ラベル

2023-11-08

5-04 トマス・ハリス『羊たちの沈黙』

 トマス・ハリス『羊たちの沈黙』The silence of the Lambs 1988
Thomas Harris(1940-)
菊池光訳 新潮文庫 1989.9
高見浩訳 新潮文庫 2012.2

 シリーズ第二作になる『羊たちの沈黙』は、ハリスがいかに深くシリアル・キラーの世界にはまったを明らかにする。作者の選択が後戻りのきかないものだったかどうかは議論の余地があろう。レクター博士の再登場に商売っ気がまるでなかったと断言するのはむずかしい。だが作家が他のテーマを選ぶことができたのかどうかについては、否定論に傾く。

 『羊たちの沈黙』は控え目にいっても、『レッド・ドラゴン』の続編、もしくは第二部といった連続性を持っている。あるいは前作の不充分さを正すように構成が整備されたと読むこともできる。ただレクター博士の再登場に加えて、彼に対抗するFBI女性捜査官クラリスの設定など、大衆受けを狙ったところは明らかだ。構成上のバランスを保ったので、小説には付加価値もついた。その大きな要素


は、レクターとクラリスとの「男と女のドラマ」だ。彼らの会話は、たんにストーリーの進行の便宜のみでなく、心理のひだを縫って深い陰影をみせている。レクターは前作の超越的な脇役という位置から、安定した助言者役、そしてロマンスの主役という場所に昇格した。

 現場捜査官に適切な助言を与える「専門家」の存在は、ホームズ以来、定型ミステリに欠かせない要素だ。レクターが『羊たちの沈黙』の前半で果たす役割は、そこにきっちりと納まる。

 この小説に登場する殺人鬼は後景に退いてしまっている。彼は殺した女性の皮を剥ぐ。皮を剥いでなめして造った胴衣をまとい、究極の女装願望を満たそうとする。彼の行動は物語のかたわらでジョークのように消費される。

 死体を切り刻むだけでなく、胴衣の材料にするという事例には、もちろんモデルがある。この分野では最も有名なエド・ゲインが逮捕されたのは、五〇年代の終わりだった。彼はサイコ・キラーの時代の先駆者とみなされる。ゲインの犯行はロバート・ブロック『サイコ』1959の素材となり、またその小説はヒッチコックによって映画化され、さらに名を残した。サイコのジャンルでは古典的ヒーローともいえるが、その殺人の性的な、真に酸鼻な側面は長く秘匿されてきた。『羊たちの沈黙』は、ゲインの「偉業」にたいする全面的な考察でもあった。しかしそれは物語においては周辺的なエピソードにとどまった。

 ゲイン・モデルが受けるべきだった抽象化の高みをさらったのはレクターだ。『レッド・ドラゴン』の殺人者は、ウィリアム・ブレイクの詩とエッチングによって、殺人を哲学に翻訳する道を与えられた。『羊たちの沈黙』の皮剥ぎ男は、比べると、たんなる肉体労働者のレベルしか許されていない。レクターは人肉喰いの伝説が反復されるにあたって、グレン・グールド演奏のバッハ『ゴルドベルグ変奏曲〈ヴァリエーション〉』という背景を新たに与えられた。殺人のための清楚なBGM。むしろレクターはオールマイティのヒーローへの道を歩みだしたように思える。


 彼はある場面では、作者の祈りにも似た言葉を代理に述べることさえしている。クラリス、きみは今でも子羊たちの悲鳴を聞くのか。酸鼻な殺人はこの世界で終わることはない。作家にできるのは、祈りを捧げることか、か細い悲鳴をあげることか。終わりのないカノンについて、作者になりかわって告げるのはレクターだった。

 ハリスの二作はサイコ・キラーの時代の作品水位を決定した。それはまた、作家から他の傾向の作品を書く余力を根こそぎ奪う結果にもなった。アメリカにおいて作家でありつづけることの困難を証するケースがここにもある。

2023-11-07

5-5 ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』

 ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』The Minds of Billy Milligan 1981
Daniel Keyes(1927-2014)
堀内静子訳 早川書房 1992


