ラベル

2023-10-31

5-07 パトリシア・コーンウェル『検屍官』

 パトリシア・コーンウェル『検屍官』 Postmortem 1990
Patricia Cornwell(1956-)
相原真理子訳 講談社文庫 1992.1

 女性アマチュア探偵登場の、次は、何か。


 コーンウェルのヒロインが登場した。州検屍局の責任ある役職を持った女性。私立探偵には望めなかった専門的な位置にいる。『検屍官』の翻訳が出たのが九二年。日本でも女性ミステリの勢いにいっそう火がついた時点だ。

 警察小説が私立探偵小説にとって替わる、という時代の流れが女性ハードボイルドにも起こったということだ。ヒロインたちが三十代から四十歳をむかえるあたりにいることが共通している。コーンウェルの小説の初期には平均的なミステリ読者を戸惑わせるような素人っぽさがあったが、グラフトンが語る事件のような細部のアマチュア性はなかった。捜査側のディテールに関しては手堅く固められていた。どちらが上ということではないが、ミニマムな細部重視もまた時代の要請だったかもしれない。


 女性検屍官シリーズは毎回、最新捜査技術、機器の紹介に熱心だ。捜査当局のPRめいたところすらある。ミステリの型としては、勧善懲悪タイプのサイコ・キラー警察小説になる。キラーは適度に印象的な悪役というレベルにとどまっている。

 なお女探偵たちのリストをつづけることはいくらでも可能だ。きりがないから代表選手だけでやめておこう。ここにあげた三人の作家は長くシリーズを書きつづけている。シリーズ作の色調が変容するのは、いずれにしても避けられない。ヒロインのまわりの人物たちがそれぞれの役割で作品を豊かにしていくだろう。男性ハードボイルドが常連チームのファミリー・ストーリーの体裁を帯びていくのと同じだ。彼女たちも初期には思いもよらなかった自分自身の物語に立ち合っているようだ。そこからまた新しい試行錯誤が生まれてくるかもしれない。

2023-10-30

5-08 ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』

 ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』City of Glass 1985
Paul Auster(1947-)
山本楡実子、郷原宏訳 角川文庫 1989.4


 タフガイ神話の相対化という趨勢はフェミニズム方面からのみ襲ってきたのではない。その点は公平に見渡しておくべきだ。ポストモダンの波である。

 タフガイの脱構築。壊してつくり直す。そのとき、タフガイは依然としてタフガイなのか? もちろん、女タフガイもまた一種の脱構築だとする議論も成り立つだろう。

 間違い電話を入口にした迷路の物語。『シティ・オブ・グラス』は、後につづく『幽霊たち』1986(新潮文庫)、『鍵のかかった部屋』1986(白水社)と一括され、ニューヨーク三部作と称される。最もハードボイルドの痕跡を残しているのが第一作だ。

 目端の利くポストモダニストの例にもれず、オースターは商売上手な書き手だ。メインストリーム小説に向かってはこれはミステリではないと主張し、ミステリに向かっては、これはメタフィクショナルなミステリだというポーズをとってみせる。この作品は十七の出版社にボツにされたというアベレージを誇っている。通常の私立探偵小説に書き換えろという誘惑に作者が屈していたら、このアベレージはもっとささやかなものにとどまっていたはずだ。しかし後の名声もまたささやかだったろう。


 間違い電話。謎かけのような依頼。分身のペンネームでミステリを書く男。フィクションこそ現実だと信じていた男が現実の事件の捜査に踏みこんでいくと――現実はフィクション以上につくりものめいていた。

 ハードボイルドの行動主義が形而上的な問いかけでもあったという点は、つとに指摘されてきた。行動をあからさまに「哲学」に置き換えてしまった作品は初めてだろう。タフガイとは都市に捧げられた供物だ。英雄神話が輝きすぎて、彼が都市小説を書くための便利な「人形」であるという本質は忘れられている。都市ハードボイルドのヒーローは雑踏の中で目立ちすぎる不幸な単独者の影だ。彼の物語が真に必要とされているのではない。都市の物語が要請されているのだ。

