マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』Evil Eye 2003
Michael Slade
ジェイ・クラーク(1947 - )を中心とするチーム作家のペンネーム
夏来健次訳 文春文庫 2003
スレイドはカナダの作家だ。彼の作品群がひどく概括しにくいのは、作者が共作チームだからでもある。複数の作品を無理やりパッチワークしたように長く、付属データが度を超して膨大にある。あるいは、その良識性の完璧な欠如。度外れた下品さとは、それはそれでプラス評価の場合もあるけれど、それはスレイドの一面でしかない。
スプラッタ・パンクを自称する一派がホラー・ジャンルにはいるが、スレイドの残虐描写の徹底性はこの派に似ている。ただただ自己目的のようにぎたぎたの血みどろ場面(とエロ)が追求される。加えてスレイド作品では、あたかもサイコ・キラー博覧会のように殺人鬼たちが我が物顔に闊歩する。
『グール』1989に展開されたヘヴィロックやクトゥルー神話への言及を、真面目に受け取れる読者はいったいどれほどいたのか。三種の連続殺人鬼がグロテスクな虐殺を競う、きわめつきのC級サイコホラー。そこにラヴクラフト風の異世界が亀裂をつくり、背後にはヘヴィメタルが轟音でとどろく、といった具合だ。キラー・マニアの精神世界を覗き見る思いで辟易させられた者も多いだろう。こうした書物にたいしては二つの態度しかない。ひざまづいて崇めるか、叩きつけて燃やしてしまうかだ。
『髑髏島の惨劇』1994(文春文庫)は、黒魔術への傾斜から本格謎解き小説の趣向がミックスされる。その混合の凄まじさは、新しいスレイド信者をつくったかもしれない。物語の中盤で出現する髑髏島。そこに招かれた十数人のミステリ・マニア。何が始まるかというと「そして誰もいなくなった」ゲームなのだ。殺人島の殺人館で起こる、仕掛け満載のきらびやかな殺人連鎖。時代の病的な(と思える)イマジネーションがとらえる情景は果てもないように思えた。
『暗黒大陸の悪霊』は、十九世紀の植民地戦争から始まる。ここで読者はスレイド作品がカナダという混民族国家の警察小説でもあったという一面を思い出す。要するに、アメリカン・ミステリと成立においては同じ。ポスト・コロニアル小説の一種なのだ。人物たちの家系は自然と植民地主義と人種差別をその内部にかかえる。ここでも本格好みのアイテムは無原則・無造作に使われる。「双子トリック」だ。しかしこの小説に描かれたような人種混合の「双子トリック」にはだれもお目にかかったことがないに違いない。グロテスク好みのフォークナーも、これほどの「混血の悲劇」は造型しなかった。
過剰すぎる題材のとりこみ、誇大にゆがめられた殺人劇。スレイドの一貫して節度のない創作法は、社会にひらかれたミステリがとりうる方法の一つの極点だ。。