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2024-04-09

2-2 ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』

 ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』The Three Coffins(The Hollow Man) 1935
ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr(1906-77)
『魔棺殺人事件』 伴大矩訳 日本公論社 1936
『三つの棺』 村崎敏郎訳 早川書房HPB 1955
  改訂版 三田村裕 訳 早川書房HPB 1976
『三つの棺』 加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2014.7



 カーはクイーンと並ぶ黄金期の巨匠だが、作品傾向はともあれ、その作家的姿勢には対照的なものがある。結論からいってしまえば、カーはイギリスに移住したことによってアメリカ作家に課せられる「重荷」をあらかじめ回避した。カーの創作において、道徳的命題は余計な事柄だった。

 パリを舞台にして最初の作品を書いたとき、カーの脳裏にあったのは先人ポーだけだったろう。しかしポーの時代とは比較にならないほど、パリはアメリカの知的な青年にとって身近な都会になっていた。カーは精神的亡命者ではないし、根無し草〈デラシネ〉志向でもない。彼の作品世界はイギリス社会という堅固な土壌を必要としていた。

 『三つの棺』は不可能犯罪を語る上での指標的な名作だ。


結末がわかっていても再読に足る作品のリストをつくっても高位にあがるだろう。複雑な解決の仕組みを理解するために三読は必要かもしれない。二件の殺人は、どちらも別種の密室状況で起こる。一つは、拳銃を撃った犯人が部屋から消失し、もう一つは、最初から姿の見えない犯人が路上で拳銃を撃って殺人を犯した、というもの。この小説は『うつろな男』というタイトルも持っていた。消えた犯人、もともと消えていた犯人は「うつろな男」だった。

 地中の棺から脱け出すマジックや悪魔学の講義が重要な背景に使われる。探偵役による「密室講義」が後半に置かれていることでも名高い。ミステリのなかでミステリを論じるという「自己言及性」の早い作例だ。カーの人物たちは、自分らが作中人物であることを自覚しているばかりでなく、進んで口にする。これは「読者への挑戦状」にも増して、ミステリ空間のゲーム性を強く意識させる。モラルが入りこむ余地はない。


 人間は機械トリックを成立させるための道具だ。人体が『エジプト十字架の謎』のようにT字型死体のオブジェとして使われるなら、掛け金をかける紐のような小道具として役立つのも当然だった。うつろな男、がらんどうの男なら、それも可能だ。カーの人間観は他のミステリ作家よりもはるかにラディカルに非人間的だ。ヒューマニズムはカーの世界においてはまったく無意味だ。外界からの強い切断がなくては、こうしたワンダーランドは成立しない。

 徹底した切断はいかにして可能だったのか。謎が小説内ですべて解決されているにもかかわらず、カーの世界は謎に満ちている。

2-2 ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』

 ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』The Burning Court 1937
西田政治訳 早川書房HPB 1955.2
小倉多加志訳 ハヤカワミステリ文庫 1976
加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2011.8



 『火刑法廷』の探偵役は、この作品一作きりにしか登場しない。その理由を探れば、『火刑法廷』の作品世界の無類さにたどり着く。最後に明らかになるのは、「探偵の敗北」だが、クイーンの悲劇四部作と比べて、この様態ははるかに陽気だ。そしてある意味では根源的にミステリの原理を転倒させている。その根源性はカーのモラルからの自由さに応じたものだ。



 カーは怪奇趣味をミステリの背後に流れる効果音のように使った。『火刑法廷』では、三百年前の毒殺魔の話が印象的に冒頭に置かれる。これは通例なら、ゆっくりと後景に退いていく。ところがこの効果音がいつまでも鳴り響いて止まないのだ。毒殺事件の犯人が、三百年前の魔女ではないかという疑いが浮上してくる。行き過ぎた怪奇趣味ともみえるが、結末にいたるとその意味が大きく浮上してくる。カーのなかで見せかけの怪奇趣味と合理的な解決はうまく調停されてきた。しかし『火刑法廷』が狙い、達成した水準は、まったく別の絶無のものだ。



 そこではミステリと怪奇小説とが渾然と一体化している。溶け合い反撥し合うのだが、エッシャーの騙し絵のように、互いに相補して二つの解決を呈示する。毒殺事件にたいする合理的な解決と怪奇小説的非合理性にみちた解決と。二つが結末にくる。

