ラベル

2023-11-05

5-5 ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』

 ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』Carrion Comfort 1989
Dan Simmons(1948-)
柿沼瑛子訳 ハヤカワミステリ文庫 1994.11


 『殺戮のチェスゲーム』は分類としてはモダンホラーになる。マインド・ヴァンパイア・テーマの短編「死は快楽」が発展して大長編に肥大した。テーマは引き継がれているが、展開はアクション小説になり、アクションのはざまに作者の誠実なモラルが埋めこまれるという不思議な作品だ。

 マインド・ヴァンパイアとは血を吸うように精神を吸い尽くし相手を支配下に置いてしまう怪物の新種。吸血鬼の「進化」種だ。五〇年代なら脳に寄生する異星人という形をとった。最近では、脳を外から操作するマインド・コントローラーと呼ばれるだろう。ホラーのルールでいけば、マインド吸血鬼になる。「死は快楽」が収録された現代吸血鬼アンソロジー『血も心も』1989(新潮文庫)の作品の半


数以上は、マインド吸血鬼ものだった。

 「死は快楽」は、ナチスの生き残りのヴァンパイア同士が人間どもを操って戦わせる話だ。そこから長編が接ぎ木されていくと、派手なアクションが息もつかせず連続する。植物化した吸血鬼が昏睡状態下でマインド・コントロール能力のパワーを最大限に発揮する場面などは出色だ。何人かの善玉が出てくるが、暴力は外に現われる見せかけの力だという作品のテーゼによるのか、途中で退場していく。最後にヒーローの位置を託されるのは、肉体的にはほとんど無力なユダヤ人の老人だ。彼に強制収容所の生き残りという要素を与えることによって、作者は、殺戮のチェスゲームの戦いが究極の暴力否定によって浄化されるというアピールを作品にこめた。


 この小説で「わたし」は外から犯され、乗っ取られる。その様相のみをとれば、五〇年代SFの変奏であって、新しさはない。しかし「わたし」を防衛するために、作者がヒーローに選ばせた行動は、その古さをカバーしうるヴィジョンに貫かれていた。

 無力な老人が超能力の怪物に勝利するという結末は、ホラー小説としてもいささか紋切り型に感じられる。作者はあえて野暮な終幕を選んだのだろう。外から乗っ取られた「わたし」を奪い返すのは、「わたし」の内的な治癒力にほかならない。それがこの物語に示された全的な生還〈サヴァイヴァル〉の内実だ。

 シモンズは、ホラーのみならず、『ハイペリオン』1989などのSFでも知られる。短編集として『愛死』1993(角川文庫)がある。

2023-11-04

5-06 ネルソン・デミル『誓約』

 ネルソン・デミル『誓約』Word of Honor 1985
Nelson DeMille(1943-)
永井淳訳 文藝春秋1989.3 文春文庫1992.4 


 ヴェトナム戦争は第二次大戦以上に、アメリカ人の心に傷痕を残した。勝てなかった戦争、大義を喪った戦争。そして従軍兵士と復員兵士にあまりに少なくしか名誉をもたらさなかった戦争。

 死者五万八千余、戦闘中行方不明者(MIA)二千四百八十九名という数字は、この戦争でアメリカが被った被害をごく小さくしか表わしていない。おそらく第二次大戦以上に、ヴェトナム戦争は恰好の文学的素材だった。アメリカ軍は短期従軍システムを採用していたので、この戦争に直接かかわった延べ人口は膨大なものになる。従軍体験者の神経不安は社会現象化した。小説に描かれた戦争後遺症の症例は枚挙にいとまがない。ありふれたものになりすぎたとはいえ、それは、七〇年代以降のアメリカ小説が破損された個人像をあつかうにさいして、最も多用した状況だろう。ヴェトナム従軍という過去が与えられたとたんに、その人物は危険な、狂気をはらんだ存在となる。説明は不用だ。

 しかしヴェトナム体験の全体への考察となると、作家たちの勢いは鈍いものとなる。大きな体験に立ち向かい、大きな物語を紡ぎだそうとする努力は少なくしか試みられていない。個人に負わされた神経症を気軽に使いまわすことに比べたら、戦争の総体はあまりに巨大すぎたのだろうか。