 多重人格――解離性人格障害の症例は、ミラーの『狙った獣』やニーリイの『殺人症候群』などに部分的な姿を垣間見せた。ケースを報告した記録も、目にふれるようになった。キイスの作品も、基本的にはノンフィクションなのだが、二つの理由で、特筆される。一は、二十四の人格ステージを持つ典型的なケースが詳細に描かれていること。二は、作者のこのテーマにたいするモラルの深さ。

 すでにサイコ・ミステリ流行の時代の只中にあって、精神障害をかかえる者らは、重大な基本的人権侵害にさらされていた。「障害=サイコ=殺人鬼」といったお手軽な興味の的にされたのだ。

 簡略化すれば、人格障害は幼時に家族によって虐待、もしくはセクシャル・アビューズを強く受けることによって発現


してくる。虐待の現実に耐えかねる子供は、別次元に逃げる人格を仮想的につくって、適応しようとする。適応はうまくいっても、その人格が記憶のつながりすら切断して、自己のなかの「孤島」になってしまう場合がある。この点は、不当な無理解の時代を経過して、新たな社会的認知が生まれてきたといってよい。殺人鬼への好奇心だけが六〇年代以降、肥大してきたのではなかった。キングやクーンツなども、こうしたトラウマを、ごく自然に自分のホラー作品の素材として使っていた。

 ただ、このケースに理解の浅い者が興味本位の読み物に多重人格を利用すると、とんでもない造型が横行することになる。多重人格を巧みに演じた殺人犯が無罪をかちとる結末をセールスポイントにしただけのふざけた作品も出現した。これらを防止する手立てはない。「サイコ大衆化」の弊害も無視できなくなっていた。サイコ野郎が女性をモノ化して切り刻む小説にフェミニストが抗議するのは当然だった。であれば、障害ゆえにサイコ・キラーあつかいに白眼視された者たちの精神的災害も相当のものだったといえよう。

 キイスは『24人のビリー・ミリガン』を、《幼児虐待の犠牲者たち、とりわけ隠れた犠牲者たちへ……》捧げている。彼らの被害の甚大さを訴えることが、何より作者には肝要なのだった。

 キイスはまず、ビリー・ミリガンのなかに隠れ住む二十四人の人格ステージを、登場人物風に列挙することから語り始める。他人に知られていた十人。ミリガンは強姦事件の被疑者として裁判を受けていた。精神科医、弁護士、警察、メディアは、十人の交替人格を把握していた。その奥に、十三人の「好ましくない人格」がいる。物語でいえば、悪役だ。隠されていたのは、十人のうちのコントローラー的役割を持つ人格が、悪役を抑えこんでいたからだ。制御を喪ったとき、彼のなかに悪役が解き放たれてしまう。最後に控えるのは、教師と呼ばれる統合的な人格。彼には、自分のなかに断続的に現われては去っていった断片すべての記憶が蓄積されている。教師の案内によって、ミリガンの驚くべき物語は語られることが可能になった。

 教師はミリガンの人格分裂の統合として現われたわけではない。教師の出現によってミリガンの障害は完全に治癒したのではない。この点の説明は簡単には済まないので省略するが、念のため注記しておく。


 ミリガンの内面は複雑に物語化して、他者の関わらないところで善悪のキャラクターを生み出していった。物語は整理して語られたからこそ理解できる。その混沌のままでは、脅威であり、恐怖であるほかなかったろう。わたしという物語はここまで複雑化することはない。わたしのなかのわたしでないわたしを捜す旅に要した途方もない労力は、ミリガンとともに報告者のキイスによっても贖われた。

 重度の虐待体験者は生還者〈サヴァイヴァー〉と称される。キイスの作品にこめられたものは、生還への祈願だった。アメリカ社会での虐待件数の統計は、年間に三百万から四百万といわれている。社会の病理が弱い環に集中してくるとすれば、生還という言葉のはらむ意味は重い。アメリカの家族の一部は安全な環境ではなくなっている。


2023-11-05

5-5 ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』

 ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』Carrion Comfort 1989
Dan Simmons(1948-)
柿沼瑛子訳 ハヤカワミステリ文庫 1994.11