 残念ながら、カーは同様の試みには二度と挑戦していない。





2024-04-08

2-3 アール・スタンリー・ガードナー『ビロードの爪』

アール・スタンリー・ガードナー『ビロードの爪』The Case of the Velvet Claws 1932

E・S・ガードナー Erle Stanley Gardner(1889-1970)
 別名 A・A・フェア A.A. Fair など 

砧一郎訳 早川書房HPB 1954
田中西二郎訳 世界推理名作全集 第10 中央公論社 1960
小西宏訳 創元推理文庫 1961、1996.10
山下諭一訳 世界推理小説大系 第23 東都書房 1963
宇野利泰訳 新潮文庫 1964
能島武文訳 角川文庫 1965

 ハメットの肖像画はごく暗いものだが、後継者たちは暗鬱さからは免れている。最も成功した書き手はガードナーだろう。長編第一作『ビロードの爪』は直接には『マルタの鷹』を下敷きにしているが、『影なき男』を先取りした設定も取られている。探偵役と女性秘書との協力関係だ。

 『ビロードの爪』によって、ペリイ・メイスンの長命人気シリーズはスタートした。ガードナーのヒーローは彼のまわりにチームを形成した。主役はメイスン弁護士だが、秘書デラ・ストリートはワトスン役を兼ねるし、協力者ポール・ドレイクもたんなる助手にとどまらない。チームのパートナーは同等の重みだ。シリーズは八十二作の記録をつくった。

 成功の側面ばかりが照らされがちだが、ガードナーには

長編デビューまで十年ほどのパルプ・ライター時代がある。キャリアはハメットと変わらない。弁護士業のかたわら「ブラックマスク」などのパルプ雑誌に、十以上の筆名でおびただしい短編を書いてきた。速筆多作はそこでも発揮され、長編デビュー直前の三二年の発表量は短編六十作を数える。

 アメリカン・ヒーローの探偵役に弁護士をすえたことによって、彼の栄光のときが始まった。

 メイスン物語はおおむね、依頼人が主人公を訪れて、奇妙な事件をもちかけるところから始まる。導入には一定のパターンがあり、しかも冒頭の数ページで読者をとらえて離さない。

 『ビロードの爪』では、スキャンダルもみ消しを頼みにきた女がトラブルにまきこんでくる。『幸運な足の娘』1934では、脚線美コンテストに優勝した娘が悪質な詐欺に引っかかって行方を絶つ。『吠える犬』1934では、遺言状の件で相談に訪れた男が隣家の吠える犬の苦情を訴える。『管理人の飼猫』1935では、百万長者の別荘管理人が遺産相続した孫から飼い猫を捨てろと強要される。

 巧妙な導入から、やがて事件の複雑な全貌が見えてくるという展開は、ホームズ物語の人気にも共通する要素だった。奇抜な見せかけから、事件はたいてい殺人に発展する。描写はアクションと会話を主体にして、淀みない。メイスンは一度はピンチにおちいりながら、終盤には、本来のフィールドである法廷で派手な勝利をおさめる。

 ガードナーは一種の小説工房をつくった。口述筆記でスピーディに作品を仕上げる。第一作は、四、五日で書き上げたという。以降、同一パターンの規格品を一定のサイクルで供給するというスタイルを確立した。他に、A・A・フェア名義のバーサ・ラムとドナルド・クールのコンビ・シリーズ二十九冊と、主人公を検事に逆転したD・Aシリーズ九冊がある。

 機会均等と正義。アメリカ民主制の光の部分をメイスン弁護士は代表する。アメリカの公正な法と正義とは、彼の行動、スタンドプレイ、弁舌によって示される。大不況の時代を背景に、メイスン物語はアメリカの新たな伝統つくりに寄与した。


2-3 レックス・スタウト『料理長が多すぎる』


レックス・スタウト『料理長が多すぎる』Too Many Cooks 1938
レックス・スタウト Rex Stout(1886-1975)
『十五人の名料理長』平井イサク訳 別冊宝石56 1956.8
『料理長が多すぎる』平井イサク訳 ハヤカワミステリ文庫 1976.10


