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2023-12-24

3-5 リチャード・コンドン『影なき狙撃者』

 リチャード・コンドン『影なき狙撃者』The Manchurian Candidate 1959
Richard Condon(1915-96)
佐和誠訳 ハヤカワミステリ文庫 2002.12

 コピーによる人間乗っ取り、寄生による脳の操り。それが代表的な侵略SFの危機イメージだった。共通するのは、外からの侵入という因子だ。現実的な危機として取りざたされたのは、もう少し直接的な事象だった。洗脳、ブレイン・ウォッシングだ。外部からの攻撃を受けるという点では同じだが、これは想像の出来事ではなかった。

 アメリカは革命中国を喪った。連続した朝鮮戦争は、新生中国を倒すための代理戦争の意味をも持たされた。朝鮮戦争が政治レベルの休戦交渉の段階に入った五一年、中国・北朝鮮側は、アメリカによって細菌兵器が使用されたと抗議した。さまざまの物証が呈示されたが、この件において、定説となるような確定事項はない。論者の立場によって、使ったとも使ってないとも主張される。朝鮮戦争史をあつかうあらゆる言説がそうであるように、水掛け論が

ここでも展開された。中国側は、捕虜にしたアメリカ兵士に罪状を告白させた。証言した兵士は祖国にもどってから証言には圧力があったことを明らかにする(当然これにたいしてアメリカ政府の圧力があったとするコメントも発生した)。ここで洗脳という言葉がにわかに脚光を浴びたのだった。

 用例の一つ――。洗脳されたアメリカ兵が「自分は細菌爆弾投下に従事した」と告白した。

 これは共産主義の非人道性を攻撃する論拠になることが多い。シベリアに抑留された旧日本軍兵士が数年して故国に帰されたさいにも、同じ用語が使われた。洗脳とは、当初、共産主義思想を注入して個人の「思想改造」を試みることを指した。ナメクジ状生命体の寄生による脳コントロールというハインラインのイメージは、洗脳「される側」のおぞましさをよく表わしている。後に『人形つかい』は映画化されて、『ブレイン・スナッチャー』と改題された。脳に取り憑くのだから、こちらの語感のほうが近いだろう。

 『影なき狙撃者』は、洗脳の諸影響をあつかった作品として(事実がどれほど取りこまれたかはさておいて)異色だ。ポリティカル・サスペンスとしてもかなり先駆的だろう。

 戦争で捕虜となった兵士が複雑なメカニズムの洗脳を施されてアメリカにもどってくる。スパイ小説におなじみのスリーパー・エージェントに近い存在。彼の脳にセットされた謀略を軸にストーリーは転がっていく。脳に施されたのは、正確には、後催眠だ。組みこまれた暗号がある配列を取ると、一定の指令として伝わる。しかし、あえて作者は、洗脳も催眠術も意識的に混同させて使っているように思える。

 それだけなら怪しげな謀略小説に終わったところだ。『影なき狙撃者』の効用は、マッカーシーイズムについて、大胆な解釈を試みたところにある。赤狩りはしばしばジョゼフ・マッカーシー議員の個性に引きつけて語られすぎている。小説は、彼をモデルにした人物を登場させて、そこに二点のフィクションを加えた。一は、彼を大統領候補に仕立てたこと。二は、候補の妻(名前はエリノア。F・D・ルーズヴェルトのファースト・レディと同じだ)に隠れたコントローラーの役割を振ったこと。彼女はアメリカのビッグ・ママだ。彼は妻の意のままに操られていた、というわけだ。

 マッカーシー的人物のほうが「操られた人形」だったとする解釈はスリリングだ。マッカーシー議員が用いたデマゴギーの低俗さや彼の個人的な性向の破廉恥さは名高いものだった。現実の上院議員は悪名を残した道化役だが、小説中の大統領候補は道化そのものだ。

 候補が暗殺のターゲットだと明らかになることによって、小説は別の深みを与えられた。兵士も候補も、ともにビッグ・ママの支配下にあることは疑いない。もしかすると、兵士が敵の洗脳にあっさりしてやられたのは、マザコンという決定的な弱みをかかえていたからではないか。いや、本当にそうだ。ところが標的になった候補はもともと妻に操られるだけの実体のない人物だった。

 兵士は(もし仮に)洗脳から自由になったとしても、信心深いアメリカン・マザーからは自由になれないだろう。こうした確信をもたらせるところなど、『影なき狙撃者』という小説は、妙に「予言」にみちている。現職アメリカ大統領と彼のママ(二代前のファースト・レディだ)との結びつきの強さを連想させる。

2023-12-23

3-6 ハリー・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」

 ハリー・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」The Nine Mile Walk 1947.4
Harry Kemelman(1908-96)
『九マイルは遠すぎる』永井淳、深町眞理子訳 早川書房HPB1971.9 ハヤカワミステリ文庫1976.7