 彼は「群集の人」に到る手段だ。

2023-10-29

5-08 ピート・ハミル『マンハッタン・ブルース』

 ピート・ハミル『マンハッタン・ブルース』Dirty Laundry 1978
Pete Hamill(1935-2020)
高見浩訳 創元推理文庫 1983.6

 ハミルの私立探偵小説も、『マンハッタン・ブルース』から『血の胸飾り』1979、『天国の銃弾』1984とつづき、ニューヨーク三部作と呼ばれている。こちらのポストモダン度はずっと慎ましいので、気づかないで普通のハードボイルド小説として読み終わってしまうだろう。これは、オースターが二度くらいボツにされた時点で心屈して常識的な定型に書き直したような作品イメージを持っている。ストーリーを追うごとに壊れていくのは、作者の力量不足かもしれないが、もっと積極的に定型を壊したかったのではないかとも解釈する余地がある。


 この小説も電話から始まる。ただし遠い過去を呼び覚ますやるせない電話だ。それは、「アパートの一室でチャーリー・パーカーの『オーニソロジー』を聴いているとき」鳴る。具体的な固有名詞によって情感が補強されているところからも明らかなように、第一行から「都市の中の匿名性」という興味は打ち捨てられている。しごくまっとうなハードボイルドの開幕シーンだ。かつての女友だちの電話にかき乱される心。彼がすでに事件の只中にまきこまれているという仕掛けはお馴染みのものだ。

 ハミルはジャーナリストで、この三部作は余技的な色合いが濃い。その分、気ままに形式を遊んだようで、ストーリー展開には定型から外れるところも多い。第三作では、ヒーローのルーツを求めてアイルランドに飛んでいる。


2023-10-28

5-09 ジェイムズ・エルロイ『ブラック・ダリア』

 ジェイムズ・エルロイ『ブラック・ダリア』Black Dahlia 1987
James Ellroy(1948-)
吉野美恵子訳 文藝春秋1990.1 文春文庫1994.3

 タフガイ小説は消滅の道をたどるばかりだったのか。そんなことはない。本流が絶えなかった点は確認しておくべきだ。エルロイをその本流の牽引者とみなしても、どこからも反論はないはずだ。ただそれも、私立探偵というタイプではなく、組織の中で孤立する「はぐれ刑事」を描くことによって守られた。孤立の様相は共通しても彼はあくまで警官なのだった。

 エルロイをあつかうと他のテーマも付随して流れこんでこざるをえない。レイシズムとセクシズム、そして政治的不公正による過去の歴史の「修正」。一口にいえば白人種馬男による三位一体の逆襲だ。強いアメリカ復活の一方に、ヴェトナム神経症の蔓延、サイコ・キラーの跳梁跋扈、女タフガイへの支持などがあった。彼の存在基盤はそれなりに了解がつく。そのイデオロギー十字軍の使命感は、スピレーンなどよりはるかに強固で骨がらみのものだ。そこに立ち止まるとかなり厄介なので、いったんは保留にしよう。

 エルロイの原風景は第二作『秘密捜査』1982に明らかだ。ブラック・ダリア事件。一九四七年、ハリウッド、未解決の娼婦殺人。被害者は全裸で胴体を両断され、内臓を抜かれた。犯人は見つかっていない。残虐な死体写真は、むしろマネキン人形を思わせる無機質を伝えてくる。

 母を喪い、孤児としてホームレスになった作者の原体験が、ブラック・ダリア事件とその時代背景への執拗なこだわりとして、エルロイ作品に刻印されてくる。


 『ブラック・ダリア』は、ブラック・ダリア事件を正面にすえた警察小説だ。未解決の事件は小説のなかで解決をみる。事件の真相に達した刑事は、タブーに触れたことによって、組織を追われる。

 エルロイが示したものはイデオロギーであるよりも、司法組織に身を置く白人の圧倒的な情念だ。彼は法の番人ではない。正義の側にいるという正当性はとうに彼から剥奪されている。彼は自分の主人であろうとするだけだ。エルロイの読者は、それこそがタフガイの真正な現状であることを知る。感動するか反吐を吐きたくなるか、反応は分かれる。暗黒〈ノワール〉は彼の泳ぎ出してきた源流であり、行き着く沸騰点だ。多くのアメリカ作家が燃え尽きていった彼方と別物であるわけがない。

