ラベル

2023-11-16

5-01 カール・ハイアセン『殺意のシーズン』

 カール・ハイアセン『殺意のシーズン』Tourist Season 1986
Carl Hiaasen(1953-)
山本光伸訳 扶桑社ミステリー文庫 1989.11

 フロリダで出会う最も不愉快なものはわれわれアメリカ人自身だ、とハイアセンは注記している。

 聞くところによると、フロリダ州では、どこかの発展途上国顔負けの選挙不正が行なわれたらしい。二〇〇〇年の大統領選挙の数ヵ月前、フロリダの選挙人名簿から五万七千七百人のリストを外す指示が出された。過去に重犯罪を犯しており投票権を認められないという。リストの半数以上は黒人かヒスパニック、民主党支持者だったという。これは小説の話ではなく、どうやら事実らしい。

 詳細は省くが、この顛末はグレッグ・パラストの『金で買えるアメリカ民主主義』2002(角川書店)の第一章「サイバースペースでの人種差別」に書かれている。マイケル・ムーアのベストセラー『アホでマヌケなアメリカ白人』2001(柏書房)の第一章「まさに、アメリカ的クーデター」も同じ情報をあつかっている。時のフロリダ州知事は、いうまでもなく現大統領の弟である。

 ハイアセンはフロリダを舞台に、アホでマヌケな白人たちの、おかしくも野蛮な物語を一貫して書きつづけてきた。この作者の描くフロリダは、先輩格のジョン・D・マクドナルドレナードとは明らかに違っている。陽光ぎらぎらと眩しい。ブラックユーモアというには破目を外しすぎのドタバタ・アクション。どこまでが諷刺でどこからがお笑いなのか。笑いすぎてどうでもよくなってくる。

 フロリダ奇人変人博覧会の第一作は『殺意のシーズン』。四人のテロリストが登場する。環境を破壊して恥じない観光客を的にして革命的行動を起こす。メンバーは、地元新聞社の花形コラムニスト、元プロフットボール選手、先住民セミノール族、反カストロ派のキューバ人。うち二人はアメリカン・ドリームの体現者であり、二人が周縁のマイノリティだ。人間は最も端迷惑な「珍獣」なので駆逐する必要があると主張する。

 彼らはテロの対象者を拉致する。そして体長十七フィートの鰐の餌にしてしまうのだ。表向きは人VS野性動物の闘いだ。縄張り争いは一対一の真剣勝負で、公平に、つけるべきだという。彼らは観光客にその機会を与えるだけ。彼らがいうには、マイアミのAQは134(IQならぬAQとはアホ指数。一平方マイルにアホが百三十四人もいるという意味)、高すぎる。

 鰐に裁きをつけさせるという行動は前段。テロリストたちは、さらに突飛な手段によってマイアミを大混乱におとしいれる。環境破壊への告発というモチーフはこの一作に極まった。つづく作品はヴァリエーション。しかしハイアセン・ワールドは、かえって加速度をつけ、ますます珍無類に爆発していく。人物もクレージーなら、ストーリーも破天荒だ。元州知事のホームレス、ハリケーン大好きのスキンクという人物がひときわ異彩を放っている。

 『虚しき楽園』1995、『トード島の騒動』1999(ともに、扶桑社文庫)などがあるが、どれをとっても爽快に痺れさせてくれる。

2023-11-15

5-02 ロス・トーマス『神が忘れた町』

 ロス・トーマス『神が忘れた町』 The Fourth Durango 1989
Ross Thomas(1926-95)
藤本和子訳 早川書房 1990.9 ハヤカワミステリ文庫 1996.8


 スタイリッシュで通好みのクライム小説の書き手というと、トーマスとレナードの二人になる。どちらもキャリアは長く、代表作をしぼりにくい。だいたい平均的に「この人しか書けない」独自の作品を万遍なく並べている。『冷戦交換ゲーム』1966(早川書房 ハヤカワ・ミステリ)、『黄昏にマックの店で』1990と、シリーズ・キャラクターはいるのだが、それ以上に毎回異なった名前で出てくる人物たちも面白い。