 ガードナーと同時期に同年代で出立して、別種のアメリカ式名探偵を創造したのがスタウトだ。

 ガードナーのアベレージには及ばないものの、長短合わせて四十冊を超えるネロ・ウルフのシリーズは、旺盛な筆力と高い人気のたまものだ。

 数ある名探偵のうちでも、ウルフは無類だ。探偵能力によってよりもむしろ装飾的キャラクター要素によって記憶される。美食、体重過多、蘭の愛好。ウルフの解決した名推理は忘れてしまっても、彼の厳格に守られる快楽主義的日常生活は忘れられない。ウルフはものぐさで高慢な人物だが、そのほとんどは太りすぎて動くのが大儀だからだ。見た目の滑稽さによって、このヒーローは愛される。


 ワトスン役の語り手たるアーチー・グッドウィンは、ウルフの非行動のいっさいを代行する。タフガイ的人物が語り手となる奇人探偵の謎解きもの。ウルフ・シリーズのセールス・ポイントはそこにある。彼のチームには、他に、料理人フリッツ、園芸係ホルストマンと、本筋とは関係なさそうな専門家が加えられるところが特徴だ。

 美食ミステリはヴァン・ダインに始まる。イギリスにしろアメリカにしろ、相対的に料理文化が貧しい社会にあって、ヴァン・ダインが先覚者になりえたのは頼もしいことだった。ファイロ・ヴァンスの料理帳は、味覚の点においてはフランスびいきになってしまった気まぐれな男の記念碑だ。だが先覚者は忘れ去られている。美食探偵の名誉は、今日では、すっかりスタウトに作品に移行している。

 シリーズ第五作『料理長が多すぎる』は、その傾向を代表する。

 冒頭でアーチーは、摩天楼ビルの屋上にピラミッドを運びあげたような気分になっている、と語り始める。巨漢ウルフを新型列車の車内の座席に押しこんだところだった。外出すること自体が事件になる探偵の旅は、十四時間にわたる列車旅行。十五人のグランド・シェフが一同に会して腕を競う晩餐会にゲストとして招かれたのだ。

 名コックばかりが集まる保養地が、外界から遮断された一種のクローズド・プレイスをていするという趣向。そこで、九種類の香辛料をブレンドした精妙な味のソースの味きき競技が催される。一つずつスパイスを省いた九種を用意して、省かれたスパイスを当てる。その競技の最中に殺人が起こる。動機はいくらでも見つけられた。ある料理の秘法レシピをめぐって殺意が芽生えるような特殊世界なのだ。

 どんな領域にしろ、専門家が集まるサークルは、部外者にとっては驚異に、いっそういえば狂気にあふれている。外界からは理解できないし、また外界を理解する気もない。ミステリの題材としては絶好のシチュエーションをスタウトは見事に生かした。

 美食ミステリはたしかに有力なサブジャンルなのだが、印象深い名作は意外と少ない。美食はミステリにおいてメイン・ディッシュにしないほうが無難、ということだろうか。ただし短編は別だろう。ピーター・ヘイニング編のアンソロジー『ディナーで殺人を』1991には、メニューを一望できる作品が並んだ。スタウト作品では、「ポイズン・ア・ラ・カルト」が収録されている。


2-3 アーヴィング・ストーン『クラレンス・ダロウは弁護する』

 アーヴィング・ストーン『クラレンス・ダロウは弁護する』(『アメリカは有罪だ -アメリカの暗黒と格闘した弁護士ダロウの生涯』) Clarence Darrow For the Defense 1941
アーヴィング・ストーン Irving Stone(1903-89)

 ペリイ・メイスン人気を側面から証明するような伝記が一冊ある。実在した正義の弁護士を描いて興味深い。ストーンが著した伝記は数多く、その対象も、ジャック・ロンドン、ゴッホ、リンカーン夫人、ミケランジェロ、フロイトと、時代もジャンルも多岐にわたっている。


