ラベル

2023-12-28

3-4 ジム・トンプスン『内なる殺人者』

 ジム・トンプスン『内なる殺人者』 The Killer Inside Me 1952
Jim Thompson(1906-77)
村田勝彦訳 河出文庫 1990.11、2001.2
『おれの中の殺し屋』三川基好訳 扶桑社ミステリー文庫 2005.5

 トムプスンの場合も、伝説成立の事情は似通っている。こちらは作品紹介の内実が伴っている点が違う。十年ほど昔の邦訳点数はグーディスと変わりなかったが、最近、五点が追加されるほどの、再評価の勢いだ。フランスでの評判の後を追ったアメリカ本国での復活がきっかけとなった。それでも伝説が色褪せないところがこの作家の個性か。

 『現金に身体を張れ』1956でトンプスンのシナリオ協力をあおいだスタンリー・キューブリックなどは、彼のことを真正のバッドガイだと言っている。酒乱と粗野なふるまいは、創作世界のことだけではなかったのだろう。

 『内なる殺人者』は悪徳警官ものの早い時期の作品だが、そこに分類されることは少ない。この主人公は、悪事そのものによってよりも、悪事をなす内面の痛烈さで輝く。サイコ・ミステリの先駆け的な傾向が、同時代に並んでいる。マーガレット・ミラー、ヘレン・マクロイ、パトリシア・ハイスミス、ジョン・フランクリン・バーディン……。とりわけトンプスンの特別な位置は、まるごとサイコ野郎の話だという点だ。

 若い保安官補、見かけのナイスガイぶりを、間延びした愚鈍な南部なまりで隠しているが、そのもっと奥にはとんでもなく悪辣なサディストが潜んでいる。

 これはまさに二十世紀なかばのアメリカ語で書かれた『地下生活者の手記』だ。だがこの男は知性のかけらも持たず、内省などとは無縁だ。他人を痛めつけることにためらいはみせない。彼のモノローグは、ヒーローの一人称でありながら、他のミステリのヒロイズムとは通じない。タフガイはタフガイのごとく語れというチャンドラー的戒律は、スピレーンによってすら守られていた。トンプスンにとっては、タフガイの本質は変質者だ。しかも彼はそのことを隠さない。彼の語る物語はサイコ野郎の自慢話でさえある。

 彼が娼婦をぶちのめし、自らのキラーに目覚める場面は、最高に俗悪で、怖ろしい。現代の書き手のような丹念な残虐描写はむろん見られない。省略も多く、一定の検閲がはたらいてはいる。だが、ぶっきらぼうに積み重ねられる即物的な行動(殴る、蹴るなど)の平板さが、かえって息苦しさをもたらせる。特別の興奮もなく暴力を行使する男の内面〈インサイド〉は戦慄的だ。

 その上、話者は、キラーは、殺人の一件を早く報告したくてたまらないのだ。

 犯罪者(とくに殺人者)の自己顕示欲は常人の理解を超えている、とよくいわれる。彼らが、自分の行為を悔いたり反省したりすることは遂にない。彼らは、他人がその行為の「崇高さ」を知るべきだと独り決めする。誇らずにおれないのだ。

 行為そのものを語ろうと彼は焦る。《――心配するな、そのこと〈四字傍点〉もちゃんと話す。話したいんだ。起こったとおりのことをちゃんと》。これは、体裁通り読者に向かってのものではない。作者の「内なる殺人者」に向けての、文字通りの独白だ。

 しっかり眼をあけて「俺の」行為を明瞭に理解しろ。と、俺のなかに響く声。作者が奏でる深遠なエコーが、読む者にも乗り移ってくる。

 『内なる殺人者』『死の接吻』を隔てるものは、このエコーの有無だ。三人の令嬢を狙った殺人者は、たんに計画性のない道徳的失格者に映る。彼の犯罪は現実の延長にあるので、彼への嫌悪をもまた常識的なレベルにとどまる。トンプスンの主人公は、良識の彼方にいる。

2023-12-27

3-4 ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』

 ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』 The End of the Night 1960
John Dann MacDonald(1916-86)
吉田誠一訳 創元推理文庫 1963.10

 『夜の終り』は、ビート世代のジャンキー・グループが犯した強盗殺人を描いたノンフィクション風の犯罪小説。作者はたんにドキュルンタルなタッチを採用するのでなく、時制を組み替えたモンタージュを駆使している。弁護人の覚え書き、被害者に焦点を当てた客観記述、死刑を宣告された犯人の手記など。

