ラベル

2024-04-03

2-8 リチャード・ライト『アメリカの息子』

 


リチャード・ライト『アメリカの息子』Native Son 1940
Richard Wright(1908-60)
橋本福夫訳 『黒人文学全集』早川書房 1961、 ハヤカワ文庫 1972
上岡伸雄訳 新潮文庫 2022


 そして問題は黒人作家の先行的な一人、ライトに引き継がれる。『アメリカの息子』が出たとき、人種間の問題をミステリ領域で受け止めるだけの素地がどれだけあっただろうか。

 『アメリカの息子』は二つの殺人をあつかっているが、犯罪小説というより、むしろ『アメリカの悲劇』のような古いタイプの自然主義小説の近縁として読める。ドライサーの小説にライトがつけ加えたものがあるとすれば、作者のアフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティのみだ、とする元も子もない見解もあるだろう。古びた人種差別抗議小説、というのがこの小説への分類項目だ。

 白人・黒人の人種対立はアメリカのレイシズムのすべてではないが、主要なものだ。現在も変わらない。何よりアフリカにルーツを持つ黒人は、合州国に自らの意志で移住してきた民族集団ではない。十九世紀のなかば過ぎまで奴隷制度を手放さなかった南部諸州は「市民戦争」に敗退したとはいえ、依然として風土に根ざす習慣を捨てていなかった。レイシズムも「習慣」と呼びうる。

 ライトは南部の生まれ。北部の都市部に移動した黒人知識人の一人。一時期、共産主義者だった。

 『アメリカの息子』の主人公ビガー・トーマスは二十歳の青年。作中では少年〈ボーイ〉と指定され、またタイトルも「ネイティヴ・サン」だ。リベラルな白人の住みこみ運転手の職を得るが、そこの娘を事故で死なしてしまう。過失を隠すために、また、殺人(と強姦)の疑いをかけられるのを避けるために、ビガーは娘の死体を地下の焼却炉で焼く。彼の犯罪は、死体隠匿によって、より殺人に近くなる。

 彼は逃亡を重ね、厳寒のシカゴの街を逃げまわった末、逮捕される。その過程で、ビガーは彼を助けた黒人娘ベシーをも殺してしまう。二件の「殺人」が彼の犯罪の内容だ。

 犯罪は、アメリカにおいて黒人であることの意味を考察するための、一つの手段だ。ライトは、『アメリカの悲劇』がとった三部構成を採用している。だがビガーの行動は典型的というより、夢幻的で孤立した印象をもたらせる。彼はどこにでもいる黒人青年ではなく、誇張されたマイナスの性格を多く負わされている。知性は平均以下、性格も粗暴で思いやりに欠ける。容貌も、黒人種の黒さ醜さが際立つ。

 デフォルメはキャラクター設定のみならず、技法処理にもみられる。作者は、故意に、自然主義的な粗野な書き方を選んでいるようだ。しかも、主人公が逮捕された後の第三部を、アメリカ黒人の運命に関する長々しいディスカッションにあてる。この小説だけ読むと、ライトが小説の技法に無頓着な素朴な書き手だと勘違いするだろう。だが、あえて作者は古い技法にしたがい、構成上の欠陥も修正せずに済ましたと思える。

 黒人のマイナス面を肥大させた人間像を問うことによって、ライトが黒人の民族性について限られたヴィジョンしか呈示しえなかったという後代の評価がある。それは誤りだ。彼ほど雄弁にそして能弁に語った者はいない。一つの犯罪は、複雑な社会構成にあって、さまざまな照明を当てられる。ビガーの選択は不可避なものであり、都市の黒人のだれにでも起こりうる状況だった。

 すでに黒人が独自性を示す文化領域は大きく拡がりつつあった。スポーツや音楽などの分野でも、黒人の活躍は目立ってきていた。しかし社会がレイシズムの環から脱却するには、まだ遠い道のりが横たわっていた。

 ライトは『アウトサイダー』1953(新潮社)においてもう一度、デスペレートな反逆者の像を描く。クロス・デイモンと名づけられた主人公は、十字架と悪魔を不吉に背負っている。彼は地下鉄事故で死んだとみせかけ、新たな身分を詐称して生まれ変わろうとする。彼もまた殺人者であり、ファシスト一人とコミュニスト二人を殺す。殺人というメタファーに表われた算術は、作者の混迷を経た思想的到達点でもあるだろう。



