ラベル

2023-10-28

5-09 ジェイムズ・エルロイ『ブラック・ダリア』

 ジェイムズ・エルロイ『ブラック・ダリア』Black Dahlia 1987
James Ellroy(1948-)
吉野美恵子訳 文藝春秋1990.1 文春文庫1994.3

 タフガイ小説は消滅の道をたどるばかりだったのか。そんなことはない。本流が絶えなかった点は確認しておくべきだ。エルロイをその本流の牽引者とみなしても、どこからも反論はないはずだ。ただそれも、私立探偵というタイプではなく、組織の中で孤立する「はぐれ刑事」を描くことによって守られた。孤立の様相は共通しても彼はあくまで警官なのだった。

 エルロイをあつかうと他のテーマも付随して流れこんでこざるをえない。レイシズムとセクシズム、そして政治的不公正による過去の歴史の「修正」。一口にいえば白人種馬男による三位一体の逆襲だ。強いアメリカ復活の一方に、ヴェトナム神経症の蔓延、サイコ・キラーの跳梁跋扈、女タフガイへの支持などがあった。彼の存在基盤はそれなりに了解がつく。そのイデオロギー十字軍の使命感は、スピレーンなどよりはるかに強固で骨がらみのものだ。そこに立ち止まるとかなり厄介なので、いったんは保留にしよう。

 エルロイの原風景は第二作『秘密捜査』1982に明らかだ。ブラック・ダリア事件。一九四七年、ハリウッド、未解決の娼婦殺人。被害者は全裸で胴体を両断され、内臓を抜かれた。犯人は見つかっていない。残虐な死体写真は、むしろマネキン人形を思わせる無機質を伝えてくる。

 母を喪い、孤児としてホームレスになった作者の原体験が、ブラック・ダリア事件とその時代背景への執拗なこだわりとして、エルロイ作品に刻印されてくる。


 『ブラック・ダリア』は、ブラック・ダリア事件を正面にすえた警察小説だ。未解決の事件は小説のなかで解決をみる。事件の真相に達した刑事は、タブーに触れたことによって、組織を追われる。

 エルロイが示したものはイデオロギーであるよりも、司法組織に身を置く白人の圧倒的な情念だ。彼は法の番人ではない。正義の側にいるという正当性はとうに彼から剥奪されている。彼は自分の主人であろうとするだけだ。エルロイの読者は、それこそがタフガイの真正な現状であることを知る。感動するか反吐を吐きたくなるか、反応は分かれる。暗黒〈ノワール〉は彼の泳ぎ出してきた源流であり、行き着く沸騰点だ。多くのアメリカ作家が燃え尽きていった彼方と別物であるわけがない。

 エルロイは以降、犯罪小説の形をとったロサンジェルス年代記に移る。歴史「修正」の嗜好はますます露骨さを増していった。

2023-10-27

5-09 ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』

 ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』Eight Million Ways to Die 1982
Lawrence Block(1938-)
田口俊樹訳 早川書房HPB 1984.4 ハヤカワミステリ文庫1988.10


 他にも私立探偵の新たな名簿を書き連ねることはできる。ジェイムズ・リー・バークトマス・クックグリーンリーフもまだ記憶に残すべき作品を産出していた。

 ブロックが創りだした探偵マット・スカダーは元警官で、ライセンスを持たない探偵。アル中だ。ニューヨークの安ホテルに住み、起きている時間のほとんどを酒場で過ごす。そこが事務所がわりだ。頼み事を引き受けたコールガールが惨殺され、彼はまた酒に溺れていく。飲みすぎるタフガイはいやほど描かれてきたが、これほど破滅的に飲む男はいなかった。酒と折り合いつけることができない。作者のアルコール依存症を強く投影していたらしい探偵の病状は『八百万の死にざま』で頂点に達する。


 彼は燃え尽きるエッジに立たされる。このまま飲みつづけて死ぬか、酒を断って別の人生を拾うか。出口なし。未来はどこにも見い出せなかった。

 彼の日常は、事件の進行とは切り離されて、酒との闘いに消耗していく。AA(アルコール中毒者自主治療協会)への参加と、泥のような禁酒の日々。その疲労と更正への道のりは、『聖なる酒場〈ジンミル〉の挽歌』1986、『慈悲深い死』1989(ともに、二見文庫)に持ち越されていく。