 『神が忘れた町』の舞台は、カリフォルニアの小さな町。命を狙われる逃亡者を高額の報酬で匿ってやる裏ビジネスで市政を支えている。ここを仕切っている女市長と警察署長は六十年代ヒッピーの生き残り。無実の罪で服役した元判事が保護を求めてくるところから話は始まる。元判


事の生命は横領の罪をかぶせられた五十万ドルという大金にかかわっている。

 トーマス作品の妙は、一つにストーリー設定にある。まず人物たちが放りこまれる冒頭のうまさ。話は単純明快とはいいかねるのだが、そこに引きこんでくるシーンの描写はいつも名人芸だ。ストーリーを紛糾させるのは多彩な脇人物たち。役割も定かでない人物が交差し、飛び回る。彼らのかわす科白は、気の利いた会話シーンの宝庫となっている。時には利きすぎて、意味をとりそこねる部分があることもご愛敬だ。陳腐な話や型にはまった人物では満足しない読者のために、書き手は力をしぼっている。分類すれば、騙し騙されのコン・ゲーム小説とも紹介できるが、詐欺師もののカタルシスとも無縁だ。


 キャラクターを衝突させては、作者はプロットを進めていく。平均的なストーリー・ライターなら「初めにストーリーありき」で、その進行に適宜、人物を埋めこんでいくから手順は逆だ。コン・ゲームの当事者たちが玉突き台の玉のように衝突をくりかえす。先が読めない。

 ストーリーの外に視線を離してみるとトーマス作品の特質はよく見えてくる。いたるところに脇道がついているが、標識はそれほど定かではない。その乱れた道すじを作者と一体になって楽しむことができれば、そこには無類の手練れがいる。比較的、話の一本線を見つけやすい『女刑事の死』1984や『五百万ドルの迷宮』1987が一般的だろう。


2023-11-14

5-02 エルモア・レナード『ラブラバ』

 エルモア・レナード『ラブラバ』 La BRAVA 1983
Elmore Leonard(1925-2013)
鷺村達也訳 早川書房 1985.7 ハヤカワミステリ文庫 1988.4
田口俊樹訳 早川書房HPB 2017.12

 1980年春、ハバナ郊外のマリエル港からマイアミに十二万五千人のキューバ人が流入した。彼らはマリエリットと呼ばれ、ある情報によれば、その中には、二万五千人から三万人の凶悪犯罪者が含まれていた。

 ブライアン・ディ・パーマはこれを背景に『暗黒街の顔役〈スカーフェイス〉』のリメイク映画を作った。二〇年代のシカゴ・ギャングの物語は、キューバ難民ファミリーのどぎつい暴力映画としてよみがえった。アル・カポネのキューバ版を演じたアル・パチーノは「おれは政治的亡命者だ」と印象深い啖呵をきった。『スカーフェイス』は、ハワード・ホークスベン・ヘクトの監督脚本コンビに捧げられている。マイアミにおける人種人口比は八〇年代に逆転する。キューバ系を中心とするヒスパニックと黒人が絶対多数派となった。


 『ラブラバ』は、ディ・パーマ映画の泥絵の具のような極彩色に彩られているわけではないが、かつてのハリウッド・フィルムへのオマージュに満ちあふれている点は共通している。アメリカの人種対立の現在に向き合いながら、ドラマの作りには徹底したノスタルジアが流れている。

 小説は、元シークレット・サービス捜査官の写真屋ラブラバが往年のハリウッド女優と邂逅するところから始まる。スクリーンの中で憧れていたスターとの出会いはメルヘンのように語られる。彼は自分が麻薬で眠たげな目つきをしているロバート・ミッチャムの世界にいるような気がする。大人のメルヘンからトラブルが転がってきて、クライム・ストーリーが始まる。レナードの常套世界だ。郷愁をともにできる者にとっては快い。


 マリエリットも登場してくるけれど、彼らは難民の影を背負っているというより、レナード印のちょっといかれた小悪党の変型だ。必ずしも人種のるつぼの最前線が生々しくレポートされるわけではない。レナードもトーマスに劣らず、会話をそれ自体として読ませる芸を持った書き手だ。ただの無意味なやりとりでも楽しませる。