 『殺戮のチェスゲーム』は分類としてはモダンホラーになる。マインド・ヴァンパイア・テーマの短編「死は快楽」が発展して大長編に肥大した。テーマは引き継がれているが、展開はアクション小説になり、アクションのはざまに作者の誠実なモラルが埋めこまれるという不思議な作品だ。

 マインド・ヴァンパイアとは血を吸うように精神を吸い尽くし相手を支配下に置いてしまう怪物の新種。吸血鬼の「進化」種だ。五〇年代なら脳に寄生する異星人という形をとった。最近では、脳を外から操作するマインド・コントローラーと呼ばれるだろう。ホラーのルールでいけば、マインド吸血鬼になる。「死は快楽」が収録された現代吸血鬼アンソロジー『血も心も』1989(新潮文庫)の作品の半


数以上は、マインド吸血鬼ものだった。

 「死は快楽」は、ナチスの生き残りのヴァンパイア同士が人間どもを操って戦わせる話だ。そこから長編が接ぎ木されていくと、派手なアクションが息もつかせず連続する。植物化した吸血鬼が昏睡状態下でマインド・コントロール能力のパワーを最大限に発揮する場面などは出色だ。何人かの善玉が出てくるが、暴力は外に現われる見せかけの力だという作品のテーゼによるのか、途中で退場していく。最後にヒーローの位置を託されるのは、肉体的にはほとんど無力なユダヤ人の老人だ。彼に強制収容所の生き残りという要素を与えることによって、作者は、殺戮のチェスゲームの戦いが究極の暴力否定によって浄化されるというアピールを作品にこめた。


 この小説で「わたし」は外から犯され、乗っ取られる。その様相のみをとれば、五〇年代SFの変奏であって、新しさはない。しかし「わたし」を防衛するために、作者がヒーローに選ばせた行動は、その古さをカバーしうるヴィジョンに貫かれていた。

 無力な老人が超能力の怪物に勝利するという結末は、ホラー小説としてもいささか紋切り型に感じられる。作者はあえて野暮な終幕を選んだのだろう。外から乗っ取られた「わたし」を奪い返すのは、「わたし」の内的な治癒力にほかならない。それがこの物語に示された全的な生還〈サヴァイヴァル〉の内実だ。

 シモンズは、ホラーのみならず、『ハイペリオン』1989などのSFでも知られる。短編集として『愛死』1993(角川文庫)がある。

2023-11-04

5-06 ネルソン・デミル『誓約』

 ネルソン・デミル『誓約』Word of Honor 1985
Nelson DeMille(1943-)
永井淳訳 文藝春秋1989.3 文春文庫1992.4 


 ヴェトナム戦争は第二次大戦以上に、アメリカ人の心に傷痕を残した。勝てなかった戦争、大義を喪った戦争。そして従軍兵士と復員兵士にあまりに少なくしか名誉をもたらさなかった戦争。

 死者五万八千余、戦闘中行方不明者(MIA)二千四百八十九名という数字は、この戦争でアメリカが被った被害をごく小さくしか表わしていない。おそらく第二次大戦以上に、ヴェトナム戦争は恰好の文学的素材だった。アメリカ軍は短期従軍システムを採用していたので、この戦争に直接かかわった延べ人口は膨大なものになる。従軍体験者の神経不安は社会現象化した。小説に描かれた戦争後遺症の症例は枚挙にいとまがない。ありふれたものになりすぎたとはいえ、それは、七〇年代以降のアメリカ小説が破損された個人像をあつかうにさいして、最も多用した状況だろう。ヴェトナム従軍という過去が与えられたとたんに、その人物は危険な、狂気をはらんだ存在となる。説明は不用だ。

 しかしヴェトナム体験の全体への考察となると、作家たちの勢いは鈍いものとなる。大きな体験に立ち向かい、大きな物語を紡ぎだそうとする努力は少なくしか試みられていない。個人に負わされた神経症を気軽に使いまわすことに比べたら、戦争の総体はあまりに巨大すぎたのだろうか。

 ティム・オブライエン『カチアートを追跡して』1978(新潮文庫)はすぐれた青春小説だが、それ以上のものとはいえない。作者の構想力は短期従軍者〈ショートタイマーズ〉の視点に限定されているようだ。