2024-04-02

2-9 キャメロン・マケイブ『編集室の床に落ちた顔』

 

キャメロン・マケイブ『編集室の床に落ちた顔』 The Face on the Cutting-Room Floor 1937
Cameron McCabe(Ernest Wilhelm Julius Borneman 1915-95)
熊井ひろ美訳 国書刊行会 1999.4

 黄金期の作品リストの最後に『編集室の床に落ちた顔』が並ぶのは、奇妙な印象をもたらすだろう。ここまで、指標的・標準的な作品、時代をするどく刻印していると思われる作品、別領域とされてきたが関連づけられるべき作品をあげてきた。この小説はとりわけ異色に映る。何が異色なのか。

 これはアメリカ産でないことが一つ。タイトルはハリウッド映画風だが、作者は亡命ドイツ人。小説はイギリスで出版された。作者はまだ二十代前半だった。七四年にイギリスで再版された。これにはジュリアン・シモンズ(油断のならない批評家で実作者)の評価が大きかったという。八一年にアメリカ版が出た。じつのところ、アメリカ版の出た年の新作として考えてもおかしくないほどの「前衛的」な作風を持った問題作なのだ。

 マケイブはペンネームだが、作中主人公=語り手の名前としても使われている。事件は映画スタジオで起こった新人女優の殺人。映画会社のフィルム編集者マケイブは、新人女優の出番シーンをすべてカットしろと、製作者から乱暴な命令を受ける。タイトルの意味はここからくる。カットされたフィルムは編集室の床に散らばる。そこにしか出ていない俳優は哀れ捨てられる運命にあるわけだ。

 次にくるのは、当の女優殺しだ。殺人現場は編集室。よくある展開と思っていると、犯行の模様が逐一フィルムに収められていることがわかる。このあたりから、話が猛烈に歪んでくる。

 探偵役のスミス警部が登場し、マケイブは容疑者の一人となる。事件の再吟味が始まる。会話のテンポはいいが、その内容はかなり難解だ。証人はそれぞれの主観から事件の様相を語っていく。当てにならない証人ばかり出てくる技法をこらしているのでもない。作者は事件を五度、六度と語り直す。ただの反復だ。視点が変わるのみで、新しい事実が出るわけではない。

 探偵はやがて宣告する。《殺人事件を解決したいのなら、自分で殺さねばならない》と。この物語で、探偵と容疑者たちとが交わす問答は、要するに、この命題のまわりをぐるぐると旋回している。渦巻き状で終わりが見えない。被害者がこの議論に加わらないことはわずかな救いかもしれない。この命題を言い換えれば「犯罪を解決できるのは、犯人ただ一人だ」となる。

 これは、作者の欲求でいえば、「探偵の死」もしくは「探偵の敗北」を意味する。べつだん鬼面人を驚かすという原理というわけではなく、チェスタトンが「犯人は独創的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎない」という箴言によって簡潔に言い表わしていた。つきつめると、クイーンの悲劇四部作の探偵の運命が待っている。その剣呑さは、作家を尻ごみさせるに充分だった。「探偵の死すなわちミステリの終末」と感じられたからだ。

 ミステリという自己完結的システムにおいて、モダンの絶頂とポストモダンの幕開けは、同時にやってきたようだ。同時といって悪ければ、前後をわきまえもせず、ということだ。奇想天外なトリック、叙述パターンの迷彩、意外な結末、想像を絶するドンデン返し……。などといった基本仕様は早晩、開発され尽くすはずだった。そのあとは? 気の滅入るほど長いポストモダンの歳月が、早く訪れた老年期のように待ちかまえているだけなのだろうか。

 探偵が殺せばそれは探偵の敗北だ、というのはモダニズムの解釈。ポストモダニズムで言い換えると――「探偵と犯人の一人二役」などなどの命題に化ける。

 犯人が解決すればそれは犯人の敗北だ、というのはモダニズムの解釈。ポストモダニズムで言い換えると――「犯人と探偵の一人二役」。……なんだ同じじゃないか、馬鹿にするな、と言うなかれ。同一でしかも差異がある、というのがポストモダン言語のサービス精神なのだ。