 作者にはウェスタン小説のキャリアがある。犯罪ものに転じてからもデトロイトを舞台にしていた。マイアミに移動してから独特のタッチが明瞭になった。

 『バンディッツ』1987は作者にしては珍しく、ニカラグア内戦を背景にして、アメリカ政府の介入を非難する部分もある。

2023-11-12

5-03 マーティン・クルーズ・スミス『ゴーリキー・パーク』

 マーティン・クルーズ・スミス『ゴーリキー・パーク』 Gorky Park 1981
Martin Cruz Smith(1942-)
中野圭二訳 早川書房 1982.8 ハヤカワミステリ文庫 1990.11


 冷戦期の後半に生まれた、未来のないメロドラマ。檻の障壁は、『寒い国から帰ってきたスパイ』においてはベルリンの壁(という歴史的遺物)だった。ここではシベリアの荒野が恋人たちを引き裂く。

 アメリカ作家がソ連警察小説の形式を選ぶことは異色だった。先見的だったといったほうがいい。カミンスキーがモスクワ警察小説シリーズを書くのはペレストロイカ以降だし、フリーマントルのロシア警察小説シリーズはソ連解体の後だ。

 先住民族の血を引くスミスは文字通り、マイナーなミステリ作家だった。ジプシー探偵のシリーズやバチカン市国の諜報員のB級シリーズなどを経て、先住民の呪術と吸血コウモリを組み合わせたパニックもの『ナイトウィング』1977(早川書房)を書く。つづく『スタリオン・ゲート』1986(角川書店)がロス・アラモスの原爆実験基地に材をとっているように、『ゴーリキー・パーク』のシリーズ化は、想定されていなかったろう。


 主人公レンコは、赤軍の英雄だった父親と立身出世を望む妻とによって抑圧された陰鬱な男。公園で発見された不審な他殺死体をめぐって話は型通りに進んでいく。捜査の途上に現われてくる反体制の女イリーナ。そして野性動物捕獲の利権を握ったアメリカ人。捜査官は祖国の官僚制度の腐敗に突き当たる。途中からニューヨーク市警の刑事も参入してくる。題材の先見性はあったが、話の進行は正攻法で手堅い警察小説だ。全体を冷戦体制という檻に封じこめた。

 作者は間隔をあけてこの主人公を登場させている。第二作『ポーラー・スター』1989(新潮文庫)は強制労働につかされたレンコが下級船員として事件に遭遇する話。独立した一編と読んでもさしつかえない。第三作『レッド・スクェア』1992(ベネッセ)は、解体直前のソ連における八月クーデターを直接の背景にした。ペレストロイカの進行を共感をもって描き、一種の証言読み物にもなっている。メロドラマの主役たちには再会の劇的なステージでもあった。最近の第四作『ハバナ・ベイ』1999(講談社文庫)はレンコをキューバに赴かせている。シリーズとしての連続性は無視しても読めるようだ。また作者には、十九世紀イギリスの炭坑地帯を描いた歴史ロマン『ローズ』1996(講談社文庫)もある。


2023-11-11

5-03 ケン・フォレット『鷲の翼に乗って』

 ケン・フォレット『鷲の翼に乗って』On Wings of Eagles 1983
Ken Follett(1949-)
矢野浩三郎 集英社文庫 1984.1

 『鷲の翼に乗って』は、勇壮な冒険アクション読み物ではあるが、小説ではない。事実にのっとったノンフィクションだ。

 この作品においては、重要人物が二人いる。エレクトロニクス・データ・システム社(EDS)の会長ロス・ペロウ。退役グリーンベレー兵士ブル・サイモンズ大佐。書き手は、すでに国際スパイ小説で高名だったが、作品に関しては、この二人ほど重要な役割を果たしていない。

