく自然に警察の捜査チームの「顧問」格になることができた。警察が行なう徹底した物的証拠の収集の恩恵を受けることも当然だった。彼は「犯罪=芸術」説をひけらかすヴァンスのような鼻持ちならない精神貴族ではなく、どちらかといえば無個性の人物だった。ヒーローではない。物語の必要から探偵役にすえられただけの便宜的な人物に思えた。しかし本人に自覚のあるなしにかかわらず、ミステリにおける探偵はヒーローだ。ヒーローたらざるをえない。

 それは後年のクイーンが直面した「悲劇」の大きな因子だった。

 国名シリーズ第五作になる『エジプト十字架の謎』では、計四件の、T字型ポールに磔にされる首なし死体の連続殺人事件があつかわれる。ミステリにおける死体は現実の血腥さからは別次元に属するという典型がここにある。「顔のない死体」=本人とは判別できない死体。ここでは、人間はトリックの小道具以上の存在意義を持っていない。

 一件目の殺人はTづくしだ。道標にも、交差路にも、被害者の家の扉にも、Tの字があった。これこそエラリー趣味〈エラリアーナ〉の極致だと、作者は強調している。事件が主体で探偵はその付属物となる。だが探偵好みの異常な事件によって、彼の存在は保証される。これがクイーンの初期作品が備える基本構造だった。好みの事件に出会うことでヒーローはミステリのうちに自分の望む高位を得ることができた。ヒーローと物語世界とは幸福な一致をみていた。

 彼の出番はもっぱら、異様な殺人の論理的な解析のためにのみ要請されていた。T字の謎について探偵が最後にふるう長口舌はそこにかかる。解決編にある、《というのは、要するに、頭を切断したことには、別の解釈もありえたからです》に続く数ページのおしゃべりは、謎解き小説に特有の論理であり、そして不可欠の儀式だ。独自の様式を備えた言語システム。こうも言える、ああも言える。しかして、なぜこの解決が唯一無二の解決でなければならないか――。探偵はその言葉を語るための特権を持った存在だ。

 ミステリの近代化はクイーンという第二走者において決定的な完成をみた。より入り組んだ謎を、より巧緻なトリックを、より意外な犯人を、より水際立ったミスディレクションを、より華麗な謎解きを……。こうした目標は疑われることはなかった。達成は同時に、ミステリの黄金期の歴史をつくることでもあった。

 探偵〈ヒーロー〉と物語世界との幸福な一致は、クイーン作品において、高いレベルの謎解きミステリを産出しえた。二度と訪れない黄金の日々だった。


2-1 エラリー・クイーン『Yの悲劇』

 エラリー・クイーン『Yの悲劇』The Tragedy of Y 1932
バーナビイ・ロス『Yの悲劇』 井上良夫訳 春秋社 1937
『Yの悲劇』 井上良夫訳 新樹社ぶらっく選書 1950
『Yの悲劇』 大久保康雄訳 新潮文庫 1956
『Yの悲劇』 砧一郎訳 早川書房HPB 1957
『Yの悲劇』 鮎川信夫訳 創元推理文庫 1959
『Yの悲劇』 宇野利泰訳 中央公論社 1960
『Yの悲劇』 鎌田三平訳 集英社文庫 1998.1
『Yの悲劇』 越前敏弥訳 角川文庫 2010.9
『Yの悲劇』 中村有希訳 創元推理文庫 2022.8


エラリー・クイーン『Yの悲劇』  宇野利泰訳 世界推理名作全集9 中央公論社 1960.7
 この一冊、このシリーズ、この造本。
 この巻は、他に、「神の灯」「気ちがいパーティ」 「ひげのある女」「首つりアクロバット」
 思えば、すべてはここから始まった。
 129p ルイザの陳述 143p ヴァニラの匂い  168p 実験室の椅子を動かした跡  この三点から犯人は明らかであると直観してしまった。

 これを「何の悲劇」と称するべきか。
 『北米探偵小説論』増補決定版(インスクリプト)248p-258p参照



 一九三二年と三三年は、クイーンの最も充実した制作時期だった。もう一つの筆名を使って悲劇四部作も発表している。クイーンは合作ペンネームだから、二人二役となる。

 悲劇四部作の探偵役は、引退したシェイクスピア劇の俳優。事件は彼の晩年に起こる。彼はいわば四作のみで使い尽くされるヒーローだった。『Xの悲劇』1932、『Yの悲劇』は、クイーンの代表作であるだけでなく、古今の名作リストの上位にくる。この二作を前編として、『Zの悲劇』1933、『ドルリー・レーン最後の事件』1934は、レーン探偵の退場編となる。そこで描かれるのは、ヒーローの悲劇だ。彼は敗北するだけでなく、推理機械としての自らの特権をも解体されて、訣れを告げていく。前兆はすでに『Yの悲劇』に描かれていた。最後に演じられたのは、より念入りな悲劇の再演だった。


 それは早く提出されすぎた悲劇の予告とも考えうる。

 『Yの悲劇』は、憎悪渦巻く異常な一家の屋敷内で起こる連続殺人をめぐって展開する。その意味のみでいえば、『グリーン家殺人事件』を継承したオーソドックスな謎解きミステリの結構に収まっている。収まらない要素は、じょじょに姿を見せてくる。一は、一家の(死亡したはずの)一人がミステリの腹案を残していたこと。二は、その殺人プロットが意外な形で利用されたこと。三は、探偵がすべての真実を自らの胸に隠してしまったこと。これらは、『Yの悲劇』を『グリーン家殺人事件』をはるかにしのぐ傑作とするのに貢献している。しかし特に三の要素は、ミステリの原理にたいする重大な逸脱だった。のみならず、それはヒーローの悲劇を決定づけてしまう。彼は探偵であることの自己矛盾に突き当たる。ヒーローたりえない探偵とは、ミステリにおいて何者なのか。この問いを悲劇四部作は内側にかかえこむことになる。展望ある回答は見つけられそうもなかった。