 ティム・オブライエン『カチアートを追跡して』1978(新潮文庫)はすぐれた青春小説だが、それ以上のものとはいえない。作者の構想力は短期従軍者〈ショートタイマーズ〉の視点に限定されているようだ。


 『誓約』もまた、そうした限定つきの傑作といえる。軍事法廷という特殊な舞台を使ったリーガル・サスペンス。民間人虐殺にかかわった将校を主人公にすえた。作者は六七年から一年間、激戦期の従軍体験者だ。汚い戦争のダークサイドは後年になって繰り返し暴かれることになるが、その大きなトピックが無用の虐殺と上官への反抗だ。

 小説では、虐殺の現場にいた兵士たちが沈黙の誓いを立てる。二十年近く守られてきた誓約が崩れたのは、事件の真相を白日にさらした書物が出たからだ。有罪は免れない。だがだれが自分を裁くのか。だれに審判の資格があるのか。作者は、ソンミ事件に代表される残虐行為を、弁明や正当化ではなく、理解したかったといっている。有罪ならばその有罪性を認めなければならないと。

 『誓約』はデミルの出世作となった。以降スケールの大きいサスペンスを連発していくが、志は最もこの作品にこもっている。

2023-11-03

5-06 ピーター・ストラウブ『ココ』

 ピーター・ストラウブ『ココ』Koko 1988
Peter Straub(1943-2022)
山本光伸訳 角川ホラー文庫 1993

 『ココ』もまた、ショートタイマーズのヴェトナム体験と隠された民間人虐殺とから構成されている。形式はホラーだ。『誓約』は関係者が軍事法廷呼び出されることで進行していく。この小説の場合は、関係者が次つぎと殺されていく。容疑者ココは謎の存在だ。かつての仲間四人が二十年ぶりに再会してココを捜す。だが作者は単純な仕組みの犯人捜しの物語を用意しているわけではない。作者の意図は、捜される者が捜し、捜す者が捜されるという循環構造の恐怖に立ち合わせることだ。

 帰還兵たちの現在はおだやかなものではない。容易に二十年前の戦場の悪夢につながっていく。過去は過去ではなく、彼らは夢幻につづく戦場の奴隷のようだ。追跡者たちはココを捜し求めることが自分の中のココを捜す精神的な溯行であることに気づいていく。


 さらには、或る人物がココは自分の創作したフィクションの人物だと主張しはじめ、物語はいっそう捩れていく。帰還兵の終わらない苦悩こそホラーの養分だということだ。単純な恐怖小説を納める箱を小説内につくってポストモダンホラーの語り口を導入するのは作者の得意とするところ。迷路を幾重にもはりめぐらせて、ヴェトナム後遺症小説の限定を突き破りたかったのだろう。

 ストラウブはホラー・ファンタジー系の書き手。『ゴースト・ストーリー』1994、『ミスターX』1999などの作品がある。ミステリ寄りのテーマに近づいたのは本編だけだ。

2023-11-02

5-07 サラ・パレツキー『サマータイム・ブルース』

 サラ・パレツキー『サマータイム・ブルース』Indemnity Only 1982
Sara Paretsky(1947-)
山本やよい訳 ハヤカワミステリ文庫 1985.6

 一九八二年はある種の感慨をもって回顧されるだろう。この年、パレツキーとグラフトンが女性私立探偵ものでデビューした。

 女タフガイの登場。彼女らの系譜は一本しかない。彼女たちは新しいチャンドラー派だ。タフガイにフェミニズムの衣装をまとわせる。

 リイ・ブラケット『非情の裁き』1944(扶桑社文庫)で登場したときのエピソードを思い出してもいい。そのチャンドラー・タッチの鮮烈さは、当時チャンドラーの『大いなる眠り』の映画化を進めていたハワード・ホークスを驚かせた。ブラケットを脚本家として招いたホークスは、じっさいに会うまで作者が女性だとは知らなかったという話。

 先駆者はもう一人いる。ドロシー・ユーナックが女刑事シリーズを書いたのは、六〇年代後半だ。『おとり』『目撃』『情婦』(以上、早川書房 ハヤカワ・ミステリ)。ユーナックは後にもっといい作品を書いているが、女刑事シリーズには、基本的な女性ミステリの原型がある。――ヒロインは自分の日常生活を前面に出し、女の自立を励ます。そして仕事で有能さを示し、それを周囲に認めさせたい、といつも突っ張っている。当然ながら彼女は男性優位社会の壁に衝突する。衝突から生まれる数かずの出来事も物語の欠かせない構成要素だ。