 この本の翻訳は、雑誌連載がまとめられて単行本化されたさい、なぜか『アメリカは有罪だ』(小鷹信光訳 サイマル出版会)というタイトルに変更されている。

 ダロウは、二十世紀初めのアメリカ労働運動史には欠かせない名前だ。IWW(世界産業労働者組合)の指導者を陥れるためにピンカートン探偵社はスパイを傭った。そのフレーム・アップ裁判の弁護士としてダロウは招かれた。コロラド州ボイシー。これはホームズ物語のモデルになった事件とは別だ。ダロウ弁護士は、IWWと主義を共にしたわけではないが、社会的不公正と闘うために弁護を引き受けた。

 この伝記は、アメリカ的正義の伝統と左翼ポピュリズム思想とが幸福な蜜月を過ごしていた時代の産物といえるだろう。ストーンの筆致は講談のように面白い。


『クラレンス・ダロウは弁護する』連載第3回 ミステリマガジン1969.2














『クラレンス・ダロウは弁護する』連載第9回 ミステリマガジン1969.8

2-4 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』

 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』Phantom Lady 1942
William Irish、 コーネル・ウールリッチ Cornell Woolrich(1903-68)
黒沼健訳(宝石 1950.5) 早川書房HPB 1955.3
稲葉明雄訳(早川書房HPB 1975.6)ハヤカワミステリ文庫 1976.8
黒原敏行訳 ハヤカワミステリ文庫 2015.12

 ポー「群集の人」について、ワルター・ベンヤミンは「ミステリの骨組みだけが投げ出され、犯罪という肉体が欠けている」とコメントした。以来、数知れないミステリ作家たちが、「群集の人」に肉体を付与することになった。たとえばアイリッシュ。たとえばチャンドラー。

 『幻の女』は薄暮のロンドンをニューヨークに移した。病み上がりの夢想家のかわりに、若い感傷的な男。彼は妻と争って家を飛び出してきた。そして夜が終わると、妻を殺した容疑で逮捕される運命にあった。物語は、彼の死刑執行百五十日前から語りだされる。
 《夜はまだ若かった。彼も人生の何たるかを知らない。夜は甘く、しかし彼はくさっていた》
 書き出しの一行は、アイリッシュの散文家としての冴えを不朽に残している。後段の「But the night was sweet,and he was sour.」は、どう引っ繰り返しても日本語にならない。

 彼が出会う「群集の人」は若い女だ。オレンジ色のパラソルのような帽子をかぶった女。バーで会って、夜の時間を共にした。食事に出かけ、劇場でレヴューを見物した。女は言った。「これをかぶってるときは気をつけてね。何をするかわからないから」と。この言葉が深い意味を帯びていることに、やがて気づく。彼も、そして読者も。彼女は彼のネクタイに注意を向ける。コーデイネートしそこねたネクタイ。これも後で意味を放ってくる。何時間か後、彼は彼が服に合わせたはずのネクタイが妻の首に巻きついているのを発見することになる。

 彼らは一場のゲームを試みる。お互いに名乗らないでおこう、と。見知らぬ者同士で食事し、観劇し、そして別れる。他愛もないルールで夜のムードを高めたかった。別れの挨拶を済ませれば、お互い「群集の人」となる。それで終わるはずだった。

 捕らわれた彼は無実を証明できない。アリバイの証人が必要だ。女だけがそれをできる。女を捜さねばならない。死刑執行の日は迫ってくる。拘置された彼のかわりに友人が調査を引き受ける。二人がいたバーのバーテン、二人が乗ったタクシーの運転手、レストランのウェイター、劇場のドアマンと、聞き込みをするが、彼と一緒だったという女をだれも見ていないと言う。群集のなかから現われ消えていった女。痕跡を求めるが、ことごとく否定される。そんな女はいなかった。オレンジ色の帽子の女などいなかったと。

 幻の女だ。

 無実の人間が罰されるのか。物語はサスペンスを高めながら、常識的な結末も用意している。ハッピエンドの法則に従ったといえよう。ところが、驚くことに、作者は幻の女を「幻の女」のまま物語の外に弾き出している。女が現われて彼を解放するという解決は選ばれない。女は群集のなかに消えたままなのだ。だれもこの女の正体を知らない。名前すらも。作者は、ほんとうに知らないと白状している。女はこの物語に参加していない。捜されるだけの女。しかもその探索は成功しないのだ。