 最初に置かれるのは、四人の犯人の絞首刑を執行した役人の自慢話だ。「大仕事だったぜ」。

 死刑から始まるこの物語は、彼らの犯行の本体を巧みに先送りにする。この卓抜な語り口に作者の力量はいかんなく発揮されている。トルーマン・カポーティ『冷血』1966(新潮文庫)の先駆ともいえるし、マンソン・ファミリーによる猟奇殺人を予見したともいえよう。

 マクドナルドはもう少し後に、『濃紺のさよなら』1963(早川書房HPB)に始まる、揉め事解決屋トラヴィス・マッギーのシリーズで人気を博する。他に、『呪われた者たち』1952(早川書房HPB)、『生き残った一人』1967(早川書房)、『コンドミニアム』1977(角川書店)、『ディベロッパー』1986(集英社)などのシリアス・タイプの作品がある。また初期に多作した短編のセレクションも見逃せない。

2023-12-26

3-5 ジャック・フィニイ『盗まれた街』

 ジャック・フィニイ『盗まれた街』The Body Snatchers 1955
Jack Finney(1911-95)
福島正美訳 早川書房1957.12、ハヤカワSF文庫1979.3、2007.9


 サイコ・ミステリの発祥は、「自分の中の自分でない自分」の発見を意味していた。トンプスン的な内なる本質の凝視とは異なり、自分ではコントロールできない自分を見つけることだ。それは、一方では、旧来からあるドッペルベンガーの方向に向かう。その点は、ひとまず置いて、外から来るコントローラーがいかに造型されたかを考察しよう。

 外から人格もしくは精神を操り動かされるという恐怖。これは冷戦によって生じた特有のイメージでもある。

 『盗まれた街』の原タイトルは「ボディ・スナッチャー」。侵略SFの古典として長い生命を持つ。

 五〇年代に、英米SFは、ミステリとは少し時期をずらせて、黄金期をむかえていた。二つの領域に共通したキーポイントは社会化だ。ミステリに警察小説が根づいていくことにみられた社会意識の拡大は、SFの小説世界にも同様に起こっていた。その最も明確な現われが、異星人の侵略を手を変え品を変えて題材とする侵略ものの流行だった。


 エドガー・パングボーン『オブザーバーの鏡』1954、ポール・アンダーソン『脳波』1954、フレドリック・ブラウン『火星人ゴーホーム』1955など。

 大戦前とは別の意味で、世界は二分された。対抗する共産主義国家は異星人〈エイリアン〉にたとえられる。ファシストとの闘いよりも、苛酷なイメージが大衆化していた。これは敵側の強大さよりもむしろ、アメリカが対共産主義の第一線に立たされた状況を反映するだろう。同盟国はあっても、アメリカは冷戦の最前線に踊り出ていた。SFの設定で、前線が国内に求められるのも当然のことだった。国内のふつうのアメリカ人の脳を襲う侵略。



 『盗まれた街』の異種生命体は、巨大な豆のサヤの形態を持っている。それは大気のなかに産み落とされ、人間の肉体を模倣して成長を遂げていく。「奴らは水分を吸収して人間の形になる」。人間の肉体の多くの割合は水分から成っているからだ。

 肉体をコピーして、人間に成り代わる。コピーされた人間もどきが一つの地域を乗っ取る。一つの地域が済めば、別の地域へ。このようにして異星人の侵略がじょじょに拡がっていく。こうした被侵略のイメージは、数多くの小説や映画で反復されてきたので、ごく親しい風景のように刷りこまれている。操られた人間もどきとは、最もポピュラーなエイリアンの姿ではないだろうか。


2023-12-25

3-5 ロバート・ハインライン『人形つかい』

 ロバート・ハインライン『人形つかい』The Puppet Masters 1951
Robert Anson Heinlein(1907-88)
石川信夫訳 元々社1956.4 
福島正実訳 早川書房世界SF全集1971.1、ハヤカワSF文庫1976.12 2005.12

 侵略テーマのもう一つの傑作『人形つかい』は、いっそうの憎悪と恐怖をこめて、侵略者を造型している。異星人は灰色がかった半透明の生命体。形はナメクジそっくりだ。知性は? こんな生物に知性があるのだろうか。作者は再三、強調する。こんな生き物には知性があってはならない、と。