 短編ミステリの書き手は、比較的、時代の変化をこうむらずに地歩を残している。ここで立ち止まって、彼らのリストを少しまとめておこう。


 短編ミステリこそミステリの真髄であると感じさせる作家は少なくない。ケメルマンもその一人だ。ニッキイ・ウェルト教授を探偵役とする安楽椅子探偵シリーズのスタートは戦後すぐのことだった。純粋論理を駆使することによって、机上の解決を読ませる。八編をまとめて同名の短編集が刊行されるまで、二十年を要している。

 一冊になった本の序文で、作者は、創作法の一端を明かした。ウェルトものが教室で生まれたと言っている。キーになったのは新聞の見出しだった。「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」という文章。これをもとに短編を書くのに十四年かかったと。まことに「遠すぎる九マイル」の道のりだったというべきか。


 作者はこれを作文の授業の風景だったと書いているが、創作クラスの秘密を語っているような雰囲気もある。探偵が語る論理の筋道と、作者が表明する創作への長い道程は、当然のことながら、軌を一にしている。推理するごとく書かねばならない、というのが作者の信条なのだろう。

2023-12-22

3-6 ジェイムズ・ヤッフェ「ママは何でも知っている」

 ジェイムズ・ヤッフェ「ママは何でも知っている」Mom Knows Best 1952 (Mom, The Detective 1968)
James Yaffe(1927-2017)
小尾扶佐訳 早川書房HPB1977.3 ハヤカワミステリ文庫2015.6


 ヤッフェは、十五歳のとき初めて書いた短編が、クイーンの編集するEQMMに当選する、という経歴の持ち主。同じ「クイーンの定員」出身者のケメルマンより二十歳若いが、デビューは先だ。一種の神童だったといえよう。

 ブロンクスのママ・シリーズを書き始めたのも、二十代の前半。こちらも安楽椅子探偵の短編シリーズだ。八編の短編集は日本語版のほうが先に発刊された。

 毎週金曜日に、刑事の息子が妻同伴で食事に来て、事件の話を語る。五十年配の未亡人ママが推理の解決編を与えるというパターンの短編だ。息子は妻の前で子供あつかいされて居心地悪くなり、インテリ妻はママに対抗しようとして逆にやりこめられる。場面はすべて食卓で進行する。


 安楽椅子というより食卓探偵の雰囲気だ。手作り料理の暖かさが推理の背後に流れ、コージー派の味わいも備えている。

 二十年のインターバルをあけて、同じ主人公で長編が書き継がれ、四冊を数えている。

 もう一人のEQMMの入選組は、ロバート・L・フィッシュ。第一作「アスコット・タイ事件」1960から、ホームズもののパロディを始めた。十二編が『シュロック・ホームズの冒険』1966として刊行された。計三十二編あり、三冊の短編集にまとめられている。

2023-12-21

3-6 スタンリー・エリン「特別料理」

 

スタンリー・エリン「特別料理」The Specialty of the House 1948.5
(Mystery Stories 1956)
Stanley Ellin(1916-86)
『特別料理』田中融二訳 早川書房 異色作家短編集2 1963.1、1974.9、2006.7
ハヤカワミステリ文庫 2015.5


 ヤッフェケメルマンフィッシュを「クイーンの定員」とするなら、エリンはさしずめ非定員かもしれない。異端というより、異色短編、「奇妙な味」と総称された短編。謎解きの論理過程を重んじた端正な短編とは違った、いわくいいがたい世界を切り取ってくる。

 エリンには二つの短編集『特別料理』1956と『九時から五時までの男』1964があるが、デビュー作の「特別料理」が特別に高名だ。その印象を短く尽くせば、ある短編の最後の一行がふさわしい。――人に厭われる仕事に就いている男が、その仕事を楽しんでいるかと訊かれて答える、《楽しまずにはいられないじゃないか》と。

 この上もなく残酷な人生の断片を切り開いてみせながら、


作家は楽しんでいるというのだ。楽しい仕事だとはとても思えないことを楽しいと言い切る。きわめて反語的に、だ。「特別料理」の奇妙な味も同じだ。楽しまずにはいられないではないか? 