 ポーの「群集の人」の尾行者が自分の尾行の理由を把握できなかったのと同じだ。「幻の女」を捜し出すという目的を、アイリッシュの主人公は果たせなかった。その意味では、彼は主人公ではない。彼もまた物語から疎外される。犯罪は彼を取り巻く外側で起こった。彼は獄につながれ、死刑執行までのカレンダーをめくる進行係でしかない。

 サスペンスの古典に位置する作品の構造がこうした変則性にとらわれているのは奇妙に思える。これは形式の不整合にすぎないのだろうか。違う。幻の女が群集〈マルチチュード〉の彼方に消えたままなのは理にかなったことだ。なぜなら彼女の孤立〈ソリチュード〉は彼のそれでもあり、彼らの自由にはならないからだ。ミステリの法則のみでは説明できない物語の本質的要請に、作者は、身をゆだねたといえる。

 アイリッシュ、別名コーネル・ウールリッチは若くして、フィッツジェラルド風の都会小説で世に出た。何冊か書いたが、その本は彼に将来を与えなかった。成功に恵まれなかったのではなく、フィッツジェラルド風そのものが(本人の存在ともども)急速に時代遅れになっていた。ウールリッチはパルプ雑誌の短編ミステリ・ライターに転身した。彼の成功はそれ以降のものだ。スタイリストの名残りは、短編にも、もう少し後の長編にも認められた。『幻の女』の書き出しがそうであるように。

 『黒衣の花嫁』1940、『喪服のランデヴー』1943、『夜は千の目を持つ』1945などが代表作。また短編に、「私が死んだ夜」「午後三時」「妄執の影」「さらば、ニューヨーク」「爪」「裏窓」などがある。

 タイトルに黒を常用し、「黒の作家」と呼ばれた。『幻の女』のように、窮地におちいった人間の絶望的な孤立感を設定したサスペンスに独創を示した。破局の時が迫るとともに、孤立を歌い上げる感傷的なタッチも高まる。群集〈マルチチュード〉のなかの孤独〈ソリチュード〉が個人に強いる錯乱を見事に物語化した『幻の女』によって、作家は、二十世紀のミステリにふたたび原型的な力を注ぎこんだ。


2-4 レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』

 レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』 Farewell, My Lovely 1940
Raymond Chandler (1888-1959)
清水俊二訳 ハヤカワミステリ文庫 1976.4
(別冊宝石 1954.12 、 早川書房HPB 1956.3)
『さよなら、愛しい人』 村上春樹訳 早川書房 2009.4  
    ハヤカワミステリ文庫 2011.6



 幻の女が群集のヴェールをとおして現われて消えるという物語は、チャンドラーのケースでは、もう少し通俗的なドラマを借りて展開される。男は八年の刑務所暮らしを終えてもどってくる。女は消えている。場末の歌手という過去の女の痕跡はどこにもない。大鹿マロイとヴェルマの物語は、男の側からみれば一つの純愛ドラマだ。だが女のほうからすれば追いすがる過去の影でしかない。『幻の女』は捜される女の立場を描かなかったが、『さらば愛しき女よ』は、男と女とどちらの状況にも目配りした。二つの作品は、群集を通して「群集〈マルチチュード〉の女」が登場してくる点で、同じ本質を備えている。チャンドラーの物語のほうは、具体的である分、抽象度を見つけにくいかもしれない。

 マロイとヴェルマの物語の見届け人は、私立探偵フィリップ・マーロウ。チャンドラー小説は、「偉大なアメリカ探偵」の最も有力な神話でもあるから、従来は、マロイの純愛の顛末もサイド・エピソードの一つとして受け取られている。この点に、ささやかな修正をほどこしておこう。

 『さらば愛しき女よ』の冒頭、マーロウは大鹿マロイと出会う。六フィート五インチの、大型トラックのような男。暴力の臭いのする黒人居住区で自分の庭のようにふるまっている。マロイはポーの「群集の人」の語り手=尾行者にあたる。未知の男=幻の女を捜している。彼の探索は空しく失敗しつづける。作者は彼を語るにあたって、マーロウという全能のヒーローを注意深くフィルターに使った。愛しいヴェルマはいない。痕跡すらない。八年という歳月は、彼の主観とはうらはらに、途方もなく長い。彼はそのことを知るために、腕におぼえの黒人用心棒を、一撃で「蝶番のように」折り曲げてしまう。