 エルロイは以降、犯罪小説の形をとったロサンジェルス年代記に移る。歴史「修正」の嗜好はますます露骨さを増していった。

2023-10-27

5-09 ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』

 ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』Eight Million Ways to Die 1982
Lawrence Block(1938-)
田口俊樹訳 早川書房HPB 1984.4 ハヤカワミステリ文庫1988.10


 他にも私立探偵の新たな名簿を書き連ねることはできる。ジェイムズ・リー・バークトマス・クックグリーンリーフもまだ記憶に残すべき作品を産出していた。

 ブロックが創りだした探偵マット・スカダーは元警官で、ライセンスを持たない探偵。アル中だ。ニューヨークの安ホテルに住み、起きている時間のほとんどを酒場で過ごす。そこが事務所がわりだ。頼み事を引き受けたコールガールが惨殺され、彼はまた酒に溺れていく。飲みすぎるタフガイはいやほど描かれてきたが、これほど破滅的に飲む男はいなかった。酒と折り合いつけることができない。作者のアルコール依存症を強く投影していたらしい探偵の病状は『八百万の死にざま』で頂点に達する。


 彼は燃え尽きるエッジに立たされる。このまま飲みつづけて死ぬか、酒を断って別の人生を拾うか。出口なし。未来はどこにも見い出せなかった。

 彼の日常は、事件の進行とは切り離されて、酒との闘いに消耗していく。AA(アルコール中毒者自主治療協会)への参加と、泥のような禁酒の日々。その疲労と更正への道のりは、『聖なる酒場〈ジンミル〉の挽歌』1986、『慈悲深い死』1989(ともに、二見文庫)に持ち越されていく。

 期せずして、スカダー探偵の記録は、白人種馬男〈ホワイト・マッチョ〉の考古学〈アルケオロジー〉についての雄弁な報告書となっている。


 本流タフガイの失墜、サイコ・キラーと女タフガイの登場。ミステリの局地でほぼ同時に起こった事柄は、正確にアメリカ社会の病弊を映し出している。

2023-10-26

5-9 アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』

 アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』Strega 1987
Andrew Vachss(1942-)
佐々田雅子訳 早川書房1988.8 ハヤカワミステリ文庫1995.1


 エルロイと拮抗する強度を備えた作品は、ヴァクスによるバークとその仲間たちのシリーズのみだろう。

 バークには明確な敵がいる。子供をセックスの対象にする変態性欲者だ。基調は癒し。ある部分では、彼の物語は、小児性愛者告発の小説版だ。サイコ・キラーものに近づくことはなく、悪を征伐する話で一貫する。

 明快な勧善懲悪の物語として、トラヴィス・マッギーのシリーズとも響き合う。しかしバークの陰影ははるかに暗い。私立探偵でも揉め事処理屋でもない。暗い過去を秘め、来歴を隠したアウトロウだ。

 女たちは救いを求めて外からやってくる。シリーズは一作ずつヒロインに捧げられた賛歌でもある。しかし女たちは物語が終わるとふたたび外へ去って行く。バークと内面を共にすることはない。できない。変態性欲者の処刑人バークは自分の性欲は正常に健康に保っておく必要がある。女たちは便宜的な存在に押しやられる。

 シリーズの中心にはまたバークの助っ人たちがいる。刑務所で知り合ったアウトロウ仲間。拳法の達人、メカの専門家、犯罪の教授、地下銀行の主。特徴的なのは、みな何らかの障害・欠損をかかえた異能者だという点だ。モンゴル系、ヴェトナム系と、人種的にも雑多な構成だ。

 『赤毛のストレーガ』では、事件は依頼人から持ちこまれる。チャイルド・ポルノの写真を取り返してくれというものだ。結末こそ、ヒーローとその仲間たちが極悪人一味を襲撃して裁きをつけるという単線だが、ヒロインの正体は謎を残している。

 最後に彼が行き着くのは、彼が女を理解できなかったし喪わなければならないという苦い覚醒だ。彼らのあいだには結局、性の快楽がそれのみが荒涼として在ったにすぎなかった。