 どれもが丹精をこめられた短編だ。凝縮された世界は単独作品として難解なものもあるが、それは、後に長編の書き手になってからのエリンの作品を関連づけてみると了解できる場合が多い。人好きのしない作家とはいえ、再読三読に値する。いや、三読しないと奇妙な味の深みに到達できないこともしばしばだ。

 『特別料理』に収められた「パーティの夜」は、ネヴァー・エンディングの強烈な輪に閉じられた話だ。舞台上で


何度もなんども同じ役を演じる役者の、ある夜のパーティの情景。さまざまな読み取りができるにしろ、こんな短い話にすら黒々とあけている人生の深淵を見ないで済ますのは難しい。一種のリドル・ストーリー(結末が冒頭につながる話)なのだが、もっと痛烈な隠し味もある。墜落感を伴った夢幻性は、エリンの一番の怪作『鏡よ、鏡』1972を思わせる。

 『九時から五時までの男』に収められた「ブレッシントン計画」は、老人問題への最終解決を提起したアイデア・ストーリー。同短編集の表題作「九時から五時までの男」は、奇抜な保険金詐欺を描いて不気味な余韻を残す。両者とも、晩年の人騒がせな人種差別小説『闇に踊れ!』1983(創元推理文庫)のゆがんだ情念に直結している。


 「特別料理」が暗示するにとどめたセクシャルな主題も、『鏡よ、鏡』にはほとんど前面に立ち現われてくる。

 短編ミステリの醍醐味にもいろいろある。「クイーンの定員」の書き手のものは、謎解きプロセスの結晶を見せてくれる。一口に「奇妙な味」派といっても、マイルドからビターまで幅はある。フレドリック・ブラウンなら、常識をくすぐり、さらりと裏返してみせる程度で済ます。エリンは、常識の隙間に背筋の震えるような風穴をこじ開けてみせる。その筆致は時には威嚇的なほど容赦ない。

2023-12-20

3-6 ロアルド・ダール『あなたに似た人』

 ロアルド・ダール『あなたに似た人』Someone Like You 1953
Roald Dahl(1916-90)
田村隆一訳 早川書房HPB1957.10 ハヤカワミステリ文庫2000
田口俊樹訳 ハヤカワミステリ文庫 2013.5


 戦後から六〇年代にかけて、「奇妙な味」派の最盛期があったといえよう。他には、チャールズ・ボーモント、デイヴィッド・イーリイ、ジャック・フィニイ、ロバート・ブロックなどの書き手がいた。

 なかでもエリンと双璧をつくるのは、ダールだ。ダールは、イギリス系アメリカ人で、本筋は童話作家だ。彼の短編も大人の童話を思わせるところがある。ダールの短編が時おり垣間見せる薄気味悪さは、「子供の時間」に属しているともいえる。

 『あなたに似た人』には、「南から来た男」をはじめ、ギャンブル小説に独自の輝きがある。賭博は人間性のキャパシティを不快な力で押し拡げる。熱狂にとらわ


れた賭博者の姿を、単純に狂気とは指定できない。一度ダールのペンに捉えられた妄想は狂気を超越した次元に羽ばたいていく。

 《いまでも私には、彼女の手がはっきり見える――その手は》……、という幕切れの鮮やかさ。この閃光のような戦慄は長く残るものだが、気がつくとそれほど不快なショックではないことがわかる。これがダールの童心だ。エリンと比べてみると、はるかに「安全」なのだ。

 ダールとよく似た異色短編のもう一人の書き手に、ジェラルド・カーシュがいる。同じイギリス系、ダールは元飛行士だったが、カーシュは元レスラー、用心棒などと職歴も多彩だ。荒唐無稽なホラ話に相通じるところがある。カーシュには「壜の中の手記」1957などの作品がある。短編集は、日本独自で編まれたものが二冊(晶文社)ある。



2023-12-18

3-7 ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』

 ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』 Through a Glass, Darkly 1950
Helen McCloy(1904-94)
高橋豊訳 早川書房1955.11、ハヤカワミステリ文庫1977.6 
駒月雅子訳 創元推理文庫2011.6

 自分の中から追放された自分の物語。十九世紀ロマン派の紋章でもあったドッペルゲンガーの物憂い夢は、ミステリとそれほど友好的な関係にあったわけではない。双子の替え玉というアイデアは比較的、トリックとの相性は良かった。けれど分身〈ダブル〉の出現は、論理的な構成という観点からみると、どうにも場違いにならざるをえなかったようだ。カーおよびカーの熱心な信者たちは、特別のこだわりをもって超常現象をミステリと合体させようとした。しかしその試みは、例外はあっても、装飾的な側面にかぎられていた。

 分身〈ダブル〉による殺人事件。容疑者も解決編の犯人も、どちらも分身〈ダブル〉。それは初めてマクロイによって描かれる。

 ダブルがダブルを殺す事件。

 これは、ポーの「ウィリアム・ウィルスン」の再生という一面もあるが、そこをさらに突き抜けた試みだといえる。

 同タイトルの短編版は二年先んじているが、基本形は同じだ。余韻たっぷりの思わせぶりで引き延ばされた長編版のラストは、読み手にさまざまの想像を膨らまさせる。だがトーンの変更はない。