 そいつらは寄生虫なのだ。人間の背中に貼り着いて人間をコントロールする。人形つかい〈パペット・マスター〉だ。貼り着かれた人間は「人形」になる。魂も自分の意志も持たない人形、これもまた人間もどきの発展イメージだろう。ハインラインは侵略者と乗っ取られた者の姿をとりわけ醜悪に描くことによって、侵略テーマのイデオロギー的責務を明らかにしたといえる。


 彼の反共十字軍的体質はスピレーン以上に強固なものだった。侵略者はより醜怪に、侵略者と闘うヒーローはよりヒロイックに。冷戦小説とは、ハインラインにとって、愛国者の自衛戦争を描く一大スペース・オペラでもあった。「二〇〇七年」、任務を持った秘密捜査官が地球を救うために立ち上がる。彼らの闘いは「自衛する民主主義」というアメリカの伝統にきっちり連なっている。冷戦期を彩るスペース・カーボーイの物語には、一片の矛盾もみられない。敵をロシア人とか、共産主義者とか特定するよりも、寄生虫のイメージで通すほうが、カーボーイの愛国心を鼓舞するのに都合が良かった。

2023-12-24

3-5 リチャード・コンドン『影なき狙撃者』

 リチャード・コンドン『影なき狙撃者』The Manchurian Candidate 1959
Richard Condon(1915-96)
佐和誠訳 ハヤカワミステリ文庫 2002.12

 コピーによる人間乗っ取り、寄生による脳の操り。それが代表的な侵略SFの危機イメージだった。共通するのは、外からの侵入という因子だ。現実的な危機として取りざたされたのは、もう少し直接的な事象だった。洗脳、ブレイン・ウォッシングだ。外部からの攻撃を受けるという点では同じだが、これは想像の出来事ではなかった。

 アメリカは革命中国を喪った。連続した朝鮮戦争は、新生中国を倒すための代理戦争の意味をも持たされた。朝鮮戦争が政治レベルの休戦交渉の段階に入った五一年、中国・北朝鮮側は、アメリカによって細菌兵器が使用されたと抗議した。さまざまの物証が呈示されたが、この件において、定説となるような確定事項はない。論者の立場によって、使ったとも使ってないとも主張される。朝鮮戦争史をあつかうあらゆる言説がそうであるように、水掛け論が

ここでも展開された。中国側は、捕虜にしたアメリカ兵士に罪状を告白させた。証言した兵士は祖国にもどってから証言には圧力があったことを明らかにする(当然これにたいしてアメリカ政府の圧力があったとするコメントも発生した)。ここで洗脳という言葉がにわかに脚光を浴びたのだった。

 用例の一つ――。洗脳されたアメリカ兵が「自分は細菌爆弾投下に従事した」と告白した。

 これは共産主義の非人道性を攻撃する論拠になることが多い。シベリアに抑留された旧日本軍兵士が数年して故国に帰されたさいにも、同じ用語が使われた。洗脳とは、当初、共産主義思想を注入して個人の「思想改造」を試みることを指した。ナメクジ状生命体の寄生による脳コントロールというハインラインのイメージは、洗脳「される側」のおぞましさをよく表わしている。後に『人形つかい』は映画化されて、『ブレイン・スナッチャー』と改題された。脳に取り憑くのだから、こちらの語感のほうが近いだろう。

 『影なき狙撃者』は、洗脳の諸影響をあつかった作品として(事実がどれほど取りこまれたかはさておいて)異色だ。ポリティカル・サスペンスとしてもかなり先駆的だろう。

 戦争で捕虜となった兵士が複雑なメカニズムの洗脳を施されてアメリカにもどってくる。スパイ小説におなじみのスリーパー・エージェントに近い存在。彼の脳にセットされた謀略を軸にストーリーは転がっていく。脳に施されたのは、正確には、後催眠だ。組みこまれた暗号がある配列を取ると、一定の指令として伝わる。しかし、あえて作者は、洗脳も催眠術も意識的に混同させて使っているように思える。

 それだけなら怪しげな謀略小説に終わったところだ。『影なき狙撃者』の効用は、マッカーシーイズムについて、大胆な解釈を試みたところにある。赤狩りはしばしばジョゼフ・マッカーシー議員の個性に引きつけて語られすぎている。小説は、彼をモデルにした人物を登場させて、そこに二点のフィクションを加えた。一は、彼を大統領候補に仕立てたこと。二は、候補の妻(名前はエリノア。F・D・ルーズヴェルトのファースト・レディと同じだ)に隠れたコントローラーの役割を振ったこと。彼女はアメリカのビッグ・ママだ。彼は妻の意のままに操られていた、というわけだ。

