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2023-09-18

ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』

 ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』The Blue Nowhere 2001
ジェフリー・ディーヴァー Jeffery Deaver(1950-)

(土屋晃訳 文春文庫 2002)

 舞台はシリコン・ヴァレー。殺人事件の捜査のために、警察が服役中の天才ハッカーの助力をあおぐ、という出だしは快調だ。

 話の主眼を占める、コンピュータ・ハッカー同士の息詰まる闘いもなかなか読ませる。しかし。読み終わると、どこか物足らない思いがする。この不満はどこに因するのだろう。定番サスペンスにサイバースペースの現在を盛りこむ試みも急増している。けれどまだ現実に追いつかないと思わせるところが少なくない。

 引き合いに出した作品から少し離れてみよう――。

 インターネット革命と著作権の旧来的な防衛をめぐって、まったく未知のエピソードを提供した事件があった。

 ある日、インターネットにどっぷりとはまる日常を送っていた十八歳の青年が新規のソフトを開発した。ショーン・ファニング。彼の名は(ビル・ゲイツのように)歴史に残るだろうか。かつてSFが好んで題材化した、サイバースペースにおける新しいコミュニケーション・システムは次つぎと現実になっていく。

 ナップスターは音楽を自由にダウンロードできるツールとして社会現象化する。事柄は単純化して受け取られた。個人が、無料で無作為に、音楽データをやり取りするのは、合法なのか。違法なのか。ナップスターが会社組織となるのは、九九年六月。わずか二年ほどのあいだにナップスター現象は決着がつき、二千二百万人のユーザーと四十万ドル分のハードウェアが無効化された。音楽・映像のコピーはある種のフリーハンド領域だったが、「先例を残すな」と勢力の反撃は素早かったということになる。

 全米レコード協会は、その敵意を、「ナップスターの問題は、ビジネスではなく社会運動をつくりだしてしまったことだ」と控え目に表明した。しかし社会運動と捉えるのは正確ではない。パブリック・エナミーのリード・ラッパー、チャック・Dがいち早く支持を打ち出したように、ナップスターの問題は、文化運動をつくりだしてしまったことにある。

 著作権にガードされた作品のコピー流失を防げないということは、文化ビジネスにとっては致命的な損失となる。とはいえ有効なガイドラインはどうやってつくれるのだろう。

 ことはもちろん、音楽や映像部門にとどまらず、活字本の存続にも議論は拡がっている。グーテンベルクによる複製本が実現して以来の転換期にさしかかっていると主張する者もいる。とくに文字データはサイバースペースにおいてデータ量が驚くほど軽い。本一冊分のデータ・ダウンロードなど、ほんのまばたきするほどの間で済む。データ量に換算するだけなら、文字形態は「終わって」いる。あとは、活字書物というハードウェアの形に価値があるかどうかに限定されてしまう。

 音楽や映像データはそっくりコピーできるけれど、文字データは書物という形態を取る点ではコピーできない。だが文字情報を取得するだけなら、ずっと早くはるかに軽く操作できる。それはともかく――。

 じっさい『青い虚空』よりも、ジョセフ・メンのドキュメント『ナップスター狂騒曲』2003(合田弘子他訳 ソフトバンク・パブリッシング)を面白がるミステリ読者は多いかもしれない。ディーヴァーほどの手練れのストーリー・テラーをもってしてもファクトに追いつきかねるという事実。これは深刻だ。

 来たるべくパニック。やがてグローバルに遍在するウインドウズ・ユーザーを襲うかもしれない未曾有のサイバー・テロへの恐怖も含めて……。これは深刻なことではないか。


 ディーヴァーは四肢麻痺の名探偵リンカーン・ライムのシリーズで売り出すまでは、群小作家の列にあった。実力と評判が広く行きあたるようになったのは、それ以降。シリーズ外でも見逃せない作品。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...