 『誓約』もまた、そうした限定つきの傑作といえる。軍事法廷という特殊な舞台を使ったリーガル・サスペンス。民間人虐殺にかかわった将校を主人公にすえた。作者は六七年から一年間、激戦期の従軍体験者だ。汚い戦争のダークサイドは後年になって繰り返し暴かれることになるが、その大きなトピックが無用の虐殺と上官への反抗だ。

 小説では、虐殺の現場にいた兵士たちが沈黙の誓いを立てる。二十年近く守られてきた誓約が崩れたのは、事件の真相を白日にさらした書物が出たからだ。有罪は免れない。だがだれが自分を裁くのか。だれに審判の資格があるのか。作者は、ソンミ事件に代表される残虐行為を、弁明や正当化ではなく、理解したかったといっている。有罪ならばその有罪性を認めなければならないと。

 『誓約』はデミルの出世作となった。以降スケールの大きいサスペンスを連発していくが、志は最もこの作品にこもっている。

2023-11-03

5-06 ピーター・ストラウブ『ココ』

 ピーター・ストラウブ『ココ』Koko 1988
Peter Straub(1943-2022)
山本光伸訳 角川ホラー文庫 1993

 『ココ』もまた、ショートタイマーズのヴェトナム体験と隠された民間人虐殺とから構成されている。形式はホラーだ。『誓約』は関係者が軍事法廷呼び出されることで進行していく。この小説の場合は、関係者が次つぎと殺されていく。容疑者ココは謎の存在だ。かつての仲間四人が二十年ぶりに再会してココを捜す。だが作者は単純な仕組みの犯人捜しの物語を用意しているわけではない。作者の意図は、捜される者が捜し、捜す者が捜されるという循環構造の恐怖に立ち合わせることだ。

 帰還兵たちの現在はおだやかなものではない。容易に二十年前の戦場の悪夢につながっていく。過去は過去ではなく、彼らは夢幻につづく戦場の奴隷のようだ。追跡者たちはココを捜し求めることが自分の中のココを捜す精神的な溯行であることに気づいていく。


 さらには、或る人物がココは自分の創作したフィクションの人物だと主張しはじめ、物語はいっそう捩れていく。帰還兵の終わらない苦悩こそホラーの養分だということだ。単純な恐怖小説を納める箱を小説内につくってポストモダンホラーの語り口を導入するのは作者の得意とするところ。迷路を幾重にもはりめぐらせて、ヴェトナム後遺症小説の限定を突き破りたかったのだろう。

 ストラウブはホラー・ファンタジー系の書き手。『ゴースト・ストーリー』1994、『ミスターX』1999などの作品がある。ミステリ寄りのテーマに近づいたのは本編だけだ。

2023-11-02

5-07 サラ・パレツキー『サマータイム・ブルース』

 サラ・パレツキー『サマータイム・ブルース』Indemnity Only 1982
Sara Paretsky(1947-)
山本やよい訳 ハヤカワミステリ文庫 1985.6

 一九八二年はある種の感慨をもって回顧されるだろう。この年、パレツキーとグラフトンが女性私立探偵ものでデビューした。

 女タフガイの登場。彼女らの系譜は一本しかない。彼女たちは新しいチャンドラー派だ。タフガイにフェミニズムの衣装をまとわせる。

 リイ・ブラケット『非情の裁き』1944(扶桑社文庫)で登場したときのエピソードを思い出してもいい。そのチャンドラー・タッチの鮮烈さは、当時チャンドラーの『大いなる眠り』の映画化を進めていたハワード・ホークスを驚かせた。ブラケットを脚本家として招いたホークスは、じっさいに会うまで作者が女性だとは知らなかったという話。

 先駆者はもう一人いる。ドロシー・ユーナックが女刑事シリーズを書いたのは、六〇年代後半だ。『おとり』『目撃』『情婦』(以上、早川書房 ハヤカワ・ミステリ)。ユーナックは後にもっといい作品を書いているが、女刑事シリーズには、基本的な女性ミステリの原型がある。――ヒロインは自分の日常生活を前面に出し、女の自立を励ます。そして仕事で有能さを示し、それを周囲に認めさせたい、といつも突っ張っている。当然ながら彼女は男性優位社会の壁に衝突する。衝突から生まれる数かずの出来事も物語の欠かせない構成要素だ。