 マッカーシー的人物のほうが「操られた人形」だったとする解釈はスリリングだ。マッカーシー議員が用いたデマゴギーの低俗さや彼の個人的な性向の破廉恥さは名高いものだった。現実の上院議員は悪名を残した道化役だが、小説中の大統領候補は道化そのものだ。

 候補が暗殺のターゲットだと明らかになることによって、小説は別の深みを与えられた。兵士も候補も、ともにビッグ・ママの支配下にあることは疑いない。もしかすると、兵士が敵の洗脳にあっさりしてやられたのは、マザコンという決定的な弱みをかかえていたからではないか。いや、本当にそうだ。ところが標的になった候補はもともと妻に操られるだけの実体のない人物だった。

 兵士は(もし仮に)洗脳から自由になったとしても、信心深いアメリカン・マザーからは自由になれないだろう。こうした確信をもたらせるところなど、『影なき狙撃者』という小説は、妙に「予言」にみちている。現職アメリカ大統領と彼のママ(二代前のファースト・レディだ)との結びつきの強さを連想させる。

2023-12-23

3-6 ハリー・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」

 ハリー・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」The Nine Mile Walk 1947.4
Harry Kemelman(1908-96)
『九マイルは遠すぎる』永井淳、深町眞理子訳 早川書房HPB1971.9 ハヤカワミステリ文庫1976.7

 短編ミステリの書き手は、比較的、時代の変化をこうむらずに地歩を残している。ここで立ち止まって、彼らのリストを少しまとめておこう。


 短編ミステリこそミステリの真髄であると感じさせる作家は少なくない。ケメルマンもその一人だ。ニッキイ・ウェルト教授を探偵役とする安楽椅子探偵シリーズのスタートは戦後すぐのことだった。純粋論理を駆使することによって、机上の解決を読ませる。八編をまとめて同名の短編集が刊行されるまで、二十年を要している。

 一冊になった本の序文で、作者は、創作法の一端を明かした。ウェルトものが教室で生まれたと言っている。キーになったのは新聞の見出しだった。「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」という文章。これをもとに短編を書くのに十四年かかったと。まことに「遠すぎる九マイル」の道のりだったというべきか。


 作者はこれを作文の授業の風景だったと書いているが、創作クラスの秘密を語っているような雰囲気もある。探偵が語る論理の筋道と、作者が表明する創作への長い道程は、当然のことながら、軌を一にしている。推理するごとく書かねばならない、というのが作者の信条なのだろう。

2023-12-22

3-6 ジェイムズ・ヤッフェ「ママは何でも知っている」

 ジェイムズ・ヤッフェ「ママは何でも知っている」Mom Knows Best 1952 (Mom, The Detective 1968)
James Yaffe(1927-2017)
小尾扶佐訳 早川書房HPB1977.3 ハヤカワミステリ文庫2015.6


 ヤッフェは、十五歳のとき初めて書いた短編が、クイーンの編集するEQMMに当選する、という経歴の持ち主。同じ「クイーンの定員」出身者のケメルマンより二十歳若いが、デビューは先だ。一種の神童だったといえよう。

 ブロンクスのママ・シリーズを書き始めたのも、二十代の前半。こちらも安楽椅子探偵の短編シリーズだ。八編の短編集は日本語版のほうが先に発刊された。

 毎週金曜日に、刑事の息子が妻同伴で食事に来て、事件の話を語る。五十年配の未亡人ママが推理の解決編を与えるというパターンの短編だ。息子は妻の前で子供あつかいされて居心地悪くなり、インテリ妻はママに対抗しようとして逆にやりこめられる。場面はすべて食卓で進行する。


 安楽椅子というより食卓探偵の雰囲気だ。手作り料理の暖かさが推理の背後に流れ、コージー派の味わいも備えている。

 二十年のインターバルをあけて、同じ主人公で長編が書き継がれ、四冊を数えている。

 もう一人のEQMMの入選組は、ロバート・L・フィッシュ。第一作「アスコット・タイ事件」1960から、ホームズもののパロディを始めた。十二編が『シュロック・ホームズの冒険』1966として刊行された。計三十二編あり、三冊の短編集にまとめられている。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...