 期せずして、スカダー探偵の記録は、白人種馬男〈ホワイト・マッチョ〉の考古学〈アルケオロジー〉についての雄弁な報告書となっている。


 本流タフガイの失墜、サイコ・キラーと女タフガイの登場。ミステリの局地でほぼ同時に起こった事柄は、正確にアメリカ社会の病弊を映し出している。

2023-10-26

5-9 アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』

 アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』Strega 1987
Andrew Vachss(1942-)
佐々田雅子訳 早川書房1988.8 ハヤカワミステリ文庫1995.1


 エルロイと拮抗する強度を備えた作品は、ヴァクスによるバークとその仲間たちのシリーズのみだろう。

 バークには明確な敵がいる。子供をセックスの対象にする変態性欲者だ。基調は癒し。ある部分では、彼の物語は、小児性愛者告発の小説版だ。サイコ・キラーものに近づくことはなく、悪を征伐する話で一貫する。

 明快な勧善懲悪の物語として、トラヴィス・マッギーのシリーズとも響き合う。しかしバークの陰影ははるかに暗い。私立探偵でも揉め事処理屋でもない。暗い過去を秘め、来歴を隠したアウトロウだ。

 女たちは救いを求めて外からやってくる。シリーズは一作ずつヒロインに捧げられた賛歌でもある。しかし女たちは物語が終わるとふたたび外へ去って行く。バークと内面を共にすることはない。できない。変態性欲者の処刑人バークは自分の性欲は正常に健康に保っておく必要がある。女たちは便宜的な存在に押しやられる。

 シリーズの中心にはまたバークの助っ人たちがいる。刑務所で知り合ったアウトロウ仲間。拳法の達人、メカの専門家、犯罪の教授、地下銀行の主。特徴的なのは、みな何らかの障害・欠損をかかえた異能者だという点だ。モンゴル系、ヴェトナム系と、人種的にも雑多な構成だ。

 『赤毛のストレーガ』では、事件は依頼人から持ちこまれる。チャイルド・ポルノの写真を取り返してくれというものだ。結末こそ、ヒーローとその仲間たちが極悪人一味を襲撃して裁きをつけるという単線だが、ヒロインの正体は謎を残している。

 最後に彼が行き着くのは、彼が女を理解できなかったし喪わなければならないという苦い覚醒だ。彼らのあいだには結局、性の快楽がそれのみが荒涼として在ったにすぎなかった。


 癒しの物語としてヴァクスの世界は、ほとんど『赤毛のストレーガ』に尽きている。原型はすべてここに出揃っている。『ブルー・ベル』1988、『ハード・キャンディ』1989、『ブロッサム』1990、『サクリファイス』1991とつづく。新たなヒロイン、新たな敵役を得て、さらにストーリーは爆発していく。

 おのおの輝いているにしろ、一度語られた物語の精緻な注釈に読めてしまう。

 バークの終わりのない闘いがつづけばつづくほど、性の荒野の空疎は耐えがたいものとなる。彼もある種のパラノイアになって燃え尽きる未来しか持たないようだ。

 ヴァクスが八〇年代の物語につけ加えた貢献の大きさは疑いない。たんにエルロイの偏向のバランスを正すことにはとどまらない。しかし彼の未来に明るさを見つけるのは困難なのだ。白人マッチョの現状はこのように、極端な振幅を示しながらも、全体としては暗澹な色調におおわれている。

2023-10-25

5-10 スコット・トゥロー『推定無罪』

 スコット・トゥロー『推定無罪』Presumed Innocent 1987
Scott Turow(1949-)
上田公子訳 文藝春秋1988.10 文春文庫1991.2

