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2023-10-15

6-1 トマス・ハリス『ハンニバル』

 トマス・ハリス『ハンニバル』Hannibal 1999
Thomas Harris(1940-)
高見浩訳 新潮文庫 2000.4

 しかし九十〇年代全般にわたって、サイコ・ミステリに底流したトピックは「トマス・ハリスの沈黙」だった。待たれたのは人喰いレクター博士の復活だ。この点、理由は単純なヒーローへの待望の他にもう一面ある。「怪物と向かい合う者は、その深淵を覗き、同時に深淵から覗きこまれるのだ」というニーチェの言葉は、FBIプロファイラーによって別の照明を当てられた。怪物とはサイコ・キラーだ。ハリスの沈黙は、作家が「深淵から覗きこまれ」そこに招かれてしま

ったことを意味するのではないか。沈黙は怪物との争闘からの敗北を示すのではないか。レクター第三作が待たれた裏には、こうした懸念も多くあったと思える。

 七年の後、レクターは外国での逃亡生活のさなかに捕捉される。彼に不具にされた億万長者が懸賞金をかけていたのだ。FBI組織のなかで孤立を深めるクラリス捜査官もこの追跡劇に関わってくる。物語の多くの部分は、英雄が追いつめられ逆襲に出る冒険アクションに費やされる。残りは、英雄譚の念入りな注釈だ。

 ハリスは自らがきりひらいたサイコ・ミステリという領域の幕引きも兼任したというわけだ。彼は端的にいう。もはやサイコ・ミステリは成立しない、と。それは、作家の


沈黙によってではなく、別ジャンルの作品を書くことによって証明された。その事実は人を安堵させるものがある。ともかくも「怪物との争闘」にはっきりした一区切りが、作家の側から与えられたわけだから。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...