 ドッペルゲンガー現象については、『暗い鏡の中に』にも、いくつかの可能性が考察されている。一は、容疑者がなんらかのトリックを弄して分身を出現させた。二は、無意識に夢遊状態の行動をした。三は、容疑者が分身の姿を空中に投影してみせた。この考察はミステリを進行させる手続きとしてなされる。

 容疑者は、計七回、分身を目撃される女教師。彼女は以前の職場でも同様の分身騒ぎを起こしていた。

 彼女は前半では容疑者として疑われ、後半では密室殺人の被害者となる。作者は、事件を現実らしくするために、実在のドッペルゲンガーの症例を引用する方法を手堅く取っている。そして物語内の事件はすっきり合理的に解決する。探偵役の精神科医が犯人を追いつめて真相を看破するというミステリに不可欠な場面は省略されていない。だが探偵は、引用の症例については解釈がつかないと強調する。二面作戦だが、神秘は神秘として、アンタッチャブルにするという配慮だろうか。

 《きみは勝手のわからない薄暗い部屋に入ったとき、見知らぬ人がきみに近づいてくるのを見たことがあるかね。……その見知らぬ人が鏡に写ったきみ自身であることに気づいた経験があるかね》

 だが合理的解決は、無数にある非合理な(小説のなかにおいてのみ可能な)解決のすべてを抜き去るほど特別のものではないことに、読者は気づく。これは解決編の説得力の問題ではない。合理を優先させるというミステリのルールそのものに内在する問題だろう。

 ともあれ、この小説には、暗い鏡の中に入っていったマクロイがまだそこから出てきていないのではないかという不審をいだかせるところがある。これはルイス・キャロル『鏡の国のアリス』1871(角川文庫)とミステリが交差するところに生ずる不協和音だ。マクロイはこの不協和音を鳴り響かせて、放置したようにすら思える。

 鏡は『三つの棺』では密室トリックの構成要素でもあった。その観点からいえば、『暗い鏡の中に』も密室トリックの変奏として受け取られている。分身〈ダブル〉イメージそのものは解決されていない。手つかずなのだ。

 鏡と分身イメージについては、マーガレット・ミラー『狙った獣』1955の冒頭に印象的なシーンが出てくる。ドッペルゲンガーを多重人格の方向から考察しようとする傾向がぼちぼちと生まれてきていた。サイコ・ミステリの兆しだ。マクロイの作品は、こうした予兆を強くまとったものだったが、充分な追求はなされないまま終わった。

2023-12-17

3-7 ビル・S・バリンジャー『歯と爪』

 ビル・S・バリンジャー『歯と爪』The Tooth and the Nail 1955
Bill S. Ballinger(1912-80)
森本清水訳 東京創元社クライム・クラブ 1959.8、
大久保康雄訳 創元推理文庫 1977.7

 もう一冊の分身小説。

 『歯と爪』はトリッキィなサスペンスとして名高いが、隠れたテーマは分身だ。挫折したドッペルゲンガーの話だ。作者の興味が分身を追うことよりも、分身テーマを描く技法にあったことは間違いない。

 プロローグでは、主人公の奇術師が紹介される。彼のなしたこと。一、復讐を遂げた。二、殺人犯人となった。三、自分も被害者となった。一人二役だ。復讐と殺人が区別されているところに注意すれば、一人三役となる。「被害者を捜せ」「犯人を捜せ」タイプの新種ということはわかる。


 作者はこれを、二種の叙述法によって処理する。一つの流れは、奇妙な殺人事件をめぐる裁判の記録。もう一つは、一人称で語られる恋愛ストーリー。客観叙述の裁判記録は時間軸を逆にたどり、一人称の物語は時間軸にしたがって進行する。交差する流れはどこかで合流をみると予想させる。

 二種の叙述と並行する時間進行とが、分身を可能にするキーだ。これは叙述トリックの技法としては、すでに教科書的ともいえる。F・ブラウン『彼の名は死』で、多数の人物に視点を分散することによって、エンディングの意外性を際立たせようとした。バリンジャーの技法は、並列ではなく、交差だ。二種の話が衝突してくるところに物語の焦点を置いた。一人三役の完成だ。


 さらに作者と版元は、この解決編を袋綴じにして、独創性をアピールした。書物の封印された末尾。これは「読者への挑戦状」以上に好奇心をかきたてるものだった。本そのものにトリッキィなオーラがまつわりついたともいえる。書物はもちろん、その書かれた内容のみで読者を捕らえるのではない。パッケージ全体が「書物」なのだ。袋綴じは、叙述の仕掛けをさらに強化するアイテムだった。


 こうした形式上のトリックも相まって『歯と爪』は歴史をつくった。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...