 癒しの物語としてヴァクスの世界は、ほとんど『赤毛のストレーガ』に尽きている。原型はすべてここに出揃っている。『ブルー・ベル』1988、『ハード・キャンディ』1989、『ブロッサム』1990、『サクリファイス』1991とつづく。新たなヒロイン、新たな敵役を得て、さらにストーリーは爆発していく。

 おのおの輝いているにしろ、一度語られた物語の精緻な注釈に読めてしまう。

 バークの終わりのない闘いがつづけばつづくほど、性の荒野の空疎は耐えがたいものとなる。彼もある種のパラノイアになって燃え尽きる未来しか持たないようだ。

 ヴァクスが八〇年代の物語につけ加えた貢献の大きさは疑いない。たんにエルロイの偏向のバランスを正すことにはとどまらない。しかし彼の未来に明るさを見つけるのは困難なのだ。白人マッチョの現状はこのように、極端な振幅を示しながらも、全体としては暗澹な色調におおわれている。

2023-10-25

5-10 スコット・トゥロー『推定無罪』

 スコット・トゥロー『推定無罪』Presumed Innocent 1987
Scott Turow(1949-)
上田公子訳 文藝春秋1988.10 文春文庫1991.2

 女探偵、サイコ・キラー、警官タフガイにつづくアメリカン・ヒーローの真打ちは弁護士だった、といえるかもしれない。黄金時代のペリイ・メイスンの後継者だ。メイスンにとって法廷はスポーツ競技場だった。観客を楽しませるプレーヤーのみが勝ち残ることができる。アメリカの弁護士人口はジョークの種になるほど多い。その点からすれば、弁護士ミステリの流行はむしろ遅きに失したといえる。

 トゥローは一人のヒーローを際立たせるよりも、法廷そのものを主人公として押し出す方法をとった。法曹界は一つの家だ。家に属する者は、だれであれファミリーの一員だ。とてつもなく大きく肥大した「家」には、善人もいれば悪人もいる。事件はその中で起こり、その内部で解決される。家は閉ざされたサークルではない。法廷は社会の全体をのみこむ多頭の怪物〈ヒドラ〉だ。人間の生きる普遍的な条件を示唆するすべてを備えている。

 法曹界にたいする揺るぎない誇りに支えられたこの観念は、もう一つの、ファミリーと呼ばれる集団を思い起こさせる。ファミリーを描いた小説には、マリオ・プーヅォ『ゴッドファーザー』1969などがあるが、その成員によって書かれたものではない。警察組織にせよ、法曹界にせよ、いわば体制の根幹をなす機構がミステリの主要な意匠に用いられ、その微細な再現が人気を博するのも、たしかな時代の流れだろう。

 作者は、インサイダーゆえの強みを生かして、汚職や権力の私物化といった内部の腐敗から、複雑煩瑣な裁判進行の案内まで、多くの生データを小説に注ぎこむことができた。 語り手は首席検事補、事件の被害者は彼がかつて愛した同僚。容疑を受けた彼は告発され、法廷に立たねばならない。家に所属する人間にも、個人的な家族があり、個人的な感情がある。明かされてくるのは、法廷は正義も真実も問わないという事実だ。法廷で争われるのは無罪か有罪かであり、それは真相を解明するはたらきとは別レベルに属している。法廷は社会全体の縮図でありながら、またそうであるからこそ、下しうる判断はごく事務的な手続きにすぎない。無罪か、有罪か。

 法廷はそこに所属する人間のすべてを決定する。だが人間は法廷の奴隷ではない。人間性の幅は最後に法廷の限界をのりこえる――。それを深く受け止めることによってトゥローの法廷物語は最終的に救いをもたらす。


 『推定無罪』が以降のリーガル・サスペンス流行の口火を切ることができた要因はいくつかある。もちろん作家の側の豊かな地力とミステリとしての緊密な構成も群を抜いていた。加えて、法廷という主人公を印象づけておきつつ、結末に人間を勝利させる鮮やかな手口がある。信じうるのは人間だという認識も、考え抜かれた「意外な結末」とともにさしだされることによって、より大きな効果を持ちえた。法廷ミステリという仕掛けのみが可能にしたミステリの醍醐味だった。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...