 イラン革命前夜、業務のために駐在していたEDS社社員が収賄容疑で逮捕された。政治交渉で釈放させようとした試みは失敗し、彼らは刑務所に送られてしまう。ペロウは自社の社員が人質になったと受け止め、人質奪還を決意する。救出作戦のためにブル・サイモンズを傭い、チームを編成する。レスキュー・チームはイランの刑務所の模型を使って作戦の訓練をした。しかし社員がさらに堅固な刑務所に移送されたので、訓練は無駄になる。 じっさいの作戦は、七九年の二月、革命派の刑務所襲撃に便乗する形で実行された。


 ペロウはこの成功に飽き足らず、作戦の全体をすぐれた読み物として発表する義務を感じた。彼は、後に第三党から大統領選挙に打って出るわけだが、政治的野心はすでに芽生えていたのだろう。一流の名の売れたライターを傭うことにした。書き手の貢献は、この本に関するかぎり、ごくささやかだったと思える。ペロウは作家の想像力に敬意をいだいてなかったろう。彼が望んでいたものは、個人的な名声でないとすれば、アメリカの失地回復だったはずだ。名誉の回復である。

 カーターの人権外交は人気の高い標語だった。しかし革命後の七九年十一月、テヘランのアメリカ大使館が占拠され、五十二名のアメリカ人が人質にとられたときは事情が異なった。その上、政府によるアメリカ軍兵士の救出作戦は失敗に終わり、その失敗の模様は、全世界に報道された。ヴェトナム敗戦の記憶も新しいうちに、アメリカ政府軍はまたしても無様な失策をさらしたのだ。ペロウが私兵を傭って敢行した作戦の成功は、「民主主義を守る戦い」として宣伝されるべきだと思われた。


 フォレットはライターとしての契約を果たした。ささやかな抵抗にも似て、彼は、イランのような近代化されていない独裁国家にコンピュータ・システムを売りこもうとするEDSの企業理念に疑問を呈した。それはアメリカ民主主義の輸出と介入についての、慎ましい反論であったかもしれない。

 ともあれ面目をつぶしたカーターの席を奪ったのは強い大統領だった。ほとぐなく小説のなかのヒーロー待望も、『レッド・オクトーバーを追え』1984(文春文庫)でのトム・クランシーの登場によって満たされた。

2023-11-10

5-04 トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』

 トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』Red Dragon 1981
Thomas Harris(1940-)
小倉多加志訳 ハヤカワミステリ文庫 1989.11
加賀山卓朗訳 ハヤカワミステリ文庫 2015.11


 アメリカが殺人大国と呼ばれるにいたった理由は、必ずしも、絶え間ない戦争行為によるものではない。平和時の市民生活においても悪質な殺人者をかかえてしまった。

 なかでもシリアル・サイコ・キラー――連続異常性愛殺人者の存在は、アメリカ独自の発明とみなされるにいたる。シリアル(シリーズもの)ドラマのように同一パターンの、性的なシグナルを持った殺人。

 殺人事件ファイルの収集家で研究者のコリン・ウィルソンによれば、サイコ・キラーの現象は、一九六〇年代以降に目立ってくる。統計が素朴な事実を告げる。事例はほとんどアメリカで起こっている。犯人の大部分は白人男性だ。性的連続殺人は、ほとんどアメリカの白人男の病理の表われなのだ。アメリカ人は、「白人・男性・異性愛」という三位一体に誇りを持てなくなったのみではない。かえってその病理が無視できない勢いで事件化してきた。


 殺人鬼は、ウィルソンの研究のようにカルト化して受け止められる一方、司法当局に現実的な対応策を迫った。FBI行動科学課が開発したプロファイリング技術はその代表的なものだ。サイコ・キラーの或る者は、性行為の代償として被害者を切り刻む。その殺し方、死体損壊の方法にはいつも一定のパターンがある。それはキラーの「芸術作品」であると同時に、病跡のシグナルでもある。犯行現場には必ず犯人の明確な「サイン」が残されるという確信は、S・S・ヴァン・ダインによって初めてミステリのなかで語られた。プロファイリングはその確信を現実レベルで系統化した。