 注。(言い換えのパターンは無数にあるが省略した)。

 マケイブ(作者のほう)のテキストは、少し冗長さをみせながら、ミステリの外枠を破壊して終わる。探偵も犯人も「自爆」して果てた。作者はそれでも満足せずに、末尾に非常識なほど長いエピローグ――注釈を加えている。長さは全体の四分の一。これは「キャメロン・マケイブの墓碑銘に代えて」とわざわざ注記されている。そこに並べられたのは、マケイブの手記の形を取った『編集室の床に落ちた顔』にたいする書評である。作者はその一部をやむを得ず書き直したことを弁明しているが、出典は明記している。

 テキストへの外部からの批評がテキストに合体したわけだ。これは作者が念入りに試みた入れ子細工だ。テキストを真に完成したいのなら他人の評価を内に含まなければならない――という命題の実践だ。探偵の敗北を言上げする登場人物の言い草よりも、はるかに可愛げがない。はるかに悪辣で自覚的だ。叙述トリックの諸変化に慣れてしまっている今日の読者には驚きに足らないかもしれない。しかし当時の理解者の水準を想像すると、いささか早く来すぎた試みかとも同情したくなる。

 とにかく、ミステリの原理のみでなく、テキストの成り立ちにたいしても、作者は、「形式の死」を宣告した。宣告せねば気が済まなかった。

 見事である。少々の細部の空転は我慢しよう。

 アラン・ロブ=グリエのアンチ・ミステリよりも、ポール・オースターのすかしたポストモダン小説よりも、はるかに早く、はるかに孤立していた。


2024-04-01

3 大戦後社会小説の諸相

 3 大戦後社会小説の諸相

 歴史家は「二度目は茶番だ」という警句を使いたがる。だが第二次世界大戦について、この言葉が適用された用例はないようだ。二度くりかえされた全体戦争〈トータル・ウォー〉について、気の利いた断言を加えうる者はいなかった。

 第一次大戦は二十世紀人の人間観を変えた。それは長い目でみれば、叡知を与えたともいえよう。三十年を経ずに起こった第二次大戦は、もはや叡知の源とするには大きすぎる惨禍だった。

 全体戦争〈トータル・ウォー〉は非戦闘員をまきこむ。対戦国を徹底的に破壊する。別の手段をもってする政治という範囲をはるかに超えている。全面的に勝利するか敗北するかだ。広島・長崎に投下された原子爆弾のように、戦争終結「後」のための戦術行使をためらわない。非戦闘員の死体数をも戦果としてアカウントするシステムだ。

 全体戦争〈トータル・ウォー〉は戦闘員の内面を荒廃させる。それに関わったすべての人間の意識を決定的に破壊する。

 こうした巨大な災禍にさいして人は容易に判断不能におちいる。それは、二十世紀後半の人類が立ち合った、平和と恒常的局地戦争がないまぜになった奇妙なモザイク状況だ。

 戦後アメリカ社会はリベラルな伝統を一掃する方向に向かった。国内的には、戦争の直接の被害を受けず、経済的繁栄の世界に連続していくことができた。工業力においても、資源においても、また軍事力においてもトップに立った。

 冷戦体制は新たな使命感と恐怖をもたらせた。赤狩りとは、共産主義国家の「全体主義」と闘うために動員された、アメリカ型全体主義の現われだった。非アメリカにたいする際限のない告発は、この社会に潜在していた非寛容を一気に解き放つことになる。

 アメリカ民主主義のマイナス面のみを肥大化させるうねりの始まりでもあった。


2024-03-31

3-1 エラリー・クイーン『十日間の不思議』

 エラリー・クイーン『十日間の不思議』Ten Day's Wonder 1948

青田勝訳 早川書房HPB1959.2、ハヤカワミステリ文庫1976.4
越前敏弥訳 ハヤカワミステリ文庫2021.2

 クイーンの戦後は、いわば神経症的な傾斜から幕開けする。それが突如として現われたものでないことは明らかだ。『フォックス家の殺人』1945は、ライツヴィルもの第二作になる。物語の舞台のみでなく、人物に負わされた状況も、『災厄の町』を引き継いでいる。主人公の青年は、戦争の華々しい英雄として故郷に帰ってくる。だが戦争体験は平和な生活への適応をむずかしくしている。