 「群集の人」の尾行者は犯罪が始まる前に語りやめる。『さらば愛しき女よ』は、マロイを案内人に仕立てることによって、犯罪の街の闇の奥に潜行していく。行動者はマーロウだが、彼を導くのは大鹿マロイだ。大男の肉体に充填された一途な純愛だ。ヴェルマが体現する「犯罪」はそれと対置されることによって、いっそう輝きを増す。どちらも単独では輝かない。都市に無数に発生する犯罪の、裏と表を受け持つことによって、抽象性の高みに昇ることができる。二人のドラマが最高度に達するとき、さすがのマーロウも傍観者の位置に退く。見届け人に甘んじるしかない。

 すべてが終わった後、マーロウは不機嫌につぶやく。カリフォルニアの空ははるか遠くまで見渡せた。「けれど、ヴェルマの行ってしまったところまでは見えなかった」-but not as far as Velma had gone.

 幻の女は、チャンドラーの小説においては、具体的な名前を持ち、犯罪ドラマの輪を構成する要素となった。だが最後には、こうして抽象の高みに舞い上がった。彼女は最終的に自分の名前からも解放されたのだと読める。

 チャンドラーの称号はハードボイルド派の完成者として定まっている。これは、クイーンがヴァン・ダインを継承しながらヴァン・ダイン以上のジャンル史的重要性を与えられていることと、いくらか似ている。しかし観点をいくらかずらしてみるなら、チャンドラーが「偉大なアメリカ探偵〈ヒーロー〉物語」の最も強力な担い手だったことに気づく。彼はハメットの挫折や、クイーンの苦悩と試行錯誤とは無縁だった。ヒーロー神話を信じえた一貫性は作家としてのキャパシティの大きさとは関係ない。

 チャンドラーは中年過ぎて書き始めた。「ブラックマスク」に短編を発表したのは、偶然ながら、ハメットの沈黙と前後している。手本にしたハメットと交替するように活動を始めた。後発的な位置を生かし、己れの理想と人工的なミステリ世界をうまく調停することができた。彼の謎解きミステリへの敵意は有名なものだが、論争の論点となるリアルな現実との関わりは、後代からみればそれほど本質的とは思えない。ハードボイルドもまた現実の所産というより、ルールを整備した人工世界に映る。洗練に努めたのはチャンドラー自身だ。

 ハメットはアメリカの悪を物語に取りこもうと苦闘したが、それに破れた。同じ葛藤をチャンドラーも経験したかと問えば、答えは否定に傾く。彼にとって悪とは、外側にあるもの、ストーリーの素材になりうる事象だった。逆にいえば、悪を追求する作家には、正義の側に自分を引き寄せることが可能になる。こうした正義は「密室の死体」以上にリアルでありえるのだろうか。

 チャンドラーが受けた、いま一つの見落とせない称号に、後代からの文学的評価がある。都市小説の卓抜な書き手として認める評価は強力だ。文章家としての彼は、パルプ・ライター時代から独特の習練を積んだ。ウールリッチはスタイリストとしての才能をミステリに流用したが、チャンドラーは低級犯罪小説を自分の文章で再構成しながら独自のスタイルを開発していった。行動的人間の世界をストーリー化するにあたって、彼はハメットのようにもヘミングウェイのようにも書かなかった。またガードナーのように口述するスピードでは書かなかった。言葉を削ることもなく、流れこむ情緒を禁ずることもなかった。

 彼のヒーローは都市の一部だった。孤高はたいていは彼のポーズであったとしても、都市の一面に属することもできた。マーロウはロサンジェルスの街に現われた中世の騎士として自分を律した。彼はアメリカ小説に登場する、最も自己陶酔的な人物だが、彼が都市の一部であるという本質によってナルシズムは部分的(ある観点では、全面的)に救われている。

 騎士の物語としてチャンドラーの世界はむしろ古い伝統につながっている。ヒーローの全能を彼が演じ、彼が語る。それは彼が審判する世界でもある。伝統的な騎士の物語を、チャンドラーは一九四〇年代のアメリカに蘇生させたのだった。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...