 ユーナックとパレツキー、グラフトンの作品には濃密な共通項がある。野心的な女性作家がハードボイルド形式を自分流に書き換えてみたとき、底にある情感は同じだった。

 私見によれば、ハードボイルドとはセクシズムの砦だった。スピレーンのように露骨に表明しても、チャンドラー・スタイルで気取ってみても本質は同じだ。変わりようがない。ミステリの女王は大勢いたし、頭脳明晰な女性名探偵も大勢いたが、仕上げの大変動は八〇年代に起こった。白人種馬男の最後の砦が陥落したことに一抹の感傷を! カルチャー・ショックはアメリカから発信されてきた。

 あるいは、次のような考えも成り立つ――。孤立を怖れず、見てくれを重んじ、身のまわりの情景をじっくりと観察し、失意を他人事のように受け止めるといった「タフガイらしさ」とは、あんがい女性的な現実処理なのかもしれない。


 『サマータイム・ブルース』はプロットもほぼ定石通り進んでいく。事務所を訪ねてくる依頼人は、有力銀行の経営者というふれこみ。大学生の息子のガールフレンドを捜してほしいと頼む。関係者が死体となり、思わぬところから介入が入り、「事件から手を引け」と脅される。入口はごくありふれた探偵仕事で、その奥に眠っている物語の本体が引き出されてくる仕掛け。その点は安楽にページをめくれる規格品といえよう。

 パレツキーの探偵はシカゴを本拠とする。イタリア系とポーランド系の混血。最初は金融犯罪を専門にすると謳っていた。広く依頼人から事件を持ちこまれるというより、親戚や仲間内のトラブルを解決していく。女同士のネットワークを育てていこうという強固な意志がある。

 初期の何作かは主張もストレートで声高だ。作者は、女性のものに奪い返した読み物に自らの信念を注入することは当然の権利とみなしただろう。日常を丹念に描くことも、生活信条を並べていくことも同じだからだ。

2023-11-01

5-07 スー・グラフトン『探偵のG』

 スー・グラフトン『探偵のG』 ‘G’ is for Gumshoe 1990
Sue Grafton(1940-)
嵯峨静江訳 ハヤカワミステリ文庫 1991.6

 グラフトンの探偵はカリフォルニアを本拠にする。比較されるのは仕方がないにしても、彼女の作品に、それほど痛烈なメッセージをみつけることは難しい。探偵は孤独で仕事一筋の性格を強調される。だが作品の基調は、柔らかく暖かいものだ。探偵は、主観を廃した報告者を装っているが、与える印象は異なっている。

 これは作者がどちらかといえばロス・マクドナルド型に倣おうとしていたからだ。探偵が彼にしか見えない透視力で再構成する人間悲劇。グラフトンのシリーズの初期は、暗く閉じられた家族悲劇を好んで取り上げていた。探偵は触媒であり、前面に出ないほうがいい。彼女はすべてを報告書スタイルで通そうとする。「わたしの名前はキンジー・ミルホーン。事件の報告はいつもと同じように始める」と。

 ただチャンドラー・スタイルは模倣がきいても、ロスマク・スタイルはほとんど継承不可能だ。語り手としての探偵、過去から呼びかける物語を、正確に受け継いだ者はいない。この点、グラフトンはハンデ戦から始めて迂回路を取ったともいえる。


 彼女の物語は彼女の日常をこまかに報告するところから始まる。『探偵のG』では、彼女の誕生日に起こった三つのことが、まず列挙される。アパートの新居に引っ越した。依頼人の母親をモハーヴェ砂漠から連れ戻す仕事を引き受けた。キンジーに怨みを持つ男の殺害予定者リストのトップに立った。仕事に加えて身を守る必要が生じたヒロインはタフな探偵をボデイガードに傭うことになる。筋立てでわかるように、男権要素にたいして作者はずっと柔軟な姿勢を取っている。陰鬱な家族関係にドラマを閉じる方向ではなく、作者は、曲折あるストーリーにヒロインを放りこんでいくことを選ぶ。