 探偵の敗北という偏執的テーマは以来、クイーンの創作から離れなくなる。それは、エラリアーナを無邪気に信じることができていた青年エラリーにも、容赦なく取り憑いていくのだった。

 アメリカの重要な作家は、一般に早く朽ち果てるが、クイーンは例外的に長く安定した活動を残している。安定した、とは表面的な意味であって、苦悩はいくつかの作品に明瞭に表われている。息の長さは、彼の苦悩に抗う力の強さを示している。

 ハメットの悲劇は、いわばページの余白に浮かび上がってくる体裁のものだ。クイーンのそれは本文に刻まれている。

 彼の悲劇は「アメリカ人であること」に関わっている。アメリカでミステリ作家であることに、である。問題は多くのアメリカ作家に取り憑いて、彼らの意気を阻喪させていったが、ミステリ作家のケースでは、クイーンが初めてだろう。だれもその問題から免れる者はいないのだが、立ち向かう者、立ち向かえ得る者はきわめて稀なのだ。


2-2 ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』

 ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』The Three Coffins(The Hollow Man) 1935
ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr(1906-77)
『魔棺殺人事件』 伴大矩訳 日本公論社 1936
『三つの棺』 村崎敏郎訳 早川書房HPB 1955
  改訂版 三田村裕 訳 早川書房HPB 1976
『三つの棺』 加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2014.7



 カーはクイーンと並ぶ黄金期の巨匠だが、作品傾向はともあれ、その作家的姿勢には対照的なものがある。結論からいってしまえば、カーはイギリスに移住したことによってアメリカ作家に課せられる「重荷」をあらかじめ回避した。カーの創作において、道徳的命題は余計な事柄だった。

 パリを舞台にして最初の作品を書いたとき、カーの脳裏にあったのは先人ポーだけだったろう。しかしポーの時代とは比較にならないほど、パリはアメリカの知的な青年にとって身近な都会になっていた。カーは精神的亡命者ではないし、根無し草〈デラシネ〉志向でもない。彼の作品世界はイギリス社会という堅固な土壌を必要としていた。

 『三つの棺』は不可能犯罪を語る上での指標的な名作だ。


結末がわかっていても再読に足る作品のリストをつくっても高位にあがるだろう。複雑な解決の仕組みを理解するために三読は必要かもしれない。二件の殺人は、どちらも別種の密室状況で起こる。一つは、拳銃を撃った犯人が部屋から消失し、もう一つは、最初から姿の見えない犯人が路上で拳銃を撃って殺人を犯した、というもの。この小説は『うつろな男』というタイトルも持っていた。消えた犯人、もともと消えていた犯人は「うつろな男」だった。

 地中の棺から脱け出すマジックや悪魔学の講義が重要な背景に使われる。探偵役による「密室講義」が後半に置かれていることでも名高い。ミステリのなかでミステリを論じるという「自己言及性」の早い作例だ。カーの人物たちは、自分らが作中人物であることを自覚しているばかりでなく、進んで口にする。これは「読者への挑戦状」にも増して、ミステリ空間のゲーム性を強く意識させる。モラルが入りこむ余地はない。


 人間は機械トリックを成立させるための道具だ。人体が『エジプト十字架の謎』のようにT字型死体のオブジェとして使われるなら、掛け金をかける紐のような小道具として役立つのも当然だった。うつろな男、がらんどうの男なら、それも可能だ。カーの人間観は他のミステリ作家よりもはるかにラディカルに非人間的だ。ヒューマニズムはカーの世界においてはまったく無意味だ。外界からの強い切断がなくては、こうしたワンダーランドは成立しない。

 徹底した切断はいかにして可能だったのか。謎が小説内ですべて解決されているにもかかわらず、カーの世界は謎に満ちている。

2-2 ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』

 ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』The Burning Court 1937
西田政治訳 早川書房HPB 1955.2
小倉多加志訳 ハヤカワミステリ文庫 1976
加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2011.8



 『火刑法廷』の探偵役は、この作品一作きりにしか登場しない。その理由を探れば、『火刑法廷』の作品世界の無類さにたどり着く。最後に明らかになるのは、「探偵の敗北」だが、クイーンの悲劇四部作と比べて、この様態ははるかに陽気だ。そしてある意味では根源的にミステリの原理を転倒させている。その根源性はカーのモラルからの自由さに応じたものだ。



 カーは怪奇趣味をミステリの背後に流れる効果音のように使った。『火刑法廷』では、三百年前の毒殺魔の話が印象的に冒頭に置かれる。これは通例なら、ゆっくりと後景に退いていく。ところがこの効果音がいつまでも鳴り響いて止まないのだ。毒殺事件の犯人が、三百年前の魔女ではないかという疑いが浮上してくる。行き過ぎた怪奇趣味ともみえるが、結末にいたるとその意味が大きく浮上してくる。カーのなかで見せかけの怪奇趣味と合理的な解決はうまく調停されてきた。しかし『火刑法廷』が狙い、達成した水準は、まったく別の絶無のものだ。



 そこではミステリと怪奇小説とが渾然と一体化している。溶け合い反撥し合うのだが、エッシャーの騙し絵のように、互いに相補して二つの解決を呈示する。毒殺事件にたいする合理的な解決と怪奇小説的非合理性にみちた解決と。二つが結末にくる。

 残念ながら、カーは同様の試みには二度と挑戦していない。





『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...