 特殊・異常な殺人であるほど、それは、常人の想像を超えて、小説のなかの殺人に近似する。現実味に欠けるとみなされていた様式的な殺人が現実の側に還流してくることは、い


かにも皮肉だった。性的殺人の専門家となったFBIのプロファイラーたちは、自分が犯人と同質の人間かもしれないという意識に苦しめられる。こうした犯人との共鳴感は、遊戯的な謎解きミステリに特有の思考だったはずだが、現実のほうに滲み出してくることになった。

 少なからぬ作家がこの先進的な施設を取材のために訪れた。トマス・ハリスもその一人だった。ハリスは、狂ったヴェトナム復員兵がスポーツ競技場の大観衆皆殺しを画策する『ブラック サンデー』75(新潮文庫)で成功していた。次の作品が転機となる。望んだかどうかは別として、サイコの世界に足を踏み入れて抜けられなくなった。

 サイコ・キラーを登場させるミステリは『魔性の殺人』によって定型をつくられた。捜査側を主役とした警察小説だ。殺人鬼は脇役で、最後に捕まって裁かれるまでは慎ましい位置にとどまっていなければならない。

 『レッド・ドラゴン』も基本的にはこの型を踏襲している。しかし出来上がった作品にあって、捜査官はいかにも精彩ない受難者のように描かれていた。比べて、殺人者ダラハイドの像は強烈だった。作者の共感は明らかに犯人の側にあった。ヒーローはこの男であり、多様で豊かな行動と思索を作者によって与えられていた。一人の人間の個性に納まりきらないほど過剰なキャラクターだ。

 犯人像の過剰さは、作家の情念の噴出でもある。作品の統一的な構造を破ってしまいかねない。作品に分裂的な印象すらもたらす。ただそれは、ハリスがこのテーマにいかに深く捕らわれたかを示す指数でもある。

 作家の溢れ出る情念は、『レッド・ドラゴン』にもう一つの中心点を設定させる。ハンニバル・レクター博士の創造だ。彼は、役割としては強力な脇役にすぎないが、結果的に中心点に立つことになって、物語のバランスをさらに不安定に揺さぶっている。捜査官はレクターに助言を求め、レクターは決定的な意見をさしはさむ。犯人もまた「著名な殺人鬼」にたいして尊敬の念にうたれている。九人殺しの人肉嗜好者という勲章ばかりでなく、レクターは超越者のような位置に立たされていく。

 現実のシリアル・サイコ・キラーたちのリストを詳細に記せば、数ページを要するだろう。現にハリスの小説以降もそれは増加しつづけている。レクター博士の盛名がそれらをまとめて凌駕するかのように印象されるのは皮肉なことだ。作家の想像力は多くの殺人鬼を取材することによって決定的に「損傷」を受けたのではないか。後の作品歴をみると、そんな想いにすら打たれる。


2023-11-09

5-04 ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』

 ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』KIller on the road 1986
James Ellroy(1948-)
小林宏明訳 扶桑社ミステリー文庫 1998.8


 エルロイはハリスほどに熱心には現実のキラーを取材していないだろう。まったく何も取材らしき労は取っていないかもしれない。
 彼の場合は、キラーは彼自身の内に激情をもって棲息していた。エルロイは『内なる殺人者』を書いたトンプスンと同じく、現実のキラーになってもおかしくない資質の持ち主だ。暴力性と嗜虐性とは、一定のレベルを超えて作品に露出している。それは、「もし作品において燃焼されなかったとしたら……」と想像させるほど威嚇的だ。

 作者はむしろ、投げやりともいえる無造作なタッチで書いている。物語の体裁は連続殺人鬼の告白記だ。「彼」は大まか五十人を殺したが、自分には何の罪もないと思っている。罪がないことを証明するために手記を書いている。

 数あるサイコ・キラー小説のなかでも、犯人の一人称で一貫した作品は他にない。理由は明らかだろう。キラーの内面を微細に再現していくモノローグ。その記述に耐ええる書き手はそうそう現われ出ない。

 多くのサイコ・ミステリが産出され消費された。そのほとんどはジョークのような流行便乗型のものであり、消えてなくなった。エルロイの殴り書きの一編は、流されないケースの一つだろう。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...