 女探偵、サイコ・キラー、警官タフガイにつづくアメリカン・ヒーローの真打ちは弁護士だった、といえるかもしれない。黄金時代のペリイ・メイスンの後継者だ。メイスンにとって法廷はスポーツ競技場だった。観客を楽しませるプレーヤーのみが勝ち残ることができる。アメリカの弁護士人口はジョークの種になるほど多い。その点からすれば、弁護士ミステリの流行はむしろ遅きに失したといえる。

 トゥローは一人のヒーローを際立たせるよりも、法廷そのものを主人公として押し出す方法をとった。法曹界は一つの家だ。家に属する者は、だれであれファミリーの一員だ。とてつもなく大きく肥大した「家」には、善人もいれば悪人もいる。事件はその中で起こり、その内部で解決される。家は閉ざされたサークルではない。法廷は社会の全体をのみこむ多頭の怪物〈ヒドラ〉だ。人間の生きる普遍的な条件を示唆するすべてを備えている。

 法曹界にたいする揺るぎない誇りに支えられたこの観念は、もう一つの、ファミリーと呼ばれる集団を思い起こさせる。ファミリーを描いた小説には、マリオ・プーヅォ『ゴッドファーザー』1969などがあるが、その成員によって書かれたものではない。警察組織にせよ、法曹界にせよ、いわば体制の根幹をなす機構がミステリの主要な意匠に用いられ、その微細な再現が人気を博するのも、たしかな時代の流れだろう。

 作者は、インサイダーゆえの強みを生かして、汚職や権力の私物化といった内部の腐敗から、複雑煩瑣な裁判進行の案内まで、多くの生データを小説に注ぎこむことができた。 語り手は首席検事補、事件の被害者は彼がかつて愛した同僚。容疑を受けた彼は告発され、法廷に立たねばならない。家に所属する人間にも、個人的な家族があり、個人的な感情がある。明かされてくるのは、法廷は正義も真実も問わないという事実だ。法廷で争われるのは無罪か有罪かであり、それは真相を解明するはたらきとは別レベルに属している。法廷は社会全体の縮図でありながら、またそうであるからこそ、下しうる判断はごく事務的な手続きにすぎない。無罪か、有罪か。

 法廷はそこに所属する人間のすべてを決定する。だが人間は法廷の奴隷ではない。人間性の幅は最後に法廷の限界をのりこえる――。それを深く受け止めることによってトゥローの法廷物語は最終的に救いをもたらす。


 『推定無罪』が以降のリーガル・サスペンス流行の口火を切ることができた要因はいくつかある。もちろん作家の側の豊かな地力とミステリとしての緊密な構成も群を抜いていた。加えて、法廷という主人公を印象づけておきつつ、結末に人間を勝利させる鮮やかな手口がある。信じうるのは人間だという認識も、考え抜かれた「意外な結末」とともにさしだされることによって、より大きな効果を持ちえた。法廷ミステリという仕掛けのみが可能にしたミステリの醍醐味だった。

2023-10-24

5-10 ジョン・グリシャム『評決のとき』

 ジョン・グリシャム『評決のとき』A Time to Kill 1989
John Grisham(1955-)
白石朗訳 新潮文庫 1993.7

 グリシャム人気は今や、第一走者のトゥローをはるかにしのいでしまっているが、じつはデビュー作では、まったく成功を収めていない。泣きたくなるような部数しか売れなかったというのが不思議だ。シンプルなドラマ構造とけれん味たっぷりのプロットでブームを巻き起こすのは、第二作『法律事務所』1991(新潮文庫)以降のことだ。法廷という家が謀略小説めいた舞台となる。作風はトゥローとは対照的に華麗でわかりやすい。

 『評決のとき』は、作者の正義感をよく伝えるドラマだ。南部のある町で、黒人少女の強姦事件が起こる。被害者の父親が裁判所で犯人二人を射殺してしまう。主人公の弁護士が孤立無援を承知で父親の弁護を引き受ける。単純に父親に同情したというより、派手な事件にかかわって有名になりたいという打算も大きかった。作者は、ある強姦事件の裁判を傍聴して怒りにかられたところから創作を思い立ったといっている。人種差別の取扱いはやや図式的とはいえ、作者の良心を示している。