 グラフトンのシリーズは、アルファベットの文字を頭にしたタイトルで着実に書き継がれている。現在はQのあたり。


2023-10-31

5-07 パトリシア・コーンウェル『検屍官』

 パトリシア・コーンウェル『検屍官』 Postmortem 1990
Patricia Cornwell(1956-)
相原真理子訳 講談社文庫 1992.1

 女性アマチュア探偵登場の、次は、何か。


 コーンウェルのヒロインが登場した。州検屍局の責任ある役職を持った女性。私立探偵には望めなかった専門的な位置にいる。『検屍官』の翻訳が出たのが九二年。日本でも女性ミステリの勢いにいっそう火がついた時点だ。

 警察小説が私立探偵小説にとって替わる、という時代の流れが女性ハードボイルドにも起こったということだ。ヒロインたちが三十代から四十歳をむかえるあたりにいることが共通している。コーンウェルの小説の初期には平均的なミステリ読者を戸惑わせるような素人っぽさがあったが、グラフトンが語る事件のような細部のアマチュア性はなかった。捜査側のディテールに関しては手堅く固められていた。どちらが上ということではないが、ミニマムな細部重視もまた時代の要請だったかもしれない。


 女性検屍官シリーズは毎回、最新捜査技術、機器の紹介に熱心だ。捜査当局のPRめいたところすらある。ミステリの型としては、勧善懲悪タイプのサイコ・キラー警察小説になる。キラーは適度に印象的な悪役というレベルにとどまっている。

 なお女探偵たちのリストをつづけることはいくらでも可能だ。きりがないから代表選手だけでやめておこう。ここにあげた三人の作家は長くシリーズを書きつづけている。シリーズ作の色調が変容するのは、いずれにしても避けられない。ヒロインのまわりの人物たちがそれぞれの役割で作品を豊かにしていくだろう。男性ハードボイルドが常連チームのファミリー・ストーリーの体裁を帯びていくのと同じだ。彼女たちも初期には思いもよらなかった自分自身の物語に立ち合っているようだ。そこからまた新しい試行錯誤が生まれてくるかもしれない。

2023-10-30

5-08 ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』

 ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』City of Glass 1985
Paul Auster(1947-)
山本楡実子、郷原宏訳 角川文庫 1989.4


 タフガイ神話の相対化という趨勢はフェミニズム方面からのみ襲ってきたのではない。その点は公平に見渡しておくべきだ。ポストモダンの波である。

 タフガイの脱構築。壊してつくり直す。そのとき、タフガイは依然としてタフガイなのか? もちろん、女タフガイもまた一種の脱構築だとする議論も成り立つだろう。

 間違い電話を入口にした迷路の物語。『シティ・オブ・グラス』は、後につづく『幽霊たち』1986(新潮文庫)、『鍵のかかった部屋』1986(白水社)と一括され、ニューヨーク三部作と称される。最もハードボイルドの痕跡を残しているのが第一作だ。

 目端の利くポストモダニストの例にもれず、オースターは商売上手な書き手だ。メインストリーム小説に向かってはこれはミステリではないと主張し、ミステリに向かっては、これはメタフィクショナルなミステリだというポーズをとってみせる。この作品は十七の出版社にボツにされたというアベレージを誇っている。通常の私立探偵小説に書き換えろという誘惑に作者が屈していたら、このアベレージはもっとささやかなものにとどまっていたはずだ。しかし後の名声もまたささやかだったろう。


 間違い電話。謎かけのような依頼。分身のペンネームでミステリを書く男。フィクションこそ現実だと信じていた男が現実の事件の捜査に踏みこんでいくと――現実はフィクション以上につくりものめいていた。

 ハードボイルドの行動主義が形而上的な問いかけでもあったという点は、つとに指摘されてきた。行動をあからさまに「哲学」に置き換えてしまった作品は初めてだろう。タフガイとは都市に捧げられた供物だ。英雄神話が輝きすぎて、彼が都市小説を書くための便利な「人形」であるという本質は忘れられている。都市ハードボイルドのヒーローは雑踏の中で目立ちすぎる不幸な単独者の影だ。彼の物語が真に必要とされているのではない。都市の物語が要請されているのだ。

 彼は「群集の人」に到る手段だ。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...