 父親が母親を毒殺した少年時の記憶。それが彼を責め、やがては父親の罪を自分がくりかえすのではないかという予感に追いつめられる。この人物の像は、前作の「犯人」像の発展であるばかりでなく、戦後青年の世代的苦悩を投影したものでもある。父親の罪から逃れられない毒殺者という形であれ、彼は比較的早く描かれた戦後青年の典型であるだろう。

 クイーンによってさらに深化されていく戦後世代の探究は、後にロス・マクドナルドに継承されていく。

 『十日間の不思議』もその延長にある。主人公の青年ハワードは、部分的な記憶喪失者。記憶の欠けている時間に殺人を犯したかもしれないという怖れに囚われている。最初の設定は、ウールリッチなどに先例もあり、これ自体は特記するほどのものではない。物語は、限定された登場人物で構成される舞台劇のように進行する。主要な人物は、ハワードと探偵エラリーの他に、ハワードの父D(大富豪)、Dの若い妻、Dの弟の五人だけだ。

 『十日間の不思議』は、戦後世代=「アメリカの息子」の物語だが、そのテーマは微妙にずらされている。テーマを担うのは、記憶喪失の青年ではなく、かえって探偵エラリーだ。またしても現われてくるのは、探偵のアイデンティティのドラマだ。初期のクイーンに潜在していた「探偵と犯人の争闘」は、かなり図式的に『十日間の不思議』を規定している。

 犯人と探偵の闘争には、二つのレベルが考えられる。一は、「父ー息子」の関係。二は、「作者ー操られる人物」の関係。一は、国名シリーズにおいては、ずっと安定していた。青年探偵エラリーは父親を必要としていたが、父親はクイーン警視という脇役人物の形で存在したからだ。

 二は、『Yの悲劇』の物語内でミステリを書く人物と、その筋書きに導かれる犯人という設定で現われてきた。両者の問題は、『十日間の不思議』のなかに合流した。探偵はそこで、操られる人物という側面を大きく露呈してくる。

 さかのぼって、『エジプト十字架の謎』に強調されたようなエラリー好み〈エラリアーナ〉の「芸術的な犯罪」を考えてみよう。名探偵が己れの天才的頭脳にふさわしい難解で華麗な事件を求めるのは当然だった。それは小説の華であるとともに、名探偵の勲章でもあった。探偵は最終的には勝利者であっても、連続殺人を許すという意味では、物語の途上において敗北しつづけている。最後の勝利のみが彼の名誉を守る。だがこうした犯罪から名探偵という要素を取り去ってみるとどうなるか。「芸術的な犯罪」は、凡人には解決できないから迷宮入りとなり、たんに無意味な事件に変容してしまう。事件と探偵とは一体なのだ。どちらが欠けても存在の意味は喪われる。だが探偵は事件の主役ではない。解決編という「一部分」に関わるのみだから、極論すれば、他のパーツでは客体にすぎない。

 探偵は事件に選ばれる。後期のクイーンはこうしたシチュエーションを多用することになるが、『十日間の不思議』はその始まりだった。エラリー好み〈エラリアーナ〉に犯罪をアレンジするのは犯人のほうだった(もちろん最初から事態はこうなのだが、作者が照明を当てなかったといえる)。探偵は犯人に操られたと感じる。また、その点について敗北宣言すら残している。「あなた(犯人)はこの僕を、僕自身以上によく知っていた」と。これはいっそう重苦しく閉じられた密室の心理劇だ。

 おまけに作者は、この犯人(操る者)に父親性をも付与している。息子は父への反抗に失敗する。これはミステリにおけるヒーロー失墜の最も痛切な形ではないだろうか。その答えは、クイーンにおいては、二度と回復されなかったように思える。

クロード・シャブロル『十日間の不思議』1971


2024-03-30

3-1 エラリー・クイーン『九尾の猫』

 エラリー・クイーン『九尾の猫』Cat of Many Tails 1949

Ellery Queenーーフレデリック・ダネイ(Frederic Dannay 1905-82)&マンフレッド・リー(Manfred Lee 1905-71)