2023-10-22

6 グローバリゼーション〈革命〉に向けて


  二十世紀の最後の十年の始まりは、湾岸戦争によって区切られる。社会主義圏の内部崩壊は急速に進んだ。アメリカは軍拡競争の苛酷なレースに勝ち残った。冷戦システムは終わりを遂げたが、NATOは存続した。湾岸の「勝利」のあと、アメリカは、ソマリアおよび旧ユーゴスラヴィアの内戦に介入した。

 二十世紀の戦争による大量死者数の試算がある。日本一国の総人口を上回る、まさに天文学的な数字だ。それでも全地球の人口は飛躍的に増加している。第二次大戦以降、恒常化してしまった局地戦争の大量虐殺について、人びとの感覚はもはや麻痺して久しい。そのはん頻度にも、数量にも。

 とはいえ、最後の十年はグローバリゼーションの時代として強調される。世界はついに一つになった? グローバリゼーションを善だという者も悪だという者も、グローバリゼーションの勢いには逆行できないとする点では、一致している。世界市場、世界商品、世界情報。文化の均質化は怖るべきスピードで進行している。八十年代に始まった自由主義市場の波が新たな「適者生存説」を産出していることは、だれにも否定できない。排除こそが市場の原理だ。

 勝ち残るか、負けて廃棄されるか。進化の果ての「人間の条件」が、単純なゲームにしか帰着しない。ことの残酷な皮肉には言葉を喪う。

 情報テクノロジー改革の進行も急激だ。インターネットによって、ますます「世界は狭く、国境は意味をなくして」いく。一方で、インターネットにも電話にも無縁な層が大量に取り残される。

 ある社会学者は現状を語るのに「ラナウェイ・ワールド」という言葉を使った。コントロールのきかない暴走をつづけるのみでなく、絶え間なく足元から遁走していく世界。

 グローバリゼーションはある領域ではアメリカナイゼーションだ。グローバル・カルチャーはあらゆるものを商品として再編成する。ミステリという大衆読み物もそのカタログの一角を占める。

2023-10-20

6-1 デイヴィッド・リンジー『悪魔が目をとじるまで』

 デイヴィッド・リンジー『悪魔が目をとじるまで』Mercy 1990
David L. Lindsey(1944-)
山本光伸訳 新潮文庫 1991.1


 サイコ・ミステリや映画のなかの異常殺人鬼たちは、八〇年代を過ぎてもしぶとく生き延びた。彼らの紳士録をつくる作業は、九〇年代に入っても手を休めることができない。その領域に潜在する活力が使い果たされてもなお、表層的な現象は持続する。『羊たちの沈黙』以降という問題の立て方をしてもいい。ブームを牽引した作品が作家たちの目標に掲げられ、またジャンルの水準をつくる。さまざまなパターンが繰り返され、かえってこの領域は空前の活況を呈したようにもみえた。

 リンジーはテキサス州ヒューストンを舞台にサイコ・キラーものを書きつづけてきたから、便乗派とは区別されるべきだろう。残虐描写の精緻さではかなり上位にくる。


 『悪魔が目をとじるまで』は作者の集大成的な作品となる。描かれるのは徹底した性倒錯の世界だ。常人の想像を超えるハードSMの現場でサイコ殺人が連続する。タイトルは死体のまぶたが切り取られるところから来ている。作者は犯人あての興味も手堅くそこに仕込んでみせる。異常性愛のハードプレイと殺人の境界はどこにあるのか? 読者は、異常な精神世界を共にする閉鎖集団こそ謎解きミステリの有効な土壌であったことを、思い出すだろう。

 捜査側は、女性刑事とFBI行動科学課の補佐役から成る。ここでは流行の意匠が無難に採用されている。徹底した倒錯世界において、性行為における性差、役割の固定は無意味になる。一般の性行為でならありうる性差別は起こりえないという。単なる猟奇殺人というレベルを超えた思索も展開されるこの作品は、このジャンルの一側面を代表する。


 作者は以降、別の路線に切り替え、グアテマラを舞台にしたポリティカル・サスペンス『狂気の果て』1992(新潮文庫)などがある。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...