 ユーナックとパレツキー、グラフトンの作品には濃密な共通項がある。野心的な女性作家がハードボイルド形式を自分流に書き換えてみたとき、底にある情感は同じだった。

 私見によれば、ハードボイルドとはセクシズムの砦だった。スピレーンのように露骨に表明しても、チャンドラー・スタイルで気取ってみても本質は同じだ。変わりようがない。ミステリの女王は大勢いたし、頭脳明晰な女性名探偵も大勢いたが、仕上げの大変動は八〇年代に起こった。白人種馬男の最後の砦が陥落したことに一抹の感傷を! カルチャー・ショックはアメリカから発信されてきた。

 あるいは、次のような考えも成り立つ――。孤立を怖れず、見てくれを重んじ、身のまわりの情景をじっくりと観察し、失意を他人事のように受け止めるといった「タフガイらしさ」とは、あんがい女性的な現実処理なのかもしれない。


 『サマータイム・ブルース』はプロットもほぼ定石通り進んでいく。事務所を訪ねてくる依頼人は、有力銀行の経営者というふれこみ。大学生の息子のガールフレンドを捜してほしいと頼む。関係者が死体となり、思わぬところから介入が入り、「事件から手を引け」と脅される。入口はごくありふれた探偵仕事で、その奥に眠っている物語の本体が引き出されてくる仕掛け。その点は安楽にページをめくれる規格品といえよう。

 パレツキーの探偵はシカゴを本拠とする。イタリア系とポーランド系の混血。最初は金融犯罪を専門にすると謳っていた。広く依頼人から事件を持ちこまれるというより、親戚や仲間内のトラブルを解決していく。女同士のネットワークを育てていこうという強固な意志がある。

 初期の何作かは主張もストレートで声高だ。作者は、女性のものに奪い返した読み物に自らの信念を注入することは当然の権利とみなしただろう。日常を丹念に描くことも、生活信条を並べていくことも同じだからだ。

2023-11-01

5-07 スー・グラフトン『探偵のG』

 スー・グラフトン『探偵のG』 ‘G’ is for Gumshoe 1990
Sue Grafton(1940-)
嵯峨静江訳 ハヤカワミステリ文庫 1991.6

 グラフトンの探偵はカリフォルニアを本拠にする。比較されるのは仕方がないにしても、彼女の作品に、それほど痛烈なメッセージをみつけることは難しい。探偵は孤独で仕事一筋の性格を強調される。だが作品の基調は、柔らかく暖かいものだ。探偵は、主観を廃した報告者を装っているが、与える印象は異なっている。

 これは作者がどちらかといえばロス・マクドナルド型に倣おうとしていたからだ。探偵が彼にしか見えない透視力で再構成する人間悲劇。グラフトンのシリーズの初期は、暗く閉じられた家族悲劇を好んで取り上げていた。探偵は触媒であり、前面に出ないほうがいい。彼女はすべてを報告書スタイルで通そうとする。「わたしの名前はキンジー・ミルホーン。事件の報告はいつもと同じように始める」と。

 ただチャンドラー・スタイルは模倣がきいても、ロスマク・スタイルはほとんど継承不可能だ。語り手としての探偵、過去から呼びかける物語を、正確に受け継いだ者はいない。この点、グラフトンはハンデ戦から始めて迂回路を取ったともいえる。


 彼女の物語は彼女の日常をこまかに報告するところから始まる。『探偵のG』では、彼女の誕生日に起こった三つのことが、まず列挙される。アパートの新居に引っ越した。依頼人の母親をモハーヴェ砂漠から連れ戻す仕事を引き受けた。キンジーに怨みを持つ男の殺害予定者リストのトップに立った。仕事に加えて身を守る必要が生じたヒロインはタフな探偵をボデイガードに傭うことになる。筋立てでわかるように、男権要素にたいして作者はずっと柔軟な姿勢を取っている。陰鬱な家族関係にドラマを閉じる方向ではなく、作者は、曲折あるストーリーにヒロインを放りこんでいくことを選ぶ。

 グラフトンのシリーズは、アルファベットの文字を頭にしたタイトルで着実に書き継がれている。現在はQのあたり。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...