村崎敏郎訳 早川書房HPB 1954.10
大庭忠男訳 ハヤカワミステリ文庫1978.7
越前敏弥訳 ハヤカワミステリ文庫2015.8

 『九尾の猫』はライツヴィル三部作につづき、作品テーマでもつながるが、舞台はニューヨークにもどっている。都市の、群集の人の物語だ。群集のなかに出没する連続絞殺魔。被害者を結びつけるパターンは見つけられない。無作為に、出鱈目に、犯人は犠牲者を選んでいるように映った。

 クイーンはこの作品で、作風を一転させるようにも、社会学的にテーマを押し拡げてみせた。それが術策であることは、後の部分になるほど明らかだ。九人の被害者から最終的に明らかにされる答えは、ある一つのリンクだ。思いもよらない事柄だが、そこに到ってクイーンのテーマの深刻さに打たれない者はいないだろう。かなりに視野を拡散させながらも、姿を現わすのは徹底的にクイーン好みの悲劇なのだった。


 その意味で『九尾の猫』に群集の発見という方向はない。都市の記号を読み取るという欲求は作者にはない。あえてそれに背を向けさせたのは、クイーンの偏奇的ともいえる、家族的悲劇へのこだわりだろう。大都会のなかで被害者が無関係に通り魔的に殺されていく事件の真相として、家族の絆という要素は突飛にも感じられる。それがクイーンの選択だった。

 『十日間の不思議』は「父親殺し」というテーマの挫折だったとも受け取れる。『九尾の猫』は同じものの反転だった。とまれ探偵エラリーの危機は、この作品では回避されている。いいかえれば「敗北する探偵」というテーマは不徹底のまま、未決の項目に棚上げされた。

 クイーンは間もなく、赤狩り時代への抗議をこめた寓話的ミステリ『ガラスの村』1954を発表する。


2024-03-29

3-1 パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』

パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』 My son, The Murderer 1954
Patrick Quentinーーリチャード・ウェッブ(Richard Wilson Webb 1901-70)&ヒュー・ウィーラー(Hugh Callingham Wheeler 1912-87) 1952年以降はウィーラー単独名義。大久保康雄訳 創元推理文庫 1961.9 1999.10


 クェンティンは夫婦探偵を主人公とするシリーズ(タイトルに「パズル」が冠される)で出発する。このシリーズは、ガードナーやライスやロックリッジ夫妻の作品とは雰囲気が異なる。夫婦の関係はそれほど盤石ではなく、不安定でやがては壊れていってしまう。作品世界が深化するにしたがって人物たちも成長する。成長が関係解消につながっていくところまでを作者は追いかけた。人間の結びつきの崩壊とは、別面では、新しい自分の発見でもある。クェンティンの持ち味は、崩壊とセットになった発見をドラマの基底に置くところにある。崩壊は作家のキャリアにあっては助走とも位置づけられる。

 アメリカの家族への信頼を訴えようとしたマガーの被害者捜しミステリは、一つの明快な方法だった。謎解きタイプの物語においては、人物の役割がトリックになりうる。


被害者を捜し、探偵を捜し、目撃者を捜すという変則の進行があぶり出してきたのは、家族の価値だった。後代の余裕をもってながめれば、テーマが初めにあって、それにふさわしい形式的工夫を捜し求めたということになろうか。崩壊という一面から家族を追求したクイーンの試みは、むしろ例外的だとみなせる。クェンティンにとっては、人物の役割は移ろうものだった。あえて被害者捜しを旗印にしなくても、彼の物語は、家族のなかの隠れた関係を解明するところに向かっていく。

 『女郎ぐも』1952(創元推理文庫)は、夫婦のシリーズ主人公の間柄が破綻するところから始まる。夫のほうが若い恋人を殺した犯人と疑われる。無実を晴らすための彼の捜査は、無邪気な恋人という仮面を演じていた女の意外な面に向き合うことになる。


 事件によって親しい人間の本質に直面させられるという展開方法はミステリではよくある型だ。それを作者は完成に近づけていく。『わが子は殺人者』では、タイトルが雄弁に語るとおり、殺人の容疑者にされた息子への父性愛テーマが浮上してくる。同時に、友人として尊敬してきた男への感情が揺らいでいく。基本的には、怪しくない人物が容疑者の役割を顕にするというパズル・ストーリーの法則で動いている。そこにプラス・アルファがあるのは、「わが子」や親友といった強力な要素をパズルのキーに用いて、補強材にしているからだ。

 つづく『二人の妻を持つ男』1955(創元推理文庫)も、同じパターンの話となる。現在の妻とかつての妻。ストーリーの進行とともに、やはり主人公は、前には気づきもし


なかった二人の本質を知っていく。最初にくるショック、つづいて覚醒を力につなげていこうと立ち直る勇気。それがクェンティンの小説にたんなるミステリを超えた感動要素をつけ加えている。

 





パトリック・クェンティン『癲狂院殺人事件』

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パトリック・クェンティン『呪われた週末』

https://nozaki66.xsrv.jp/2024/03/20/%e3%83%91%e3%83%88%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%bb%e3%82%af%e3%82%a7%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%b3%e3%80%8e%e7%99%b2%e7%8b%82%e9%99%a2%e6%ae%ba%e4%ba%ba%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8f/


2024-03-28

3-2 ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』

 ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』 Last Seen Wearing... 1952
Hillary Waugh(1920-2008)
山本恭子訳 創元推理文庫 1960.11
法村里絵訳 創元推理文庫 2014.11

 警察小説のスタートは、ローレンス・トリート『被害者のV』1945(早川書房 HPB)による、というのが定説だ。
 路線の軌道はすぐさま敷かれていったのではなく、五十年代初頭の、ウォー、ウィリアム・マッギヴァーン、ベン・ベンスンらの登場まで、少し間があいた。変容はゆっくりとジャンルのうちに現われ、第二次大戦後数年にして結実をみたと考えられる。
 警察小説の大ざっぱな定義は、次の二点。
 一、組織的機構を通して、犯罪捜査を描く。
 二、主人公はその機構に属する複数の人物にふりわけられる。
 ミステリに組織的捜査活動が不可欠であるという原理は、ヴァン・ダインによって呈示された。クイーンが強力にそれを受け継いだ。そこでは、警察はあくまで探偵の支配下にある従属機関にとどまる。

 ミステリのヒーローが単独者からチームに移行していく場面は、ガードナーのペリイ・メイスンものに顕著に見られた。また探偵役をコンビ、もしくはトリオとして民主的にふりわける選択も、フェアやライス作品などで常態のものとなる。孤立者の栄光は、チャンドラー派の矜持でもあったが、そこから外れる設定もハードボイルド領域の射程に入ってきた。

 パズル派にしろ、チャンドラー派にしろ、警察への侮蔑や敵視という点では、奇妙に一致していた。私立探偵には、間抜けな警察・不正の巣たる警察という組織体が、自分の引き立て役として必要だった。空想的なゲーム小説の空間であろうと、リアルな現実の描破を努めようと、警察の定位置は変わらなかった。ヴァン・ダインは科学捜査にたいする公平な評価をミステリに導入するルールをつくった。しかし小説内での組織捜査員にたいしては、脇役として位置づけるほか、あまり愛情は注がなくてもいいと主張した。

 ミステリへのチーム・ヒーローの登場は、アメリカ民主制勝利の賜物とも解釈できるが、じっさいはもう少し複雑な要因が組み合わされているだろう。マッギヴァーンの悪徳警官ものなどは、チャンドラー世界の副産物のようにも思われる。

 『失踪当時の服装は』も、警察機構の組織的捜査とグループ主人公という要素を備えていたが、むしろ読み所は謎解き興味にある。もう一つの特徴は、警察署を都会ではなく、地方の小さな都市に置いた点だ。十代の少女の失踪から始まる。彼女は消えたのか、殺されたのか、誘拐されたのか。警察小説という外枠は取りながらも、ハードボイルド派に連なる社会批判の要素は抑えられている。

 戦後のミステリと黄金時代を分ける特徴の一つは多様化だ。ウォーの世界には、単独のヒーローもいないし、都市の考現学もない。主眼である謎解きを担当するのは、組織に属する平凡な男たちだ。語り口はドキュメンタリズムに徹し、淡々と進んでいく。事件もどちらかといえば地味だ。こうした傾向の現われは、何より支持層の多様化を示している。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...